6月16日の投稿でスェーデンの論理学・情報学者だったトルケル・フランセーン(癌で亡くなったそうだ)が、物理学者ホーキングの「ゲーデルと物理学の終焉」の内容を誤解していると書いたが(2021年7月9日に訂正をいれた。誤解しているのでなくて、学者・著者としては絶対に書いてはいけない仕方で書いてしまった可能性もある。こちらを参照)、その後も、それについて色々考えていて、文系と理系でテキストの読み方が本質的に違うようだという結論に至る。自分が理系だったときと、文系に移ってからの読み方を比較してみたら、確かに違っていたという話。(ちなみに、ホーキングの画像は、こちらから。public domain とのことだが一応言及)
このホーキングの講演はあちこちで話したらしくネット上に記録が色々あるが、今回はテキサスA&M大学での講演の記録を示しておく。「テキサス訛でなくて失礼」と言っていたりして、色々ある中で、これが一番面白いと思う。ただ、本体部分はどれも同じようだが。
驚いたのは、実は亡くなったスタンフォードの論理学者ソロモン・フェファーマンさんも同じ間違いをしていることを発見したこと。こちら。フェファーマンさんの様なバランスの取れた慎重な人が間違えて読んでいることに衝撃を受ける。
ホーキングの講演の意図については、mathoverflow というサイトでかなり議論がされているが、その議論を呼んでも、ちゃんとテキストが読めてない人が多い。で、これは MathOverflow is a question and answer site for professional mathematicians とあるので、プロの数学者が議論するためのサイトらしいので、プロの数学者がホーキングの意図を読めていないということになる。
実に不思議だな…、と考えていて、理系だったときのテキストの読み方と、文系の研究を本格的に行うようになった後での自分のテキストの読み方が違っていたことに気が付いた。理系の人がテキストを読む場合、それはそのテキストを通して知識を得るため。つまり、テキストは道具あるはメディアに過ぎないのであって、その故に、例えば1ページだけとか、ある一つのパラグラフだけ読むというのでも目的を達成できることが多い。つまり、テキスト全体を読み通すことに価値がない場合が多い。
一方で史料ベースの歴史学とか、古いテキストを解読したり、その成立過程を研究したり、また、失われたテキストを、その写本などから再構築するという様な研究をする文献学・古典学などでは、テキストは研究対象なので、そのすべてを読んで理解しなくてはならない。しかも、「理解」の意味が、そのテキストの内容の理解だけではなくて、例えば写本時に何かの理由で書き写しのミスが生じていたら、それを解明しないといけない。さらに思想史の場合には、文章が内部矛盾していたりしたら、どうして、そうなったのか、ある部分を書いたときに著者は何を考えていたのかを再構成することを目的にして研究する。
最近、こだわっているヒルベルトの als als などは、その典型。ちなみに、ドイツ人にヒルベルト研究のページを見せて、どう思うか聞いて見たら、ノートなので、あまり意味がなく aber が入る可能性があるから、aber als の可能性もあるという意見をもらった。これは be のヒルベルトの書き方からして可能性は低いように思うが、この読み方も意味としては通る。もっとも、これも他の読み方と同じでテキストの理解にはあまり影響を与えないのだが、やはり、本当は何なのか、何かの方法で解明したい…、というのが研究者としてのこだわりなのである。
自然科学の研究者が研究対象の自然現象を研究する時、よい研究者ならば、細かい事で、結論に影響しないことでも、理解できない「現象」(事実)に気付いたら、どうして、そうなっているのかと突き詰めるはずだ。少なくとも数学やITをやっているとき、自分はそうだった。多くの場合は、単なる自己満足というか、自分だけのこだわりに過ぎないのだが、たまにそれが大きな発見につながることがある。だから何事もおろそかにしないことが大切なのである。これと全く同じ。
文系のテキスト読みの場合でいえば、自分の解釈に合う文や主張を見つけても、それだけでは納得しない。別の場所に、自分の解釈に矛盾したことや、自分の解釈では説明できないことが書いてあることはざらにあるからである。
で、その様に読めばホーキングの意図は明らかで、ゲーデルの不完全性定理とその証明で使われる自己参照的構造という一般受けする話題を持ち出して、万物の理論にそれのアナロジー的構造があることを指摘して、だからもしかしたら物理でも同じかもしれない、第一、万物の理論が無い方が物理学が終わらないので良いではないか、M理論という万物の理論の最有力候補が、物理学版の不完全性定理を証明してくれたらパラドキシカルでなお面白いではないか、というウィットフルな話をしただけだろうと分かる。
もっとも、M理論が物理版不完全性定理を証明するかもしれないというのは、ある意味ではアナロジーを超えているのかもしれない。不完全性定理が発見されたのは、数学版万物の理論の探求の結果であり、そういう究極を求める姿勢が逆に限界の存在の発見につながるということは、歴史を見れば良くあることだから。