公理主義、形式主義、証明論、構造主義 ver. 2000.1.25

公理主義、形式主義、証明論、構造主義。数学の好きな人ならば、一度は聞いた言葉ばかりでしょう。特にブルバキの時代を経験した40代以上の世代には馴染み深い言葉ばかりに違いありません。しかし、この言葉の理解の仕方は人によって随分ちがうようなのです。21世紀へのカウントダウンの時代の現在からみれば、何れも20世紀の遺物的な古臭い言葉ではありますが、ブルバキに強く影響を受けた世代の一人として、20世紀が終わる前に言葉の後始末をしておこうと思います。

この調査を文章にした記事を、数学セミナーにご無理をお願いして、2000年2月号にのせていただきました。数学セミナー編集部に深く感謝いたします。その数学セミナーの記事から、このページにいらっしゃった方も多いことと思います。この記事は、3月号が出た時点で掲載する予定です。

ここに報告する調査やれ私の考えは、多くの方のご協力おかげです。謝辞を書き始めたら、長くなってしまったので、途中で止めました。(^^;) 数学セミナーには、ほぼ、全員の方のお名前があります。その内、完全なリストを作成しますが、とりあえず、お世話になりました方々、本当にありがとうございました。 m0m

と書いた後で、ヒルベルトの公理論・証明論と不変式論の関係を追加しました。これについて考えることになったきっかけは、広島大学の木村俊一先生の「証明論とヒルベルトの不変式論に思想的関係があるのではないか」というサジェスチョンと、それに関係して教えていただいた文献です。これを調べたおかげで、長年疑問だった、ヒルベルトの完全性、決定可能性についての奇妙な記述に納得のいく解釈を与えることができました。これについては近々発表する予定です。

「公理主義」という言葉

いわゆるニューマス(New Math)の洗礼を受けた世代で、少しでも数学に興味を持っていた人ならば、公理主義という言葉を一度は聞いたことがあるでしょう。森毅先生の”数学の歴史”(講談社学術文庫)にも、嫌というほど「公理主義」という言葉がでてきます。論理主義、形式主義、直観主義、そして、それより伝統も実績もある公理主義。基礎論の思想とはちょっと違うけれど、形式主義者ヒルベルトが始めて、ブルバキが継承し、構造主義を生み、ニューマスのバックボーンとなった数学思想、というのが大体の「公理主義」の理解でしょう。岩波数学辞典にも載っています。英訳は、axiomatism となっており、索引にでています。三省堂の広辞林にも axiomatism という英訳があります。EB科学技術用語大辞典(電子ブック)にも axiomatism があります。

でも、それは”日本語”だったのです! 知ってました?

その証拠とおぼしきものをお見せしましょう。

 

困ったときの Web 頼み  

まず、Web で検索してみます。その結果は、御覧のとおりです。検索結果は、検索した日や、方法で微妙に変わります。ご自分でもやってみてください。安部公房もでてきます。面白いですよ!

 
国内サーチエンジンによる「公理主義」の検索(1999/06/28) 
エンジン名 URL ヒット数 備考
GOO http://www.goo.ne.jp/ 67 「公理主義」でサーチ、安部公房がでてきて吃驚!
EXCITE http://www.excite.co.jp/ 28 パワーサーチでフレーズ「公理主義」を検索
Fresh Eye http://www.fresheye.com/ 0 「公理主義」でサーチ
LYCOS http://www.lycos.co.jp 47 スーパーサーチでフレーズ「公理主義」を検索

 
国内サーチエンジンによる「公理的方法」の検索(1999/06/28) 
エンジン名 URL ヒット数 備考
GOO http://www.goo.ne.jp/ 25 「公理的方法」でサーチ
EXCITE http://www.excite.co.jp/ 8 パワーサーチでフレーズ「公理的方法」を検索
Fresh Eye http://www.fresheye.com/ 1 「公理的方法」でサーチ
LYCOS http://www.lycos.co.jp 15 スーパーサーチでフレーズ「公理的方法」を検索

 
国内サーチエンジンによる「公理論」の検索(1999/06/28) 
エンジン名 URL ヒット数 備考
GOO http://www.goo.ne.jp/ 84 「公理論」でサーチ
EXCITE http://www.excite.co.jp/ 14 パワーサーチでフレーズ「公理主義」を検索、重複多し
Fresh Eye http://www.fresheye.com/ 0 (「公理」ならばあり)
LYCOS http://www.lycos.co.jp 70 スーパーサーチでフレーズ「公理論」を検索

 
 AltaVista による "axiomatism, aximatic method, axiomatics" などの検索(1999/06/28) 
検索キーワード ヒット数 検索言語の範囲 備考
axiomatism 5 any languages アメリカ、スウェーデン、オランダ各1件、韓国2件
"axiomatic method" 54 any languages  
axiomatics 1060 any languages  
aximatik 240 German axiomatik は Axiomatik にもマッチする
"aximatische Methode" 96 German  

 

これを見れば国内でも公理論の方が優勢ですが、日本では公理主義も負けず劣らず使われています。ところが、 axiomatics やaxiomatik が、合わせて1300 件なのに、axiomatism は、世界中でわずか 5 件しかありません。その内訳は、アメリカ、スウェーデン、オランダ各1件、韓国2件 でした。アメリカ、スウェーデンの使用例は、ホームページの著者に連絡がつきましたが、 どちらも誤用でした。

また、Kaist のKoh Bong-Gyun さんと、留学生の姜さんの御蔭で、 韓国では公理主義という言葉が、少数ながら使われていることがわかりました。 Koh さんに教えてもらい、姜さんの協力で買うことができた韓国の基礎論の教科書「数学基礎論の理解」には、axiomatism という英語もあります[全ページズームアップ]。 しかし、 韓国の数学界には日本の大学で勉強された方がかなりあるとのことで、その影響だと考え るのが妥当でしょう。「数学基礎論の理解」の著者は、すでに定年で引退されており、連絡はあきらめましたが、参考文献には、英語の図書に混じって、日本語で「竹内啓編,無限 と 有限 1982 東京大學出版会會」(空白、旧字等ママ)とあります。著者は日本語をご存知の方なのでしょう。

この他に、オランダの経済学のホームページのaxiomatism が不明でし たが、これも、誤用の確率が高そうです。

面白かったのは、goo で公理主義をサーチしたら、在命中はノーベル文学賞の呼び名が高 かった小説家安部公房がでてきたことです。個人のページで見付けたのですが、安部公房 が短篇中で「公理主義」を使っているのです。

「現代の都市は、ヒューマニズムの上に、完 全な個人の理論で設計され、金塊の代わりに紙片が通用し得る町………必然性と可能性を 信用貸しで両替できる町………湧いてくる矛盾を公理主義的な循環論法によって生理学的 に排泄する下水装置………<以下略>(安部公房全集「異端者の告発」より抜粋。「………」 も原文通り)」

さすがに公理主義の本質を鋭く捉えています。柄谷行人さんの先駆とも言えるかもしれません。私は安部公房の小説を読んだことはありませんが、きっとすばらしい思索家だったのでしょうね。

 

源流を探る

安部公房の短篇は、第2次世界大戦が終って、ほどないころの作品です。安部が、どこから「公理主義」という言葉を知ったか、推測にすぎませんが、安部が学生だった戦前にポピュラーだった数学解説書に、1933年の高木貞治の「数学雑談」があります。これにはラッセル・パラドックス、ブラリ=フォルティ・パラドックスの詳しい解説がありますが、公理主義は周知の言葉のように使われています。戦前には、すでに、インテレクチャルの間では常識になっていた言葉なのかもしれません。

安部公房は戦前の中学時代、数学の才能を発揮 していたとも聞きます。そういう数学好きの学生が読みそうな本に、岩波講座数学のシリーズがありました。現在の岩波書店の数学のシリーズでは、応用数学のシリーズ以外では、論理学や基礎論が全くでてきません。集合論が、数学を記述する言語として登場するだけです。 ところが、これが戦前のシリーズでは違うのです。補足的な冊子ではあるものの、数学基礎論と,数学と哲学の関係を書いた冊子が収録されています。高木が「数学雑談」でデデキントの自然数論を紹介しているように、数学基礎論は、戦前の新数学であり、今で言えば、カオス、フラクタル、複雑系理論のような伝統的数学の枠に収まりきらない流行にのった分野であったことが推察されます。

基礎論の歴史を調べていると、これを裏打ちするような記述にあうことがあります。1904年のハイデルベルグの国際数学者会議で、発表されたケーニッヒの連続体仮説を否定的解決が新聞報道されたとか(その数日後に、ツェルメロにより、その証明自体が否定されます)、ブラウワーのベルリン講義が新聞報道されたとか、マスコミ受けする基礎論に出くわすことがかなりあるのです。基礎論の問題が、まだ、数学が哲学と未分化であった20世紀初頭には、数学者以外の興味をも引く問題であったことは推測できます。実際、1920年代のヒルベルト計画でも、その哲学を担当した Bernays が、哲学者 Becker や、Muller と論争を行い、それによりメタ数学で使われる用語を変更したりしています。

高木の「数学雑談」のころ(昭和7年)までに、公理主義という言葉が、 知識人の間では、珍しい言葉では無くなっていたと考えられる最大の証拠は、大正11年刊行の岩波哲学辞典に公理主義の項かもしれません。

公理主義(英 Axiomatic 仏 Axiomatique 独 Axiomatik) 数学の理論を 出来る限り純正厳正に組織する為め其根本概念の経験的事実に対する関係を全然抽離し、而して其等が根本概念たる以上真の意味に於て定義する能わざるものなることを 明白に認めて、妄に其経験的事実による記述を以て定義の名を冒すことを廃し、唯其相互関係、其結合の方法等を規定する公理(或いは公準)の系統のみを掲げ、斯かる公理 (公準)系統に由つて規定せらるる対象の認識として其により論証せらるる対象の命題 のみを数学の内容と認める数学研究の立脚地を公理主義といふ。<後略>(大正14年 刊行、岩波哲学辞典、増訂再版より)

古い文献を調べていると、岩波書店の日本の文化史における巨大な影響力がヒシヒシと伝わってきます。少し高尚な本ですと、あれも岩波、これも岩波なのです。当然、岩波哲学辞典が、戦前の哲学界に大きい影響をもっていたことが推測され、この公理主義の項を通して、その言葉がインテレクチャルの間に当然のように浸透して行ったと推測することは不自然ではないでしょう。

この公理主義の項では、英文が、axiomaitcs でなく、axiomaic なのがご愛嬌ですが、公理主義は、Axiomatisumus でなく、Axiomatik のことであったことがわかります。では、誰が Axiomatik を公理主義と訳したか。それが問題となります。

実は、この項の執筆者田邊元こそ、日本にヒルベルトの Axiomatik を紹介し、また、公理主義を、Axiomatik の訳語として使い始め広めた人だったのです。

たなべ‐はじめ【田辺元】(岩波広辞苑より引用)
哲学者。東京生れ。京大教授。新カント派に近い科学哲学の立場に立ち、のち西田幾多郎の影響をうけて絶対弁証法に到達、晩年は宗教哲学に到る。著「科学概論」「ヘーゲル哲学と弁証法」など。文化勲章。(1885〜1962)

日本初の本格的数理哲学者とでも言うべき田辺は、大正3〜6年ころ、数理哲学に関する一連の論文を発表しています。西暦で言えば1915年〜18年くらい、第1次世界大戦の勃発が1914年でドイツが世界最先端の化学力を背景に、毒ガス兵器を使いはじめるのがこのころです(第1次世界大戦:1914年7月-1918年11月)。日本は世界大戦の特需成金にわき、欧米からの論文が絶えた数学界では、高木貞治が類体論の建設を自ら始めています。

そして、数学基礎論でいえば、ブラウワーが数年前(1912)に、形式主義、直観主義という分類を使いはじめ、そして直観主義解析学がそろそろ具体的な形をあらわし始めます。1904年以来、基礎の問題には長い沈黙を保っていたヒルベルトは、1917年9月、チューリッヒのスイス数学会において"Axiomatisches Denken"(公理的思惟)という講演を行います。その春にチューリッヒを一度訪れていたヒルベルトは、そこでポリヤとベルナイスに合い、これから始まる基礎論研究の助手として哲学に経験のあったベルナイスを選びゲッチンゲンに呼び寄せる、そいういう時代なのです。

こういう時代に田邊は、日本にヨーロッパの基礎論研究を幅広く紹介しています。それは数学者からみれば、馴染みのない新カント主義マールブルグ学派などの名前が多く見られる極めて哲学的なもので、専門化の進んだ現代では、とても数学者に影響力をもてるようなものではありません。しかし、当時は事情が違います。先ほど触れた岩波講座数学にも田邊による「數學ト哲學トノ關係」, 1934, 40p(岩波講座数学 ; 9. 別項)という小冊子があり、全編、哲学的議論が繰り広げられています。現代の技術的で専門化された岩波数学講座に、哲学を論じる1冊を収録すれば、それは非常に異様なものになります。しかし、田邊が京都帝国大学の哲学科にうつるまで、東北帝国大学の理科大学、つまり、理学部で、科学概論を担当していたことを考えても、当時としては、数学講座に哲学についての小冊子あることは異様なことでは無かったのでしょう。そして、それは当然数学者に影響力を持っていたと考えられます。

こういう時代的背景のもとに、田邊は、最初、Axiomatik を、「公理説」と訳して紹介します。大正4年発行の、哲学雑誌第337号掲載の自然数論(上)に、Axiomatik は 公理説 という訳語で紹介されているのです。 しかし、大正6年発行の 哲学研究第13号数理の認識では、この訳語を捨てて公理主義と訳しています。公理主義という言葉は、京都帝国大学文科大学(現文学部)の西田幾多郎を中心にして発行されていた専門誌「哲学研究」のなかで大正5年に生まれたとして、まず、間違いないでしょう。

田邊の著作

この間の田辺の論説はやがて、「科学概論」、「数理哲学研究」(岩波書店)という二つの著書を生みます。「科学概論」は、数学のみに限らず科学一般についての啓蒙書です。時代が違うので確かなことは言えませんが、大正7年に発刊で大正12年には19版がでていますから、おそらく大変なベストセラーだったのでしょう。305ページ、縦書き、図無し、定価は2円80銭。そば一盛が7〜10銭くらいの時代です。雪の結晶の研究で有名な中谷宇吉郎が物理に進んだきっかけが、この本の影響だったというエピソードも、この本のポピュラリティを示唆します。

この本のテーマは科学一般ですから、でてくるのは1箇所だけですが、この本に公理主義という言葉があり、1、2ページかけて説明されています。この本も、「公理主義」という言葉が広く知れわたる原因を作ったに違いありません。

一方の「数理哲学研究」は、大正14年の発刊で、田邊の学位論文です。これには大正3〜6年の原論文がほぼそのまま掲載されていますが、この著書では「公理説」が「公理主義」に変更され、頻繁に出現します。そして、前書きでは、「ブロウアー」の新説に注目していると書いています。

この後に公理主義がでてくる田邊の著作としては、先に説明した岩波講座数学に収録されている数学と哲学の本などがあります。 もちろん、この影響もあるでしょう。というより、数学好きだったという安部公房が影響を受けたのは、このシリーズの本である可能性の方が高いでしょう。一昔前の世代には懐かしい高木貞治の「解析概論」も、もとはと言えば、このシリーズの1冊だったのです。

この田邊の「公理主義」が広まっていく様子をうかがえる一つの状況証拠があります。京都帝国大学に移る大正8 年まで、田辺は東北帝国大学理科大学(現東北大学理学部) で 講師として科学概論を教えています。このとき、数学科のメンバーとの交流があったこと が知られていますが、その内の一人に私費を投じて東北数学雑誌を創刊した林鶴一がいました。林は、当時の数学教育の重鎮であったらしく、実に多くの教科書や専門書を書き訳しています。その林が、田邊が公理主義を使い始めた直後の大正7 年刊行の「射影幾何学」で、それ以前には使っていない公理主義という言葉を、突然、説明もなく使い始めているのです。これも田辺の影響と考えれば自然なことだといえるでしょう。

以上のような事実から、公理主義という言葉が、Axiomatik の訳語として発生し、使われていったことが見て取れます。哲学にも詳しい、山下純一さんや長岡科学技術大学院生の木村さんは、本当に田辺が震源地であったか、幾分の疑問を持っておられるようです。つまり、田辺が誰かの影響で、「公理説」を止め「公理主義」にしたのではないか、ということです。これは確かに可能性はあることですが、戦前の関係する文献を直接調べた私の感触からすると、その可能性は捨てきれないものの、「公理主義」という言葉が広まったのが、田辺の活動の故であったというのは、まず、間違いの無いことと思われます。誰が、言葉を発明したかという点は、それに比べれば、大きな問題ではないでしょう。公理主義という言葉が、数学者でなく、数学に深く関わっていた哲学者により広められた。しかも、数学の世界を越えて広まり、その思想が安部公房の小編のように、社会状況を表す言葉として的確に使用される。このことの方に、数学基礎論がもつ特殊な位置を示す意義があります。

では、田辺は、何故、わざわざ「説」を「主義」にかえてしまったのでしょうか?これについては、残念ながら、有力の説明がみつかりません。しかし、田辺が公理主義の項を執筆した岩波哲学辞典を調べてみますと、-ik, -ismus, theorie, -lehre などが、主義、論、説、学などの、さまざま日本語に入り乱れるように訳されているのが分かります。田辺も、先に引用した大正4 年の論文では、公理説の他に、記号説、 順序説、部類説という言葉を使っていますが、部類説がKlassentheorie であるように、こ の「説」は、全部、「理論」theorie の訳なのです。大正時代には、主義、説などは、現代 の用法より曖昧に混同されていたと思った方がよさそうです。

しかし、外来専門用語はほとんど英語に統一されてしまい、主義、説などの意味も定着して、そういう混乱が見られない現代にまで、なぜ、「公理主義」は生き残り、また、 逆にaxiomatism という和製英語まで生み出してしまったのでしょうか。ヒルベルトの axiomatische Methode, Axiomatik は、もともと思想的意味合いが大きく、中立的響きの 強い公理的方法, 公理論より、公理主義という言葉の方が適当であったからかもしれません。

このことと日本のニューマスの集団が、公理主義という言葉を、何故使ったかという事実が私には不思議です。単に岩波哲学辞典を引いたから、岩波講座数学を読んだからとも言えます。しかし、それだけで済ませてしまうのは、ちょっと気が引けます。ニューマスを指導された世代は、70代で、まだ、ご健在の方が多いので、是非、お聞きしてみたいところです。とくに超博識の森毅先生が、どうして公理主義と平気で書いてしまったか、ここはちょっと興味のあるところです。もっとも、変幻自在の森一刀流ならば、「どっちでもえーやないか」の一言で済ませられてしまいそうですが。(^^;)

この「主義」という接尾語が、ヒルベルトが方法論としての面を強調しようとした「公理的方法」(Axiomatische Methode) が、日本では、形式主義、直観主義、論理主義という、20世紀初頭の数学基礎論の3思想と並置されることが多いことの原因になっていることは確かでしょう。実際、これらの言葉と、証明論、メタ数学などの関係は実に複雑で、数学の一般向けの本というと、ゲーデルものの多い最近ですが、その混同ぶりには目を覆いたくなることもあります。さらには、これにブルバキの構造主義が絡めば、もっと大変です。そこで、次に、この言葉の整理をしてみることにします。

公理的方法、公理論、公理主義

まず、最初に公理的方法、公理論と公理主義の整理をします。公理主義は、Axiomatik の訳として使われ始めた言葉ですが、今では、その原語とは一応別の言葉になっているとするのが妥当でしょう。岩波広辞苑では、公理的方法 (axiomatische Methode, axiomatic method)、公理論(Axiomatik, axiomatic)、そして、公理主義は、次のように説明されています。

  1. こうりてき‐ほうほう【公理的方法】‥ハウハフ (axiomatic method) ある科学領域の公理系を見出し、それと特定の推理規則とに基づいて、その領域のすべての命題を演繹的に組みあげる方法。公理論。
  2. こうり‐ろん【公理論】 (axiomatic theory) 公理的方法に同じ。
  3. こうり‐しゅぎ【公理主義】 (1)数学を公理系の上に純論理的に構成しようとする主張。ヒルベルトにはじまる。_直観主義。 (2)公理的方法を唯一の科学的方法と見なし、すべての科学はこの方法によって建設されるべきであるという主張。

方法論としての「公理的方法」、その同義語としての「公理論」、そして、主義としての「公理主義」、この定義で自然でしょう。ただし、すでに説明したように、公理主義という言葉は、日本特有のものです。ヒルベルトの公理論には、あきらかに主義の要素がありますから、この分離は、むしろ怪我の功名です。公理主義という言葉は、ヒルベルトの公理論がもつ強い哲学的要素をうまく現しているものとして使えばよいのでしょう。したがって、axiomatism という和製英語を駆逐さえしてしまえば、現状でも一応は問題ないでしょう。要するに、おおよそ広辞苑の記述で良いといえます。(ただし、広辞苑全体でみると、実は形式主義と公理主義の混同という大きな問題があります。)

念のため、もともとの、Axiomatik の意味は、この公理論と公理主義のどちらに近いか、ドイツ語の辞書を調べてみます。 私の手元にある Wahrig Deutshces Worterbuch では、

Axiomatik (f. 20:unz.) Lehere von den Axiomen

となっています。Lehre というのは「学」ですので、「公理に関する学」ということです。小さな辞書ですので、そっけないのですが、Duben のような大きな辞書を引いても五十歩百歩です(ただ、音声学における Axiomatik というのがあるらしく、そういう説明がでてはきますが)。これらの説明からすると、やはり、Axiomatik の和訳は主義(-isumus)でなく、公理論か公理学が適当です。

ところで、 Axiomatik という言葉がドイツ語にでてくるのは、ヒルベルトの公理的方法よりかなりあとであることは注意しておく必要があります。ヒルベルトは、1920年頃まで、Axiomatik という言葉を使っていません。aximatische Methode のように言っているのです。こう言えば、最初から主義にはなりません。しかし、後で説明するように、その内容は、明らかに哲学的なものなのです。田邊が主義と訳したのは、ある意味では適切です。ただ、妙なねじれが生じたのは否定できません。田邊が、「…このヒルベルトの方法を、ヒルベルトは公理論と呼ぶ。しかし、その哲学性・思想性はあきらかであるので、その思想を公理主義とよぶ」とでも書いてくれれば、問題は無かったのですが。

不思議なのは、田邊がどこから Axiomatik という言葉を知ったかです。私の知るかぎりでは、ヒルベルトが Axiomatik という言葉を使うようより早そうです。あるいは、フランス語の axiomatique, 英語の axiomatics からドイツ語に直したか、ヒルベルト以外の誰かが Axiomatik と使ったものを訳したという可能性もあります。

海外ではヒルベルトの公理主義を何と呼ぶ?

海外では公理論、公理的方法という言葉はありますが、公理主義という言葉はありません。しかし、そうすると、「では、ヒルベルトの主義としての公理主義という言葉を海外ではなんと言っているのだ?」という疑問が生じます。つまり、「主義」を強調したいときにはどうするのでしょうか?

海外では、日本の公理主義にあたるものは、axiomatic movement などということもありますが、formalism と書かれることが多いようです。しかし、formalism、形式主義という言葉は、海外でも日本でも、ヒルベルトの証明論を表す言葉として使われることの方が多いので、これは紛らわしいことになります。証明論では数学的公理、論理的公理、論理的推論のすべてが記号化され、その記号の形式的運行により数学が表現されます。そして、それを超数学という位置を与えられた限定された数学的手法で論じ、無矛盾であるものを数学の理論として許容する。それにより数学の基礎付けがなされると考える思想が数学基礎論でいう形式主義です。

ところが、形式的体系も存在しなかった1899年の「幾何学基礎論」は、この狭い意味での formalism の作品ではないことになります。しかし、もし「幾何学基礎論」の背景にある思想は何かとなると、やはり、公理的方法では似つかわしくないで、formalism ということになってしまいます。

このように海外では形式主義 formalism という言葉に二つの使い方があるのです。そこでヒルベルト計画の哲学的研究でしられるノートルダム大学のデトレフセン(Detlefsen)は、幾何学基礎論などの formalism を、前期形式主義、証明論を後期形式主義とよぶそうです。前期には数学の公理のみが「抽象化」されており、後期には論理まで「抽象化」されるという意味での使いわけです。広く使われているとは思えませんが、適切な言葉です。

日本の数学基礎論の人達は(私も含めて)、このデトレフセンの2分類を公理主義、形式主義と呼んでいるのが普通のようです。しかし、数学基礎論以外の数学者の方と話してみると、必ずしも、そういう使い分けがはっきり意識されてはいないようです。

ヒルベルトの公理論とブルバキ構造主義

公理主義という言葉は、基礎論以外でも良く聞かれます。むしろ、日本の数学シーンでは、ブルバキと絡めて公理主義と言う方が多いのでしょう。日本で公理主義と聞いたら、数学基礎論の研究者が使う、前期形式主義としての公理主義より、森毅先生を始めとするブルバキ原論の翻訳者の集団が広めたと思われる「構造主義としての公理主義」と考えたほうが、あたる確率は高いに違いありません。実は中学時代にニューマスに感染した私も、本当は「公理主義」を、このイメージで捉えており、ヒルベルトの公理論も、それだろうと信じていたのです。しかし、ブルバキ自身が言うように、これは違うのです。

ブルバキは公理的方法が形式主義と呼ばれることを嘆き、ヒルベルト、デデキント、ペアノたちの「公理的方法」を、自分(たち)の公理的方法と区別して、logical formalism と呼んでいます。これを日本語にすると論理形式主義です。ブルバキの公理主義とヒルベルトの論理形式主義は大きく違うのです。しかし、ブルバキも、彼らの思想とヒルベルトたちの思想を同じ axiomatic methods の名前の下で認識しています。何が同じで何が違うのでしょうか。次にこれを整理しましょう。

ヒルベルトの公理論

まず、ヒルベルトの公理的方法が何であったのか、これから考えてみます。

ヒルベルトの論文の中で、axiomatische Methode が現れる出版された文献上の最初のものは、公理主義のバイブルとされることが多い「幾何学基礎論」(1899)かと思うと、実は、この本には、そういう方法論的な議論は全くありません。それは実際に公理論という方法論を実行してみせているのであって、その方法論について論じるところは極めてすくないのです。

ヒルベルトの著作で、最初に公理的方法という言葉が現れるのは、1900年に出版された「数概念について」 Uber den Zahlbegriff, Jahresbericht der Deutcshen Mathematiker-Vereinigung, Bd. 8, 1900 です。この短い論文の中で、ヒルベルトは、現在の我々の言葉で言えば、アルキメデス完備順序体と呼ばれる公理系を導入します。その導入の仕方は、

  1. 体の公理
  2. 順序(順序体)の公理
  3. アルキメデスの公理: 「任意の a, b >0 に対して、a+a+....+a > b と a を何回か加えて b より大きくできる」
  4. 完全性公理: 1 から 3 の公理を保ったまま、考えている体を真に拡張することはできない

というものです。4の公理が、非常に不思議な形をしていますが、これは現代的に言えば、1、2、3の公理、つまり、アルキメデス順序体であって、その構造の内で極大なものという公理と理解することができます。つまり、ヒルベルトの「実数の公理系」とは、極大アルキメデス順序体の公理なのです。

こういう極大な代数は、同型を除いて一意にきまり、それがデデキントカットやカントールの基本列で定義された順序体と同型になることは、比較的簡単に証明することができますし、その証明のスケッチは、「幾何学基礎」に実質的に含まれています。

1899年に書かれ、1900年に発表された、この Uber den Zahlbegriff の目的は、「幾何学基礎論」において、幾何学の公理系の無矛盾性が最終的に帰着された実数の体系を陽に公理化し、その無矛盾性を論じるためでした。ユークリッド幾何学は実数論に相対的に無矛盾なので、最後に残されているものが実数論の無矛盾性だったわけです。

この論文は、ヒルベルトは、実数などの概念を表現する二つの方法に名前をつけています。それが、生成的方法(genetische Methode)と、公理的方法(axiomatische Methode)す。前者が1,2,3,…と数を構成したり、数の組として整数や有理数を作り、また、カットや基本列で実数を作るという方法で、それは「算術」の原理として説明されています。そして、もう一方の公理的方法、ヒルベルトによれば、これが幾何学の方法であり、対象の存在から始め、それの満たすべき条件(公理)により、その対象の構造を語る(対象間に関係をつける)という方法です。ヒルベルトは、この二つの方法を比較し、前者は教育的発見的には優れているものの、最終的に理論をプリゼンテーションするためとか、それを完全に論理的に基礎付けるには公理的方法が優れている、とします。

ヒルベルトは、それまでの常識のように、生成的方法が算術の方法であり、公理的方法が幾何学の方法にとどまるかという問題をたて、算術の問題に摘要された公理的方法として、上記の公理系を述べます。現代的立場からみれば、ヒルベルトは、実数という「構造」を、彼の公理系により定義したのです。つまり、この時点での公理系は、素朴集合論の中で構造を記述するための条件の集まりと考えることができます。

これはブルバキの構造主義、そのものに見えます。しかし、この二つには決定的な差があります。ヒルベルトは、その公理論において、常に公理系が完全であることを要求したのです。この完全性は、正しい事実は、すべて証明できることとして定式化されていますが、幾何学基礎論では、その公理系の完全性は、今日、範疇性(categoricity)と呼ばれる概念を使う方法、つまり、公理系を満たす二つの実体(構造)が、常に同型となることにより保証されています。ヒルベルトは、彼の提唱する公理的方法の公理系がまともなものであるための条件として、無矛盾性のみならず完全性も要求したのです。

これはブルバキ構造主義にドップリ浸っている我々からみると奇妙です。構造主義の洗礼を受けた世代に「公理の例をあげて」といえば、群、環、体の公理、従序の公理、開集合の公理、とスラスラでてくることでしょう。しかし、ヒルベルトにとっては、少し極端に言えば、これらは完全な公理ではないのです。

ヒルベルトが、その公理論をデデキントカットによる実数の定義のような生成的定義と比較していることに注意してください。生成的に定義されるのは、「the 実数」です。定義される構造は、当然一つだけなのです。ヒルベルトは、公理的方法を、そういう「the 実数」を作り出す集合論的の代替物として提示しているのです。ですから、群、環、体のようにモデルが一意に決まらないものは、彼のこのときの論文の公理論の範囲には入っていないのです。

ヒルベルトの公理論における公理は、たとえ、その形式、その表示の仕方が、現代の抽象代数学や抽象位相幾何学にみられるような一般的構造の条件を与えるもののようにみえても、実数体のように唯一絶対の数学的存在を記述するためのものです。その理由は、ヒルベルト自身の意図では、それは群論、可換環論、位相空間論などの抽象数学を展開する数学の技法ではなく、数学における存在論を解消するための方法論だったのです。(もちろん、後で論じるように、これとヒルベルトの公理論の実際の影響が何であったかは別の話です。優れた思想というものは、本人に思いとは別な方向に進化する。その実例がここにもあるのです。)

実数という存在がもしあるとすると、範疇性が成り立てば、それは、その 「the 実数」と区別がつかないことになります。そのために、「ある事実が公理から証明できる」ということを、「公理を満たすシステムで、その事実が成り立つ」と解釈すれば、公理系が範疇的であることはヒルベルトの意味での完全性を満たすことになります。これにより、「the 実数」という存在は、公理系という「条件の有限個のあつまり」 に置きかえられ、「決まり事」に化します。そして、この「決まり事」としての条件のなかでの理論展開こそ数学であるというコンセンサスさえ得られれば、「the 実数」という「実体」を捨て去ることができます。

ヒルベルトが若き私講師として、その数学を模索していたころ、ドイツ数学界の一つの頂点は、クロネッカーでした。そして、ヒルベルトの初期の仕事をみると、クロネッカーからの非常に大きな影響が見られます。例えば、彼の存在を数学界にしらしめた不変式論の研究は、クロネッカーの代数的整数論の中にある代数幾何学的思考法を利用して実行されています。特に、ヒルベルトの名を一躍有名にしたケーリー・ゴルダンの問題の解決の要は、有限基底定理、つまり、クロネッカーの「モジュール」という概念を陰に使ってなされているのです。その基底定理は、クロネッカーが否定した多項式の勝手な無限集合(現代風に言えば任意のイデアル)が有限個の多項式から生成されるクロネッカーの本来の意味の「モジュール」に含まれることを示すことでした。そして、ヒルベルトの次の大作、「数論報告」 Zahlbericht では、クロネッカーの仕事が重要なテーマの一つだったのは言うまでもありません。「数論報告」の目的の一つは、デデキントの超限的方法により、クンマー、クロネッカーの「計算主義的傾向」を代数的整数論から消し去ることであったとさえ言われています。

クロネッカーは1891年に亡くなっていますが、ヒルベルトの基礎論関係の著作をみると、1930年ころになっても、このクロネッカーの影をみることができます。ヒルベルトはブラウワーでなくクロネッカーを直観主義の代表者とみなしているかのようです。ヒルベルトにとって、クロネッカーは生涯の「敵」だったようです。

このヒルベルトの「目の上のタンコブ」ともいうべきクロネッカーは、整数以外は見とめず、実数は人間が勝手に作ったものだと主張したことで知られています。「神が整数を作った、その他のものは全て人間の技である」、これはヒルベルトも、その Zahlbericht の前書きに引用したクロネッカーのモットーでした。それが如何に過激であったかは、円周率πの存在さえも認めなかったことからわかります。そして、カントールとクロネッカーの抗争は数学史上有名な闘いの一つです。

Uber den Zahlbegriff の短い数ページの論文の最後に、このクロネッカーの懐疑論への、ヒルベルトの答えが登場します。それが、ヒルベルトの存在論としての公理論です。このときこそ、ヒルベルトがクロネッカーの思想に答えるために、公理論によって数学から実体についての議論を完全に消し去ろうとした最初の瞬間だったといえます:

上記の公理[実数の公理]の無矛盾性を証明するには、良く知られた推論方法を適当に変更して使うだけすむ。この証明を、私は実数の全体の存在の証明ともみなす。あるいは、これをカントールの言い方にならって実数のシステムが無矛盾な(完成された)集合であることの証明と言ってもよい。

このように解釈するとき、全ての実数の全体、そして無限集合一般にたいして投げかけられているような疑念は、その正当性を全く失う; というのは、実数の集合というものにより、それによって基本列の要素が進行していくような、全ての可能な規則を考える必要はなく、上で説明したように、公理 I-IVの有限で完結したシステムによって、その相互の関係が与えられるような物(Ding)のシステムを考え、その公理系から有限回の論理的推論によって得られる命題のみを正しいと考えればよいのであるから。

もし、同様な方法で基数全体(あるいはカントールのアレフの全体)の存在をしめそうとするならば、その試みは失敗するだろう; というのは、全ての基数の全体は存在しない、あるいは、カントールの言葉で言えば、すべての基数のシステムは、矛盾した(完成されない)集合だからである。

1899年には、まだ、ラッセルは彼のパラドックスを発見していません。しかし、このとき、すでにカントールパラドックスとブラリ=フォルティのパラドックスは知られていました。それどころか、ヒルベルトの同僚のツェルメロが、ラッセルのパラドックスと同じものを発見しています。ゲッチンゲンでは、ラッセル以前に、「ラッセル・パラドックス」が知られていたのです。当然、ヒルベルトもこれを知っています。カントールのアレフの全体は矛盾しているという最後の議論は、カントールのパラドックスを言っているのです。

実数全体、無理数一般というものへのクロネッカーの異議を、ヒルベルトは、実数の有限個の公理からの有限回の推論の無矛盾性で置き換えようとしたのです。これこそがヒルベルトの公理論であり、後の(後期)形式主義に発展する思想なのです。

もちろん、これは我々が知っている構造主義的公理論ではありません。ここにあるのは、20世紀抽象数学の祖としてでなく、証明論の祖としてのヒルベルトなのです。もし、ブルバキのように抽象構造を考えること、つまり、環や体や順序構造という一般的形式という意味での抽象構造を研究することが抽象代数というならば、ヒルベルトは本当の抽象代数を行ったことは無いということもできます。1900年以前に、すでに抽象群、抽象体という概念は定義され、そのガロア理論における一般的道具としての研究は開始されています。しかし、抽象的構造は独立した研究対象とは言いがたかったのです。ヒルベルトは、幾何学基礎論において、複数の公理群の依存関係を綿密に研究し、現代的な抽象数学と同じ研究手法をとっています。また、不変式論で使われた有限基底定理は、抽象代数学における理論の進め方、証明の仕方の規範となったとも言えます。しかし、ヒルベルトは、その「抽象数学」を、無数にある公理のモデルをみるのでなく、公理と定理の間の論理的依存関係によっておこなっているのです。

つまり、ヒルベルトの公理論は、我々の知っている「抽象構造の数学」としての公理論ではなく、

ある特定の一意的に決まる数学的システムを、その実体が何であるかを無視して論理的に記述し、その結果、そのシステムについての存在論を帳消しにするための方法

なのです。

「幾何学基礎論」においては、この手法がユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学の数学の存在としての格差解消のために使われています。「幾何学基礎論」では、「この空間」、あるいは、「我々の直観形式」であったユークリッド幾何学という「実体」が、有限個の公理と、その公理からの論理的演繹のチェーンという形式に還元されることにより、一旦解消されてしまいます。この冊子は、ユークリッド幾何学についての冊子であり、非ユークリッド幾何学は、公理の独立性を論じるときにしか現れませんが、このような論理的還元の後には、同じ形式に非ユークリッド幾何学がのることは自明ですから、それにより、非ユークリッド幾何学の存在論に関する疑問が無意味になってしまいます。ユークリッド幾何学からその存在論における優位を剥奪することにより、相対的に非ユークリッド幾何学を真性の数学的存在として浮かび上がらせるているのです。つまり、新住民が旧住民と同じ「直観」という土着の権利を得るのでなく、先住者が、既得権を放棄して都市市民として生まれ変わることにより、すべての住民が平等の存在となるのです。そのとき、旧住民は、その都市に住み、働き、税金を納めるという市民としての「機能」のみにより、その存在を計られるのです。

この論理的演繹装置という側面だけを強調し、それこそが数学的存在だとする公理論も、その装置が順調に動くという保証が必要です。つまり、それが滞り無く機能することが保証されなくてはなりません。その最低条件が無矛盾性です。そしてその無矛盾性こそが「存在の証明」となるのです。カラカラ軽快にまわる機能こそが存在そのものだからです。市民は、その機能を果たせば、出生も、性別も、国籍さえも関係がないのです。それが都市であり文明です。

ブルバキ構造主義では、その機能の一つ一つに、群、順序などという名前がつけられ、それ自体が構造という名の数学的存在となります。つまり、数学的機能の抽象形式こそ数学存在なのです。

しかし、ヒルベルトの公理論では、そこまで抽象化は進んでいません。ヒルベルトの数学的存在は、機能が集合することにより、一つの「個」にならなくてはいけないのです。つまり、実体は問われないものの、機能の集合により、「実体」にあたるものが浮き出てこなくてはならないのです。この意味で、ヒルベルトの公理系は、「完全な機能の束」です。

そして、それを数学的に保証するものが完全性でした。ヒルベルトは、1928年になっても、公理系の必要な要件として完全性を上げています。そして、その完全性とはモデルの一意性、つまり、範疇性であると書いています。しかし、それは集合論的概念であり、1920年代のヒルベルト計画の中では表現さえゆるされません。完全性も有限の立場で証明することになっていたからです。そこでヒルベルトは、その完全性を、形式的完全性、つまり、「任意の閉論理式Aにたいして、Aか not Aが証明できる」という条件で置きかえると言っているのです。結局、完全性は成り立ちませんでしたが、いわゆるペアノ算術、ZF集合論、BG集合論、これはすべてこのヒルベルトの精神にもとずく公理系なのです。

しかし、我々は公理論が20世紀数学の進歩に与えたものは、こういう存在論ではなく、抽象数学の爆発的発達であることを知っています。つまり、我々が知っている生産的な公理論とは、ペアノ算術でも、ZF集合論でもなく、群、環、体に代表される抽象代数や、位相幾何学、関数空間の抽象的幾何学や解析学の理論です。面白いことに、ヒルベルトの数学は、不変式論、代数敵整数論、幾何学基礎論、積分方程式論、いずれをとっても、これを先取りするものですが、実は、現代的意味で抽象数学と呼べるものは私の知る限りではないのです。1900年頃に、本当の意味の抽象代数学が、存在していなかったのは、確かです。すでに、1880,90年代に H. Weber により抽象群、抽象体の理論は展開されていますが、それはガロア理論の道具として提示されています。本当の抽象代数学、抽象位相幾何学が成立するのは、20世紀に入ってからなのです。ですから、1900年のヒルベルトの公理論が、抽象数学でないことは驚く必要はありません。

しかし、彼の公理論の転換点となる記念碑的論文として、「公理的思惟」(Axiomatisches Denken), 1918 でも、事情がまったく同じであることには、いささか驚かざるをえません。この時点では、いまだ、E. ネーターの抽象代数学の構築(1921〜)も、フォン・ノイマンのヒルベルト空間論(1929/30)も始まってはいません。しかし、Frechet の関数空間論(1906)、Steinitz の抽象体論(1910)、ハウスドルフの位相空間論(1914)もすでに存在していたのです。 ところが、この1918年の論文、ヒルベルトは、こういう抽象的構造の「公理」については一切語らず、ひたすら、彼の失敗した二つの大計画、物理学の公理化と、数学の公理的基礎について語っているのです。ヒルベルトの目には公理系は入っても、抽象構造が入らないのです。

それは、まさに時代の感心が、具体的数学構造から、抽象的数学構造に移り始めようとしたときであったといえるのかもしれません。そして、任意に設定された公理からの論理的推論による実体抜きの数学の可能性を、公理論という言葉で提示したヒルベルトは、それにより、その公理が現す抽象構造の数学という20世紀的意味での抽象数学の可能性をも示していたのです。しかしながら、ヒルベルト自身は、そういう数学に手を染めることは無かったのです。公理論の思想を始めて意識的に掲げたヒルベルトは、最初の20世紀数学者であると同時に、最後の19世紀数学者でもあったといえるでしょう。

ヒルベルトの公理論とブルバキの構造主義的公理論の関係、および、ヒルベルトの公理論と形式主義、証明論、超数学の関係は、こちらをご覧ください。