A. 文献学的注意
ver.2022.05.12
A. はじめに
ダヴィット・ヒルベルトの遺稿集はゲッチンゲン大学図書館と同大学数学研究所に収蔵されている(参考: Kalliope)。数学研究所の収蔵物は、ほとんどが1910年代から1920年代にかけての講義録であり、ヒルベルトの指導の元に助手や学生などが組織的に作成したものである。
一方、図書館には、ケーニヒスベルク時代のものを含む古い講義ノートや三冊の数学ノートなどの、主にヒルベルト自身が書き記した史料が保管されているが、ヒルベルトが受け取った書簡も含まれる。これらの史料には同図書館の方式に従い、組織的にインデックスが割り振られていてそれにより史料が同定できる。例えば我々が研究した数学ノートのインデックスは、Cod. Ms. Hilbert 600:1-3である。
A1. インデックス・システム
三つのノートブック Cod. Ms. Hilbert 600:1, Cod. Ms. Hilbert 600:2, Cod. Ms. Hilbert 600:3 を、それぞれ、ブック1、ブック2、ブック3と呼ぶことにする。これらのノートブックの見開きの右側ページには図A1の37の様にページ番号が入っている。左側のページには、ページ番号が入ってはいないが、これが36ページである。これらのページ番号付けには矛盾や乱れはないので、これをそのまま採用して、例えば図A1の左ページをページ36、右ページをページ37と呼ぶ。
ただし、ブック1、ブック3は、上の意味でのページ1で始まっているが、ブック2はページ番号が0と記された見開き右ページで始まっている。しかしながら、次の見開きの右ページのページ番号は1になっている。そのため、ブック2では最初のページをページ0aと呼び、そのページとページ1の間のページをページ0bと呼ぶこととする。
ノートの災害には横線が引かれており、それによりノートの範囲がわかる。例えば図A1のページ36の最初の行はページ35の最後のノートの続きであり、それが一行だけで終わっている。そして、4本の横線により三つのノートが示され、さらに最後のノートが下の横線なしで記述されている。これはこのノートがページ38にまで継続していることを示しており、そのノートはページ37で6行続き(ただし、1行目には挿入がある)、その下の下線によりこのノートが終る。そして、次のノートが始まるわけだが、それは可解性ノートである。そして、可解性ノートはページ37の最後の行の横線で終わる。
ただし、この横線によるノートの終の表示には、3冊のノートブックの内で、ひとつだけ例外がある。ブック1、ページ8には横線が全くないが、明らかにそのページ一つで一つのノートとして完結している。つまり、ページ7,9のノートとは関係がない。
我々はこの様な各ノートの一部分あるいは全体をリージョンと呼び、それにインデックスをつける。リージョンとは、一つのノートの一つのページに入っている部分のことである。例えば、ページ36には5つのリージョンがあり、それを上から順にリージョン1、リージョン2…と名付ける。たとえばページ36のリージョン1は、ページ35から続くノートの最後の一行である。そして、これをブック1、ページ36、リージョン1と呼ぶ。他も同様である。
このリージョンのインデックス・システムにより、我々はノートにもインデックスをつける。たとえば、可解性ノートはブック1、ページ37、リージョン2のノートである。一方で、可解性ノートの一つ前のノートは、ブック1、ページ36、リージョン5-ブック1、ページ38、リージョン1のノートである。
A2. 妻による清書
ヒルベルトのノートは、ヒルベルトが書いたものだけではなく、ヒルベルトの妻ケーテ Käthe が清書したものが、相当数含まれている。特にブック2のノートの多くはケーテにより清書されている。例えば、ブック2、ページ16、リージョン2の物理学の公理化ノート(本文、図3)がそれであり、それがこのノートの筆跡が図1,2のノートの筆跡と大きく異なる理由である。
ヒルベルトが F. クラインなどに送った手紙により、ケーテが婚約者であった時期からダーヴットの数学論文や手紙などを清書していたことが知られており(参照:Reid, Constance: Hilbert, Copernicus, An Imprint of Springer-Verlag, New York, 1996のp.46)、実際、遺稿集にはノートブック以外にもケーテにより清書された史料が相当数存在するのであるが、それらと図3のノートなどの筆跡が一致し、ノートさえもケーテが清書していたことが判る。ただし、理由は不明だが、ブック3になるとケーテによる清書はほぼなくなっている。
A3. 重要な前提
我々の研究では、何らかの理由で記述時期を推定できるノートで、特定のノートを「囲む」ことにより、その特定のノートの記述時期を区間で同定するという方法を取った。この方法が妥当であるためには、線形に並ぶリージョンの順番と、その記述時期が「同期」しているという前提が必要であるが、この前提に矛盾するノートが二つ存在する。その内容や筆跡からして、ブック2、ページ95、リージョン5は、前ページのブック2、ページ94、リージョン1に続いている、また、ブック2、ページ97、リージョン4は、ブック2、ページ96、リージョンに続いている。これら以外には、我々の前提に矛盾するものは発見されていないので、この二つは何らかの理由で「逆転」して記述されたものとし、それ以外では前提が成り立っているものとして、我々は記述時期の同定を行っている。もちろん、ノートに日付がないため、この前提の正しさを確認する手段はないが、翻刻・分析の結果は、知られている歴史上のイベントと良く同期しており、この前提は正しいものと思われる。
A4. 異綴り・誤綴りなどの扱いとコメント用括弧
翻刻中に編集用のコメントを挿入する必要があるときには、それを⟨と⟩で囲んである。また、ヒルベルトの手書きノートにはハッキリとは読めない箇所も少なくない。それらの箇所はコンテキストなどから推測して翻刻してあるが、その様な場合には推測による箇所を⟨⟨と⟩⟩で囲み、Coeffi⟨⟨cienten⟩⟩ の様に示した。
この Coefficienten は、現代のドイツ語正字法では、C が K, c が z であるべきだが、ヒルベルトは常に Coefficenten と綴っている。ドイツ語には多くの方言があり、特に東プロイセンの古都ケーニヒスベル出身のヒルベルトの場合は、現在は実質的に消滅してしまった低地プロイセン語 Niederpreußisch[注1] を使用していたためヒルベルトに取ってはこれが正しい綴りであった。同様に、ヒルベルトは、 ie を i と書く、たとえば、現代の正書方での definieren を definiren と書いているのだが、これは例えばヒルベルトと同じくケーニヒスベルク出身でそこで生涯のすべてを過ごした哲学者カントも用いていた綴りであり、誤綴りではなく異綴りと呼ぶべきものである。
そのため我々の翻刻では、これらの様に「異綴り」と思われるものは現代の標準綴りに変更することはせずオリジナルのままで表記した。ただし、definiren のように翻刻の際のミスと誤解される可能性があると判断した場合には、それを避けるために definiren ⟨definieren⟩ の様に標準綴りをコメントとして並記した。また、明らかに文字が欠けている場合、たとえば、3.7.1の Vorausges⟨e⟩tzt の e の様な場合は、この様にコメント付きで補った。手早く書いた続け書きなので、少しの手の動きの違いであるべき文字がほとんど見て取れないケースは非常に多く、また、この場合のように全く書かれていない様に見えることもある。abzuschliessen⟨手書きは abzuschiessen に見えるのだが、意味から小文字エルを書き損じたものと推測した⟩ コンマの不足などは、 ⟨,⟩の様にコメントとして補足した。文法的誤りについても同様、オリジナルのままとして、必要に応じてコメントを挿入したり、解説で説明を加えたりしている。
A5. 改行、削除、挿入、訂正、下線などの扱い方
古い史料を翻刻する際に、最もアカデミックな方式としては、(1)改行はそのまま維持する、(2)削除された文字列も翻刻し再現した上で削除されたことを明示する、(3)挿入された文字列は、それが分かるように明示する。削除して書き直した訂正は、(2)と(3)の組み合わせなので、同様に明示されることとなる。しかし、本サイトの翻刻では、これら三つの方式により正確を期すことより Web 上のテキストとしての読みやすさを優先し、(1)改行は維持しない。また、改行に伴う単語の複数行への分割 Wordbrechung(例えば、n行目行末の vermitteln をn行目の終に ver、次のn+1行目の先頭に mitteln と書いて表示すること)はHilbertが行った Wordbrechung も表示しない(ちなみに Hilbert はハイフン '-'でなく下線'_'を用いる)、(2)文字列の削除は、それが特に意味を持つと判断した場合を除き示さず、また、示す場合も翻刻内でなく、その分析・解説において示す、(3)挿入された文字列は翻刻では通常の行の一部として扱う。ただし、削除と同様、それが特に意味を持つと判断した場合は分析・解説において、それが追加された文字列であることを注意する、という方式を取った。ただし、下線は、強調を意味すると思われるので、忠実に再現してある。
本テキストを自らの研究ための史料として扱うには、以上の方式は不適当であるが、本テキストは歴史研究用のソースブックとしての役割を目指すものではなく、ある歴史観を示すために、まだ存在しないソースブックを自ら作成したものであり、また、本テキストの翻刻が妥当であるか否かを検証するために必要な原資料がGöttingen大学図書館・手稿貴重書グループから容易に入手できることと、ソースブックが現在出版準備中であり(こちらを参照)、我々が翻刻したノートのいくつかも他の研究者により翻刻されて掲載されることが期待されることから、この方式の方が適当と考えた。
注1.ヒルベルトが使用していた低地プロイセン語は、第二次世界大戦まで存在していた東プロイセン地方で使われていたドイツ語である(1928年の東プロイセンの都、ケーニヒスベルク)。ヒルベルト自身の1930年の有名なケーニヒスベルク講演 Naturerkennen und Logik は、実際の講演後にその一部がラジオ局でレコードに録音された。その録音をYouTube動画にしたものがこちらであり、ヒルベルトが東プロイセン訛で話しているのを聞くことができる。
第二次世界大戦の敗戦後、東プロイセンのドイツ人は、この地を追われ、東プロイセンは現在はポーランドやロシアの一部となっている。そのため、現在では、低地プロイセン語を使う人はほとんどいなくなっているようだ。しかし、東プロイセンが消滅した後にも、東プロイセンの人々はドイツ本国などに移り住み、低地プロイセン語を使い続けたため、ヒルベルトの講演の他にも東プロイセン訛で話す様子が録音されたものが残っている(YouTube より 例1、例2)。