ヒルベルトの数学ノートブック-初期の数学基礎論的考察
ver.2022.01.17

更新情報
2022.01.17: 文章とリファレンス(リンク)を改善。
2022.01.16: 一つ前のバージョンで3.4-6を間違えて削除していたのを訂正。3.3の3.3.4以後を大幅に書き直し。
2022.01.11: 文章の改善、研究対象の史料の入手先や出版予定の関連する研究書の説明の追加、および、3.2, 3.3 の追加。ただし、3.3.6はまだ書いていない。
2021.06.23: コメント用括弧の扱いなど説明が欠けていたものを追加。文献学的注意のページへのリンクを追加。カント哲学ノートの翻刻など変更。

0. 本ページの成り立ちと内容の説明

このページは林晋が2000年頃に開始したDavid Hilbertの遺稿の研究の内、特にヒルベルトの数学ノートブック[注1]についての研究を公開するためにある。この研究は林と中戸川孝治氏(当時、北大)の共同研究として始まり、2000年に林、中戸川の短い共著論文を林が作成したが未完成かつ未発表だった。この後、林が2000年当時在籍していた神戸大学工学部から2005年になって京都大学文学研究科に転職し歴史学者としての研究生活を開始したことにより研究が本格化した。また、八杉滿利子と橋本雄太が研究に参加した。そして、この4名の連名の"Hilbert’s early philosophical thoughts and their influences to his studies of the foundations of mathematics"という論文を林が執筆したが、林の研究の中心が他に移ったために、これも未完かつ未刊のままだった。

しかし、林の最大の研究テーマであった、本サイト「ゲーデルと数学の近代」で紹介をしている「数学はいかに近代化されたかということの歴史理論」が一応の完成を見て、その重要なエレメントとして、このヒルベルト研究、特に数学ノートブック研究の成果が必要となったため、古い英文論文原稿を元に、新しい研究成果も踏まえて再構成し、このサイトで公開することとなった。また、それに基づき上記英文論文を改善した後に、それを八杉滿利子がAcademia.eduに投稿する予定である。ただし、本サイト「ゲーデルと数学の近代」でのヒルベルト・数学ノートブック研究は、本サイトで紹介する研究の「部品」であるために、その全体における意味が重要となり、それについての議論が含まれているが(例えば、??)、ヒルベルトの数学ノートブックについての歴史研究として独立したものとなる予定の Academia 版では、それらはほとんど省略する予定である。

本ページは、この「本ページの成り立ちと内容の説明」、第1節「はじめに」、第2節「幾何学基礎論以前のヒルベルトの数学」、第3節「数学の基礎についての初期のノート」、第4節「数学の基礎についてのヒルベルトの初期考察」、第5節「おわりに」からなり、三つのページ、「A. 文献学的注意」、「B. 1888年のゴルダンからヒルベルトへの手紙」、「C. 有限基底定理のオリジナルの形」を附属的ページとして持つ。

本ページに翻刻、和訳し、また、一部は画像を掲載した史料は、ドイツ、ゲッチンゲン・ニーダーザクセン州立/大学図書館、Niedersaechsische Staats- und Universitätsbibliothek Göttingenが所有するダーヴィット・ヒルベルト遺稿集 Nachlaß David Hilbertに所蔵されている史料Cod.Ms.Hilbert 600:1-3などの一部である。これらの翻刻、翻訳、画像の公開を許可頂いた同図書館に深く感謝する。

また、これらの史料は、同図書館の手稿・貴重書グループ、Die Gruppe Handschriften und Seltene Drucke からそのコピーを購入することができる。史料のカラーデジタル画像が普及する以前に研究を行った林たちは、モノクロのマイクロフィルムをA3用紙に焼いたものをゲッチンゲンに赴いて購入し、それを使い研究を行ったが、現在はカラー画像をオンラインで購入することができる筈である。

また、Springer社から刊行されている Hilbert遺稿の翻刻集 Hilbert Edition で、本研究の研究対象とした数学ノートの一部と重なる筈の史料の翻刻集が計画されている。Amazon での Pre-Order がこちら。この翻刻集は研究用のアカデミックで正確なものなので、本研究の研究結果の信憑性の検証に役立つものと期待される。

1. はじめに

ドイツ、ゲッチンゲン大学図書館が所蔵するダーヴット・ヒルベルトの遺稿集には、3冊の数学ノートブックがある。これは「数学日記」と呼ばれることもある史料だが、その実態は、日付がない多くは短いノート(notes)の集積なので、我々はノートブックと呼んでいる。

この三冊のノートブックには、数学の基礎についてのヒルベルトの考えを記載したものが相当数あり、それらは彼の論文、講演、書籍などでははっきりとは語られなかった「数学基礎論研究の動機」についての情報を豊富に含んでいる。このページでは、それらの内、ヒルベルトが不変式論研究のころから、代数的整数論や幾何学の研究を行っていた1890年代初頭ころまでのノートについて翻刻、翻訳、分析、解説を行う。

ただし、このページで示すノートのすべてが直接的に基礎について語っているのではない。例えば、3.9で紹介するノートは、ベルリンの数学者たちへの強い憤りを綴ったもので、これは数学の基礎とは直接的には全く関係がない。しかし、このノートは、ヒルベルトが彼の有限基底定理を如何に誇らしく思っていたかを示唆しており、この様な強い感情がヒルベルトのその後の数学の基礎についての思索を左右した可能性が大きいことから、これを収録している。

また、このページで紹介するノートは、ヒルベルトの数学の基礎についての当該時期の重要なノートの全てではない。たとえば、これらの他には、後の計算量理論を彷彿とさせる理論の着想を記したものなどがある。今後の研究の進展、また、Hilbert Edition などによる日記の刊行が期待されるところである。

このページで紹介するノートの内、最も興味深いものは、我々が「可解性ノート」と名付けたものであろう。その詳細は3.8で示すが、その大雑把な内容は、数学のすべての命題が、ある特殊な形に変換可能で、また、その形の命題ならば、必ず真か偽か有限的に判定できるはずだということを予想し、それを証明することを目標として掲げたものである。もちろん、これは帰納関数論により容易に否定されるが、これは後のヒルベルト計画における数論の形式的理論の完全性証明の計画や、チューリングにより否定された述語論理の決定可能性の予想の萌芽であると考えられる。

そう考えれられる理由や、このノートについての詳しい議論は4.3で行うが、ここで簡単にその結論の一部を述べておきたい。我々の行った文献学的分析によれば、このノートは若きヒルベルトが時代を代表する数学者の地位への階段の最初のステップを踏み出した時、すなわち、有限基底定理によるゴルダン問題の非構成的解決から、同じ問題の零点定理による構成的解決の間に書かれたものと推測される。そして、ヒルベルトが示した「数学のすべての命題がそれに変換可能な命題のある特殊な形」は、ヒルベルトの有限基底定理を直接一般化した様な形であった。??で示すように、ヒルベルトは若き日の代数研究をモデルに数学の基礎を考えていたと考えられる史料的証拠が多く存在する。そして、これはその内の最も古いものの一つであり、1905年の夏学期の数学の論理学的基礎についての講義で語ったように、数学の問題の可解性こそがヒルベルトの基礎論研究の出発点であったと考えられるのである。ヒルベルト計画の動機としては、数学の無矛盾性証明の必要性や幾何学基礎論に求められることが多いが、それらは少なくとも最初の動機ではなく、この数学の可解性を数学的に証明するという計画の影響下に、後に生まれたものと考える方が自然なのである。

ヒルベルトが、1900年のパリ講演「数学の問題」や、1930年のケーニヒスベルク講演「自然認識と論理」で、19世紀ドイツの自然科学を代表する科学者の一人であった生理学者エミル・デュ・ボア=レイモンイグノラビムス不可知論を強く否定し、数学の問題がすべて解けるという数学の可解性を、例えば1900年の講演では公理と呼んでいることは良く知られているところであろう。この数学の可解性の宣言は、数学者を奮い立たせるためのモットーと理解されることが少なくないが、我々が発見した史料的証拠からすると、これはヒルベルトが若き日から神剣に考えていた数学の研究目標だったのである。

しかしながら、数学の可解性をモットーでなく、本当に証明可能な数学の命題として理解した場合、それがすべての数学の問題の真偽を有限回の操作で決定できることを主張するだけに、数学がトリビアルになるのではないかという疑問が生じる。1900年のパリ講演で、ヒルベルトは数学の問題が解決されると次の問題が立ち現われ、数学の問題は尽きることがない、数学は永遠に進化を続けると主張しているが、これは数学者が永遠に計算を続けるという様な意味ではないはずである。その様な数学は、多くの数学者、もちろん、ヒルベルトに取って悪夢以外の何物でもない。

では、なぜヒルベルトは、数学のトリビアル化という最大の悪夢を避けつつ可解性を信じることができたのか、という問題が生じる。これについては4.4で詳しく論じるが、簡単に言えば「ヒルベルトが主張した有限回の操作による可解性」は、純粋に理論的な可能性であり、実際の数学の問題に現実的な時間と労力で適用できるような操作だとは考えられていなかったのである。つまり、現代的な言葉で言えば、ヒルベルトの数学の問題の真偽決定アルゴリズムは、その計算量が莫大で、実際には使えないものだと想定されていたのである。このことを、我々は、ヒルベルトのケーニヒスベルク時代の不変式論の講義草稿、ヒルベルト・アッカマンの著書「数理論理学の原理」の述語論理の決定問題についての議論、そして、1917年のヒルベルトの講演「公理的思考」における、ある代数幾何学の問題についての議論に見ることになる。

可解性ノートと、それに関連するノート以外で、最も重要な発見はヒルベルトの公理論の成立過程を示す諸ノートであろう。ヒルベルトの公理論と言えば幾何学基礎論をその端緒とするという理解が一般的であったが、2013年にイスラエルの歴史家レオ・コリーヒルベルトの物理学の公理化の研究についてのモノグラフを出版して、この解釈に一石を投じた。コリーはヒルベルトの公理論に対する、物理学者ハインリヒ・ヘルツの失敗に終わった古典力学の再編の試みの影響を指摘したのである。これはヒルベルト公理論の成立に物理学が関わっていることを強く示唆するものであった。

このコリーの主張を強く支持するノートが存在する。我々が発見したノートによれば、ヒルベルトは物理学の理論を公理化し、可能な公理化の内で最善のものが当時の古典物理学の諸理論であることを証明することを構想した。そして、この物理学の公理化の前に、試験的な意味で幾何学の公理化が行われたことを示すノート(3.14)が存在するのである。

これはライプニッツのオプティミズムを、思想としてでなく数学の定理・理論にしようということであり、また、数学の完全性に関連して既に言及したデュ・ボア=レイモンのイグノラビムス不可知論の一部であった「物理学は、この物理世界の法則が、何故現在のモノであるかを解明できない。なぜなら、解明に使われる物理学が、解明される物理学そのものであるから、そのオリジンを客観的に解明できないからである」という主張への数学からのアンチテーゼといえる。

この他、物理学の公理化のノートの前に、幾何学基礎論の開拓時の逸話として有名な「机、椅子、ビアマグの幾何学」に対応する、「デスクとテーブルの代数系」を議論するノート(3.12)などがあり、それらにより我々は4.5でヒルベルト公理論のアイデアの発展の時系列を考えることとなる。

この導入部の最後に、このページで紹介している我々の研究で使われたインデックス・システムとコメント用の記号などについて簡単に説明する。このページは、元々は歴史学の専門的な英文論文として書いたものを、和訳しつつ、弱冠一般向けに書き直したものである。WEB上で広く公開しているので、数学史・思想史の研究者以外の方たちが読むことが少なくないと思われる。その様な読者にとっては、厳密な文献学的手法による我々の研究の細部は興味の対象外であろうから、ここではその様な読者を想定して、ノートのインデックス付けの方法のみを簡単に説明し、一方で文献学的手法などの説明は、A. 文献学的注意にまとめたので、研究者の方たちはそれを参照願いたい。

ヒルベルトの数学ノートブックは、すでに説明した様に小さなものでは数行の大きなものでは見開き一つ分の日付やタイトルの無いノートの集積である。そして、各ノートは図1の三つのノートの様に横線で区切られている。このそれぞれには、我々の研究でつけたインデックスがついており、たとえば図1の一番下の"In allen"で始まるノートのインデックスは「ブック1、ページ28、リージョン6」である。三冊あるノートブックを、我々は古いものから順番にブック1、ブック2、ブック3と呼ぶ。そして、このノートのインデックスは、それが「ブック1の28ページの上から6番目のノート」であることを示している。従って、一つ上の"Begriff"で始まるノートのインデックスは「ブック1、ページ28、リージョン5」である。

以上のリージョンとノートは二つの例外を除き、記述の順番とノートブックの位置は連動していることを前提にしており、それを使っておおよその記述時期の推定を行っている。その手法は以下の具体例を見れば明らかだろうが、詳しくは「A. 文献学的注意」のA3を参照して欲しい。

ヒルベルトのノートは、個人の覚書であるから綴り間違いや文法的エラー、さらには不明瞭な綴りなどが多い。それらを内容などから推測して翻刻した場合は、その不確かさを示すために、Coeffi⟨⟨ciente⟩⟩の二重の山括弧で囲まれた⟨⟨cient⟩⟩の様に示した。また、一般的なコメントを示すためには一重の山括弧を使っている。これらの翻刻のための注釈用括弧の使い方のルールは、「A. 文献学的注意」のA4に詳述してあるので、これら括弧の使用の正確な意味については、そちらを参照して欲しい。

これで「はじめに」を終り、次の2節では、我々の研究の背景となるヒルベルトの数学研究の歴史の概観を行う。

2. 幾何学基礎論以前のヒルベルトの数学

準備中

2.1. 不変式論 1885-1892

準備中

2.2. 代数的整数論 1892-1897 と幾何学 1891-1899

準備中

3. 数学の基礎についての初期のノート

準備中

3.1. 第1ノートブック

準備中

3.2 ヒルベルトの第10問題

1900年のヒルベルトの23の数学問題第10問題は、現代的用語を使って述べると「ディオファントス方程式(整数係数の多変数多項式pから作られる方程式p=0)が整数解を持つか否かを判定できるアルゴリズムを作れ」というものだったが、次に示すブック1、ページ7、リージョン1のノートは、ヒルベルトがこの問題をすでに1880年代終には着想していたことを示している。我々は、このノートを第10問題ノートと呼ぶ。

3.2.1. ノート: ブック1、ページ7、リージョン1

翻刻:Beweisen, dass man durch eine endliche Anzahl von Operationen enscheiden kann, ob und wie viele ganzzahlige Losungen φ(x,y,...)=0 mit ganzzahlige Coeffi⟨⟨ cienten ⟩⟩ ⟨Koeffizienten⟩ be⟨⟨ sitzt ⟩⟩.

和訳:整数係数のφ(x,y,...)=0が、整数解を持つか、また、何個持つか、有限回の操作で決定できるということを証明せよ。

3.2.2. 第10問題は数学基礎論の問題だったのか?

このノートの次のノートは射影幾何学の講義(Colleg über Darstellende Geometrie)のプランが書かれている。この講義は1888年の冬学期に予定されていたが、実際には教えられることが無かったとされているものである(詳細は、Toepell 1986, 1.4, pp.13-14を参照。また、ヒルベルトの講義のリストが、Hallet&Majer 2004を第1巻とする6巻からなるSpringer社のヒルベルトの講義ノート.コレクションの各巻に掲載されている)。このことから、このノートが書かれたのは1887年から1888年の前半までと推測される。

また、ヒルベルトは、1888年の3月9日から4月7日まで多くの著名な数学者を尋ねる大旅行を行っており、この旅行でクロネッカを訪問した際に、ヒルベルトはクロネッカの数概念について、本人から親しく聞いたことが記録されている。この旅行のヒルベルト自身による記録は、ゲッチンゲン大学図書館のヒルベルト・アーカイブの史料 Bericht über meine Reise vom 9ten März bis 7ten April 1888, Cod. Ms. D. Hilbert 741 として残されているが、クロネッカ訪問の際の記録には、クロネッカが平方根√5を、x2-5 を法とする不定元 x として扱うことが記録されているのである。

この x2-5 を法(クロネッカの用語ではモデュル Modul)として√5を導入する方法は、クロネッカの数学の核である一般算術 Allgemeine Arithmetik の理論(参照3.3.6)において、負整数、有理数、虚数などの代数的数を自然数係数の多変数多項式の代数の合同算術に還元する方法の一例であり、次の3.3で検討する無理数ノートで、ヒルベルトがこのクロネッカの扱いを理解してないと思われる主張を書いている所から、どちらのノートも、この大旅行でクロネッカに合う前に書かれたものである可能性が高い。

クロネッカは、いつの日にか整数論などの真の純粋数学はすべて彼の一般算術の理論に還元したいと考えたが、その一般算術の理論というのは、自然数係数の多変数多項式と、その商(割り算)の理論であり、極端に単純化して現代の数学の言葉で言えば「多変数整数係数の多項式環の商環(剰余環)の理論」である。もし第10問題が正しければ一般算術の理論展開において、クロネッカが課した「有限性」の条件の多くの問題が自動的に決定可能、つまり、有限回の操作でその真偽を判定できると考えられる。つまり、クロネッカの思想と、その正しさを前提にすれば、第10問題の肯定的解は、少なくともクロネッカ的数学観においては、整数論を越えて、純粋数学一般の基礎論的意義を持つこととなる。ヒルベルトは、この大旅行の直後に行われた不変式論の研究で、当時の重要な未解決問題であったゴルダンの問題を解決するのだが、その際、この一般算術を使っているように、一般算術に精通していたと思われるので、その文脈で第10問題を着想した可能性を捨てきれないのである。

そして、もし、この様に第10問題の予想の背景に、数学基礎論的モチベーションがあったのならば、現代の我々を戸惑わせる、「ヒルベルトの様な大数学者が、何故、『数学の可解性』つまり『全ての数学の問題の真偽を決定する有限的方法の存在』を信じたか」と言う問題への一つの答が可能となる。詳しくは、第4節で論じるが、ヒルベルトの数学の可解性の信念が、1970年に否定的に解説されたという歴史的事実には反するものの、それ以前にはむしろ数学的には自然なものであったともいえる第10問題の正しさと、ヒルベルトの不変式論における成功体験を通して信念として形成されていったと考えることが可能だからである。

3.3 無理数の存在について

第10問題ノートの次のノートが、前項3.2.2で触れた射影幾何学講義のプランについてのノートで、その次のノートが、この項の対象である無理数とクロネッカについて論じたノートである。我々は、このノートを無理数ノートと呼ぶ。

このノートは、数学基礎論的な意図が明示的に示されている最初のノートであり、第10問題ノートの背景に数学基礎論的モチベーションがないならば、最初の数学基礎論的なノートでもある。無理数ノートは、ヒルベルトが長く批判を繰り返したベルリンの数学者L.クロネッカの数学思想への強い反感を表明したものとしては、数学ノートブック以外の史料も含めて、おそらくは最初のものである。また、3.3.5で論じるように、このノートは、本サイトの最大のテーマであるゲーデルの歴史観の観点からも興味深い史料である。

3.3.1. ノート: ブック1、ページ8、リージョン1

翻刻::Es ist völlig willkürlich bei den gebrochenen, rationalen Zahlen abzusch⟨l⟩iessen und die irrationalen Zahlen nicht mehr zuzulassen. Wir können auch die rationalen gebrochenen Zahlen nicht mehr als Cardinalzahlen auffassen sondern müssten denn⟨あるいは der⟩ logischer Weise bei den ganzen positiven Zahlen (vielleicht streng bloss von 1 bis 5 ⟨⟨höchstens⟩⟩ 7) stehen bleiben. Schon die Zahl 1/2 erfordert die Anschauung der Strecke, wir können die Mitte einer Strecke praktisch nie genau angeben, wohl aber genau anschauen und vorstellen. Eben so genau können wir auch den Punkt √2 anschauen und vorstellen. Es giebt⟨gibt⟩ ein Ueberschreiten vom rein anschaulichen zum rein formal gedachten. Diesen Uebergang⟨Übergang⟩ vermittelt ein breiter Weg mit vielen gleich bequemen Zugängen und offenstehenden Thoren⟨Toren⟩, während Kronecker sich darin verhornt hat durch ein wilkürlich gelegte⟨s⟩ Hemmnisse⟨Hemmniss⟩, durch ein Nadelöhr durchzuzwängen.

和訳: 分数、有理数で終わりにし、無理数はもう許容しないというのは全く恣意的だ。有理数はもう基数でないと考えることもできる。しかし、その時には、論理的帰結として正整数で留まるべきだろう(恐らく確かなのは1から5まで、良くて7)。すでに 1/2 という数でさえ線分の直観を必要とする。線分の中央の点を厳密に指定することは実際的には出来ない。厳密に指定できたと直観したりイメージしたりするだけなのである。全く同じく√2の点も厳密に直観したりイメージできる。ここに純粋な直観から純粋な形式的思考への超越がある。クロネッカが、針穴を通り抜ける様な障害を全く恣意的に設けることによって自らを角質化してしまった、その一方で、この移行は、多くの等しく快適な入口や開かれた門を持つ広い道を提供する。

3.3.3. ノート: ブック1、ページ8、リージョン1の翻刻と翻訳についての注意

このノートには、翻刻と翻訳について、それぞれ一つ注意すべき点がある。最初に、この二つの注意点について説明する。

まずは翻刻の "denn⟨あるいは der⟩ logischer Weise" の部分について説明する。この部分の画像は次のとおりである:

logischerweise
2,3番目の単語は、他の部分の筆跡と比較して logischer Weise で間違いないだろう。最初の単語は、同じノートブックの他の der の出現に非常に似ているので、「形」からすると最も自然な翻刻は "der logischer Weise" である。しかし、文法的に正しいのは "der logischen Weise" であり、書き間違いということになる。そう解釈する場合には、これは副詞的2格(このページの「2格(Genitiv)の用法」の「[中級] その他の用法」を参照)で、意味は現代の副詞 logischerweise と同じである。

もう一つの解釈は、これは der ではなく denn であり、その意味は現代ドイツ標準語の dann だとするものである。上の画像の最初の単語の語尾は他の der の多くからわずかに違い、nn の二番目の n が小さくなったものとも読める。これとそっくりな語末の r も存在するので、確定的なことは言えないが、denn である可能性は捨てきれないのである。また、現代ドイツ標準語では、denn は 英語の for に対応するので、この位置にあるべきは denn ではなく英語の then に対応する dann なのだが(参考)、現代でも北部ドイツでは、denn を副詞 dann の意味で使われることがある(参照)。元々は、denn と dann は同じルーツを持ち、unless という意味ももっていたようで(es sei denn)、古い文献には、この混用がかなりみられ、また、19世紀のプロイセン語辞典のひとつにも、この用法が収録されている。この部分だけヒルベルトがプロイセン方言を使ったのは不自然にも見えるが、たとえば、19世紀のニーダーザクセンで出版されたこのドイツ語辞書のDenn の項目の2番目の用法の項目でも、この用法が掲載されており、その用例は数多いとは言えないものの、19世紀の書籍などに見られる。これらのことから、たまたまヒルベルトが、その様に使った可能性は捨てきれない。

以上の二つの解釈のどちらを採用しても当該の文の意味は、「整数(正整数)を『個数を数える数』つまり基数と解釈し、それが数の基本とするならば、論理的にはクロネッカが無理数を認めなかったのと同じように有理数も認めないということになるだろう」になる。この部分は、他にも可能な読み方があるが、それらにあたる用例は19世紀の文献でも少なく、また意味は、いずれにせよ、これら二つのものと同じとなる。(謝辞:…)

次に、翻訳の問題である。翻刻の最後の文の "sich darin verhornt hat" を「同じ場所で…自らを角質化してしまった」と翻訳した。動詞 verhornen は「(皮膚や細胞が)角質化する」という自動詞である。それが再帰動詞として、数学の文脈で使われている。再帰動詞としての使い方はともかく、文脈からして本来の語の意味ではありえず、何らかの比喩だろうと推測され、それがどの様な比喩かが問題となる。そして、その内容から、これは19世紀にポピュラーだったと言う、ゲルマンのジークフリート伝説(説話)を意識した比喩だろうと推測されるのである。

ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」で英雄「ジークフリート」は、竜を殺して血を舐めることで鳥の言葉を理解する能力を得るが、その背景であるゲルマンの伝説的な詩(歌)・戯曲などでは、ジークフegfried(Seyfritなどとも)は、殺した竜の血あるいは溶解した鱗を自らの皮膚に塗ることにより、皮膚が硬化した「角の皮膚 (Hornhaut)の不死身の戦士」として描かれる(たとえば、これを参照)。

ヒルベルトは、なぜ、数学の文脈では使われることがまずない、「角質化する」という言い回しを使ったのだろうか。おそらくは、この語により、自由な広い道に背を向けて自ら「角の皮膚」の鎧を着込んで鈍重になった者、としてクロネッカを批判したかったのではないだろうか。ちなみに、ジークフリードは木葉が貼りついたために角質化しなかった背中の一点が「アキレス腱」となって殺される。

この様な詩・戯曲などにおける verhornenは伝統的に「角質化(する)」と和訳されている()。違和感はあるが、適切な代案が思い浮かばないし、ドイツ文学の分野でも定着した訳の様なので、そのまま用いた。

3.3.4. 無理数ノートの分析…ヒルベルトとクロネッカの数学基礎論の関係解明の鍵?

無理数ノートは、第10問題ノートに数学基礎論的意図がないとしたら、数学ノートブックにおける最初の数学基礎論的なノートである。少なくとも、それは陽に数学基礎論的な最初のノートである。そして、これは短いが、歴史的事実や他の史料と合わせると、ヒルベルトの数学基礎論について非常に多くのことを示唆する史料である。

特に、ヒルベルトの数学基礎論におけるクロネッカの数学思想の意味を理解するためには鍵になる可能性のある史料である。そして、その故にゲーデルの歴史観における「左の立場から右の立場を正当化しようとするその失敗が必然である奇妙な混合体」という、ヒルベルト形式主義・ヒルベルト計画のゲーデルの後期思想における位置づけの理解にも有用である。

まず、その内容を検討してみよう。その主張は次の様に三つにまとめることができる。まず第一に、線分の2分の1の位置を正確に示すことが実用的には困難であることと、√2の位置を示すことが困難であることに本質的な差はない、その故に、これらを数学的に取り扱うにはどちらも形式的思惟が必要だ、という主張である。そして、第二に、クロネッカは有理数と無理数の間に線引きをし前者は許容し後者を許容しない。しかし、第一の主張からすると、この両者には本質的な違いはないはずで、むしろ、有理数が基数でないということにおいて自然数と有理数の間に境界を引くことさえ考えられる。故にクロネッカの線引きは全く恣意的で根拠がない、という主張である。そして、第三の主張は、1/2 や √2 の(空間の)直観による把握から形式的思惟による把握の間には本質的な超越(Ueberschreiten 境界・限界を超えること)があり、それにより数学は自由で有用な方法論を獲得する、という主張である。

第一と第三の主張の「形式的思惟」に、その具体的な形は語られていないものの、すでにヒルベルトの数学思想の特色である「形式主義的」の芽生えが見られる。それが数学における有用性を元に語られていることも注目に値する。この後に書かれたノートに見られる哲学的要素は見えないが、ヒルベルトが、これらの数学基礎論的考察においてカント哲学を強く意識する様になることを考えれば、「形式的思惟」はカント哲学を意識していた可能性もある。

第一の主張は「クロネッカが 1/2 は認めたが、√2は認めなかった」と読めるのだが、後で説明するように、クロネッカは、どちらも(2x-1)と(x2-2)というクロネッカがモデュルと呼んだものを使って代数系の要素として定義した。それを現代代数学の言葉で言えば「整数係数多項式環Z[x]の二つの単項イデアル(2x-1)や(x2-2)による商環の要素 x」だったのである。つまり、第一の主張では、ヒルベルトはクロネッカを誤解しているのである。

クロネッカは、3.3.6で解説するように、不定元 indeterminate, Unbestimmte からなる自然数係数の多変数(多不定元)多項式と、その様な多項式の有限個のシステム(集合)による合同関係からなる代数系の理論を一般算術と呼んで、それを彼の数学の「基礎」とした。二つの数 1/2, √2 のモデュル(2x-1), (x2-2)による導入はその一般算術による数の基礎付けの例なのである。

数学における「基礎」という言葉には、「数学基礎論」という時の「基礎」と、「基礎理論」というときの「基礎」の二つの異なる意味がある。一般算術は主には後者の意味で「クロネッカ数学の基礎」だった。彼の数学理論は、代数的整数論、ガロア理論、そして、代数学の基本定理でさえ、この理論を基礎にして展開されている。しかし、彼は、それを前者の意味の「基礎」としても使ったのである。ただ、クロネッカは、それを多分に「おまけ的に」扱っており、重要なのは飽くまで後者の「基礎」であり、前者の「基礎」は取るに足らないという風な姿勢だった。そのため、それはベルリン大学における講義では語られていたものの、数学論文として出版されることはなかった。

この様な次第で、クロネッカが、一般算術による、数概念のこの基礎付けのアイデアを公開したのは、彼の晩年と言える1887年に出版されたエッセイ的なテキスト「数の概念について」 Ueber den Zahlbegriff が最初であった(詳しくは3.3.6を参照)。この「数の概念について」を読んでいれば、ヒルベルトも無理数ノートの様な間違いをすることはなかっただろうから、無理数ノートを書いた時には、まだ読んでおらず、そして無理数ノートを書いた後で、3.2.2で述べた√5の例をクロネッカ本人から聞いた推測される。

実は、当時のヒルベルトはクロネッカの一般算術を自身の代数研究に応用しており(その一例)、代数研究のツールとしては精通していたはずなのだが、そういうヒルベルトであっても、クロネッカのベルリン大学での講義に接することなく、その数学論文だけから、一般算術が自然数からの数学の基礎付けにも使われていたことを想像することは難しかっただろうと思われるからである。

その後、ヒルベルトは、この「数の概念について」を読んだはずである。ヒルベルトの1930年の有名な講演「自然認識と論理」では、「数の概念について」でクロネッカが引用した「整数論学者は、Lotophagen蓮の実喰い夢想家)」というヤコビによる古い喩が繰り返されている。

以上と、無理数ノートにおける「√2 を受け入れるのに形式的思惟が使われ、また、そういう形式的思惟により、数学の自由度のレベルが一段上がる」というヒルベルトの主張に注目すると、クロネッカ訪問が、後のヒルベルトの数学思想に強い影響を与えた可能性が浮かび上がってくる。

「形式的思惟」による新しい数学概念の導入と、その有用性の主張は、後のヒルベルト公理論における理想元の議論を想起させる。しかし、この当時のヒルベルトが書き残したものには、「形式的思惟」にあたる具体的な数学理論を想起させるものが知られていない、その一方で、1888年にヒルベルトが、クロネッカ本人から聞いた一般算術による数概念の拡大の方法は、まさにその様なもの、つまり、形式的思惟による数学における概念拡大の方法の数学的定式化と呼べるものである。

ヒルベルトの前期公理論(幾何学基礎論から1910年代までの公理論)では理想元は集合論で記述された構造の要素であるが、後期公理論、つまり1920年代のヒルベルト計画においては、それは形式的体系の「定数」と考えることが可能である。たとえば、集合論において自然数の集合が導入されるとき、それはまずωという定数であり、そして、それについて成り立つ条件が公理という数式(論理式)により与えられているわけである。

一般代数で -1, 1/2, √2 などの「新しい存在」を導入するために使われる「不定元」も、こういう「定数」あるいは「理想元」と考えることができる。実際、一般算術は、その項と導出規則が多変数多項式環の要素とその有限生成イデアルで定義された非常に特殊な等式論理、つまり、形式系だとみなすことができる。

そして、逆に形式系の定数を不定元と考え形式系の導出規則を一般算術の「道術規則」である合同関係の拡張とみなせば、ヒルベルトの後期公理論とは、クロネッカの一般算術による代数的基礎付けを記号論理学的基礎付けで置き換えたものと見なせる。また、クロネッカのモデュルシステムは、現代代数学の標準的意味での代数系であり(多項式環の有限生成イデアルよる商環)、また、現代の代数系はヒルベルトの前期公理論における公理系の一種とみなせるので、結局、モデュルシステムはヒルベルトの前期公理論における公理系の一種ともみなせる。(ちなみに、この二重性を使って、形式系(形式的理論)と代数を統合しているのが圏論的論理である。)

更に言えば、クロネッカが一般算術による概念拡大の際に課した条件「新たに導入した不定元を含まない式は、拡大前の理論の規則に従う」は、1920年代のヒルベルト・プログラムにおける無矛盾性証明としてヒルベルトが証明しようとした「有限の立場に対してペアノ算術などが保存拡大となること」そのものである(例えば、こちらを参照)。

この様に、数学の基礎付けのツールとしてのヒルベルトの公理論は、前期も後期も、特に後期では、クロネッカの一般算術に類似している。つまり、ヒルベルトが、クロネッカの基礎付け理論を自身の基礎付け理論のモデルにしていた可能性が高いのである。このことは多くの人が気が付いていることであろうが、ヒルベルトが、それについて何も語っていないために、歴史学的に証拠づけることができない。

ところが、無理数ノートと、クロネッカ訪問記は、ヒルベルトが「形式的思惟」による新概念の導入の有用性について思いを巡らせていた時、そういう導入の代数版である一般算術における新概念導入の方法をクロネッカ本人から聞いて初めて知った、という仮説の有力な史料的証拠である。そういう状況の下では、クロネッカの数学の基礎付け方法が、形式的方法による新概念導入の方法についてのヒルベルトの考えに何らかの影響を与えたと考える方が自然であろう。

同様の推測ではあるものの、無理数ノートが提供する興味深い情報がもう一つある。それはクロネッカの「数学の基礎づけ」を、「角質化」と呼んで批判したことである。上の翻訳に対する注意のように、これはジークフリートの「角の皮膚の鎧」を意識していると思われ、ヒルベルトがクロネッカの「数学の方法の制限論」を防衛的なものと理解していたことの現れだと推測される。そういうクロネッカ理解を、ヒルベルトは1920年代において繰り返し表明しているが、そのルーツが、すでにここにあることがわかる。

しかし、20世紀後半の代数、特に代数的整数論の発展へのクロネッカを影響などを考慮すると、クロネッカの「制限」が、本当に鎧のよな意識で採用された防衛的・消極的なものであるかどうかは簡単には判断できない問題である。これについては、3.3.53.3.6で少しだけ論じるが、それは、クロネッカの哲学との関係の取り方や、アンドレ・ヴェイユ André Weilが「代数幾何学と整数論の双方を包含する新理論を開拓しようとした」と評した(このICM講演論文集のヴェイユの講演の序文を参照)クロネッカの代数理論の目的設定のためである可能性もあり(この論文序文のp.303のワイエルシュトラスの助言の部分を参照)、もしそうであれば、それは防衛的・消極的なものだとは言い難いことになる。そうであれば、それは、ヒルベルトのクロネッカの「数学基礎論」に対するもう一つの誤解ということになるだろう。

以上、無理数ノートを元に、二つのヒルベルト解釈を提案した。この二つは、直接的な証拠となる史料に基づかない大胆な推測である。ただ、それらを前提としてヒルベルトの数学基礎論の史料を分析すると、数学基礎論を代数をモデルに構築していること、有限の立場における自然数の定義方法が、1897年の「数の概念について」で言及されているものであるなど、クロネッカの数学基礎論の影響の痕跡と考えられるものが、相当数見つかり、それによりヒルベルトの数学基礎論への理解が深まる、という事実がある。

つまり、この二つの解釈を通してヒルベルトの数学基礎論の語られざる舞台裏解明という道への扉を開けることができるかもしれないのである。そして、その様な意味で無理数ノートは後のヒルベルトの数学の基礎についての思索の歴史を考える上での重要な鍵となる可能性を持つ史料である。

注意:ヒルベルトの強い思い込み?

無理数ノートに現れる√2の例については謎がある。ヒルベルトは、1920年の講義 Probleme der mathematischen Logik で、クロネッカが数学を極端に制限したと説明した際、「√2さえ認めず、モデュル x2-2 で置き換えた」と言っているのである(これのp.353、あるいは、これのp.944を参照)。クロネッカは -1 などをモデュルで導入した際、それらを「回避した」vermeiden とも言ったので、クロネッカが -1 や √2の存在を認めなかったと解釈するのは間違いではない。しかし、既に Ueber den Zahlbegriff を読んでいたとしら、ヒルベルトは、なぜ、-1 などを例としなかったのだろうか。その方がクロネッカの「制限の異常性」を強調できるはずだが。彼の晩年の異常な物忘れは、有名だが(伝記23-4章参照)、これはまだ60歳前の話である。ただ、集合論の矛盾の発見の前に亡くなったクロネッカが、矛盾が発見されたために集合論を制限したと主張したのが前年である。優秀な科学者・数学者にはよくあることだが、ヒルベルトは思い込みが強かったようだ。クロネッカが神学・哲学と結びつけて語られるようになったのも、彼の強い思い込みと大きな影響力の結果である可能性が高い。さらなる史料研究による「解読・解毒」が必要だろう。

注意:ここからフォントの色が indigo のテキストが続くが、その部分は、このページにそぐわない。その部分は、クロネッカの実像の解説ページや、林の「ゲーデル歴史観」についてのページに移動し、このページには、それらへの参照とヒルベルト数学ノート研究として意味のあるまとめのみを残す予定だが、それらのページがまだ存在しないので、書き易さのために、ここに書いている。

ヒルベルトが、自身の数学基礎論とクロネッカの一般算術による数概念の基礎付について語った記録は私が知る限りではない。そのため、以上で書いたことは飽くまで推測である。しかし、ヒルベルトが、その数学基礎論を展開するときクロネッカを強く意識していたことは確かであるし、数論・代数学の研究においてヒルベルトにとってクロネッカが重要ながら否定的に乗り越えるべき先達であってことは歴史的事実である。

そして、この二人の人物の数学の基礎付けに対しての姿勢、特に伝統的意味での哲学に対する姿勢を比較すると、その際立った相違が明らかになり、また、それをゲーデルの歴史観の「右左論」のパースペクティブで比較すると、従来語られてきたクロネッカとヒルベルトの関係とは全く違う関係が浮かび上がってくる。本サイトの目的とは、数学の近代化の過程のパースペクティブを、19世紀から20世紀中ごろにかけての数学と哲学の関係変化史のモザイク画として描き出すことだといえるが、このクロネッカとヒルベルトの関係は、このモザイク画の非常に重要なピースとなるのである。

つまり、これは最終的には本サイトの最も重要な部分として独立した歴史観叙述の一部(ピース)となる予定なのだが、その叙述の全体像をぼんやりとでも示すには、まだ他のピースの叙述が足りない。そこで、とりあえず、次の項で、このピースを数学史のひとつのトピックである「クロネッカとヒルベルトの数学の基礎付けに対する姿勢の対比、特に二人の哲学に対する立ち位置の違い」として描き出す。

3.3.5. クロネッカとヒルベルトをゲーデルの歴史観から見る

本サイトの目的は、1960年ころのゲーデルの歴史観をベースにする私の「数学の近代化史観」を紹介することである。その様な歴史観が妥当かどうかは現存する史料やそれに基づく個別事例の歴史研究と、それがいかに整合性を持つかで判断されるべきだろう。少なくとも、それにより個別の歴史的事実がより深く理解できないのならば、その史観は無用のものということになる。つまり、このページで行っているような個別事例の歴史研究との照らし合わせが不可欠なのである。ここでは、それをヒルベルトの数学基礎論と、それに関連するクロネッカの数学基礎論に対して行ってみよう。

ヒルベルトに対するその作業は、ゲーデルのテキストでほぼ完了している。数学は本質的に右であるので、左への時代精神にそのまま従うことはなく、ヒルベルト形式主義が生まれた。それは左による右の合理化だった、という解釈がそれである。

以下で行うことは、ヒルベルト形式主義の舞台裏の記録でもある数学ノートブックから、ヒルベルトのその「右部分」「左部分」がどんなものだったのかを掘り下げて検証することである。その結論を纏めると次の様になる。

数学者ヒルベルトは、その20歳代の駆け出し時代である1880年代から、「すべての数学の問題を数学者は解決できるのか」というような哲学的問題に感心を持っていたし、それをカントが考えた問題としたように(3.6)伝統的哲学者が考えた問題と同じ問題として捉えていた。しかし、本ページで示した諸ノート、特に可解性ノートが示すように、ヒルベルトは、それを哲学的思索ではなく、数学的手法で解くことを目指した。

1920年代のヒルベルト計画でのヒルベルトの発言や、1900年の講演「数学の問題」で実数論の無矛盾性の問題を第一問題として提案した際のカントルのℵの理論の無矛盾性問題への言及を通してみると、ヒルベルトの数学基礎論へのかかわりは、集合論の矛盾の発見を契機にしているように見えてしまう。しかし、実際には、ヒルベルトの哲学的・数学的な数学基礎論的思索は、本ページで示した1880年代の数学ノートが示すように、1890年代の終わりになって漸く発見された集合論の諸パラドックスより10年程前に始まっていたのである。

そのためゲーデルが語った世紀の変わり目の1896年ごろから次々と発見された集合論のパラドックスにより「左による右の妥当化運動が起きた」という図式にはピッタリとははまらないものの、それのプレヒストリというべき、数学界における集合論的手法の導入を右として、それへの反発を受けて、数学そのものという左により、それを妥当化するという、後のヒルベルト計画とは、少し違う形の「左による右の妥当化」という発想が1880年代のヒルベルトの「数学基礎論」であった。そして、それが後の数学基礎論論争などを受けて、「ゲーデル史観でいう左による右の妥当化」、つまり、1920年代のヒルベルト計画へと進化していったのである。

以上が、ヒルベルトの「ゲーデルの歴史観」への、私の歴史観に基づく修正施した、「はめ込み」である。ヒルベルトの数学基礎論、数学の哲学部分への関わりが、従来考えられていたものよりかなり早く、切っ掛けも集合論のパラドックスではないという点では従来の見方と違うが、その「大筋」ではゲーデルの史観とそれほどは違わないので、このヒルベルトに対してのゲーデルの歴史観の照らし合わせは、従来の歴史観を少しずつ修正するだけで説明できるので比較的容易である。ところが、クロネッカに対しての照らし合わせは大変困難である。

その最大の理由は、クロネッカの事例の正しい解釈には、私の史観がゲーデルの史観と本質的に異なる部分を必要とするが、その部分の執筆がまだ出来ていない、という身も蓋もない事実である。この indigo のフォントの部分は、そこを先取りして書いているテキストなのであり、サイトが整備されれば、その部分は本来あるべき場所に移動することになる。そうなれば照らし合わせは遥かに容易になる。

ただ、この困難には、ヒルベルトの場合とは大きく異なる、もう一つの歴史的背景がある。それは「自然数は神が作った。その他の数は人間が作った、と言った時代遅れの老大家」という誤ったクロネッカ観が流布してしまっていることである。従来語られてきたことを少しぐらい修正しただけではクロネッカの実像を描き出せない。

クロネッカは自然数の様な数学存在の議論に神学や哲学の様なものを持ち出す人物ではなかった。実際、彼は講義などで人類がどうやって自然数を発明していったかという歴史まで話している。もちろん、それは19世紀終から20世紀初めに流行り今は否定されている「安楽椅子人類学」armchair antholopolgy の類であり、学問的根拠があるとは思えないが、このことにより、クロネッカが、数(自然数)というものを、哲学の話は一切なしで、人間とその社会を元に考えようとしたことは明白なのである。

全集に納められたベルリン学での数論講義で、彼はユークリッドの自然数の「定義」を古代ギリシャ哲学の影響だとし、そういう哲学は数学者にとっては無価値だと切って捨てている(参照)。21世紀になって初めて発見・公開されたその講義の「雑談部分」の記録からは、彼が、哲学が数学に関与すること、数学が哲学に関与すること、その双方を無益な行為だと、「口汚い」と言えるほど強い言葉を使って、聴講者の前で大っぴらに揶揄していたことがわかる(参考)。数学者は哲学をただ無視すれば良い現代と違い、哲学の力が強かったその頃、クロネッカは哲学の数学への越境と闘わねばならなかったようだ。その違いを除けば、クロネッカは時代を超えて現代の数学者に近い。

この様に、20世紀前半に広まったクロネッカについての「常識」は誤解だらけなのである。そういう誤解の蜘蛛の巣を掃除しないと、クロネッカを史料ベースの歴史学で正しい位置に置くことができないのは当然だ。また、このサイトの目的である新史観の記述のためには、この誤解の払拭は特に重要なのである。実は、このサイトの新史観はゲーデルの歴史観を現代の数学者の感性に整合するように再構築したものなのである。そういう史観の叙述において、実際には時代を超えて現代の感性に近い感性をもっていたクロネッカを「数学に神学を持ち出す時代遅れ」として理解したままでは、クロネッカ関連の歴史叙述がほとんど不可能になってしまうのである。

この様な次第で、「蜘蛛の巣払い」を行う必要があるためにクロネッカについての叙述は大変になるのである。ここでは、そういう「蜘蛛の巣払い」を、後の項の3.3.6で行う。しかし、それはあくまで予備的なものでしかない。本格的なクロネッカ研究などを援用しての詳しい話を公開できるのは、この indigo のテキストがあるべき場所に移動してからのこととなる。

さて、前置きが長くなったが、ここからが、この3.3.5の本題である。まず、ヒルベルトの位置づけを行おう。ヒルベルトの新史観における位置づけは、すでに説明したようにゲーデルの史観を継承して「左により右を正当化し、時代精神の左と数学の本質である右を同時に満たそうとした奇妙な混合体を作った人」である。

つまり、時代精神に反して形而上学の方向に進む数学、つまり、集合論的な議論を使う数学を、時代精神である「懐疑論」「実証主義」「唯物論」などの立場から、正当化しようとしたのがヒルベルトである。ただし、この右傾化をヒルベルトがゲーデルが言う様に「時代への逆行」ととらえていたかには疑問が残る。ヒルベルトに取っては、それはむしろ「進歩」「進化」、つまりは、近代化だったのではないかと思われる。そして、新史観では、このヒルベルトの集合論理解が正当化できるようにゲーデルの史観を書き変えることとなる。

ちなみに、若き日のゲーデルは、この1960年頃の見解とは大きく違う立場をとっており、このヒルベルトのアプローチ、特に無矛盾性証明の意義を高く評価し、自身が実数論の無矛盾性証明を試みていた。しかし、その中で意に反して第一不完全性定理を発見したことは良く知られている。

そして、第二不完全性定理を発見した後も、暫くは、このアプローチの可能性を捨てず、ヒルベルト計画の実行不可能性を主張するフォン・ノイマンやエルブランの意見に反対していたが、数年後には、その意見を翻した(本サイトのこちらを参照)。

その後、どの様にしてゲーデルの歴史観に見られる「奇妙な複合体」という、控え目で争いを嫌うゲーデルにしては驚くほど強い表現でヒルベルト計画の「左による右の合理化の不合理性」を語る様になったのか、この間のゲーデルの変化の原因が何だったのかは大変興味深い問題であるが、ここではそれを検討することは出来ない。

話を本題にもどそう。本ページの数学ノートブックの史料から理解できる当時のヒルベルトの数学思想の特徴として、無理数ノートの段階では哲学的なことが語られておらず、クロネッカの制限に対する反発も、数学研究の手法の有用性を根拠にしているが、その後、カントなどを引用しつつ哲学的な思考を深めているという事がある。そして、その中で、ヒルベルトは数学の理論の範疇を越えて「数学は完全か」などの数学論・数学基礎論的な思索に踏み込んでいるのである。

興味深いのは、無理数ノートが書かれたと思われる時期である。これは上に行った推測からすると、1887年から88年ころ、より狭くはヒルベルトの1888年春の大旅行中のクロネッカ訪問の前と推測できるわけが、この大旅行の前、ヒルベルトはゴルダン問題のアルゴリズム的解決に見切りをつけて、非アルゴリズム的解決に舵を切ろうとしていた。

ヒルベルトは1887/8年にケーニヒスベルク大学不変式論の講義を行ったが、その講義録が Cod. Ms. Hilbert 521 として、ゲッチンゲン大学図書館のヒルベルトアーカイブに保存されている。その pp.193-194で、ヒルベルトは「ゴルダンの方法はあまりに複雑で小さいケースでしか実際には計算できない。このテーマについての論文の洪水は計算問題に過ぎず、本当に重要なのはゴルダン問題の解の計算ではなく、解の有限性のみである」という意見を書いている。ゴルダン問題の非構成的な解決こそが、問題の数学的本質ではないかという根本的な方向転換である。

そして、彼は1888年の大旅行の途上、3月21日にヒルベルトはライプチヒからゲッチンゲンのクラインに手紙を送り、彼の最初の非構成的なゴルダン問題へのアプローチが成功したことを報告している。それはゴルダンが示した2変数の場合のゴルダンの定理を代数学の基本定理を使えば、非常に短い証明で解決できることを示すものだった。

そして、その後、ゲッチンゲンにクラインを尋ねたヒルベルトは、その結果を滞在中にゲッチンゲン学士院紀要に投稿するための短い速報論文にまとめてクラインに直接渡している(フルバージョンは Math. Ann.33で出版)。この時の方法は、ヒルベルト自身が後に述べているように、本質的に2変数に対してしか適用できないものだったが(この講義録のp.116を参照)、いずれにせよ、有限性にのみ集中すれば自体が簡単になることは確認できたわけである。

そして、その後、ヒルベルトはケーニヒスベルクに帰ったのであるが、早くも10月3日には、クラインに、有限基底定理を使った全く新しい方法で、ゴルダン問題の完全解決を報告するための短い速報論文をクラインに送っている。これもゲッチンゲン学士院紀要で出版され、1890年にはフルバージョンが Mathematische Annalen で出版された。

つまり、非構成的な方法論が構成的に制限されていたクロネッカの方法にはない快適な数学的方法論となるという無理数ノートが書かれた時期、ヒルベルトは、実際に、そういう方法で、当時の大きな未解決問題の一つを解決したのである。その時のゴルダン問題解決の本質的に新しいポイントが、当時の代数学の専門家から見れば、科学というより右的に見えた有限基底定理であった。そして、後にこの定理がE.メーターにより一般化され、代数学が現代的に書き変えられる大きな契機の一つとなったのである。

この様に、ヒルベルトの「右傾化する新数学」への関わりは、最初は哲学的なものではなく、不変式論という具体的な数学研究の必要に応じて生まれたものだった。しかし、それで成功を収めたヒルベルトが、「数学のすべての問題は解決可能か」などという哲学的な問を立てているということは非常に興味深いことである。つまり、ヒルベルトは数学者ではあったが、哲学的問題が自らの数学に関連がありそうだと知った後は哲学的問題に関わっているようなのである。(哲学的問題への関わりは、有限基底定理を「神学」と呼んだゴルダンへの反感由来だとという可能性もあるが、本ページの史料からすると、その可能性は少なそうである。これについては後に議論する。)

このヒルベルトの哲学への関わりは、次に紹介するクロネッカのヘーゲルやシェリングを「数学的無知」と切って捨てる数理哲学・自然哲学への冷えた態度とは、際立った対比をなしている。そして、ヒルベルトの哲学的問題への関わり方の大きな特徴は、3.8の可解性ノートが示すように、すでに1880年代において、ゲーデルが言う「左による右の正当化」のスキームが考えられており、そして、また、その左が哲学ではなく数学だったという点である。

1920年代のヒルベルト計画は、集合論のパラドックス発見を受けての、ポアンカレやブラウワとの数学基礎論論争を通して成立した、「有限の立場という「左」を使い、それにより「右的数学」を妥当化するという計画」だった。

ヒルベルトは、1917年の講演 Axiomatisches Denken 「公理的思惟」の Mathematische Annalen版 411頁で、カントルの全集合の集合のパラドックスを始めとする集合論のパラドックスは、深刻な問題と捉えられ、クロネッカやポアンカレの様な大数学者が集合論の理論そのものを否定させることになったほどだった主張している。そして、1920年代を通して、彼はこの説明を繰り返している。

そのため、ヒルベルトの「左による右の正当化の構想」は、集合論のパラドックスとそれに伴う数学基礎論論争を受けて生まれた1920年代のヒルベルト計画がその始まりであるかの様に見える。ゲーデルも、その歴史観で「左による右の正当化計画」としてのヒルベルト計画のルーツを集合論のパラドックス由来として説明している。

しかし、この歴史認識には、二つの間違いある。まず、ひとつはヒルベルト自身による、自分自身が生きた歴史に対する驚くべき誤認識である。1917年以後のヒルベルトはゲーデルがいう「集合論のパラドックスを受けての数学懐疑論」の代表としてクロネッカとポアンカレをあげているわけだが、集合論のパラドックスがポアンカレの有名な非可述的定義批判を生んだので、ポアンカレに対しては、これは正しいが、クロネッカは既に1891年に亡くなっているので、1890年代終わりに発見された集合論のパラドックスは知らなかったのである。つまり、クロネッカは集合論のパラドックスを受けて「数学懐疑論」を主張したわけではない。ではクロネッカの懐疑論のルーツは何だったか、それが問題となり、後で検討することとなる。

もうひとつは、ヒルベルトによる「左による右の妥当化」という構想も、「常識的理解」よりは古いことは、すでに見た通りである。ヒルベルト自身にとっては、集合論のパラドックスもまだ発見されていない1880年代終わりごろから、伝統的な数理哲学の問題を、数学を使って解決するという形の計画として、すでに構想されていたのである。

本ページの史料が示した初期のヒルベルトの「右的数学の妥当化計画」で特徴的なことは、その「左」が哲学ではなく数学であったということである。つまり、「数学は完全か?」と言う様な、数学についての哲学的問題は、哲学者と同じ様に考えるが、それを解決するための「左」の手段は、ヒルベルトでは伝統的な哲学の方法論ではなく数学なのである。言い換えれば、「ヒルベルトにおける左による右の正当化」とは、集合論やカント―ル・デーデキントの実数論のような「右傾化する数学」の哲学的問題を数学自身により正当化することだったのである。

もちろん、このヒルベルトのスキームにはポアンカレが指摘した循環論法があり、それは特に無矛盾性証明を行うには致命的欠陥となる。その故に、ポアンカレの批判を受けて、ヒルベルトは「左」の数学に制限をかけることとなった。そして、その結果が有限の立場だったわけである。

以上を短くまとめると、ヒルベルトは右に向かう集合論的数学の数学方法論としての大きな可能性を、1880年代の自らの代数学研究の中で見出した。そして、ほとんど同時に、それについての「哲学的考察」を開始している。ただし、それは、カント哲学の様な伝統的な数理哲学を行おうとしたのではなく、伝統的な数理哲学の問題を哲学の要素がない数学の議論を使って考察し、また解決するというスタンスで、ヒルベルト自身は「哲学」といえる考察はしていない。これが1880年代終から90年代の最初頃と思われる時期のことである。この時すでにゲーデルが言うものと少し違う形ではあるが「左による右の妥当化」、すくなくとも「左による右についての哲学の数学化」が構想されていたと言うことができる。そして、集合論のパラドックスとポアンカレやブラウワなどとの数学基礎論論争を経て、それがゲーデルの言う形での「左による右の妥当化」としての良く知られた形でのヒルベルト計画となった。

以上で、とりあえずゲーデルの史観におけるヒルベルトの位置についての検討を終わり、クロネッカの位置づけに議論を移そう。

クロネッカと言えば「自然数は神が作った。その他の数は人間が作った」と言い、神学的・哲学的理由で実無限を嫌い、それを理由にカントルの集合論研究の公表を執拗に妨害した老大家というイメージが強い。現在でも非専門家の間では、これがクロネッカのイメージだろうし、20世紀が終わることまでは、数学史の専門家でさえ、多かれ少なかれ同じようなものだった。

たとえば、数学基礎論史の専門的ソースブックとして定評があるFrom Kant to Hilbertの第2巻(1966)、クロネッカの章で、編者の数学史家 W.B.Ewald は、「その深い哲学的信念にも関わらず、クロネッカは数学の哲学について僅かしか書き残さず、また、彼の立場のスケッチ以上のものを残してはいない; 彼の最も有名な言葉「神が整数を創造した; その他は全部人間が作った」も、二次史料を通して伝承されているに過ぎない」と書いている。

実は、このイメージはクロネッカの没後から20世紀前半に作られたもので、実像はそれとはかけ離れていた。「神が整数を創造した…」についても、言ったのは確からしいが、冗談で言ったのを反対派が言いふらしたのではないかという説さえある。その様な誤ったイメージが広まった最大の原因はクロネッカ自身の「数学の基礎」に対する姿勢にあったといえる。実はそれが彼の「哲学」であったのだが、クロネッカは「数理哲学」や「数学基礎論」に全く価値を認めず、その結果、そういうことについて学問的に語ることさえ避けていたようなのである。

ただし、そうであっても、ヒルベルトの数学ノートブックのような史料の分析により、没後には、その人の思想が明らかになるものなのだが、クロネッカの場合、そういう史料が存在しない。1980年代終わりごろからの執筆活動により、クロネッカの真の姿を蘇らせた数学者で数学史家のH. エドワーズによれば、第二次世界大戦の戦火をさけるためにクロネッカのアーカイブが保管されていた廃鉱山で、戦後の混乱の中、ガス爆発が起こりクロネッカのアーカイブが失われたのだという。そのため、現在のところ歴史研究に使える史料は、手紙を除けば、3点しかない。

その三つというのは、生前に出版された Ueber den Zahlbegriff、没後に編集されてクロネッカ全集に収録されたベルリン大学での数論講義の講義録、そして、21世紀になってフランスで発見され公開された、全集では削除されていた講義中の「雑談」部分である。

クロネッカの「数学基礎論」は、すでに触れた一般算術を使うものであった。その構想は三つの内、最初の二つの史料から知ることが出来る。それを、次の3.3.6で、Ueber den Zahlbegriff を元に少しだけ再現する。それは、ここまでで触れたヒルベルトが言及したクロネッカの√5と√2の「基礎」の解説にもなっており、それにより少し代数学の知識が必要となるがヒルベルトのクロネッカ理解について推測として述べたことの根拠がわかるはずである。

一方、クロネッカの「哲学」あるいは「哲学への態度」は分かりづらく、それが初めて明瞭になったのは、21世紀になって読めるようになった、ベルリン大学講義における「雑談」によってであるといえる。これにより、初めてクロネッカが「数学の哲学」「自然科学の哲学」に辟易していたことがわかる様になり、その「哲学への態度」、つまり、「数学においては哲学など全く意味がない」という、ヒルベルトとは対極の姿勢を持つ人だったことが理解できる様になったのである。

エドワーズの研究成果などを詳しく紹介しつつ、クロネッカの真の姿を描き出すには、かなりの時間がかかりそうだが、ここでは少しだけ、その先取りをし、その上でクロネッカを「ゲーデルの史観」から眺めてみよう。

クロネッカは、数学の概念はすべて自然数に還元されるべきだと主張したと言われるが、偏狭に数学の範囲を狭めたわけではない。実は、クロネッカは力学さえも数学に含めており、ただし、それは彼の意味での純粋数学ではなかっただけなのである。つまり、クロネッカは純粋数学と彼がみなすものは、すべて自然数に還元できるだろう、そうしたいと言っただけであり、解析学や力学のような「応用数学」を闇雲に否定してはいない。

また、クロネッカがπの存在を認めなかったとは、よく言われることであるが、実際にはベルリン大学における数論講義の早くも第一講でライプニッツの公式によるπの定義が言及されているし(参照)、一般算術にしても、自然数とその演算だけで出来ているわけではなく、複数の不定元の自然数係数の多項式と、その演算から出来ていた。

更に言えば、自然数は神が作った数ではなく、クロネッカにとっては、人間がその活動のために発明した道具だったのである。クロネッカはベルリン大の講義や「数の概念について」で、自然数の起源を、有限個のモノにとりあえずつける個別の名前として発明された言葉としての、1番目の○○、2番目の○○、3番目の○○…、のような順序数に求め、後にそれがモノの個数を数える基数(1個、2個、3個…)としても使えることが理解され、和や積が発明されて自然数の算術というものが成立したと説明している。つまり、「数はすべて人が作った」というのが、彼の立場だったのである。

この様にクロネッカの「数学基礎論」には神学的・哲学的要素が全くない。そのため、「自然数は神が作った。その他の数は人間が作った」と言ったという思想の伝統を重んじる老数学者のイメージを求めて1887年の「数の概念について」を読むと肩透かしを喰うこととなる。その短い論稿に神が出て来るのは一度だけ、それもヤコビによるシラーの詩のパロディーの引用の中だけであり、それも期待される様なキリスト教の神ではなく、古代ギリシャの神なのである。

そして、「数の概念について」を読み進めれば、その最後で読者は、このクロネッカという人物が、どの様な人物であったかを最終的に気が付くこととなる。この短い論稿は「数学こそは天界の運動の記述とその運行の予想を可能にするだけでなく、日常生活においても、近代をそれ以前と分かつ通商と交通の大発展の前提条件なのである」という主張で終わっているのである。これは神や哲学などの伝統的価値ではなく、科学技術に楽観的に信頼を置いた19世紀合理主義者が発言するに相応しい主張である。

クロネッカは、ベルリン大学で数学を学ぶも一旦は一族の家業に携わり、それ以後、生活を営むための労働から解放されるような莫大な富を蓄積してベルリンにもどり、趣味として数学を研究した。趣味としての数学だったのだから、その研究分野としては純粋数学中の純粋数学、整数論が相応しかったであろう。彼にとって数学は美しい天界の学問であれば良かったのである。そして、その背景には深い哲学の様なものは必要なかった。しかしながら、現実の経済社会でも成功を収めていた彼は、数学の現実的重要性も熟知していたのだろう。クロネッカは、ゲーデルの哲学的歴史スキームに収まらない、現実的ながら人間理性の可能性に絶大の信頼を置く19世紀的合理主義者・近代主義者だったのである。

クロネッカのベルリン大学数論講義は、アラビアの数学を含む、数論の歴史に始まり、第三講義までで、ガウス、ヤコビ、ディリクレの時代までの歴史のサーベイが行われた。その第一講では円周率πを表すライプニッツの公式に言及しているように、講義対象者はすでに十分な数学の知識を持っていることを前提としていた。

また、クロネッカはπの存在を認めなかった、解析学を認めずワイエルシュトラスを苦しめた、とされるが、クロネッカは、このサーベイで、解析数論を予想外の結果を導く優れた方法として評価し、オイラーからヤコビなどの成果を紹介している。ただ、ヤコビの解析数論に言及したときは、それをヤコビが純粋数論的方法で後に書き変えたことが言及されている。つまり、解析的方法で得られた定理を、解析学を用いない数論固有の方法で書き変えたいという、数論学者に良く見られる態度のことである。

そして、第4講義になって、クロネッカは初めて「数の概念」に言及する。彼は、それまでの講義で語って来た数の加法的合成の理論は普通は単位が集まったものが自然数であるという古代ギリシャ哲学に影響を受けたユークリッドに由来する定義から説明されるのだろうが、そういう数についての哲学的な定義は数学者に取っては無価値である(sind derartige Definitionen an sich für Mathematiker wertlos)と主張する。そして、算術の法則と基本的演算を自然な仕方で(auf naturgemäße Weise)発展させた、そういうものを考えなくてはならないとして、自然数の誕生の歴史を説明し始める。

それが Ueber den Zahlbegiff にも収録した、既に言及した、順序数が有限個のモノにとりあえずつける個別の名前として発明され、後にそれがモノの個数を数える基数に発展して加法や乗法の演算が生まれるという「考古学的」あるいは「文化人類学的」と言いたくなるような説である。彼は順序数の説明では色々な言語の順序数詞にも言及し全集の複数ページにわたるほど、これを「力を込めて」解説している。

もちろん、このクロネッカ説にどれだけの信憑性があるかには大いに疑問だが、これはエンゲルスなどの初期共産主義理論における原始共産制の議論や、フランスの哲学者レヴィ・ブリュ―ルによる道徳・倫理についての仮想的な原始古代史による議論を連想させるもので、19世紀的合理精神が哲学的な問題において、哲学を回避して「合理的な理論」を立てようとするときに使われる戦略だといえる。

この最後の私の主張の妥当性は別として、クロネッカは、例えば、Ewald が言うような「哲学的信念」でものを考える人ではなく、むしろ、そういうものに抗しようとする人であることが判っていただけたのではないかと思う。彼は1884年にカントル宛にある印象的な手紙を書いており(Edwardsのこちらのエッセイに引用と英訳がある)、それが彼の数理哲学やカントル集合論に対する姿勢を雄弁に物語っている。曰く…

自分は若き日に、師のクンマーとともに数学における哲学の意味を検討したが、クンマーとともに、それは全く無価値であるという結論に至った。数学において価値があるのは数学的事実、煎じ詰めれば、数式だけなのである。ラグランジュの数理哲学はある時代を席巻したが、今は跡形もない。残っているのはラグランジュ・リゾルベントなのである。

クロネッカは、この手紙で、あなたは私があなたを公に攻撃しているというが、自分にはそういう意識はない。ただ、私は、あなたが20年前に私の講義で聞き、その後も事あるごとに聞いはずのように、数学をこの様に考えているのだ、とカントルに親しげに語りかけているのである。

クロネッカは、「深い哲学的信念を持った人」というEwaldの叙述とは違い、そういう哲学が彼の愛する数学に越境することを強く嫌った人なのである。「哲学」という言葉には、学としての哲学の他に「人生哲学」「私の仕事の哲学は…」などという使い方があるが、そういう意味ではクロネッカは「哲学は数学には何ら関係がなく無益である」という「深い哲学的信念」を持っていた人だったのである。

このクロネッカの「数理哲学嫌い」がどれくらいのものであったかは、フランスで発見された晩年のころの彼の講義の「雑談」でわかる。最大のやり玉はヘーゲルであった。カントルはクロネッカの講義で行われる他者攻撃を嫌ったらしいが、同意見ならば楽しいだろうが、そうでなければ、それは確かに辟易とするような「口撃」ぶりであった。

クロネッカは、ヘーゲルを攻撃した後、その矛先をシェリングの自然哲学に向け、さらには19世紀の最初には自然科学に対する帰納的見方が蔓延したとして、それを「小児病」Kinderkrankheit と切ってすてている。そして、その攻撃の矛先は、今度は19世紀終の「老人病」Alterskrankheit に向けられる。数学的記号法で精神の問題を解決しようとする者たちがいる。Peers というアメリカ人とか、ペアノだ、とクロネッカは言っている。Peers は哲学者で数理論理学の先駆者のパースの事らしい。

この様にクロネッカは哲学に無縁の数学を目指した人で、その意味では、ゲーデルの図式のどこにも当てはまらない。ゲーデルの右左論のスキーマは、あくまで哲学の歴史的運動として説明されており、ブルバキ世代でありながら、ゲーデルは一生を通して哲学的だった人であり、彼の史観でも不完全性定理を受けて、数学(彼に取っては集合論だったらしい)がさらなる高みに上るための希望としてフッサール現象学をあげるような人だったのである。

現代の数学者が、クロネッカとゲーデルという二人の大数学者の真の姿のどちらに親近感を覚えるかと言えば、間違いなくクロネッカであろう。実際、クロネッカの哲学へのスタンスは、現在の数学者の大多数のそれと一致すると言って良い。ただし、クロネッカは、その後の世代、孫の世代に近い世代のヒルベルトでさえ、ある意味で哲学的だった時代の人なのである。現代の数学者は哲学への指向と闘う必要はなかったが、近代合理主義者クロネッカは哲学と闘わねばならなかったのだろう。

この様に、クロネッカの「ゲーデルの史観における位置づけ」は、「あまりに現代の数学者的であり、その範囲外」ということになる。しかし、ゲーデルの史観を現代の数学者の感性に適合するように改変した私の新史観では、クロネッカは時代を超えた「ブルバキ世代の数学者」という位置づけとなる。ただ、クロネッカにとって、その未来の歴史、つまり、20世紀の数学の歴史が意外だった点は、彼が言う「老人病」、つまり数理論理学と、その哲学性で違和感を感じさせた元学生カントルの集合論こそが、彼の理想である「哲学に一切干渉されない数学」実現の鍵だったことであろう。

3.3.6. クロネッカの「数学基礎論」

準備中

3.4 ゴルダン問題の解決?

準備中

3.5 定義の無謬性

準備中

3.6 カント哲学と数学についての三つのノート

下に、その画像、翻刻、和訳を示すように、ブック1、ページ28、リージョン4-6の三つのノートで、ヒルベルトはカント哲学についての思索を書いている。 我々は、これらを「カント哲学ノート」と呼ぶ。

カント哲学ノート
図1. カント哲学と数学についての考察

3.6.1. カント哲学ノート1: ブック1、ページ28、リージョン4

翻刻: Ueber ein fundamentales Axiom des menschlichen Verstandes. Vielleicht dass jedes Problem lösbar ist?

和訳: 人間悟性の基本公理について。おそらく、すべての問題が可解?

3.6.2. カント哲学ノート2: ブック1、ページ28、リージョン5

翻刻: Begriff der ganzen Zahl beruht nothwendig auf Zeit und Raum. Begriff der Stetigkeit einfacher als⟨⟨o⟩⟩ als der Begriff der ganzen Zahl. Kant hat Recht.

和訳: 整数の概念把握は必然的に時間と空間に基礎づけられている。連続性の概念把握はかくて整数の概念把握よりもより基本的。カントは正しい。

3.6.3. カント哲学ノート3: ブック1、ページ28、リージョン6

翻刻: In allen anderen Wissenschaften⟨,⟩ Material, von dem man nicht weiss, wo es herkommt, von dem man nur weiss, dass es da ist. Hier reines Denken, reine Philosophie. Kant hat das als der erste gefühlt, aber nicht bewiesen, er hat angefangen, aber nicht zu Ende geführt.

和訳: 他のすべての学問においては、その研究対象がどこから由来するのか知らない。そこにあることを知るのみである。ここに純粋思惟、純粋哲学。カントはそれを最初に観取した人だが、それを証明はしなかった。彼は始めたが最後まで進まなかった。

3.6.4. 三つのカント哲学ノートについての分析

カント哲学ノート1の2番目の文は、後に「すべての問題の可解性」として、ヒルベルトの生涯の目標となる問題を人間悟性の公理として主張できるのではないかというものである。ただし、この文は小さな文字で少し斜めに書かれており、後で追加された書き込みである可能性が高い。

ノート2の einfacher の後は、als als に見える。書き間違いの可能性もあるが、最初のalsの最後の部分であるsのペン運びの終わり方が他のsに比較して長いことから推測するに、これはsの後にoを綴るためにペンを動かしたがoを書き損じてしまったとみることもできる。alsoがある方が、最初の文と上手く繋がるので、おそらくは間違えて2度alsを書いたと考えるより、alsoのoが抜けたと考える方がより妥当すると思われるので、その様に翻刻した。いずれにせよ、意味は、どちらの場合も殆ど違わない。

また、最初の文のberuht(基礎づけられている)を受けて、einfachは「基本的」と訳した。意図としては整数(自然数)の概念は、時間や空間の連続性の把握の中で観取されるものだから、時間や空間の連続性は自然数概念把握の前提になっている、「よりアプリオリだ」という感じだろう。

これら三つのノートの記述時期は後の書き込みと推定される部分を除けば、1888年から1889年と推定される。より詳細な推定は「1888年3月から9月の間と推定できるゴルダン問題の解決の後で1890年2月15日以前」である。1890年2月15日は、ゴルダン問題の解決を含む革命的な不変式論を報告するヒルベルトの1890年の論文 "Ueber die Theorie der algebraische Formen", Mathematische Annalen 36, 473-531 の投稿日である。

この推定の根拠を述べる。未だ執筆していない3.4で詳しく説明するが、まだ和訳が出来ていないブック1、ページ14、リージョン3のノート、はゴルダン問題の一般化としてヒルベルトが1900年の有名なヒルベルトの23の問題第14問題として提出した予想が研究目標として書かれている。3.4で説明するように、これを書いた時期には、すでにヒルベルトはゴルダン問題を解決していたと推定される。そして、クラインへの手紙などから、ヒルベルトがこの問題を解決したのは、1888年の3月から9月と推定されるので、このノートより後に位置するカント哲学ノート1-3も、それ以後に記述されたと推定されるのである。

そして、ブック1、ページ33、リージョン3とブック1、ページ33、リージョン4からなるノートには、第14問題に関連する二つの部分群の例が書かれている。このノートには、その二つの部分群を記述する数式と、その二つの部分群に対してのゴルダン問題(第14問題)を証明するために必要な偏微分式が書かれているのであるが、それらの数式が変数名が異なるだけで全く同じ形で1890年の "Ueber die Theorie der algebraische Formen" に記載されている。これは、これらの式が、この1890年の論文の執筆中か、執筆を開始する以前に書かれたであろうと推測される。したがって、ブック1、ページ33、リージョン3とブック1、ページ33、リージョン4からなるノートは、1890年2月15日以前に書かれたと推定できる。そして、従って、そのノートより前に位置する三つのカント哲学ノートも、この日より以前、実際には、それよりかなり前に書かれたと推定できるのである。

さらに大胆に推測すれば、次の様にも考えられる。具体的な数式こそ記述されていないものの、ヒルベルトが1890年の論文の理論の概要を速報した三つのゲッチンゲン学士院紀要の第三報告で、同じ部分群が言及されているのである。そして、この報告は1889年6月30日に投稿されている。従って、この投稿の時点で、ブック1、ページ33、リージョン3とブック1、ページ33、リージョン4からなるノートは既に書かれていたとも考えられる。ただし、これには第三報告中の該当部分に具体的な数式がないことと、さらにはそれらだ校正時に追加されたという可能性もあるので、上の推定よりは根拠が弱い。ちなみに、1890年の不変式論文の該当する数式も投稿後に追加された可能性があるわけだが、これについては論文をハンドルしたエディターのクラインとヒルベルトの間の書簡に、その様な追加についての言及が無いため、その様な可能性はほぼない( Der Briefwechsel David Hilbert–Felix Klein (1886–1918). Hrsg. mit Anm. von Günther Frei. Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1985)。

いずれにせよ、これらのノートが、ヒルベルトがその大数学者への道を歩み出した彼の不変式論の研究の時代にカント哲学ノート1-3が書かれたことは確実と言って良い。

3.7 形式主義の芽生え(作成中)

下に示す二つのノートは、ヒルベルトが、数学の決定可能性と完全性について非常に早い時期から形式主義的に考察していたことを示している。この二つのノートを「初期形式主義ノート」と呼ぶことにする。カント哲学ノートの第一ノートにも数学の完全性が語られてはいるが、それは後から追記された可能性が高いことからすると、おそらくは、これら二つのノートが数学の完全性についての最初のノートであろう。我々は、これらをひとつにまとめて初期形式主義ノートと呼ぶ。また、二つのノートのそれぞれは、番号をつけて「初期形式主義ノート1,...」のように呼ぶ。

3.7.1. 初期形式主義ノート1: ブック1、ページ32、リージョン1

翻刻:Vorausge⟨⟨se⟩⟩tzt, dass es keine praktischen Schwierigkeiten gäbe, ist der menschliche Verstand, vermögend, alle Fragen, die er sich selbst stellt, zu lösen? Muss es möglich sein zu entscheiden über die Quadratur des Kreises, Giebt⟨gibt⟩ es eine wohl definirte, auf die sinnlichen Dinge bezügliche Frage, welche eine Antwort haben muss und die gleichwohl sich nicht beantworten lässt. Kann man einen allgemeinen zwingenden Beweis führen, dass jede Erkenntniss⟨Erkenntnis⟩ möglich sein muss?

和訳: プラクティカルな意味での困難を無視するならば、人間理性(der menschliche Verstand)は、自ずから立てるすべての問題を解決可能か?

3.7.2. 初期形式主義ノート2: ブック1、ページ32、リージョン2

翻刻: Wenn wir auf 2 verschiedenen Wegen widersprechende Resultate finden, muss nothwendig ein Fehler enthalten sein. Was würden wir denken müssen, wenn kein Fehler sich findet? Wir werden diesen Fall als unrealisirbar betrachten. Müssen wir in gleichen Sinne auch den Fall als unrealisirbar betrachten müssen, dass sich etwas nicht beweisen (entscheiden durch endliche Zahl von Schlussen lässt)?

和訳: 作成中

後の数学基礎論研究における完全性の様な用語こそ使われてはいないものの、これらのノートで議論された問題が後の数学の完全性や決定可能性の問題であったことは明らかである。初期形式主義ノート2の最後の文は、後のゲーデルの不完全性定理をさえ想起させる。

3.8 可解性:数学のすべての問題は解決可能である

準備中

3.9 ベルリンの数学者たちへの敵意

準備中

3.10 ノスセムス: 我々は知るであろう

準備中

3.11 ゴルダンと排中律?

準備中

3.12 デスクとテーブル:モノの理論としての数学

準備中

3.13 別の標準形:公理論の芽生え?

準備中

3.14 物理学の公理化

準備中

カント哲学ノート
図3. 物理学の公理化

3.15 存在とは無矛盾性である

準備中

4. 数学の基礎についてのヒルベルトの初期考察

準備中

4.1. クロネッカからの影響

準備中

4.2. カント哲学から可解性へ

準備中

4.3. ヒルベルトの基礎論研究のオリジンとしての可解性

準備中

4.4. なぜ可解性は許容可能だったか

準備中

4.5. 公理論についての初期の諸ノート

準備中

4.6. ヒルベルトの数学の基礎についての思索と代数学の関係

準備中

5. おわりに

準備中




脚注

この節では本文の脚注をリストする。注の番号は、書いた順番につけてあり、本文での出現の順番ではない。

注1.日本語で「ノート」というと「帳面」、つまり、英語の notebook を意味するのが通常であるが、「ノート」の語源の英語 note は、日本語でいう「メモ」のことである。しかし、このページでは、notebook の一項目、つまり、ノートについてたびたび言及する必要があるが、時として notebook の見開き全部が一つの項目に費やされていることもあり、これを「メモ」と呼ぶのはその長さにおいても適切ではない。そのため、このページでは、英語に忠実に「ノート」「ノートブック」という言葉を使う。

注2.クロネッカの一般算術とは、クロネッカが、数論と代数学の基礎とみなした理論で、Modulsystem あるいは Divisorensystem と呼ばれるものの理論である。このため、Modultheorie モデュール理論と呼ばれることの方が多いが、クロネッカ自身が、この名称を使った例を少なくとも私は知らない。その理論の対象である Modulsystem とは、クロネッカの意図を無視してあえて現代的にデーデキントの言葉を使って説明すると、整数係数多項式環における有限要素で生成されるイデアルのことである(参照:クロネッカ数論講義第13講義、特に§2)。クロネッカは、多項式の係数を自然数に制限することにより、 Modulsystem で、負数、有理数、虚数、さらには、任意の代数的数にあたるものを記述できることを、それらの数概念の自然数への還元されて基礎づけられたと見なした。

クロネッカの著述スタイルの故に極めて難解だったこの理論は、デーデキント、ヒルベルトの影響力が強かった20世紀前半には、デーデキントのイデアル論の亜流と考えられる様になり、その師クンマーの数論の手法とともに、ほぼ完全に忘れられることとなった。しかし、1950年代になると、アンドレ・ヴェイユが、この理論は、代数的整数論と代数幾何学の統一理論を目指すものだったと指摘し、彼のヴェイユ予想の背景としたこと、また、クンマーのp-進解析の手法をカント―ル・デーデキント的に再編したp進数理論が数論の重要な手法として認識されるなどして、クンマー・クロネッカの伝統が復権することとなり、一般算術理論も復権を果たした。ただし、復権したのはそのモチーフであり、クロネッカの有限性(数学的明示性)へのこだわりと、彼の数学的天才とあまり不用意に外交的で快活な性格に由来すると思われる「難解で論理的には穴だらけで、その故に読者には不親切極まりない理論」が復権したわけではない。

このクロネッカの一般算術の凋落と復権の歴史は、20世紀前半にクロネッカが「神学に拘る旧態然とした老数学者」というイメージを被せられていた事と相まって、ゲーデルの歴史観の「左右論」と関連しているため、Edwards などのクロネッカ研究の紹介も兼ねて、独立したパートを作って詳しく解説する予定である。

注3.ゴルダン問題の解決で知られる1890年の論文 Ueber dieTheorie der algebraischen Formen は、IからVまで節で構成されているが、冒頭の第I節でヒルベルトは、n変数の代数的形式(斉次多項式)に対して有限基底定理を証明し、それをクロネッカの理論に適用して、モデュルシステム版の有限基底定理を証明する(478ページの最後から次ページの冒頭の斜体部分が有限基底理定理で、479ページの中ほどの「斜体の部分」が、そのモデュルシステム版)。

そして、第III, IV節で必要なモデュルシステムについての数学が展開され、その応用として、第VI節でゴルダン問題の解決を含むヒルベルトの代数的形式の理論が展開される。また、第II節は代数的形式の係数を整数に制限した場合が考察されている。数学的重要性は、後のネーター環の理論に発展する第I節が突出しているが、分量だけを見れば、また、当時の数学者にとっては特に重要だったはずのテクニカルな数式計算を見れば、クロネッカのモデュル理論由来と言える第III, IV節の存在が大きく見える。

注4.自然数系は半環なので、本文で書いたように「7+9xと3+5xの差が x+1 の倍数となる」というときの「差」が取れない。差の存在を前提にした、この定義は循環論法になっているので、工夫が必要なのである。考えればすぐにわかるはずだが、E.T.ベルによる詳細な説明がこちらにあるので、分からない人は、そちらを参照すると良い。

参考文献

  1. Hallet, M. and Majer, U. eds.: David Hilbert’s Lectures on the Foundations of Geometry 1891-1902, 2004, Springer, Berling. Springer Link
  2. Toepell, M.: Über die Entstehung von David Hilberts ”Grundlagen der Geometrie. (Dissertation 1984). Vandenhoeck & Ruprecht Göttingen 1986. XIV + 293 Seiten. (Studien zur Wissenschafts-, Sozial- und Bildungsgeschichte der Mathematik. Bd.2)