ゲーデルの歴史観:哲学から見た数学の基礎の近代的発展
ver.2021.06.28 この時点では部分訳 完訳は近日中に作成予定
解説
このページでは、ゲーデル全集第3巻pp.367-384にドイツ語原文と英訳が並置されているテキストの独原文の和訳を公開する。このテキストはゲーデルの死後に「Vortrag, Konzept(講演, 草稿)」と書かれた封筒の中にあるのが発見されたもので、全集の編者たちは、このテキストを「アメリカ哲学会からの会員としての招待に際して招待された新会員が行うのが通例であった講演の原稿」として書かれたもので、1961年頃のものだろうと推測している。ちなみに全集では、このテキストに"The modern development of the foundations of mathematics in the light of philosophy"「哲学の立場から見た数学の基礎の近代的発展」という題名がついているが、これは編者がつけたタイトルのようだ。
この注目されることも少ないテキストが、本サイトで紹介する私(林晋)の研究の出発点となったものであり、本サイトの理解に欠かせないものなので、プリンストン高級研究所、 The Institute for Advanced Study, Princeton, より許可を得て、ここに和訳・公開する。同研究所に深く感謝する。和訳は林晋が独原文より行った。公開日の2021年5月31日では、2021年6月5日の林の西田・田辺記念講演で使用する部分のみ翻訳し、現在、残りを翻訳中である。
ドイツ語と英語は似通った言語であるため、全集の英訳は原文の文構造も反映して翻訳されている。しかし、ドイツ語と日本語は、文の構造・留意されるニュアンス・語彙、などにおいて大きく異なる言語であるため、同じことはできない。そういうことを行うと、ドイツ語の名文が日本語の悪文になってしまう。これを避けるには、和訳に原文の構造を反映させず意訳を行う必要があり、このページの和訳は、その様な方針で訳してある。たとえば、一つの文やパラグラフを幾つかの文やパラグラフに分解して、日本語として自然なものにしてある。
手書きのおそらくは未完成の原稿であることもあり、単語の欠落などもあり、全集の編集者たちがそれを補っており、全集の翻刻ではそれを二重角括弧で示しており、また英訳でも、より自然な英語にするために補足された部分は同じように示されてる。しかし、このページの和訳は、元のドイツ語の構造を反映させることより、日本語として自然であることを優先させたので、全体に二重括弧がついていると言っても良いので、この全集の編集を示す記号は使っていない。ただし、ところどころにでドイツ語原文を示した方が良いと思われる個所があったので、それらは⟨Weltancahungen⟩の様に角括弧で挟んで示してある。
この様な次第で、全集の翻訳や英訳で使用されている二重角括弧は、このページの和訳にはないが、一方で一重の角括弧[]は幾つか使われている。これも全集で使われた記号で、ゲーデル自身による補足や、理由はわかっていないそうだが、ゲーデル自身が、時に丸括弧でなく角括弧を使用している場合に、それをそのまま反映させたものだそうである。これは、このページの和訳でも、そのまま使った。
また、「数学の内部とされる場所」の様にHTMLタグの strong を使った箇所があるが、これは翻刻でイタリックとなっていた箇所を反映したものである。
講演, 草稿(クルト・ゲーデル著):哲学から見た数学の基礎の近代的発展 (林晋訳)
ここで私は、世紀の変わり目ごろからの数学の基礎付け研究の展開を、哲学の言葉を使って記述するとともに、可能なる哲学的諸世界観⟨Weltancahungen⟩についてのひとつの普遍的スキームで整理してみたいと思う。そのためには、まずこのスキームが何であるかを明確にせねばならない。可能な諸世界観を概観するための最も実り多い原理は、それらの世界観を、形而上学(あるいは宗教)に対しての親和と離反の度合いと様態で分類することだ、と私は信じる。この原理により、これらの世界観は直ちに二つに分類される。一方では、唯物論、懐疑論、実証主義、であり、他方では、唯心論、観念論、神学、である。この分類において、懐疑論は唯物論より神学からの距離がさらに遠いのであり、また、他方においては、観念論は、例えばその汎神論的形態においては、実際には弱められた神学なのである。
このスキームは、ある特定の条件下で考えうる哲学的諸学説の分析においても、実り多いものであることが判る。このスキームにより、それらの学説を分類したり、また、混合的な学説においては、その唯物論的要素や唯心論的要素を探し出せるのである。例えば、アプリオリズムは原理的に右に経験論は左に属する、といえる。しかし他方で経験論的に基礎づけられた神学というような混合的学説も存在するのであるが。またさらにオプティミズムは原理的に右に属しペシミズムは左に属するといえる。何故ならば、懐疑主義を、認識に関わるペシミズムだ、といえるからである。唯物論は世界を秩序がなく、その故にまた無意味な原子の堆積とみなす。さらに唯物論では死は最終的かつ完全な無化である。他方、神学と唯心論ではあらゆるものに、意味、目的、理由を見出すのであるが。一方で、ショーベンハワーのペシミズムは混合的学説、つまり、ペシミズム的観念論である。他の明らかに右に属する理論は客観法の理論や客観的審美的価値の理論である[注1]。その一方で倫理学や美学を習慣や教育などを基礎に解釈することは左に属する。
ルネサンス以来、哲学は概して右から左に進んだという事実は、今や良く知られており、言い古されたとさえいえる。もちろん、それはひたすらに右から左というのではなく、時に反転もあってのことだが、全体としてはそういえるのである。とりわけ物理学においては、この展開が我々のこの時代においてひとつの頂点を迎えている。客体化可能な事実の認識の可能性が大幅に放棄され[注2]、観測結果の予測だけに甘んじなくてはならないというのだ。これは実に通常の意味における理論的学というものの終焉である[注3](その予測はテレビや原子爆弾の様な実用的目的のためには完全に十分ではあるが)。
もし、この攻撃的⟨rabiat⟩と呼びたくなる展開が、数学という学の理解においては起きなかったとしたら、それは奇跡というものだったろう。実際の所、本来的にアプリオリの学である数学は、常に右に進む傾向があり、ルネサンス以後支配的だった時代精神に長く抗していた。ミルの様な経験論的数学論が広く支持されるようなことはなかったのである。数学は物質から離れ、さらなる抽象の高みに進み、その基礎においては常により大きな明晰性の方向に進み懐疑論から遠のいたのである(たとえば、無限小解析や複素数の厳密な基礎付けなど)。
しかしながら、世紀の転換点に至り、終にその時が訪れた。それは集合論のアンチノミーであった。数学の内部とされる所で矛盾が発生したのである。それは懐疑論者や経験論者により誇張され左に向けての革命の口実として利用された。「数学の内部とされる場所」と言い、「誇張」と言ったが、その理由は、(1) 矛盾は数学の内部ではなく、哲学との境界上で発生したのであり、また、(2) 完全に十分で、また、その理論を理解する者に取っては、ほとんど自明な方法で、この矛盾が解消された、からである。
しかしながら、この様な議論で時代精神に抗することは出来なかった。その結果、多くのあるいは殆どの数学者が、それ以前には真理の体系とされていたものを放棄し、その一部分だけを(それはそれぞれの数学者の気質次第で大小があったのだが)真理の体系として認め、それ以外の部分は良くても仮説的なものだ、つまり、正当的に行えることは、(正当化はできない)仮定から結論を導くということだけだ、と考える様になったのである。
人々は、数学の本質はすべてこのやり方で本当に保持できたものと信じ込んだ。[それというのも、仮定からの推論以外の数学者の関心事と言えば、何が遂行可能かということなのであるから。][注4]しかし、実際には、それでは数学は経験科学になってしまうのである。
もし、数学がそういうものならば、私が勝手に決めた公理から「すべての自然数は四つの平方数の和である」という定理[注5]を証明したとしても、この定理への反例は決して見つかることはないと確実には言えないことになる。なぜなら、私の公理は結局のところ矛盾している可能性があるのであり、私が言えることは良くても、多くの推論を行ったものの、今まで矛盾は発見されていないので、一定の確率でもって定理に反例はないだろう、ということだけなのであるから。
この様な数学の仮説的解釈を取ると、多くの問題は「命題Aは成り立つか、成り立たないか?」と言う形式を失う。仮定は全くの任意なのだから、常にAか˜Aのどちらかが示される、というような特殊な性質が成り立つことは期待できないのである。
この様なニヒリズム的結論は時代精神には全く持って合致するものだったのだが、この時、あるリアクションが起きた。それはもちろん哲学側からのものではなく数学側からのものだった。数学は、既に述べた様に、その本性上時代精神に相容れない。ヒルベルトの形式主義が標榜するところの、時代精神と数学の本性の双方を同時に充たすことを目指す、その奇妙な混合体が生まれたのである。
このヒルベルトの形式主義とは、次の様なものである:それは一面においては、今日の哲学を支配する思想に従い、それより数学が展開される所の公理は、それ自身においては何らの真理性を持たず、また、真理であることを知ることもできない、そして、その故に公理からの推論は仮説的な意味しか持たない、ということを受け入れる。また、推論とは(時代精神をさらに満足させるために)、意味的に理解されるのでない、特定のルールに従う単なる記号ゲームであると考える。
しかし、他方で、古来の右的数学の哲学と数学者の本能(Instinkt des Mathematikers)に従って
…<中略>…
ここまで述べてきたことは自明なことばかりであり、その様なことを述べたのは、これから述べることの理解のため重要だからであった。しかし、歴史の展開のその先の一歩は次のようなものだった。数学の古き右翼的な側面を、多かれ少なかれ時代精神に従う様な方法で救い出すことは不可能だと分かったのである。自然数論に話を限定しても、あらゆる数論的命題Aに対して、Aか˜Aが常に証明できるような公理と形式的ルールのシステムを見出すことは出来ないのである。また、さらに、ある程度包括的な数学の公理系に対して、明確な記号のコンビネーションについてのみの考察だけでは、その無矛盾性を証明することは不可能であり、なんらかの抽象的要素が必要なのである。唯物論と古典数学のヒルベルト的組み合わせはかくて不可能だと証明されたのである。…<以下略>…
注1.「客観法の理論や客観的審美的価値の理論」の原文は、"die des objektiven Rechts und objektiever aesthetischer Werte"である。カントの「実践理性批判」と「判断力批判」の理論を念頭に置いているのだろう。
注2.「客体化可能な事実の認識の可能性」の原文は、"die Möglichkeit einer Erkenntinis der objektivierbaren Sachverhalte"である。この部分は量子力学について語っていると思われるが、"objektivierbar"という言葉はハイゼンベルクが1933,4年におこなった講演 "Atomtheorie und Naturerkenntnis"で使われた"Objektivierbarkeit" 客体化可能性を意識したものであろう。この講演で、ハイゼンベルクは、古典物理学からの離脱を宣言し、物理学の理論が現象を完全に客観的に対象化しなくてはならないという考えを、本来物理学にはない考えで、150年ほど前に哲学から輸入された条件だと主張した(ちなみに輸入元はカントの「純粋理性批判」である)。そのとき、この条件を"Objektivierbarkeit"と言ったのである。ハイゼンベルクは、自身の不確定性原理に従い、量子力学では、観測が観測される現象から切り離せないため、「客体化可能性」、つまり、「現象を完全に客観的に対象化できる可能性」は放棄されるべきだと主張したのである。
注3.「理論的学というものの終焉」の原文は、"das Ende jeder theoretischen Wissenschaft"である。Wissenschaftは「科学」と訳されることが多く、全集の英訳でも all theotretical science と訳しているが、日本語の「科学」、英語の science に対して、ドイツ語の Wissenschaft が持つニュアンスからすると「学」と訳すべきと考えるので、その様にした。いずれにせよ、ゲーデルが親しい友人アインシュタインと同様に量子力学に違和感を持つ様な伝統的思索者であったことを示唆し、第二次世界大戦後のマルティン・ハイデガーが主張した「哲学の終焉」を想起させる興味深い言葉である。
注4.この[…]の部分の原文は[Indem ja was den Mathematiker interessiert neben dem Folgern aus jenen Annahmen, ist, was man vollziehen kann.]で、全集の編集方法からすれば、この部分にゲーデルが、この文を補足として追記していると理解できる。しかし、これが、その前の文への補足と考えるのは不自然で、さらにそのもうひとつ前の部分、つまり、数学が真実の体系であることを止め、命題間の推論関係だけの学になり、真理として保持されるのは数学の一部分だけになってしまったという、ブラウワー、ワイルの直観主義やヒルベルトの形式主義を意識したと思われる部分への補足と考えるのが自然である。この[…]の前の文の意味が「その様な数学者たちの考え方は自己欺瞞だった」というものなので(その原文は、Dabei schmeichelte man sich, daß man eigentlich alles wesentliche beibehalten hätte)、「いや、それでは数学が経験科学になるではないか」という[…]の直後の文に自然に繋がることからも、この[…]の文の位置は奇妙である。もし、この[…]が編集が示す位置でなく、その前の文のもうひとつ前にあるとしたら、ヒルベルトの有限の立場や直観主義数学が「何が遂行可能かということ」に対応すると理解して、「数学者というものは、命題間の推論関係だけで満足できず、本当に何が真理かに興味を持つものなのだ」という主張と考えることができて自然になる。しかし、どのように「補足」が成されているのか手書き原稿が確認できないので、ここでは全集の編集に従っておいた。
注5.この命題はラグランジェの四平方数定理と呼ばれる初等整数論の古い定理で、0, 1,... という自然数は、四つの自然数の平方(2乗)の和として表されるという定理である。詳細はWikipedia の記事などをを参照。