ヒルベルトの数学ノートブック-初期の数学基礎論的考察
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0. 本ページの成り立ちと内容の説明
このページは林晋が2000年頃に開始したDavid Hilbertの遺稿の研究の内、特にヒルベルトの数学ノートブック[注1]についての研究を公開するためにある。この研究は林と中戸川孝治氏(当時、北大)の共同研究として始まり、2000年に林、中戸川の短い共著論文を林が作成したが未完成かつ未発表だった。この後、林が2000年当時在籍していた神戸大学工学部から2005年になって京都大学文学研究科に転職し歴史学者としての研究生活を開始したことにより研究が本格化した。また、八杉滿利子と橋本雄太が研究に参加した。そして、この4名の連名の"Hilbert’s early philosophical thoughts and their influences to his studies of the foundations of mathematics"という論文を林が執筆したが、林の研究の中心が他に移ったために、これも未完かつ未刊のままだった。
しかし、林の最大の研究テーマであった、本サイト「ゲーデルと数学の近代」で紹介をしている「数学はいかに近代化されたかということの歴史理論」が一応の完成を見て、その重要なエレメントとして、このヒルベルト研究、特に数学ノートブック研究の成果が必要となったため、古い英文論文原稿を元に、新しい研究成果も踏まえて再構成し、このサイトで公開することとなった。また、それに基づき上記英文論文を改善した後に、それを八杉滿利子がAcademia.eduに投稿する予定である。ただし、本サイト「ゲーデルと数学の近代」でのヒルベルト・数学ノートブック研究は、本サイトで紹介する研究の「部品」であるために、その全体における意味が重要となり、それについての議論が含まれているが(例えば、??)、ヒルベルトの数学ノートブックについての歴史研究として独立したものとなる予定の Academia 版では、それらはほとんど省略する予定である。
本ページは、この「本ページの成り立ちと内容の説明」、第1節「はじめに」、第2節「幾何学基礎論以前のヒルベルトの数学」、第3節「数学の基礎についての初期のノート」、第4節「数学の基礎についてのヒルベルトの初期考察」、第5節「おわりに」からなり、三つのページ、「A. 文献学的注意」、「B. 1888年のゴルダンからヒルベルトへの手紙」、「C. 有限基底定理のオリジナルの形」を附属的ページとして持つ。
本ページに翻刻、和訳し、また、画像を掲載した史料は、ドイツ、ゲッチンゲン・ニーダーザクセン州立/大学図書館、Niedersaechsische Staats- und Universitätsbibliothek Göttingenが所有するダーヴィット・ヒルベルト遺稿集 Nachlaß David Hilbertに所蔵されている史料Cod.Ms.Hilbert 600:1-3などの一部である。この史料は現在、https://gdz.sub.uni-goettingen.de/volumes/id/DE-611-HS-3180969 で、パブリック・ドメイン(CC0 1.0)のデータとしてWEB公開されているので、画像は縮小版のみをアイコンのように示し、そこから公開された高精度画像のページにリンクを張ってある。
史料のカラーデジタル画像が普及する以前に研究を行った林たちは、モノクロのマイクロフィルムをA3用紙に焼いたものをゲッチンゲンに赴いて購入し、それを使い研究を行った。また、当時、京大文学部学生としてドイツ語学ドイツ文学専修と情報・史料学専修(現メディア文化学専修)に所属していた、寺澤大奈(滋賀大学非常勤講師)、西尾宇広(慶應義塾大学准教授)、橋本雄太(国立歴史民俗博物館助教)のお三人に林からの依頼のアルバイトとして、史料研究用ツールSMART-GSを使用して翻刻してもらい、それがこのページの翻刻のもととなっている。この翻刻もパブリック・ドメインとして公開する予定であるが、公開以前でも要望があれば、SMART-GSのファイル、HTMLファイル、テキストファイルの三形式で提供が可能である。
寺澤、西尾、橋本の三氏は、現在は、ドイツ語ドイツ文学やデジタル・ヒューマニティーズの専門家として活躍中であるが、本ページの作成に際しては、ドイツ語の読みについて(特に無理数ノート)、様々なご意見・知識を頂いた、ここに深く感謝したい。
また、Springer社から刊行されている Hilbert遺稿の翻刻集 Hilbert Edition で、本研究の研究対象とした数学ノートの一部と重なる筈の史料の翻刻集が計画されている。Amazon での Pre-Order がこちら。この翻刻集は研究用のアカデミックで正確なものなので、本研究の研究結果の信憑性の検証に役立つものと期待される。
1. はじめに
ドイツ、ゲッチンゲン大学図書館が所蔵するダーヴット・ヒルベルトの遺稿集には、3冊の数学ノートブックがある。これは「数学日記」と呼ばれることもある史料だが、その実態は、日付がない多くは短いノート(notes)の集積なので、我々はノートブックと呼んでいる。
この三冊のノートブックには、数学の基礎についてのヒルベルトの考えを記載したものが相当数あり、それらは彼の論文、講演、書籍などでははっきりとは語られなかった「数学基礎論研究の動機」についての情報を豊富に含んでいる。このページでは、それらの内、ヒルベルトが不変式論研究のころから、代数的整数論や幾何学の研究を行っていた1890年代初頭ころまでのノートについて翻刻、翻訳、分析、解説を行う。
ただし、このページで示すノートのすべてが直接的に基礎について語っているのではない。例えば、3.9で紹介するノートは、ベルリンの数学者たちへの強い憤りを綴ったもので、これは数学の基礎とは直接的には全く関係がない。しかし、このノートは、ヒルベルトが彼の有限基底定理を如何に誇らしく思っていたかを示唆しており、この様な強い感情がヒルベルトのその後の数学の基礎についての思索を左右した可能性が大きいことから、これを収録している。
また、このページで紹介するノートは、ヒルベルトの数学の基礎についての当該時期の重要なノートの全てではない。たとえば、これらの他には、後の計算量理論を彷彿とさせる理論の着想を記したものなどがある。今後の研究の進展、また、Hilbert Edition などによる日記の刊行が期待されるところである。
このページで紹介するノートの内、最も興味深いものは、我々が「可解性ノート」と名付けたものであろう。その詳細は3.8で示すが、その大雑把な内容は、数学のすべての命題が、ある特殊な形に変換可能で、また、その形の命題ならば、必ず真か偽か有限的に判定できるはずだということを予想し、それを証明することを目標として掲げたものである。もちろん、これは帰納関数論により容易に否定されるが、これは後のヒルベルト計画における数論の形式的理論の完全性証明の計画や、チューリングにより否定された述語論理の決定可能性の予想の萌芽であると考えられる。
そう考えれられる理由や、このノートについての詳しい議論は4.3で行うが、ここで簡単にその結論の一部を述べておきたい。我々の行った文献学的分析によれば、このノートは若きヒルベルトが時代を代表する数学者の地位への階段の最初のステップを踏み出した時、すなわち、有限基底定理によるゴルダン問題の非構成的解決から、同じ問題の零点定理による構成的解決の間に書かれたものと推測される。そして、ヒルベルトが示した「数学のすべての命題がそれに変換可能な命題のある特殊な形」は、ヒルベルトの有限基底定理を直接一般化した様な形であった。??で示すように、ヒルベルトは若き日の代数研究をモデルに数学の基礎を考えていたと考えられる史料的証拠が多く存在する。そして、これはその内の最も古いものの一つであり、1905年の夏学期の数学の論理学的基礎についての講義で語ったように、数学の問題の可解性こそがヒルベルトの基礎論研究の出発点であったと考えられるのである。ヒルベルト計画の動機としては、数学の無矛盾性証明の必要性や幾何学基礎論に求められることが多いが、それらは少なくとも最初の動機ではなく、この数学の可解性を数学的に証明するという計画の影響下に、後に生まれたものと考える方が自然なのである。
ヒルベルトが、1900年のパリ講演「数学の問題」や、1930年のケーニヒスベルク講演「自然認識と論理」で、19世紀ドイツの自然科学を代表する科学者の一人であった生理学者エミル・デュ・ボア=レイモンのイグノラビムス不可知論を強く否定し、数学の問題がすべて解けるという数学の可解性を、例えば1900年の講演では公理と呼んでいることは良く知られているところであろう。この数学の可解性の宣言は、数学者を奮い立たせるためのモットーと理解されることが少なくないが、我々が発見した史料的証拠からすると、これはヒルベルトが若き日から神剣に考えていた数学の研究目標だったのである。
しかしながら、数学の可解性をモットーでなく、本当に証明可能な数学の命題として理解した場合、それがすべての数学の問題の真偽を有限回の操作で決定できることを主張するだけに、数学がトリビアルになるのではないかという疑問が生じる。1900年のパリ講演で、ヒルベルトは数学の問題が解決されると次の問題が立ち現われ、数学の問題は尽きることがない、数学は永遠に進化を続けると主張しているが、これは数学者が永遠に計算を続けるという様な意味ではないはずである。その様な数学は、多くの数学者、もちろん、ヒルベルトに取って悪夢以外の何物でもない。
では、なぜヒルベルトは、数学のトリビアル化という最大の悪夢を避けつつ可解性を信じることができたのか、という問題が生じる。これについては4.4で詳しく論じるが、簡単に言えば「ヒルベルトが主張した有限回の操作による可解性」は、純粋に理論的な可能性であり、実際の数学の問題に現実的な時間と労力で適用できるような操作だとは考えられていなかったのである。つまり、現代的な言葉で言えば、ヒルベルトの数学の問題の真偽決定アルゴリズムは、その計算量が莫大で、実際には使えないものだと想定されていたのである。このことを、我々は、ヒルベルトのケーニヒスベルク時代の不変式論の講義草稿、ヒルベルト・アッカマンの著書「数理論理学の原理」の述語論理の決定問題についての議論、そして、1917年のヒルベルトの講演「公理的思考」における、ある代数幾何学の問題についての議論に見ることになる。
可解性ノートと、それに関連するノート以外で、最も重要な発見はヒルベルトの公理論の成立過程を示す諸ノートであろう。ヒルベルトの公理論と言えば幾何学基礎論をその端緒とするという理解が一般的であったが、2013年にイスラエルの歴史家レオ・コリーがヒルベルトの物理学の公理化の研究についてのモノグラフを出版して、この解釈に一石を投じた。コリーはヒルベルトの公理論に対する、物理学者ハインリヒ・ヘルツの失敗に終わった古典力学の再編の試みの影響を指摘したのである。これはヒルベルト公理論の成立に物理学が関わっていることを強く示唆するものであった。
このコリーの主張を強く支持するノートが存在する。我々が発見したノートによれば、ヒルベルトは物理学の理論を公理化し、可能な公理化の内で最善のものが当時の古典物理学の諸理論であることを証明することを構想した。そして、この物理学の公理化の前に、試験的な意味で幾何学の公理化が行われたことを示すノート(3.14)が存在するのである。
これはライプニッツのオプティミズムを、思想としてでなく数学の定理・理論にしようということであり、また、数学の完全性に関連して既に言及したデュ・ボア=レイモンのイグノラビムス不可知論の一部であった「物理学は、この物理世界の法則が、何故現在のモノであるかを解明できない。なぜなら、解明に使われる物理学が、解明される物理学そのものであるから、そのオリジンを客観的に解明できないからである」という主張への数学からのアンチテーゼといえる。
この他、物理学の公理化のノートの前に、幾何学基礎論の開拓時の逸話として有名な「机、椅子、ビアマグの幾何学」に対応する、「デスクとテーブルの代数系」を議論するノート(3.12)などがあり、それらにより我々は4.5でヒルベルト公理論のアイデアの発展の時系列を考えることとなる。
この導入部の最後に、このページで紹介している我々の研究で使われたインデックス・システムとコメント用の記号などについて簡単に説明する。このページは、元々は歴史学の専門的な英文論文として書いたものを、和訳しつつ、弱冠一般向けに書き直したものである。WEB上で広く公開しているので、数学史・思想史の研究者以外の方たちが読むことが少なくないと思われる。その様な読者にとっては、厳密な文献学的手法による我々の研究の細部は興味の対象外であろうから、ここではその様な読者を想定して、ノートのインデックス付けの方法のみを簡単に説明し、一方で文献学的手法などの説明は、A. 文献学的注意にまとめたので、研究者の方たちはそれを参照願いたい。
ヒルベルトの数学ノートブックは、すでに説明した様に小さなものでは数行の大きなものでは見開き一つ分の日付やタイトルの無いノートの集積である。そして、各ノートは図1の三つのノートの様に横線で区切られている。このそれぞれには、我々の研究でつけたインデックスがついており、たとえば図1の一番下の"In allen"で始まるノートのインデックスは「ブック1、ページ28、リージョン6」である。三冊あるノートブックを、我々は古いものから順番にブック1、ブック2、ブック3と呼ぶ。そして、このノートのインデックスは、それが「ブック1の28ページの上から6番目のノート」であることを示している。従って、一つ上の"Begriff"で始まるノートのインデックスは「ブック1、ページ28、リージョン5」である。
以上のリージョンとノートは二つの例外を除き、記述の順番とノートブックの位置は連動していることを前提にしており、それを使っておおよその記述時期の推定を行っている。その手法は以下の具体例を見れば明らかだろうが、詳しくは「A. 文献学的注意」のA3を参照して欲しい。
ヒルベルトのノートは、個人の覚書であるから綴り間違いや文法的エラー、さらには不明瞭な綴りなどが多い。それらを内容などから推測して翻刻した場合は、その不確かさを示すために、Coeffi⟨⟨ciente⟩⟩の二重の山括弧で囲まれた⟨⟨cient⟩⟩の様に示した。また、一般的なコメントを示すためには一重の山括弧を使っている。これらの翻刻のための注釈用括弧の使い方のルールは、「A. 文献学的注意」のA4に詳述してあるので、これら括弧の使用の正確な意味については、そちらを参照して欲しい。
これで「はじめに」を終り、次の2節では、我々の研究の背景となるヒルベルトの数学研究の歴史の概観を行う。
2. 幾何学基礎論以前のヒルベルトの数学
準備中
2.1. 不変式論 1885-1892
準備中
2.2. 代数的整数論 1892-1897 と幾何学 1891-1899
準備中
3. 数学の基礎についての初期のノート
準備中
3.1. 第1ノートブック
準備中
3.2 ヒルベルトの第10問題
1900年のヒルベルトの23の数学問題の第10問題は、現代的用語を使って述べると「ディオファントス方程式(整数係数の多変数多項式pから作られる方程式p=0)が整数解を持つか否かを判定できるアルゴリズムを作れ」というものだったが、次に示すブック1、ページ7、リージョン1のノートは、ヒルベルトがこの問題をすでに1880年代終には着想していたことを示している。我々は、このノートを第10問題ノートと呼ぶ。
3.2.1. ノート: ブック1、ページ7、リージョン1
翻刻:Beweisen, dass man durch eine endliche Anzahl von Operationen enscheiden kann, ob und wie viele ganzzahlige Losungen \(\varphi(x,y,\ldots)=0\) mit ganzzahlige Coeffi⟨⟨ cienten ⟩⟩ ⟨Koeffizienten⟩ be⟨⟨ sitzt ⟩⟩.和訳:整数係数の \(\varphi(x,y,\ldots)=0\) が、整数解を持つか、また、何個持つか、有限回の操作で決定できるということを証明せよ。
3.2.2. 第10問題は数学基礎論の問題だったのか?
このノートの次のノートは射影幾何学の講義(Colleg über Darstellende Geometrie)のプランが書かれている。この講義は1888年の冬学期に予定されていたが、実際には教えられることが無かったとされているものである(詳細は、Toepell 1986, 1.4, pp.13-14を参照。また、ヒルベルトの講義のリストが、HallettAndMajer 2004を第1巻とする6巻からなるSpringer社のヒルベルトの講義ノート.コレクションの各巻に掲載されている)。このことから、このノートが書かれたのは1887年から1888年の前半までと推測される。
また、ヒルベルトは、1888年の3月9日から4月7日まで多くの著名な数学者を尋ねる大旅行を行っており、この旅行でクロネッカを訪問した際に、ヒルベルトはクロネッカの数概念について、本人から親しく聞いたことが記録されている。この旅行のヒルベルト自身による記録は、ゲッチンゲン大学図書館のヒルベルト・アーカイブの史料 Bericht über meine Reise vom 9ten März bis 7ten April 1888, Cod. Ms. D. Hilbert 741 として残されているが、クロネッカ訪問の際の記録には、クロネッカが平方根 \(\sqrt{5}\) を、\(x^2-5\) を法とする不定元 \(x\) として扱うことが記録されているのである。
この \(x^2-5\) を法(クロネッカの用語ではモデュル Modul)として \(\sqrt{5}\) を導入する方法は、クロネッカの数学の核である一般算術 Allgemeine Arithmetik の理論(参照3.3.6)において、負整数、有理数、虚数などの代数的数を自然数係数の多変数多項式の代数の合同算術に還元する方法の一例であり、次の3.3で検討する無理数ノートで、ヒルベルトがこのクロネッカの扱いを理解してないと思われる主張を書いている所から、どちらのノートも上記の大旅行でクロネッカに合う前に書かれたものである可能性が高い。
クロネッカは、いつの日にか整数論などの真の純粋数学はすべて彼の一般算術の理論に還元したいと考えたが、その一般算術の理論というのは、自然数係数の多変数多項式と、その商(割り算)の理論であり、極端に単純化して現代の数学の言葉で言えば「多変数整数係数の多項式環の商環(剰余環)の理論」である。もし第10問題が正しければ一般算術の理論展開において、クロネッカが課した「有限性」の条件の多くの問題が自動的に決定可能、つまり、有限回の操作でその真偽を判定できると考えられる。つまり、クロネッカの思想と、その正しさを前提にすれば、第10問題の肯定的解は、少なくともクロネッカ的数学観においては、整数論を越えて、純粋数学一般の基礎論的意義を持つこととなる。ヒルベルトは、この大旅行の直後に行われた不変式論の研究で、当時の重要な未解決問題であったゴルダンの問題を解決するのだが、その際、この一般算術を使っているように、一般算術に精通していたと思われるので、その文脈で第10問題を着想した可能性を捨てきれないのである。
そして、もし、この様に第10問題の予想の背景に、数学基礎論的モチベーションがあったのならば、現代の我々を戸惑わせる、「ヒルベルトの様な大数学者が、何故、『数学の可解性』つまり『全ての数学の問題の真偽を決定する有限的方法の存在』を信じたか」と言う問題への一つの答が可能となる。詳しくは、第4節で論じるが、 ヒルベルトの数学の可解性の信念が、1970年に否定的に解説されたという歴史的事実には反するものの、それ以前にはむしろ数学的には自然なものであったともいえる第10問題の正しさと、ヒルベルトの不変式論における成功体験を通して信念として形成されていったと考えることが可能だからである。
3.3 無理数の存在について
第10問題ノートの次のノートが、前項3.2.2で触れた射影幾何学講義のプランについてのノートで、その次のノートが、この項の対象である無理数とクロネッカについて論じたノートである。我々は、このノートを無理数ノートと呼ぶ。
このノートは、数学基礎論的な意図が明示的に示されている最初のノートであり、第10問題ノートの背景に数学基礎論的モチベーションがないならば、最初の数学基礎論的なノートでもある。無理数ノートは、ヒルベルトが長く批判を繰り返したベルリンの数学者L.クロネッカの数学思想への強い反感を表明したものとしては、数学ノートブック以外の史料も含めて、おそらくは最初のものである。また、3.3.5で論じるように、このノートは、本サイトの最大のテーマであるゲーデルの歴史観の観点からも興味深い史料である。
3.3.1. ノート: ブック1、ページ8、リージョン1
翻刻::Es ist völlig willkürlich bei den gebrochenen, rationalen Zahlen abzusch⟨l⟩iessen und die irrationalen Zahlen nicht mehr zuzulassen. Wir können auch die rationalen gebrochenen Zahlen nicht mehr als Cardinalzahlen auffassen sondern müssten denn⟨あるいは der⟩ logischer Weise bei den ganzen positiven Zahlen (vielleicht streng bloss von 1 bis 5 ⟨⟨höchstens⟩⟩ 7) stehen bleiben. Schon die Zahl \(\frac{1}{2}\) erfordert die Anschauung der Strecke, wir können die Mitte einer Strecke praktisch nie genau angeben, wohl aber genau anschauen und vorstellen. Eben so genau können wir auch den Punkt \(\sqrt{2}\) anschauen und vorstellen. Es giebt⟨gibt⟩ ein Ueberschreiten vom rein anschaulichen zum rein formal gedachten. Diesen Uebergang⟨Übergang⟩ vermittelt ein breiter Weg mit vielen gleich bequemen Zugängen und offenstehenden Thoren⟨Toren⟩, während Kronecker sich darin verhornt hat durch ein wilkürlich gelegte⟨s⟩ Hemmnisse⟨Hemmniss⟩, durch ein Nadelöhr durchzuzwängen.和訳: 分数、有理数で終わりにし、無理数はもう許容しないというのは全く恣意的だ。有理数はもう基数でないと考えることもできる。しかし、その時には、論理的帰結として正整数で留まるべきだろう(恐らく確かなのは1から5まで、良くて7)。すでに \(\frac{1}{2}\) という数でさえ線分の直観を必要とする。線分の中央の点を厳密に指定することは実際的には出来ない。厳密に指定できたと直観したりイメージしたりするだけなのである。全く同じく \(\sqrt{2}\) の点も厳密に直観したりイメージできる。ここに純粋な直観から純粋な形式的思考への超越がある。クロネッカは針穴を通り抜ける様な障害を全く恣意的に設けることによって自らを角質化してしまったわけだが、その一方で、この移行は多くの等しく快適な入口や開かれた門を持つ広い道を提供する。
3.3.3. 無理数ノートの翻刻と翻訳についての注意
このノートには、翻刻と翻訳について、それぞれ一つ注意すべき点がある。最初に、この二つの注意点について説明する。
まずは翻刻の "denn⟨あるいは der⟩ logischer Weise" の部分について説明する。この部分の画像は次のとおりである: 2,3番目の単語は、他の部分の筆跡と比較して logischer Weise で間違いないだろう。最初の単語は、同じノートブックの他の der の出現に非常に似ているので、「形」からすると最も自然な翻刻は "der logischer Weise" である。しかし、文法的に正しいのは "der logischen Weise" であり、書き間違いということになる。そう解釈する場合には、これは副詞的2格(このページの「2格(Genitiv)の用法」の「[中級] その他の用法」を参照)で、意味は現代の副詞 logischerweise と同じである。
もう一つの解釈は、これは der ではなく denn であり、その意味は現代の標準ドイツ語における dann と同じとするものである。上の画像の最初の単語の語尾は他の der の多くからわずかに違い、nn の二番目の n が小さくなったものとも読める。これとそっくりな語末の r も存在するので、確定的なことは言えないが、denn である可能性は捨てきれないのである。現代の標準ドイツ語では、denn は 英語の for に対応するので、この位置にあるべきは denn ではなく英語の then に対応する dann なのだが(参考)、現代でも北部ドイツでは、denn が副詞 dann の意味で使われることがある(参照)。元々は、denn と dann は同じルーツを持ち、unless という意味ももっていたようで(es sei denn)、古い文献には、この混用がかなりみられ、また、19世紀のプロイセン語辞典のひとつにも、この用法が収録されている。この部分だけヒルベルトがプロイセン方言を使ったのは不自然にも見えるが、たとえば、19世紀のニーダーザクセンで出版されたこのドイツ語辞書のDenn の項目の2番目の用法の項目でも、この用法が掲載されており、その用例は数多いとは言えないものの、19世紀の書籍などに見られる。これらのことから、たまたまヒルベルトが、その様に使った可能性は捨てきれない。
以上の二つの解釈のどちらを採用しても当該の文の意味は、「整数(正整数)を『個数を数える数』つまり基数と解釈し、それが数の基本とするならば、論理的にはクロネッカが無理数を認めなかったのと同じように有理数も認めないということになるだろう」になる。この部分は、他にも可能な読み方があるが、それらにあたる用例は19世紀の文献でも少なく、また意味は、いずれにせよ、これら二つのものと同じとなるので、より可能性が高いと思われる二つの読み方を採用した。
次に、翻訳の問題である。翻刻の最後の文の "sich darin verhornt hat" を「同じ場所で…自らを角質化してしまった」と翻訳した。動詞 verhornen は「(皮膚や細胞が)角質化する」という自動詞である。それが再帰動詞として、数学の文脈で使われている。再帰動詞としての使い方はともかく、文脈からして本来の語の意味ではありえず、何らかの比喩だろうと推測され、それがどの様な比喩かが問題となる。そして、その内容から、これは19世紀にポピュラーだったと言う、ゲルマンのジークフリート伝説(説話)を意識した比喩だろうと推測されるのである。
ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」で英雄ジークフリートは、竜を殺して血を舐めることで鳥の言葉を理解する能力を得るが、その背景であるゲルマンの伝説的な詩(歌)・戯曲などのジークフリート Siegfried(Seyfritなどとも)は、殺した竜の血あるいは溶解した鱗を自らの皮膚に塗ることにより、皮膚が硬化した「角の皮膚 (Hornhaut)の不死身の戦士」として描かれる(たとえば、これを参照)。
ヒルベルトは、なぜ、数学の文脈では使われることがまずない、「角質化する」という言い回しを使ったのだろうか。おそらくは、この語により、自由な広い道に背を向けて自ら「角の皮膚」の鎧を着込んで鈍重になった者、としてクロネッカを批判したかったのではないだろうか。ちなみに、ジークフリードは木葉が貼りついたために角質化しなかった背中の一点が「アキレス腱」となって殺される。
この様な詩・戯曲などにおける verhornenは伝統的に「角質化する」と和訳されている(例)。違和感はあるが、適切な代案が思い浮かばないし、ドイツ文学の分野でも定着した訳の様なので、そのまま用いた。
3.3.4. 無理数ノートの分析
第10問題ノートに数学基礎論的意図がなければ、無理数ノートは数学ノートブックにおける最初の数学基礎論的なノートであるし、少なくとも、それは陽に数学基礎論的な最初のノートである。記述時期は、第10問題ノートの記述時期の推測で既に述べたように、第10問題ノートと同様、1887年から1888年の前半までと思われる。
無理数ノートは、歴史的事実や他の史料と合わせると、ヒルベルトの数学基礎論について非常に多くのことを示唆する。特に、クロネッカの数学思想のヒルベルトの数学基礎論への影響を解明する際には、鍵になる史料であると言って良いだろう。そして、その故にゲーデルの歴史観における「左の立場から右の立場を正当化しようとするその失敗が必然である奇妙な混合体」という、ヒルベルト形式主義・ヒルベルト計画のゲーデルの後期思想における位置づけの理解にも有用である。
まず、このノートの内容を検討してみよう。その主張は次の三つにまとめることが出来る。まず第一に、線分の2分の1の位置を正確に示すことが実用的には困難であることと、\(\sqrt{2}\) の位置を示すことが困難であることに本質的な差はなく、これらを数学的に取り扱うにはどちらも「形式的思惟」 (rein formal gedachten)が必要である、という主張である。第二に、ヒルベルトは、この、\(\frac{1}{2}\) や \(\sqrt{2}\) の(空間の)直観による把握から形式的思惟による把握の間には「本質的な超越」(Ueberschreiten 境界・限界を超えること)があり、それにより数学は自由で有用な方法論を獲得する、と主張している。そして、残る第三の主張は、これに対比してのクロネッカの数学思想の批判であり、ヒルベルトは、次の様にクロネッカを批判している。クロネッカは有理数と無理数の間に線引きをし前者は許容し後者を許容しない。しかし、ヒルベルトの第一の主張からすると、この両者には本質的な違いはないはずで、むしろ、有理数が基数でないということにおいて自然数と有理数の間に境界を引くことさえ考えられる。故にクロネッカの線引きは全く恣意的で根拠がない。さらに、ヒルベルトは「形式的思惟による超越」が起きる場所で、クロネッカは自らを「角質化」、つまり、防衛に入り硬直化してしまった、と主張している。
その具体的な形は語られていないものの、この「形式的思惟」に、すでにヒルベルトの数学思想の特色である「形式主義」の芽生えが見られる。この後に書かれた諸ノートに見られる直接的なカントへの言及はないが、ヒルベルトが、これらのノートの数学基礎論的考察においてカント哲学を強く意識していることを考えれば、「純粋な(空間的)直観から純粋な形式的思惟への超越」(Ueberschreiten vom rein anschaulichen zum rein formal gedachten)は、後に「幾何学基礎論」の冒頭に引用することになる、「純粋理性批判」の有名な一節「すべての人間認識は直観に始まり、概念を通して理念に終わる」、"So fängt denn alle menschenliche Erkenntnis mit Anschaungen an, geht von da zuBegriffen und endigt mit Ideen"を、すでに意識していたとも考えられるからである(「幾何学基礎論」第2刷の該当ページ)。
第三の主張に見られるクロネッカ批判が、数学における有用性を元に語られていることも注目に値する。つまり、ヒルベルトはクロネッカを数学基礎論的、あるいは、哲学的に批判しているのではなく、クロネッカを数学の方法論の有用性の地平で批判しているのである。この時、まだカントル集合論の矛盾は発見されておらず、数学の基礎についての哲学的議論は必要ではなかった。しかし、後で論じるように、その故にヒルベルトは「クロネッカの制限」は不必要に哲学的なものだと考えたのかもしれない。私がそう考える根拠を説明するには、クロネッカの数学思想についての通説にまつわる「霧」の払拭が必要なので、それは後回しにして、まず、ヒルベルトの二つの主張をより詳しく検討しよう。ヒルベルトは「クロネッカが 1/2 は認めたが、\(\sqrt{2}\) は認めなかった」と主張しているが、後で説明するように、クロネッカは、どちらも(\(2x-1)\) と \((x^2-2)\) というクロネッカがモデュル Modul と呼んだものを使って代数系の要素として定義した。それを現代代数学の言葉で言えば「整数係数多項式環 \(Z[x]\) の二つの単項イデアル \((2x-1)\) や \((x^2-2)\) による商環の要素 \(x\)」だったのである。つまり、無理数\(\sqrt{2}\)に対するクロネッカの態度を、ヒルベルトは誤解している。そして、第10問題ノートの議論に置いて述べたように(参照)、このクロネッカの無理数の取り扱いを、ベルリンにクロネッカを訪問した際、クロネッカから直接に聞くこととなった。
ヒルベルトは、クロネッカが無理数のすべてを認めなかったと誤解していたと思われるが、実際には代数的数は、すべて許容していた。クロネッカは、不定元 indeterminate, Unbestimmte からなる自然数係数の多変数(多不定元)多項式と、その様な多項式の有限個のシステム(集合)による合同関係からなる代数系の理論を一般算術と呼んで、それを彼の(理想の)数学の「基礎」とした。二つの数 \(\frac{1}{2}, \sqrt{2}\) のモデュル(\(2x-1), (x^2-2)\) による導入はその一般算術による数の基礎付けの例なのである。
数学における「基礎」という言葉には、「数学基礎論」という時の「基礎」と、「基礎理論」というときの「基礎」の二つの異なる意味がある。一般算術は主には後者の意味で「クロネッカ数学の基礎」だった。彼の数学理論は、代数的整数論、ガロア理論、そして、代数学の基本定理でさえ、この理論を基礎にして展開されている。しかし、彼は、それを前者の意味の「基礎」としても使ったのである。ただ、クロネッカは、それを多分に「おまけ的に」扱っており、重要なのは飽くまで後者の「基礎」であり、前者の「基礎」は取るに足らないという風な姿勢だった。そのため、それはベルリン大学における講義では語られていたものの、数学論文として出版されることはなかった。
この様な次第で、クロネッカが、一般算術による、数概念のこの基礎付けのアイデアを公開したのは、その晩年と言える1887年に出版されたエッセイ的なテキスト「数の概念について」 Ueber den Zahlbegriff が最初であった。この「数の概念について」を読んでいれば、ヒルベルトも無理数ノートの様な間違いをすることはなかっただろうから、無理数ノートを書いた時には、まだ読んでおらず、そして無理数ノートを書いた後で、3.2.2で述べた \(\sqrt{5}\) の例をクロネッカ本人から聞いた推測される。
実は、当時のヒルベルトはクロネッカの一般算術を自身の代数研究に応用しており(その一例)、代数研究のツールとしては精通していたはずなのだが、そういうヒルベルトであっても、クロネッカのベルリン大学での講義に接することなく、その数学論文だけから、一般算術が自然数からの数学の基礎付けにも使われていたことを想像することは難しかっただろう。
ただし、その後、ヒルベルトは、この「数の概念について」を読んだはずである。ヒルベルトの1930年の有名な講演「自然認識と論理」では、「数の概念について」でクロネッカが引用した「整数論学者は、Lotophagen(蓮の実喰い、夢想家)」というヤコビによる古い喩が繰り返されている。
以上と、無理数ノートにおける\(\sqrt{2}\) を受け入れるのに形式的思惟が使われ、また、そういう形式的思惟により、数学の自由度のレベルが一段上がる」というヒルベルトの主張に注目すると、3.2.1で述べた1888年のクロネッカ訪問が、後のヒルベルトの数学思想に強い影響を与えた可能性が浮かび上がってくる。
「形式的思惟」による新しい数学概念の導入と、その有用性の主張は、後のヒルベルト公理論における理想元の議論を想起させる。しかし、無理数ノートの当時のヒルベルトが書き残したものには、ノートにも論文にも「形式的思惟」にあたる具体的な数学理論を想起させるものが見当たらない。その一方で、1888年にヒルベルトが、クロネッカ本人から聞いた一般算術による数概念の拡大の方法は、まさにその様なもの、つまり、形式的思惟による数学における概念拡大の方法の数学的定式化と呼べるものである。
ヒルベルトの前期公理論(幾何学基礎論から1910年代までの公理論)では理想元は集合論で記述された構造の要素であるが、後期公理論、つまり1920年代のヒルベルト計画においては、それは形式的体系の「定数」と考えることが可能である。たとえば、集合論において自然数の集合が導入されるとき、それはまずωという定数であり、そして、それについて成り立つ条件が公理という数式(論理式)により与えられているわけである。
一般算術で \(-1, \frac{1}{2}, \sqrt{2}\) などの「新しい存在」を導入するために使われる「不定元」も、こういう「定数」あるいは「理想元」と考えることができる。実際、一般算術は、その項と導出規則が多変数多項式環の要素とその有限生成イデアルで定義された非常に特殊な等式論理、つまり、形式系だとみなすことができる。
そして、逆に形式系の定数を不定元と考え形式系の導出規則を一般算術の「導出規則」である合同関係の拡張とみなせば、ヒルベルトの後期公理論とは、クロネッカの一般算術による代数的基礎付けを記号論理学的基礎付けで置き換えたものと見なせる。また、クロネッカのモデュルシステムは、現代代数学の標準的意味での代数系であり(多項式環の有限生成イデアルよる商環)、また、現代の代数系はヒルベルトの前期公理論における公理系の一種とみなせるので、結局、モデュルシステムはヒルベルトの前期公理論における公理系の一種ともみなせる。(ちなみに、この二重性を使って、形式系(形式的理論)と代数を統合しているのが圏論的論理である。)
更に言えば、クロネッカが一般算術による概念拡大の際に課した条件「新たに導入した不定元を含まない式は、拡大前の理論の規則に従う」は、1920年代のヒルベルト・プログラムにおける無矛盾性証明としてヒルベルトが証明しようとした「有限の立場に対してペアノ算術などが保存拡大となること」そのものである(例えば、こちらを参照)。
この様に、数学の基礎付けのツールとしてのヒルベルトの公理論は、前期も後期も、特に後期では、クロネッカの一般算術に酷似している。つまり、ヒルベルトが、クロネッカの基礎付け理論を自身の基礎付け理論のモデルにしていた可能性が高いのである。このことは多くの人が気が付いていることであろうが、ヒルベルトが、それについて何も語っていないために、直接的に証拠づけることができない。
しかし、直接的証拠による実証は無理でも、無理数ノートと、クロネッカ訪問記という直接的証拠により実証される、ヒルベルトが「形式的思惟」による新概念の導入の有用性について思いを巡らせていた時期に、そういう導入の代数版である一般算術における新概念導入の方法をクロネッカ本人から聞いている、という事実は、この仮説の有力な状況証拠となる。この二つの史料の存在により、「クロネッカの数学思想がヒルベルト形式主義のルーツである」という、従来の解釈に「正反対」な仮説の信憑性が大きくなったといえる。
同様の推測ではあるものの、無理数ノートが提供する興味深い情報がもう一つある。それはクロネッカの「数学の基礎づけ」を、「角質化」と呼んで批判したことである。上の翻訳に対する注意のように、これはジークフリートの「角の皮膚の鎧」を意識していると思われ、ヒルベルトがクロネッカの「数学の方法の制限論」を、後の彼の「有限の立場」の様な消極的・防衛的なものと理解していたことの現れだと推測される。そういうクロネッカ理解を、ヒルベルトは1920年代において繰り返し表明しているが、そのルーツが、すでにここにあることがわかる。
しかし、クロネッカの「制限」が、本当に鎧のような意識で採用された防衛的・消極的なものであるかどうかは簡単には判断できない問題である。これについては、3.3.5と3.3.6で少しだけ論じるが、私は、「制限」は、(i) クロネッカの哲学との関係の取り方や(参照)、(ii) A.ヴェイユ A. Weil が、代数幾何学と整数論の双方を包含する新理論を開拓しようとしたと評した、クロネッカの代数理論の目的に由来している可能性があるのではないかと思うのである(参考1: Weierstrass の助言, 参考2:VI2)。
前者の(i)は、後に触れることになる、クロネッカのヘーゲルやシェリングの様な哲学者の数学への「介入」への嫌悪と拒否は、「有限の立場」の様な防御的鎧ではなく、「数学とは異質なものに対する線引き」と捉える方が適当だろうという意見である。また、後者の(ii)は、クロネッカの「数理哲学」は、構成主義というより、「数学のすべてを代数的に説明し尽したい」という「代数主義」と理解すべきではないのか、という意見である。もし私の考えが正しければ、クロネッカの「制限」を鎧にたとえたのは、ヒルベルトのクロネッカの「数学基礎論」に対するもう一つの誤解ということになるだろう。もっとも、クロネッカはその立場を折に触れて口頭では語りながら、その立場を出版しようとはしなかった。ヒルベルトが誤解しても当然で、ヒルベルトの誤解の原因は、クロネッカの方にある。
以上、無理数ノートを元に、二つの解釈を提案した。この二つは、直接的な証拠となる史料に基づかない大胆な推測である。ただ、それらを前提としてヒルベルトの数学基礎論の史料を分析すると、数学基礎論を代数をモデルに構築していること、有限の立場における自然数の定義方法が、1897年の「数の概念について」で言及されているものであるなど、クロネッカの数学基礎論の影響の痕跡と考えられるものが、相当数見つかり、それによりヒルベルトの数学基礎論への理解が深まる、という事実がある。
つまり、この二つの解釈を通してヒルベルトの数学基礎論の語られざる舞台裏解明という道への扉を開けることができるかもしれないのである。そして、その様な意味で無理数ノートは後のヒルベルトの数学の基礎についての思索の歴史を考える上での重要な鍵となる可能性を持つ史料である。
無理数ノートに現れる \(\sqrt{2}\) の例については謎がある。ヒルベルトは、1920年の講義 Probleme der mathematischen Logik で、クロネッカが数学を極端に制限したと説明した際、「\(\sqrt{2}\) さえ認めず、モデュル \(x^2-2\) で置き換えた」と言っている(これのp.353、あるいは、これのp.944を参照)。クロネッカは \(-1\) などをモデュルで導入した際、それらを「回避した」vermeiden とも言ったので、クロネッカが \(-1\) や \(\sqrt{2}\) の存在を認めなかったと解釈するのは間違いではない。しかし、既に Ueber den Zahlbegriff を読んでいたとしら、ヒルベルトは、なぜ、\(-1\) などを例としなかったのだろうか。その方がクロネッカの「制限の異常性」を強調できるはずなのである。彼の晩年の異常な物忘れは、有名だが(伝記23-4章参照)、1920年はまだ60歳前である。ただ、集合論の矛盾の発見の前に亡くなったクロネッカが、矛盾が発見されたために集合論を制限したと主張したのが前年である。優秀な科学者・数学者にはよくあることだが、ヒルベルトは我々常人には理解できないほど思い込みが強く、そのために誤解したのかもしれない。
3.4 ゴルダン問題の解決?
準備中
3.5 定義の無謬性
準備中
3.6 カント哲学と数学についての三つのノート
下に、その画像、翻刻、和訳を示すように、ブック1、ページ28、リージョン4-6の三つのノートで、ヒルベルトはカント哲学についての思索を書いている。 我々は、これらを「カント哲学ノート」と呼ぶ。
3.6.1. カント哲学ノート1: ブック1、ページ28、リージョン4
翻刻: Ueber ein fundamentales Axiom des menschlichen Verstandes. Vielleicht dass jedes Problem lösbar ist?
和訳: 人間悟性の基本公理について。おそらく、すべての問題が可解?
3.6.2. カント哲学ノート2: ブック1、ページ28、リージョン5
翻刻: Begriff der ganzen Zahl beruht nothwendig auf Zeit und Raum. Begriff der Stetigkeit einfacher als⟨⟨o⟩⟩ als der Begriff der ganzen Zahl. Kant hat Recht.
和訳: 整数の概念把握は必然的に時間と空間に基礎づけられている。連続性の概念把握はかくて整数の概念把握よりもより基本的。カントは正しい。
3.6.3. カント哲学ノート3: ブック1、ページ28、リージョン6
翻刻: In allen anderen Wissenschaften⟨,⟩ Material, von dem man nicht weiss, wo es herkommt, von dem man nur weiss, dass es da ist. Hier reines Denken, reine Philosophie. Kant hat das als der erste gefühlt, aber nicht bewiesen, er hat angefangen, aber nicht zu Ende geführt.
和訳: 他のすべての学問においては、その研究対象がどこから由来するのか知らない。そこにあることを知るのみである。ここに純粋思惟、純粋哲学。カントはそれを最初に観取した人だが、それを証明はしなかった。彼は始めたが最後まで進まなかった。
3.6.4. 三つのカント哲学ノートについての分析
カント哲学ノート1の2番目の文は、後に「すべての問題の可解性」として、ヒルベルトの生涯の目標となる問題を人間悟性の公理として主張できるのではないかというものである。ただし、この文は小さな文字で少し斜めに書かれており、後で追加された書き込みである可能性が高い。
ノート2の einfacher の後は、als als に見える。書き間違いの可能性もあるが、最初のalsの最後の部分であるsのペン運びの終わり方が他のsに比較して長いことから推測するに、これはsの後にoを綴るためにペンを動かしたがoを書き損じてしまったとみることもできる。alsoがある方が、最初の文と上手く繋がるので、おそらくは間違えて2度alsを書いたと考えるより、alsoのoが抜けたと考える方がより妥当すると思われるので、その様に翻刻した。いずれにせよ、意味は、どちらの場合も殆ど違わない。
また、最初の文のberuht(基礎づけられている)を受けて、einfachは「基本的」と訳した。意図としては整数(自然数)の概念は、時間や空間の連続性の把握の中で観取されるものだから、時間や空間の連続性は自然数概念把握の前提になっている、「よりアプリオリだ」という感じだろう。
これら三つのノートの記述時期は後の書き込みと推定される部分を除けば、1888年から1889年と推定される。より詳細な推定は「1888年3月から9月の間と推定できるゴルダン問題の解決の後で1890年2月15日以前」である。1890年2月15日は、ゴルダン問題の解決を含む革命的な不変式論を報告するヒルベルトの1890年の論文 "Ueber die Theorie der algebraische Formen", Mathematische Annalen 36, 473-531 の投稿日である。
この推定の根拠を述べる。未だ執筆していない3.4で詳しく説明するが、まだ和訳が出来ていないブック1、ページ14、リージョン3のノート、はゴルダン問題の一般化としてヒルベルトが1900年の有名なヒルベルトの23の問題の第14問題として提出した予想が研究目標として書かれている。3.4で説明するように、これを書いた時期には、すでにヒルベルトはゴルダン問題を解決していたと推定される。そして、クラインへの手紙などから、ヒルベルトがこの問題を解決したのは、1888年の3月から9月と推定されるので、このノートより後に位置するカント哲学ノート1-3も、それ以後に記述されたと推定されるのである。
そして、ブック1、ページ33、リージョン3とブック1、ページ33、リージョン4からなるノートには、第14問題に関連する二つの部分群の例が書かれている。このノートには、その二つの部分群を記述する数式と、その二つの部分群に対してのゴルダン問題(第14問題)を証明するために必要な偏微分式が書かれているのであるが、それらの数式が変数名が異なるだけで全く同じ形で1890年の "Ueber die Theorie der algebraische Formen" に記載されている。これは、これらの式が、この1890年の論文の執筆中か、執筆を開始する以前に書かれたであろうと推測される。したがって、ブック1、ページ33、リージョン3とブック1、ページ33、リージョン4からなるノートは、1890年2月15日以前に書かれたと推定できる。そして、従って、そのノートより前に位置する三つのカント哲学ノートも、この日より以前、実際には、それよりかなり前に書かれたと推定できるのである。
さらに大胆に推測すれば、次の様にも考えられる。具体的な数式こそ記述されていないものの、ヒルベルトが1890年の論文の理論の概要を速報した三つのゲッチンゲン学士院紀要の第三報告で、同じ部分群が言及されているのである。そして、この報告は1889年6月30日に投稿されている。従って、この投稿の時点で、ブック1、ページ33、リージョン3とブック1、ページ33、リージョン4からなるノートは既に書かれていたとも考えられる。ただし、これには第三報告中の該当部分に具体的な数式がないことと、さらにはそれらだ校正時に追加されたという可能性もあるので、上の推定よりは根拠が弱い。ちなみに、1890年の不変式論文の該当する数式も投稿後に追加された可能性があるわけだが、これについては論文をハンドルしたエディターのクラインとヒルベルトの間の書簡に、その様な追加についての言及が無いため、その様な可能性はほぼない( Der Briefwechsel David Hilbert–Felix Klein (1886–1918). Hrsg. mit Anm. von Günther Frei. Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1985)。
いずれにせよ、これらのノートが、ヒルベルトがその大数学者への道を歩み出した彼の不変式論の研究の時代にカント哲学ノート1-3が書かれたことは確実と言って良い。
3.7 形式主義の芽生え
下に示す二つのノートは、ヒルベルトが、数学の決定可能性と完全性について非常に早い時期から形式主義的に考察していたことを示している。この二つのノートを「初期形式主義ノート」と呼ぶことにする。カント哲学ノートの第一ノートにも数学の完全性が語られてはいるが、それは後から追記された可能性が高いことからすると、おそらくは、これら二つのノートが数学の完全性についての最初のノートであろう。我々は、これらをひとつにまとめて初期形式主義ノートと呼ぶ。また、二つのノートのそれぞれは、番号をつけて初期形式主義ノート1,初期形式主義ノート2のように呼ぶ。
3.7.1. 初期形式主義ノート1: ブック1、ページ32、リージョン1
翻刻:Vorausge⟨⟨se⟩⟩tzt, dass es keine praktischen Schwierigkeiten gäbe, ist der menschliche Verstand, vermögend, alle Fragen, die er sich selbst stellt, zu lösen? Muss es möglich sein zu entscheiden über die Quadratur des Kreises, Giebt⟨Gibt⟩ es eine wohl definirte⟨definierte⟩, auf die sinnlichen Dinge bezügliche Frage, welche eine Antwort haben muss und die gleichwohl sich nicht beantworten lässt. Kann man einen allgemeinen zwingenden Beweis führen, dass jede Erkenntniss⟨Erkenntnis⟩ möglich sein muss?
次の和訳の⟨⟨と⟩⟩で囲んだ部分は翻訳の際に解釈が大きく関与している。次の3.7.2で詳しく説明してあるので、必ず、そちらに目を通していただきたい。
和訳: 実用における困難を無視するという前提での話だが、人間の知性(der menschliche Verstand)は、自ずから立てるすべての問題を解決可能なほど豊かか?⟨⟨円の正方形化の問題の決定が可能でなければならなぬのか。感覚可能な物についての、明確に定義された問題で、答えがあるべきながら、答えられないものがあるのか。⟩⟩任意の認識が可能でなければならぬということの、一般的で疑う余地のない証明は可能か?
3.7.2. 初期形式主義ノート1の翻刻と翻訳についての注意とその意味の分析
変更中
3.7.3. 初期形式主義ノート2: ブック1、ページ32、リージョン2
こちらは、初期形式主義ノート1への補足的考察と考えられる。興味深いのは数学に矛盾が生じる可能性を想定はするものの、それを非現実的だと結論し、それとのアナロジーを使って、完全性、つまり、不完全性定理のように「解けない問題」の可能性を考察し、ただ、それが矛盾が非現実的だとしたら、同じく非現実的と考えるべきか、と自問している点である。これは、ベルエポックの時代の、数学というものについての「予定調和的正当性」への信念に基づいて、ヨーロッパ由来の理性についての「強い信頼感」から逸脱するものは非現実的と考えるという思考であろう。翻刻: Wenn wir auf 2 verschiedenen Wegen widersprechende Resultate finden, muss nothwendig ein Fehler enthalten sein. Was würden wir denken müssen, wenn kein Fehler sich findet? Wir werden diesen Fall als unrealisirbar⟨unrealisierbar⟩ betrachten. Müssen wir in gleichen Sinne auch den Fall als unrealisirbar⟨unrealisierbar⟩ betrachten müssen, dass sich etwas nicht beweisen (entscheiden durch endliche Zahl von Schlussen lässt)?
和訳: 矛盾する結論を導く二つの径があるならば、その一つに誤りが無くてはならない。もし、誤りが見つからなければ、どの様に考えればよいのか?我々は、こういうことは非現実的だと考える。同じ様に、何かを証明(有限回の推論で決定する)ができないという場合も非現実的と考えるべきか?
3.8 可解性:数学のすべての問題は解決可能である
準備中
3.9 ベルリンの数学者たちへの敵意
準備中
3.10 ノスセムス: 我々は知るであろう
準備中
3.11 ゴルダンと排中律?
準備中
3.12 デスクとテーブル:モノの理論としての数学
準備中
3.13 別の標準形:公理論の芽生え?
準備中
3.14 物理学の公理化
ヒルベルトの公理論と物理学の関連は、Corry (Corry 2004) や Majer (Majer 2006)により指摘されている。下に示すブック2、ページ16、リージョン2のノートは、これらの著者の主張の正しさを直接的に支持する史料である。このノートを我々は物理学ノートと呼ぶ。ヒルベルトの物理学研究についての著書Corry 2004において、Corry は形態の類似や講義での H. Hertz の名前の引用を元に、ヒルベルトの公理論の初期に同時代の物理学者たちからの影響、特に、Hertz の影響が大きいと指摘した(同書, p.762)。物理学ノートには、Hertz の名前はこそないものの、幾何学基礎論が物理学の公理化の「小手調べ」であったことがわかり、Corry たちが主張するヒルベルト公理論の物理からの影響を直接に証拠立てる史料といえる。注目に値するのは、"beschreibe die ganze Erscheinungenfülle"というフレーズと、最後のから2番目の文 "Beweise auch warum ein anderes Sysmtem von Axiomen die Erscheinungen schlechter beschreibt"である。前者は単に様々な力学現象が公理から説明できることを示せという意味かもしれないが、後者で Beweise と書いていることと、幾何学基礎論で、連続性の公理が、アルキメデスの公理に、「完全性の公理」Axiom der Vollständigkeit を合わせたものとして、公理系全体の「完全性」に関わる後の時代からみれば不思議な方法で定式化されていることを考えると、これはヒルベルトが物理学や幾何学の公理系の完全性を数学的に証明することをすでに視野に入れていたことの表れとも考えられる。
3.14.1. ノート: ブック2、ページ16、リージョン2
翻刻: Suche die Axiome der Mechanik (und später auch die der Optik, Electricitätstheorie etc.) genau so aufzustellen wie es mit den Axiomen der Geometrie geschehn⟨geschehen⟩ ist. Dabei suche die den Axiomen zu Grunde liegenden Experimente genau auf und beschreibe die ganze Erscheinungenfülle. Beweise auch warum ein anderes Sysmtem von Axiomen die Erscheinungen schlechter beschreibt. Führe letzteres zuerst für die Geometrie genau aus.
和訳: 幾何学において成されているように、力学(そして、後に、光学、電気理論、等も)の公理を見いだせ。そして、その公理を基礎づけられる実験を特定し、また、その公理により数多の現象のすべてを説明せよ。他の公理系では現象の説明が上手く行かないことも証明せよ。これをまずは幾何学において実行せよ。
3.15 存在とは無矛盾性である
準備中
4. 数学の基礎についてのヒルベルトの初期考察
準備中
4.1. クロネッカからの影響
準備中
4.2. カント哲学から可解性へ
準備中
4.3. ヒルベルトの基礎論研究のオリジンとしての可解性
準備中
4.4. なぜ可解性は許容可能だったか
準備中
4.5. 公理論についての初期の諸ノート
準備中
4.6. ヒルベルトの数学の基礎についての思索と代数学の関係
準備中
5. おわりに
準備中
脚注
この節では本文の脚注をリストする。注の番号は、書いた順番につけてあり、本文での出現の順番ではない。注1.日本語で「ノート」というと「帳面」、つまり、英語の notebook を意味するのが通常であるが、「ノート」の語源の英語 note は、日本語でいう「メモ」のことである。しかし、このページでは、notebook の一項目、つまり、ノートについてたびたび言及する必要があるが、時として notebook の見開き全部が一つの項目に費やされていることもあり、これを「メモ」と呼ぶのはその長さにおいても適切ではない。そのため、このページでは、英語に忠実に「ノート」「ノートブック」という言葉を使う。
参考文献
- Hallett, M. and Majer, U. eds.: David Hilbert’s Lectures on the Foundations of Geometry 1891-1902, 2004, Springer, Berling. Springer Link
- Toepell, M.: Über die Entstehung von David Hilberts ”Grundlagen der Geometrie. (Dissertation 1984). Vandenhoeck & Ruprecht Göttingen 1986. XIV + 293 Seiten. (Studien zur Wissenschafts-, Sozial- und Bildungsgeschichte der Mathematik. Bd.2)
- Corry, Leo: Modern Algebra and the Rise of Mathematical Structures, second edition, Birkhäuser, 2004.
- Corry, Leo: David Hilbert And The Axiomatization Of Physics 1898-1918: From Grundlagen Der Geometrie To Grundlagen Der Physik, Springer, 2004.
- Majer, Ulrich: “Hilbert’s Axiomatic Approach to the Foundations of Science: A Failed Research Program?” in Interactions Mathematics, Physics and Philosophy, 1860-1930 V. F. Hendricks, et al. eds, Springer, 2006.