現代思想2000年10月臨時増刊「数学の思考」掲載の「ヒルベルトと20世紀数学」の完全版です。OCRで読み込んだので、おかしなところがあるかもしれません。気づかれましたら、お教えください。BBSの方で結構です。(これについては、匿名でもかまいません。)
また、この論文は、このホームページに掲載中の論文を改訂、増補したものですが、急いでいたせいもあり、文字が抜けているところや、言葉使いの間違いなどが沢山あります。こちらに正誤表があります。
二〇世紀最後の今年はヒルベルトの「数学の問題」一〇〇周年に あたる。それはまた「公理主義」一〇〇周年でもある。この機会に 二〇世紀数学の方向を決定づけたといわれるヒルベルトの数学とは 何だったのか、「公理主義」とはなんだったのか、それは二〇世紀 数学にとって何をもたらしたかを考えてみたい。
本論に入る前に用語の整理をしておく。タイトルで公理主義とい う言葉を使った。これはほとんどすべての辞書・辞典に掲載されて いる言葉でありaxiomatism という英訳が掲載された辞書・辞典も 少なくない。『岩波数学辞典』もその一つである。しかし、林が文 献1で指摘したように、「公理主義」は日本においてしか使われな い言葉であり、axiomatism も和製英語である。流行の言葉を使え ば公理主義のグローバルスタンダードは公理論 axiomatics であ る。
公理論の原語は Axiomatik であり、Mathematik 数学、Kritik 評論のように ik は「学」、「論」だが、大正の初めころは、Mystik 神秘説のように「説」という訳もあった。当時の日本を代表する数 理哲学者田邊元は、最初、Axiomatik を「公理説」と訳したが、 大正六年ころから「公理主義」と訳すようになる。これが「公理主 義」の始まりである。この用語は田邊の執筆で『岩波哲学辞典』に も掲載され、主に田邊の著作を契機に広く使われることとなったよ うだ。今では、「公理論」と「公理主義」が二つの別の言葉として 辞典に掲載されている。しかし、海外の辞書には、「公理の学」と しての「公理論」しかなく、「公理論を専らとする主義」としての 「公理主義」はない。
しかし、公理主義は定着しており、しかもヒルベルトの数学の思 想性を強調するときには便利な言葉である。海外では公理主義を axiomatics という思想的響きの薄い言葉でよぶか、思想性を込め たいときはaxiomatic movement, formalism (形式主義)などとい う言葉で呼ぶ。公理主義という言葉はこれらに比べれば使い易い。 もし、公理論、公理主義の言葉の使い分けを用いると、本論文の目 的はヒルベルトの公理主義の背後に潜む「純粋思惟 vs 計算」の思想 が、如何に彼の公理論に影響したか、そして、そのヒルベルトの公 理論はどういう意味で二〇世紀数学に影響を与えたかを考えてみる ことにある。
ただし、この二つを使いわけるのは案外面倒である。公理論登場 当初などは、公理的方法という言葉が、公理主義、公理論とちらの 側面が強いか判然としないような使われ方をしている。そこでこの 論文では公理論を主に使うものの、それが公理主義の意味で使われ ていることもあることを断っておきたい。
もちろん、ヒルベルトは二〇世紀の数学者である。ヒルベルトは 一八六二年に生まれ、一九四三年に亡くなった。単純に計算すれば 一九世紀に生きた期間より二〇世紀に生きた期間の方が長い。ヒル ベルトの名を聞けば「公理論、抽象数学、二〇世紀数学の父」と連 想する人も多いだろう。
しかし、抽象代数学を二〇世紀数学の華とするならば、「二〇世 紀公理論的数学」の創始者というヒルベルトのイメージは半ば虚像 である。ヒルベルトは最初の二〇世紀数学者でありながら、極めて 一九世紀的でもあった。ブルバキが強調したように、ヒルベルトの 「公理主義」は、抽象代数学の背景をなす「構造主義」とは別もので ある。
ヒルベルト公理論の技術的第一原理はブルバキ公理論の構造を保 存する「準同型写像」ではなく論理的証明だった。そしてブルバキ が「数学のアーキテクチャ」で強調したように、ブルバキ公理論つ まり「構造主義」は、ヒルベルトの、この証明中心の公理論から決 別することにより生まれた。
ヒルベルト的なものと二〇世紀数学の主流が離れていくのは一九 二〇年代以降のことである。一九〇〇年から一九二〇年ころまでの Mathematische Annalen の件名索引で、抽象数学に分類できるも のは抽象群の理論程度にすぎない。一九〇〇年より少し前の抽象体 を定義したH. ウェーバーの論文もガロア理論に分類されており、 ウェーバー自身がその仕事を副次的便宜的なもののように語ってい る。一九二〇年までにはフレッシュ、ハウスドルフ、シュタイニッ ツ等の公理論的抽象数学が登場しているが、抽象数学的視点は、ま だ主流とは言えない。そして、一九一七年のヒルベルトの著名な講 演「公理的思惟」Axiomatisches Denken には抽象構造は全く現 れない。この論文に限らずヒルベルトが議論する公理系は常に具体 的理論、たとえば幾何学、算術一実数算術一、古典力学のような特定 の「具体的」な数学的対象の公理化なのである。
一八九九年の幾何学基礎論、一九〇〇年の公理論宣言から最晩年 まで、ヒルベルトは良い公理系の必要条件として無矛盾性だけでな く完全性・範疇性を要請した。範疇性とは公理を満たす任意の二つ のモデルが同型となることであり、群、環、体、順序構造、位相構 造、これらのどの公理も範疇的ではない。広辞苑では抽象代数学を 「公理主義の上にたつ代数学をいう。群・環・体などを公理主義的 に研究する」と説明している。広辞苑は公理主義を構造主義的に把 握しており、これは多くの数学者が共感する定義だろう。しかし、 この定義に従えばヒルベルトの「公理論的数学」は抽象数学ではな い。ブルバキ構造主義は、数学の本質を、群、環、体、位相空間を集団(圏)としてとらえるので、範疇的な公理の表わす構造、つま り、本質的にひとつしかない構造の構造主義的抽象数学は成立しえ ないからである。
そして、この「公理的思惟」から引退の一九三〇年までの一〇数 年間を、ヒルベルトは彼の公理論の数学的洗練にささげる。証明論 である。しかし、それはやがて訪れる二〇世紀数学の主流、ネータ ー、フレッシュ、ブルバキ的な抽象数学からの乖離に棹さすもので しかなかった。
ヒルベルトの著作を通して見ても、我々が現在、公理論、公理主 義という言葉のもとで了解する数学・数理科学のスタイルを見つけ ることは、実はそれほど容易ではない。幾何学基礎論以外には、そ ういう例を見つけることは難しい。また、幾何学基礎論の場合も、 それに現代的な抽象位相幾何学のような一般的構造についての議論 を期待すると裏切られることになる。
すべてではないものの、ヒルベルトの幾何学研究は、あくまでユ ークリッド幾何学などの「特定の幾何学」の論理的構造の解析が中 心なのであり、現代的公理論にみられる「公理を満たす数多くのモ デルの全体により、その公理が提示する構造を把握する」というブ ルバキ構造主義的観点は見られない。公理とそのモデルの概念はあ るが、それは独立性証明、無矛盾性証明の道具としてのみ登場する。 公理Aから公理Bが独立であることを示すには、AのモデルMでB を満たさないものが一つがあればよい。ヒルベルトはこの議論を多 用する。これは論理的にはBのモデルの全体がAのモデルの全体に 含まれないことと同値ではあるが、ヒルベルトには、ブルバキがそ れで「構造」を実体化する「公理Aのモデルと準同型写像の全体」 という見方が極めて希薄なのである。
しかし、これはヒルベルトに構造に当る概念が無かったことを意 味するのではない。ヒルベルトは数学の各分野の公理化を、その分 野の本質を見極める作業として捉えている。その作業の中心的位置 に据えられたのが公理の独立性・従属性であった。つまり公理系を 幾つかの小公理系グループに分割し、そのグループ間や特定の命題 間の論理的依存関係を分析することにより、その公理系全体の「構 造」を明らかにする。これがヒルベルトの幾何学基礎論においてみ られる姿勢である。たとえば現代からみればいささかマイナーに見 えるヒルベルトの第三問題「底面と高さの等しい四面体が同じ体積 を持つことに連続性公理が必要であること」にその典型的形がある。 これも一種の「構造主義」なのだが、しかし圏論に代表される具体 的構造の有機的集団一国一が構造の本質を表現するという、クライ ンのエルランゲンプログラム以来の「幾何学的」な構造主義とは異 なり、証明にもとづく論理的依存関係のネットワークとしての「構 造主義」なのである。
このように、現代の我々が「構造」として捉えるものをヒルベル トは「証明・論理」により捉えようとしたらしい。現代の我々にと って公理とは、集合論や圏論などの言語により、ブルバキ的な「集 団としての構造」を記述する条件であるが、ヒルベルトにとっては 公理はよりシンククティカルなものであった。なぜだろうか? 公理論を数学の存在論として捉えるヒルベルトにとっては、「言 語のもつ有限性」こそが重要だったからである。「幾何学基礎論」 や「数の概念について」の公理系はある種の極大構造を定義してい る。たとえば「数の概念について」の実数論の公理系が記述してい るものは極大アルキメデス順序体である。我々は当然集合論を前提 としてこれを理解する。特に実数の完備性を保証する極大という条 件は非常に集合論的である。しかし、奇妙なことに一九〇〇年のヒ ルベルトは、極めて集合論的なこの極大性条件さえ「有限性」を実 現するものとして捉えている。ヒルベルトは、実数の有限個の公理 から・有限ステップの証明だけで考えることにより、カントールの ように任意の基本列を考える必要がなくなり、この極大性の公理に より一無限の世界が排除されクロネッカーの批判から免れると主張 した。現代の数学者ならば、この公理が、他の公理をみたすシステ ム全体の無限集合の極大元の存在を主張する、極めて無限的な冶 だと理解することができる。しかし、公理をブルバキ的な「モデル の集団を記述する条件」として捉えず、「有限的な言葉」としてと らえるヒルベルトには、これはカントールの完備性より、より有限 的に見えたのだろう。
では、ヒルベルトの公理論はなぜ、シンククティカルでなくては ならなかったのか?ヒルベルトが生涯、その影に悩まされたのは クロネッカーであった。そのクロネッカーは彼の代数理論を使うこ とにより解析学までも代数化・「算術化」することを企てた。スキ ーム理論のようなイメージを持っていた可能性もある。そのように して実数論を構築しようとすれば、クロネッカーの意図に反し無限 集合が必要となる。クロネッカーはそれを許さないので、逆に無理 数を捨てたのである。
集合論を新時代の数学の強力な武器とみなすヒルベルトにとって はクロネッカーの無理数の否認など論外であった。後で説明するよ うに、ヒルベルトは極めてクロネッカー的な世界である不変式論の おいて一集合論的方法がクロネッカー的な有限的方法を越える瞬間 を目撃したからである。しかし、この不変式論という膨大な手計算 を必要とした極めてアルゴリズミックな代数理論において、そのキ ャリアを開始したヒルベルトは同時にクロネッカー的精神を自らの 手による計算を通して理解していた人物でもあったはずなのでけ る。クロネッカーが対象を有限に限ったところを、ヒルベルトは「無 限の対象の有限的記述形式」としての公理系を考えることにより、 「無限の有限化」を成し遂げようとした。彼の公理論実数論はクロネ ッカーと同じ精神で、しかし、方法を代数に限らず、「言語、論理、 証明」による有限的公理化という別な方法によって有限的実数論を 構築する試みだったのである。
この意味で、一九二〇年代の証明論のテーマが、すでにここにあ る。現在の我々は公理論を数学の方法論として認識し、数学基礎論 の意味での数学の基礎付としての役割を期待することは少ないが一) ヒルベルトの公理論には、このように登場当初から基礎論的色彩が 種めて濃い。そして、それが後にブルバキが「初期公理論の失敗」 として切って捨てたものだった。
ヒルベルト公理論と数学の基礎づけの関係は複雑で深い。ヒルベ ルトの論理学・基礎論研究の源流はクロネッカーにより提起された 「無限 vs 有限」の対立問題である。ヒルベルトはクロネッカーへの、 そして後にはクロネッカーの亡霊としてのブラウワーへの反撃とし て公理論と証明論を形成する。そして、その主要テーマは「無矛盾 性=存在」、「純粋思惟 vs 計算」であった。 もちろん・すべてがクロネッカーから始まっているかどうかには 疑問が残る。ヒルベルトが最初の公理論による幾何学の発想を持っ たのは一八九一年にウィーナーという数学者の講演を聞いたときだ と言われる。その講演の後、ベルリン駅で同行の友人たちに語った のが「ビアマグ、机、椅子の幾何学」だ。この逸話にクロネッカー の影はない。
この段階での公理論は非ユークリッド幾何学が大きな発端となっ た「真理概念の実体からの乖離」の性格が強いのだろう。たとえば 「幾何学基礎論」のプロトタイプともいえる一八九四年のケーニヒス ベルク時代の草稿にはユークリッド幾何学の無矛盾性についての議 論が見られない。この時点ではまだ数学存在の問題にまで踏み込ん ではいないとみる方が妥当で、むしろ、このときの公理論の方が、 現代的立場に近いともいえる。
そうなると、その方法論的公理論がいつ基礎論的公理論となった かという疑問が生じる。特に「無矛盾性=存在」、「純粋思惟 vs 計算」 という視点は何時、そしてどのように形成されたのだろうか。 ヒルベルト公理主義の核心をなす「無矛盾性=存在」という思想 はカントールとの通信の中で生まれた可能性が高い。一八九七年に ヒルベルトはカントールからの書簡で集合論のパラドックスについ て知ることとなり、以後急速に基礎論的発想が前面に現れて来るの である。このとき、カントールにはパラドックスという意識はなく、 肯定的にうけとめ集合論最大の発見とさえ書いている。カントール パラドックスにより連続体仮説を証明しようとしたのである。この ときカントールがヒルベルトにあてて書いたのが超限的集合と絶対 的無限集合の区別だ。これが一八九九年カントールからデーデキン トヘの書簡では矛盾集合と矛盾集合とよばれるようになる。アレフ の全体は矛盾集合なのである。
ヒルベルトは「数の概念について」と「第二問題」で、無矛盾な システムは数学的に存在するというテーゼを提出している。「アレ フ全体はその矛盾の故に存在しない」と書いてさえいる。ヒルベル トはカントールの「矛盾的・無矛盾的」の分類を数学における存在 一般の問題に適用したのである。哲学的観点からすれば公理論の最 も重要な側面はこの「存在=無矛盾性」という主張にある。既に述 べたように、この発想がカントールの思想から発したか、あるいは 幾何学基礎論の研究から発したか、これを判定することは難しい。 ただし、このような無矛盾と言う最低の条件さえ整えば数学は何を してもよいという自由数学、公理論の発想は、カントール、ヒルベ ルトにだけ見られるものでなく、たとえば一九世紀前半の非ユーク リッド幾何学、ブールなどイギリス抽象代数学派にもみられるもの であり、一九世紀終盤にはかなりの数の数学者が共有していたと思 われる。その意味では起源の同定ということ自体に無理があるかも しれない。
一方のヒルベルト数学における「純粋思惟 vs 計算」の対立図式は 青年期の不変式論研究により意識され、それが生涯の思想を決定づ けたと考えてまず間違いない。公理論の最初の着想を得た一八九一 年当時のヒルベルトの研究の中心がその不変式論だった。不変式論 は、当時の代数学の花形分野であったが、その不変式論最大の問題 は、「ゴルタンの問題」であった。ヒルベルトは、一八八八年に、 それを超限的な手法で解決した。これがヒルベルトの実質的な出世 作である。
解析学における超限的な手法は当時も珍しくはない。珍しくない からこそ、それは数学全体の代数・算術化を夢想するクロネッカー の恰好の標的になった。しかし、ヒルベルトは、そのクロネッカー の理論と超限的な議論の融合により有限基底定理を証明し、その応 用としてゴルタンの問題を解いてみせたのである。ゲーデキントの イデアル論の整数論への応用を除けば、これが代数学における超限 的な手法の最初の圧倒的な勝利だったといってよいだろう。 しかも、センセーショナルな点において、それはイデアル論を遥 かにしのいでいたと考えられる。ケーリーは、それを理解するため にアプリオリな困難を覚え、ヒルベルトの師リンデマンは「気持が 悪い」と評し、ゴルタンは「数学でない。神学だ」とさえいった。 当然、数学の有限化を目論んでいたクロネッカーが許容できるもの ではなかったはずだが、その反応は記録されていない。ブルバキの 言葉に従えば、クロネッカーはイデアルを有限生成に限ったが、ヒ ルベルトは任意のイデアルがその条件を満たすことを証明したこと になる。そして、一八九二年ころにはヒルベルトは、そのゴルタン の定理の証明の「有限化」に成功する。
これらのヒルベルトの不変式論論文の中に後の基礎論的・計算論 的傾向を連想させるものはほとんどない。しかし、一八九七年にケ ッチンゲンで行った不変式論講義には、後のブラウワーの議論を連 想させる注目すべき一節がある。ヒルベルトは、円周率の一〇進展 開に一〇個の引き続くイチ、つまり 1111111111 が現れると仮定し、 数学における存在証明の三段階を、(i) 純粋存在証明、(ii)解の 存在範囲の評価、(iii)実際の計算の三段階にわけ議論し、それを 使って彼の理論の意味を説明している。この議論は後の一九二〇年 代のブラウワーによる排中律の「反例」の議論とほぼ同型であり、 また、(ii)を議論する際にはクロネッカーの名前をだしている。
数学における計算の同じテーマは約二〇年後「公理的思惟」を始 めとする証明論の文献で繰り返し現れる。「公理的思惟」のヒルベ ルトは、無矛盾性問題がラッセルの論理主義により実質的に完成さ れたと誤解し、彼の来るべき証明論的研究のテーマを完全性と決定 性の問題(entscheidbarkeit)等にしぼる。ヒルベルトは「決定性の 問題がこれらの問題の内、最も良く議論される」とするが、それは 現代的な意味での決定問題とは異なりクロネッカー.ブラウワー流 の存在証明が計算に結び付く数学、つまり現代的にいえば構成的数 学であることは「公理的思惟」のテキストから明かである。
一九二〇年代のヒルベルト計画では、ヒルベルトの「無矛盾性証 明」はカントール的な「自由数学」の合理化として登場するが、そ れは「無矛盾性=存在」の問題だけでなく、「純粋思惟 vs 計算」と 「無限 vs 有限」の対立の構図の完全な解消をも目指すものだった。 ヒルベルトは、数学における無限は射影幾何学における無限遠点の ような「理想元」であり、その実在を論ぜずとも数学はそれを駆使 してよいことを示そうとしたのである。それはある意味で超越数を 記号的な不定元で置きかえることにより数学から無理数を排除しよ うとした「クロネッカーのもうひとつの夢」の実現を目指すもので もあった。ヒルベルトはクロネッカーが「代数計算」により捉えよ うとしたものを「論理計算」により捉えようとしたのだろう。しか し、その夢はゲーデルの定理により消されてしまう。
公理論には多くの側面がある。厳密性、自由性、抽象性、証明の 客観化・代数化・記号化……。これらは互いに複雑に関連.依存 しており、いずれが第一原理であるとは言いがたい。M.クライン (文献一2一)が指摘しているように、これらのそれぞれはいずれもヒ ルベルト以前から存在しているが、それらを統一する公理論という 壮大な形式を始めて与えたのがヒルベルトだった。そして、これら はすべて一九世紀における数学の方法論的革命の流れつく先だった のである。
では二〇世紀数学における公理論の最大の功績はなんだったろう か。答はおそらく数学者ごとに違うはずである。数学の思想的側面 に重きを置けば、やはり無矛盾な形式により存在を置き換えるとい う思想を第一にあげるべきだろう。この思想は数学のみならず、現 代社会の向く大きな方向と一致している。また、フォン・ノイマン、 ブルバキなど、ヒルベルトに続く数学者の思想が社会に与えた影響 は無視できない。たとえ、それがヒルベルトの直接の影響でなくと も、その方向をいち早くまとめあげたという言う意味で、ヒルベル ト公理論の存在は大きい。
しかしながら、数学を数学理論の生産活動とみなすならば、公理 論の最大の功績は「知のモジュール化による生産効率の向上」であ ったろう。それは数学理論を構造という名のパーツに分解すること を可能とし、パーツのみを研究する抽象数学という方法を可能にし たのである。それは同時期に登場した、ヘンリー・フォードの生産 システムの数学版だった。しかし、それがフォードシステムである 以上、それは数学の分業化を加速し、数学の個々の作業から「実体」 が失われ勝ちになるという負の側面もはらんでいた。ブルバキは構 造概念により、専門化してバラバラになりかけた数学に統一がもた らされることを期待した。しかし、構造概念による統一は、分業・ 専門化の方法の標準化でもあり、それゆえに、さらなる専門化を促し た面も否定できない。
ヒルベルト公理論は「実体とその直観」を奪われた数学が証明に より自立できることを示すことにより、ブルバキの構造主義という 知のモジュール化への道を開いたと言ってよいだろう。モジュール 化・パーツ化は、証明論・論理学的手法によっても可能であり、ヒ ルベルト公理論ではその側面が強い。たとえば、一九二〇年代のヒ ルベルトは、パスカルの定理のような「幾何学基礎論」のテーマを 証明論的手法で扱ってさえいる。
しかし、ワイルが指摘しているように、証明論的手法よりは「モ デル」の手法の方が遥かに容易なのである。証明論的方法は多分に 計算数学的であり、リーマン、ゲーデキント、ヒルベルトの「計算・ 数式から論理・概念へ」の革命がもっていたプラクティカルな側面 が証明論では多分に失われてしまうのである工。それがブルバキ 構造主義がヒルベルト公理論を遥かに凌駕した理由であろう一ここ での「モデル」は、論理学でいうモデル論のモデルでなく、ブルバキ的 な構造のモデルのことである)。
ヒルベルトの証明論的公理論の背景には、このブルバキ的「構造」 に着目しそこなった限界とともに、「純粋思惟的証明W計算」の対 立図式への鋭い視線が隠されている。ブルバキを始めとする二〇世 紀数学の主流は、この「計算の問題」を「無視」という方法で解消 した。一方、ヒルベルトにとっては、それは不変式論以来の大テー マであり、「計算」の問題を無視しさることはなかった。それはな ぜか?次にこれを検証しよう。
ヒルベルトが、クロネッカーの有限主義を排し、カントールの集 合論的超限的方法を称揚したことは良く知られた事実である。では、 それはなぜだったのだろうか。その理由を探るとヒルベルトと計算 の関係が浮かび上がってくる。
ヒルベルトがカントール的超限数学を称揚した理由は哲学的信念 などではない。それは数学という「知的生産活動」が、一九世紀に 直面していた技術的問題に起因している。ゲッチンゲン大学図書館 にはヒルベルトが学位論文のために書いた不変式論の長い「数式表」 が残されている。同じような「数式表」を綴じ込んだ論文の例は、 後にヒルベルトの牙城となる Mathematische Annalen の当時の巻 に幾つかみることができる。概念、論理による推論を主とするブル バキ的な数学に馴れた「二〇世紀的純粋数学者」の目からすれば、 ヒルベルトの数式表や、こういう綴じ込みは、四色問題解決の論文 に添えられていた膨大なケース分けを収録したマイクロフィルムと 同じ強い違和感を与える。数学を計算と同一視する「数学を知らな い大衆」に向かって、数学は計算ではない証明だ、と叫び続けなく てはならないブルバキ的数学者には、これは悪夢でしかない。
しかし、この当時、ヒルベルトの学位論文を始めとする不変式論 は、数式表をさえ必要とする面倒な式変形アルゴリズムによって専 ら行われていたのである。その典型が一八八八年にヒルベルトが一 般の場合を解くことになる「ゴルタンの問題」の特殊ケース、二変 数の同次式の有限な完全不変式系を求めるゴルタン・アルゴリズム だった。ヒルベルトは、これを一般の場合に拡張しようとし、その あまりの複雑さに行く手を阻まれる。一八八六/七年の冬学期、ケ ーニヒスベルク大学の講師だったヒルベルトは不変式の講義を行 い、その講義ノートの中でゴルタンの方法があまりに複雑であり、 次数が非常に小さなケースでさえ計算が困難であることを指摘して いる。
リーマン研究家ラウグヴィッツが指摘するように(文献3)一九世 紀中頃までの計算中心の数学は、高度に発達してしまったが故 に、人問の手計算の限界という、現実的、量的な限界に到達しよう としていたのである。つまり、原理的には計算さえできれば答がわ かることは明らかながら、実際に人間の手ではとても計算ができな い。そういう問題にいかに立ち向かうか、それが問題だった。そし て、ヒルベルト数学の艀卵器ともいうべき不変式論は、限界に達し つつあった計算数学の典型だったのである。
この問題に対するヒルベルトの答は計算を排し概念と論理による 思索により問題を解くという極めて二〇世紀的方法であった。ヒル ベルトは、彼の代表作のひとつ所謂「数論報告」の前書きで、この 新しい方法をリーマンに始まる方法として称揚し、計算的方法の影 の濃いクンマーの整数論を、リーマンと同じく概念と論理を中心と するデーデキントの方法で書きかえると宣言する。そして、この方 法論が彼を公理論に導き、二〇世紀数学の父にする技術的基礎とな る(2)。
「数論報告」のそして公理論の数式・計算から概念・論理へという 選択は、その数学における実質的キャリアを、ゴルタン問題の「抽 象代数的解法」で始めたヒルベルトにとっては自然なものだったの である。
一八八六/七年の不変式論講義ノートには、ゴルタンの方法の複雑 さを嘆いた直後に、間もなく訪れる「転機」を予期させる文章があ る。「……途方も無く増加する文献は、単調で退屈な記号計算のた めの実例を生産しているに過ぎない。重要かつ基本的なのは同次式 システムの有限性のみなのである」。有限であることのみを純粋に 追求し、当時、主に解析学で力を得てきていた、カントール、ゲー デキントの超限的方法で解決すること。それが一八九七年の不変式 論講義の存在定理の第一段階であり、それこそがクロネッカー、ゴ ルタンという旧世代の第二段階の存在による数学を乗り越えるため の方法だった。ヒルベルトのゴルタン問題の最初の解法のポイント は、本質的にいつ答えがあるかを予想することができない解の発見 プロセスを用いる、二股有限性定理L一現代の「有限基底定理」一とい う補助定理だったのである(3)。
ヒルベルトのカントールヘの肩入れ、クロネッカーへの反撥、ブ ラウワーの直観主義への嫌悪に思想的な要素は少ない。それはあく までいかに数学をするかというプラクティスの問題から涌きあがっ てきた新しい方法論から帰結するところだった。すでに六年前に亡 くなっていたクロネッカーへの返答として、円周率中の一〇個の一 の議論を行った一八九七年のヒルベルトは、おおよそ三〇年後、円 周率中に 0123456789 が現れるかどうかは有限時間内で判定する一 般的方法はないというブラウワーの「排中律の反例」を聞くことに なる。それは葬りさった筈のクロネッカーの亡霊が甦ったとしか思 えなかったに違いない。ワイルが指摘したように、クロネッカーが 闘ったのはブラウワーではない。ヒルベルトは、あるい意味ではす でにブラウワーを越えていたのである。彼が闘ったのは、その背後 に立つ小柄なクロネッカーの亡霊だった。
ヴィエタの記号代数により数学が新時代を迎えたことは良く知ら れるところである。この自然言語とその意味内容の把握による数学 と、記号操作による数学の質的違いは、現代でも数学の初等教育に おいて始めて方程式を学ぶものが追経験することができる数学の歴 史を二つに分かつ巨大な断崖である。そして、その手計算による記 号操作の数学はオイラーたちの偉大な業績を経て一九世紀中頃に、 その現実的な限界を迎えようとしていたのである。それは「原理的」 な限界ではなかった。それは人問の計算能力という実も蓋もない現 実的制約からくるものであった。それを打ち破ったものが、概念と 論理に基づく二〇世紀的数学なのである。二〇世紀純粋数学が、つ いには現実と遊離してしまう理由のひとつとなる概念と論理による ヒルベルト・ブルバキ的数学の切っ掛けのひとつが、この現実的な 計算の問題であったことは歴史の皮肉であろう。
しかし、その概念と論理による二〇世紀数学も、今や、一九世紀 末までの計算的数学と同じ運命に陥ろうとしているかに思える。二 〇世紀数学の進歩はあまりに爆発的であった。おそらく歴史上、質 的にも量的にも、これほど数学が発展した世紀はなかった。そして、 その原動力が、概念と論理による公理論的抽象数学であったことは 論を待たない。しかし、そのあまりの爆発的な進歩のために、丁度、 一九世紀数学者が覚え始めていた困難と同じ困難を数学者は覚え始 めている。一九世紀数学が超人的数式処理能力をもつ者しか理解不 可能となったゆえに、その活力が衰えたように、どのような学問で あろうと、超人的努力と超人的才能の上にだけ築けるものは早晩力 を失う。壮麗な体系は、そういう才能なくしては築けないが、その 壮麗な体系こそが次に続くものを阻むからである。これは人類が常 に経験してきた皮肉な歴史的真実だ。そして、この皮肉な現象ゆえ に、未来を開くものは、いつの時代も粗野で荒削りな未開の荒野な のである。
そう考えれば、ヒルベルトの数学の中に、現代にそして未来へと 通じる新しさが見えてくる。それは、ブルバキと二〇世紀数学が無 視してしまったがゆえに生煮えのままで残されている「計算」の視 点である。ヒルベルトは計算から概念への飛翔を唱導した。しかし、 ヒルベルトは計算をいささかも捨ててはいないのである。彼の有限 の立場による証明論は、ポアンカレ、ブラウワーに対抗するものと して始めて生まれたのではなく、不変式論研究以来の計算数学と概 念数学の相克という、ヒルベルトの生涯を貫くテーマの一最後の一 一環だった。そのように考えれば、失敗したと目されたヒルベルト 計画は甦る。それは単なる無矛盾性証明による数学の絶対的安全性 保障などではなく、計算数学と概念数学の間隙を埋める方法の追求 だからである。
ヒルベルト計画が「無矛盾性証明による数学の危機の克服」を目 的としていたことは確かである。しかし、それは問題の一側面でし かない。ヒルベルトの基礎の問題への関わり方には、彼の二つの不 変式論講義が示すように、計算と概念の相克、有限と無限の相克が 常にあった。しかも、それはいかにして数学を基礎付けるかという 哲学の問題としてではなく、いかにして数学を行うかというプラク ティスの問題だったのである。
この事情を時間的に追ってみよう。一八九七年の存在の三段階論 のように、一八九〇年代のヒルベルトは、無限を原理的な存在証明 の道具、有限を具体的な解の評価として、その折り合いをつけてい たと思われる。この時代のヒルベルトは、ラウグヴィッツが主張す る、数式から概念へという一九世紀数学の変容のコンテキストで語 るのが正しい(文献3)。
しかし、この一八九七年の講義のわずか数ヶ月後には、集合論の パラドックスにより、この「折り合い」は否定されてしまう。そし て、そのころ進めていた幾何学基礎論の研究を通して形成されつつ あった公理論的思考法に、カントールの「無矛盾性集合」の思想が 結びつき、無矛盾性を存在原理とみなす一九〇〇年代の思想が誕生 する。
初期公理論では、公理系の有限性と無矛盾性が、有限と無限の相 克を解消するとされていたが、証明論研究が本格化する一九二〇年 代には一おそらく一九二五年以後に一、これよりさらに一歩踏み込み、 超限的数学一例えば、実数論一の中で証明された有限的ステートメン トが有限的論証のみで証明できることを示す、という形での無矛盾 性証明が定式化意識される。これは単純な無矛盾性を示すことと同 値であったのだが、ヒルベルトはそれ以上のことをしようとした。 彼は超限的証明が内包する有限的証明を抽出する方法としての7 記号除去アルゴリズムによって無矛盾性問題を解決しようとしたの である。それは、ある意味では「クロネッカーのもう一つの夢」の 実現であり、達成できれば、彼はクロネッカーとカントールを調停 できたはずなのである。
このヒルベルトー−クロネッカーの夢は、「有限対超限の有限によ る融合」であるが、それはさらに「クンマi的計算数学対リーマン・ デーデキント的概念数学の計算による融合」を目指すものでもあっ たはずである。一九二〇年代後半のヒルベルトはカントール的無限 の使用を、幾何学における無限遠点の添加と比較することを好んだ が、幾何学者は、一旦、無限遠点を添加すると、たとえ無限遠点を 解消できることを知っていても、無限遠点のある空間でしか思考し なくなるものだ。無限遠点の除去、ε-記号除去による超限の除去 は、金本位制における免換の意味しか持たず、それが実際に全面的 に実施されることはない。ヒルベルトにおいてもそれは同じであっ たろう。 にもかかわらず、ヒルベルトは無限という紙幣はすべて有限とい う金に兌換できるということを証明しようとした。彼の数学論が数 学の存在論・基礎思想の問題をも包含していたからである。しかし、 ゲーデルの不完全性定理により、その不可能性が示されてしまう。 二つの不完全性定理が言うことは、無限の概念的数学によってのみ 証明できて、有限の立場による数学では証明できないものがある、 そして、無矛盾性がその例である、ということだからである。ヒル ベルトは数学の論理学的塔は見かけ上のもので実際にはフラットで あると考えた。しかし、ゲーデルは階層の存在を証明したのである。 ゲーデルは一九六〇年代に書いた未発表の哲学論文(文献4)の なかで、ヒルベルトの基礎付け思想をルネッサンス以来哲学が取り 続ける右から左への流れを支持する時代精神と、それに本質的に合 い入れない数学の特性を融合しようとする「奇妙な雌雄同体」 (merkwuerige Zwitterding)と呼んでいる。ゲーデルは、ルネッサン ス以来の西洋が経験した形而上学あるいは宗教からの離反という巨 大な思想の流れを「右と左」という言葉で説明し、ヒルベルトの数 学基礎論をその文脈で説明したのである。
ゲーデルは形而上学あるいは宗教に近いものを右とよび、それか ら遠ざかるほど左とする。たとえば、右傾向の思想とは、観念論、 唯心論、神学であり、左傾向の思想とは実証主義、唯物論、懐疑主 義となる。ルネッサンス以来、すべてが左方向に大きく舵をとるな かで、本来アプリオリである数学だけが右的傾向をより強めだとい うのがゲーデルの主張である。この「数学における右傾向」として、 彼は無限小解析と複素数の基礎付けをあげる。巨大な時代精神の流 れに抗して、一人数学の右傾化だけは成功するかのようにみえた。
「しかし」とゲーデルは続ける。世紀の変わり目に、数学の右傾 化は、集合論の矛盾により暗礁に乗り上げる。それは真の「数学の 危機」ではなく、数学と哲学の境界領域に発生した危機であり、ま た、誰もが納得する方法でそれが解決されたにも関わらず、左傾化 の「時代精神」は、容赦無くそれを騒ぎ立て、ついには数学の多く の部分が放棄されるまでにいたった(ブラウワー、ワイル)。
そして、その結論として、時代精神に融合した最左翼の「有限の 立場」により、実数論やひいては集合論という最右翼の数学を正統 化しようとするヒルベルト計画が登場する。しかし、右を信じなが らも、左傾化を深める時代精神に融合を試みたために生まれたそれ は、「奇妙な雌雄同体」なのである。そして、それは当然のように 失敗する。これがゲーデルの歴史認識であった。
ゲーデルが主張したことは、二言でいえば、デカルト的な「方法 論的懐疑」は数学においては成功しないということだ。たとえ合理 的懐疑精神がいかに成功を納めても、最後には人問の存在を超えた 超越的な世界への信念や信仰の要素が残らざるを得ない。公理的集 合論の無矛盾性は証明するのでなく信じる外はない。そして、それ でよいのである。
クロネッカーは若き日の哲学研究で経験した、その暖昧性への反 撥から、「哲学的」な無限概念を駆使するカントールやワイエルシ ュトラスの数学を徹底的に批判した(文献3、3・5・4項)。カント ールは彼の無限数学を正統化するために哲学や神学の論文を書い た。数学と哲学が混合してる論文さえある。クロネッカーの目から みれば、集合論は、そういう危うい土台の上にたつものだったので ある。
これに対し、ヒルベルトは、クロネッカーに反撥しつつも、その 思想を継承し、「方法論的懐疑」により一挙に「形而上学的数学概 念」を正統化しようとした。しかし、それは失敗する。そして、残 されたものは、整備された公理的集合論と、ゲーデルやブルバキの 集合概念への「信」だったのである。ゲーデルでは、それは無限集 合の世界への限りない「信」であり、ブルバキにおいては、集合や カテゴリーという数学の表現形式を越えた、「真の数学」への「信」 であった。ブルバキには、現在の集合論が「真の数学」を十分表現 しており、また、たとえ無限集合論という数学言語が将来において 破綻しても、「真の数学」は、いささかも損なわれず、その殻を脱 ぎ捨てて新しい殻を探し出すことができるという信念がある。
ヒルベルトは、このゲーデルやブルバキの「信」を持ち合わせて いたはずである。しかし、彼は若き日の不変式論における計算数学 と概念数学の理想的融合という成功経験を引きずったために、その 「信」が懐疑論の末の末である有限の立場により完全に合理化できる と信じてしまったのだろう。あるいは、その過誤は、概念数学の正 しさへの「信」のあまりの強さから発したものかもしれない。ヒル ベルトは概念数学の正統化という点で、あまりに予定調和を期待し すぎたのである。それだけがヒルベルトの誤りだった。その過誤だ けを除けば、そして、ヒルベルトの数学思想を究極的な数学の基礎 付けという呪縛から解放さえすれば、それには新たな可能性さえ残 っているのである。
(1) ヒルベルトは、証明論が連続体仮説の解決など、数学の新しい局面を切 り開くと信じたらしい。しかし、彼の連続体仮説への証明論的アプローチは 失敗した。それはゲーデルの連続体仮説の無矛盾性証明への道を開いたが、 それが成功したのはゲーデルがヒルベルトの方法から証明論的要素を拭い去 ったからだった。
(2)ヒルベルト公理論を語るとき、一八九一年のウィーナーの講演から発想 し、「幾何学基礎論」で実を結ぶ幾何学研究の重要性は巨大である。しかし、 不変式論研究がその幾何学研究が開始される直前に行われ、その二つの研究 の間にわずかにあるものが、クロネッカーがその批判のターゲットとした超 越数論、無理数論の習作であることを考えれば、この幾何学研究自体が、彼 が不変式論で編み出した新数学の方法に伴って発生する、旧世代数学との矛 盾を克服する試みであったと考えることも、さほど不自然なことではない。
(3)このヒルベルトの「発見プロセス」は、現代の計算論的学習理論で学習 過程のモデルとして使われる limiting recursion の概念と一致している。
[1]林晋、公理主義って知ってますか?『数学セミナー』二〇〇〇年一月号
[2] M. Kline, Mathematical thought from Ancient to Modern Times, Oxford University Press, 1972.
[3] D. Laugwitz, Bernhard Riemann 1826-1866, 原著独語, Birkhaeuser Verlag, 1996, English translation, Birkhaeuser, 1999, 和訳、ラウグ ヴイッツ、「リーマン」、シュプリンガー・フェアラーク東京。
[4] K. Goedel : The modern development of the foundations of mathemat- ics in the light of philosophy, pp. 374-387, 1961/?, Kurt Goedel Collected Works, 111, S. Feferman et al. eds, 1995.
この論文は二〇〇〇年度日本数学会年会企画特別講演(数学基礎論と歴史分 科会一のレジュメを改定したものである。本稿でその一端を紹介した、このヒ ルベルト研究は、広島大学木村俊一氏にヒルベルト不変式論の証明論への類似 性とその影響の可能性を示唆いただいたことがきっかけとなった。ここに深く 感謝したい。
(はやしすすむ・数理論理学)