不完全性定理が中学生でも理解可能と書いたのは、サイエンスライターの吉永良正さんですが、これには賛成しかねます。私と不完全性定理のつきあいは、そろそろ30年近くになりますが、その長い付き合いのなかで、多くの本を読み、沢山の人とゲーデルの定理について議論しましたが、中学生でわかった人はおろか、大学生でも理解できる人は稀で、専門家でも間違って理解していることがあるというのが、私の印象です。
吉永さんが言いたかったことは、私の主張と同じで、ゲーデルの定理の証明の中心である対角線論法やゲーデル数の考え方は複雑なものではないということでしょう。しかし、その論理を展開するための形式的体系の考え方が、実は非常にわかりにくいもののようなのです。
私が学生のころの1970年代には、日本の論理学者でゲーデルの不完全性定理をちゃんと理解している人が実にすくなく、日本を代表する論理学者の前原昭二先生までが、第2不完全性定理の証明を少々誤解されていたので唖然とした経験があります。
これには当時の日本の数学基礎論界の閉鎖性と Gentzen 至上主義の弊害があったようです。これより少し前の日本の数学基礎論は、竹内外史先生と前原昭二先生を中心に、Japanese school とでもいうべき学派を形成して、世界をリードする仕事を輩出していたのです。特に、竹内外史先生の存在ゆえに、第2次世界大戦後しばらくの間、ドイツ系の数学基礎論、特に Gentzen 系の証明論は主に日本で開拓されたのです。
しかし、創造的な人にはときどきあることですが、竹内先生はアイデアが豊富に湧き過ぎて、人の論文などはあまり読まれなかったのではないかと思います。あるいは、海外と容易に行き来できない、海外の情報も容易に手に入らないという、当時の日本社会の孤立性のゆえか、「ゲエンツェン流証明論」の研究でなくては、数学基礎論の研究にあらずという風潮があったようです。(1970年代の終わりころに日本のモデル論研究の先駆けである本橋信義先生から聞いた愚痴です。)そのため、それから外れるゲーデルの定理などをまじめに勉強した人は少なかったのでしょう。しかし、世界の趨勢は逆で、ゲエンツェンは傍流だったのです。これはその後プラビッツの仕事の影響で事情が変わりますが、とにかく当時は、世界と日本の逆転現象のゆえに、ゲーデルの定理という一番基本的とされる定理が専門家の間ではあまりちゃんと理解されていなかったようです。
この方法は、英国のインペリアルカレッジの Edalat 教授が独立に再発見し、測度論、積分論、なども取り込んで広範かつ深い数学的理論となりつつあります。これは約1時間くらいで考え付いた私の仕事とは比べものにならないほどの大理論ですが、それでも私の論文の方が早いので引用してもらっています。得した〜〜〜〜。¥(^0^)/
はやしはじめさんは私の兄です。というのは、嘘で、かつ、本当です。ペンローズやGEBの翻訳で有名な林一さんは、たまたま、私の兄と同姓同名なのですが、まったく別の人物です。はやしさんは私とは同じ立教大学理学部の出身(林一さんは物理、私は数学)であり、はやしさんの訳のナーゲルの本がきっかけで、数学基礎論の世界に首を突っ込んだことを思えば、なんと言う因縁でしょうか。でも、一度もお目にかかったことはありません。
そのころは、まだぎりぎり30代で、若いつもりだったのですが、最初にこの本を買ったときからの年数を計算して、その長さに愕然とし、ついシミジミしてしまったのでした。本のなかで、「それをさかのぼること四半世紀前、フレーゲは…」などと書いていたのです。四半世紀ってずいぶん昔だな〜、などと思って書いたのですが、何と、ナーゲルの本を買ってから、ゲーデルの謎を書くまでの間に20年位たっていて、つまり、ほとんど四半世紀だったのです!
ゲーデル数は、記号の列を数であらわす方法です。ゲーデルがもともと使った方法は、素因数分解を使う方法ですが、別にこれが本質的なわけではありません。2進数とか10進数とか、そういう位取りによる数の記述法があれば、ゲーデル数は簡単に実現できます。つまり、ASCIIコードのように文字にある特定の桁数の数を割り振り、その数を並べて文字列から数字の列を作ります。それがあらわしている数字が元のゲーデル数です。例えば、”Godel” という文字列ですと、G, o, d, e, l という4文字のASCIIコードが3桁の10進数で、071 111 100 101 108 なので、そのゲーデル数は、71111100101108 となります。
これを数だと思うと非常に巨大ですが数字列だと思うと非常に短い(小さい)といえます。ゲーデル数といいますが、実質は数というようり数字列として操作されます。それにも関わらず、その操作は足し算、掛け算と第1階の述語論理だけで記述できます。これがゲーデルの論文の第3部の主要結果で、足し算と掛け算しか持たない第1階自然数論で不完全性定理が成り立つためのキーとなります。
こういうものは、以前から沢山あったのですが、それは単にわれわれの目を素通りしていたのです。
しかし、一旦、メガネをかけかえると、つまり、ほんの少し見方を変えると、いつもの空や山がまったく違う風に見え始めるのです。私は、フラクタルの勉強をして、そういう経験をしました。それまで見ていた木や雲や、その他もろもろのものが急に別な風に見え始めたのです。これは大変な感激でした。同じ宇宙にいながら、その宇宙が突如別の宇宙になってしまうのですから。
専門的な研究をしていると、よくこういうことがあります。新しい定理や理論ができるときは、大抵、そういう経験をします。しかし、あくまで、それは専門的な研究対象の世界でのことで、それで風景が違って見えるというように日常的な経験にまで影響することはすくないのです。私で言えば、数学から計算機科学に転じたときに、何度かそういう経験をしましたが、この場合も、人間の組織とか社会というのも一種のOSや計算機システムのようなものだとか、まあ、やっぱり抽象的でした。しかし、フラクタルの時には道を歩いていると風景が変わって見えたので、これは感激でした。そういう基本的なパーセプション(perception)の感覚まで変えてしまう数学的認識法がまだ残っているとは思いませんでしたので。
脱線ついでですが、フラクタルの後にメガネを変えてくれたのは阪神大震災でした。私が神戸大に転職する直前のことでしたから、私には直接の影響はなかったのですが、何せ、自分が数ヶ月後に着任する場所の大災害ですし、伏見城が地震で崩壊したことを知りながら、ご都合主義的に自分が生きている間は関西に大地震はない、と信じていた自分に呆れて、かつまた、何かあるとすぐに調べたくなる雑学欲のために、東大出版会の、「日本の活断層」まで買いこんでしまいました(オウムのときは、オウムの機関誌を買いこんで白い目で見られたものです)。その結果、山をみると活断層に見えるようになってしまいました。その目で、我が家の西側を崖をみると、なんと、そこに活断層があったのです。(T_T)
関西が活断層の巣であることは、今や常識になってしまいました。特に、京都盆地と山科盆地は活断層の巣です。この二つの内でも、特に我が家の近くは、活断層が網の目のように走っています。1200年来都でありつづける京都には歴史的大地震の記録が沢山残されています。その震央の特定は、非常に困難なようで、「日本の活断層」や「理科年表」の歴史地震の震央の図では、エイ面倒臭せぇー、とばかりに、適当な場所を決めて、全部同じ震央にして表示されています。その震央が、なんと、ほぼ我が家なのです。単なる便宜とは知りながら、マグニチュードを表す大きな○や□が、我が家の上に何重にも表示されているのは良い気持ちではありません。国土地理院、なんとかしてください!
それはさておき、京大の花山天文台やアゴン宗(漢字がわからん)の星祭で有名な花山(かざん)の東を走るのが花山断層です。それが我が家のすぐとなり、1〜2メートル先にあるのです!
しかし、私は楽観的でおります。花山断層は、吉田山の東端から日本海まで続く花折(はなおり)断層に比べれば、小さな断層で、その変位は大したことはないのです。神戸の震災のときも、山科の南、百々(どど)のあたりでは小学校の窓ガラスが割れたり、マンションにヒビが入ったようですが、このあたりは平気でした。ご近所に聞いても、山科で本当にそんなにひどかったんですかねー、確かに大きい揺れだったけど、そこまでひどくはありませんでしたよ、という話になります。ようするに地盤が固いらしいのです(断層は地盤が固いところに現れるのです)。そして、地盤こそが地震災害の大小をわけるのです。
これを実感したのは、震災の1ヶ月後位に、神戸大に行ったときです。神戸の街は、海岸の近くから阪神、JR、阪急と3つの鉄道が走っています。阪急、六甲の駅のあたりは、かなり高度があり、ビルの窓からみれば大阪湾が見えます。神戸大は、さらにそれより数十メートルは高度が上でしょう。神戸大の工学部は古い建物なので、完全につぶれているのではないかと心配したのですが、ヒビは入ったものの、ほとんど壊れていませんでした。何でも活断層が工学部の真下を通っているらしく、揺れ自体は大きかったらしいのですが、被害は比較的小さく、今にも壊れそうなコンクリートの非常階段が、震災でも壊れず、今でも使われ続けています。それが、山から下に下りて往くと、風景がどんどん変わっていくのです。大体、阪急六甲を境にして、その上は基本的に安全、段々危なくなり、JR沿線では大被害が出た、という風でした。ようするにほとんど地盤の問題のようなのです。ただ、もう一つは、家の構造です。安っぽい(失礼)プレハブ住宅が、塵一つなくすっくと立っている横で、大豪邸の巨大な梁が瓦礫の中に転がってたのは、本当に象徴的でした。
ちなみに、関西の最新地震情報(15分毎更新)は、ここから手に入れることができます。
京都人は、未だに日本の首都は京都であると信じております。天皇さんは、今、ちょっと東京におでかけで、度重なる戦争などでお忙しく、帰りそびれているだけのことなのです。それが証拠に、天皇さんは公方さまのお城に間借りされたままで、御所は京都に残されたままですし、毎朝、天皇さんの”お朝”(朝ご飯)をお届けする役の川端道喜も京都に残されています。そう言えば天皇家のご先祖のご位牌も菩提寺の泉涌寺に残ったままのようですし、これはやっぱりちょっとお出かけのだけのことなのでしょう。私は京都人ではありませんが、10数年住んでいるせいか、私も最近、ダンダンそう思うようになりました。
ところで、”やらと”は東京の店ではありません。もともとは京都の店です。東京の土産に京都に”やらと”の羊羹を持ってきてはいけません!ちなみに、私の好みは、羊羹の元祖、総本家駿河家の極上練羊羹です。(駿河屋という同じ名前で、別な店が沢山あります。ご注意を。伏見の駿河屋です。高島屋、大丸などで手に入ります)。
7月3日の今日のひとことに書いた相良独和の訳は、多分、田邊元の用法からとったものでしょう。田邊の科学概論はかなり読まれたようです。大正7年9月20日の発行で、大正12年7月15日には、もう19版が発行されています。この本には公理論はなく、公理主義しかありませんが、相良が、当時すでに有名な田邊の手になる論文も調べたことはありそうな話です。
雪の結晶の研究で有名な中谷宇吉郎が物理に進んだきっかけが、田邊の著作の影響だったというエピソードも、田邊のポピュラリティを示唆します。しかし、田邊が日本の思想史に残っている理由は、こういう数理哲学の研究ではなく、1930年代に発表して、それが日本の全体主義に結びついてしまった「種の論理」という思想にあるようです。田邊の「数理哲学研究」には、ブラウワーへの親近感を表明した文章もあり、新思想・革命思想としての全体主義に結びつきそうな雰囲気は十分伺えます。ちなみに、ブラウワーはナチスのシンパであったようです。すくなくとも、ナチスの御用学者として有名なビーベルバッハとは親しかったようで、ヒルベルトとブラウワーが Mathematische Annalen の編集会議を巡って大乱闘を繰り広げた Annalen affair では、ブラウワーはビーベルバッハの援軍をあおいでいます。
群馬大学田邊文庫のホームページによると、田邊は京大退官後は、北軽井沢野尻の大学村に住み、群馬の地で亡くなったそうです。このページには田邊の略歴もあります。大学村には、当時の岩波文化人が綺羅星のごとくならんでおり、野上弥生子が田邊元に哲学の講義を受けていたというエピソードも伝えられています。田邊の「数理哲学研究」、「科学概論」も岩波書店の出版ですから、田邊もいわゆる岩波文化人の一人でしょう。
直観主義数学の提唱者として名高いブラウワーですが、その名前のカタカナ表記が、これだけいろいろある人も珍しいでしょう。きっとゲーテおも凌ぐのではないでしょうか。(ギョエテとは俺のことかとゲーテいい。知っている人は古い!)
ブラウワーは、オランダ人なのですが、戦中戦前に高等学校教育を受けた数学基礎論研究者は、何故かドイツ好みの方が多く(前原昭二先生、倉田令二朗先生など典型です)、何でもドイツ語読みにしてしまうところがあります。ドイツ語だときっとブロウウェルあたりが無難なのでしょうが、オランダ語は、ドイツ語の一方言(低地ドイツ語)ながら、英語にも近いのです。というより、英語がオランダ語の影響を受けたのかもしれませんが(昔は、英国の印刷物の多くは、オランダで印刷されたので、オランダ人職工のミススペルが、そのまま通用するようになった、という話を聞いたことがあります)。
もっとも、発音を聞いていると、どちらかというと北欧あたりの言葉を連想します。しかし、L.E.J.Brouwer に関していえば、ほとんど英語読みそのもの、ブラウワーかブラウアー位が適当のようです。これは以前、知人のオランダ人、Henk Barentregt 氏(彼の名前を本格的に発音するのも難しい)に国際電話をかけて聞いて「ブラウンのブラウだよ」と教えてもらったのです。
それから、別の機会にも、しつこく、オランダ大使館にも電話をかけて聞いてみたこともあります。広報の日本人の方は大変親切で、以前、Brouwer という同僚がいたが、ブラウワー(ブラウアーだったかな?ブラウワー、ブラワー、ブラウアーの違いは、私の悪い耳には、ほぼゼロなので、この違いは大目みてください)と自称していたと教えてくださいました。また、ブラウワー・チェア−というオランダの輸入家具のブランドもあったとのことです。ただ、オランダのような小さな国でも方言はあるので、一概には言えませんけど、という慎重なお返事でした。(他にも、別の大使館に電話したことがありますが、大使館というのは、国の出先のせいか大変愛想のよいものですね。海外に1年ほど住んだとき海外の日本大使館の悪評を聞いて、意識的に近寄らないようにしたことがありますが、今は大丈夫でしょうか?)
それで、そういう話を竹内外史先生としていたとき、竹内先生は、Troelstra さんなどのブラウワーの孫弟子にあたる人達からブラウワーだと聞いているとのことで、いまだにブロウウェルなどという人が多くて困ったものですね、ということでした。以前、岩波人名辞典(ブロウウェルだそうです)の誤りをただそうと、手紙を書いたが無視された、岩波の権威はすごいもんだねー(ニヤニヤ)と、いつも通り楽しそうに皮肉っておられました。確かに、日本が生んだ最高のロジシャン竹内先生を無視するのは尋常ではありません。(下がりおろう、この印籠が目に入らぬかー!へへ−っ)
思うに、こういう間違いは山ほどあって、いちいち対応していたら採算が合わないのかもしれません。しかし、インターネットの時代ですから、海外の人と仲良くなれば、wav 形式でメールで送ってもらうとか、そういうことをチェックするのは簡単なので、「権威」の化けの皮が容易に剥げてしまいますね。(権威にはやはり本物の権威があるので、権威がみんな化けているだけだと思うと大失敗しますので、ご用心。私は若い頃、大分やりました(^^;))、でも、本物と偽者が、少し目と耳を研ぎ澄ませる努力と、少しの(いや!高い!)電話代と接続量を払うと、 案外簡単に見極められる時代がきたような気がします。
大学の先生とか、文筆業の人とか、心して生きていかないと中学生にも笑われる時代です。和歌山の毒入りカレー事件のときに、文芸春秋にのった中学生の論文は凄かったですね。修士号くらいなら、すぐにも出していいくらいの出来でした。医療や警察は問題外ですが、報道ももう少しなんとかならかなったものでしょうか。新聞記者は頭で考えないで、足で考えるものだそうですから、きっと連日のハードな取材で水虫になっていたのですね。
島内剛一先生は、竹内外史先生の一番弟子ともいうべき人で、竹内先生に 言わせると、「僕の fundamental conjecture (竹内予想)を解くのは、 島内君だと思ってたんだがねー」ということになります。
とにかく、良く頭が切れた(最近のキレタじゃありませんよ)ということです。 しかし、どうも切れすぎたようで、ご自身からも伺いましたが、 あまり勉強もせず、論文も書かずという風だったようです。
その島内先生が、すばらしい能力を発揮されたのは、数学ではなく、黎明期の 計算機科学でした。 島内先生は、天才的なアセンブラプログラマだったのです。アセンブラで書い た、紙テープに穿孔された世界最初の定理証明系の一つを、国産初のコンピュー タに、バグ無しで、一回で通してしまったという方です!しかも、その定理証 明系には、ポインタによるツリー、unification などの概念が、先取りされて いたのです。凄いでしょ!日本にも、そういう人がいたのです。
この定理証明系は、有名な Wang の仕事と実質同じもので、契機は、黒田成勝さんが、アメ リカで、そういう研究があるとだけ聞いてきた話だけを頼りに、一から独自に 行われたもののようです。この仕事は、もっと、世界に宣伝して良いと思うのですが、あまり知られていないのが残念です。
私が、まだ、東京にいたころ、その島内先生のお宅にお邪魔して、よく二人で 議論したのが、形式主義と、コンピュータかコンピュータサイエンスかという ことでした。 島内先生は、ウルトラ形式主義者で、あまりに数学=形式なので、「では、遠 くの天体の岩の上にE=mc^2という模様があったら、先生は、それがアインシュ タインの相対性理論だと主張されるのですか」、と聞いたら、即座に「そうな のよ!」と、うれしそうな返答が帰ってきたのを思い出します。
また、「コンピュータサイエンスなんてなくて、あるのはコンピュータだけなのよ!」というのが持論でした。 島内先生のご意見は、高級言語とかいわず、直接に機械を触るアセンブラで書け、そうすれば、コンピュータの資源を無駄なく全部使い切れる、そして、そ の無駄なく使いきる技術の発揮こそ、プログラマのすべきことで、プログラマ の腕の見せ所だ、ということだったと思います。
何でもアセンブラで考えるこ とができて、しかも、そのプログラムを実に綺麗に書ける人でしたし、また、 その当時のパソコンなら、この議論も、まだ、現実味があったのです。実際、 ご自宅で、長年使われた、HITAC 10 のテレタイブの印字ヘッドが磨り減って しまい、代替部品もないし、夜使うと印字の音がとなりに響くからと(理由がすごい!)、日立のパソコンに買い換えられると、すぐに自分で自分用のアセンブ ラ言語と OS を書いてしまうという風でした。
このOSは、まあ、今の概念からするとOSとは言えない原始的なもので、とりあえず作って、あとは、自作の開発環境が整ってから、本格的なものを書こうということだったようですが、しかし、それでも、このOSは、hybernation 機能つきがご自慢でした。そのころ、そういう概念は無かったのですが、HITAC 10がコアメモリで、次に電源を入れても、同じ状態になるのが、気に入っておられ、そのころのパソコンでは、まだ、めずらしかった、HDDを使って再現 したのです。
そして、亡くなる前に、最後に開発されたのが、emacs 風の editor で、これは後に「数学用ワープロ」 として商品化もされました。その editor は、コマンドは、コントロールを押 しながらの emacs 風、スクリプト言語が、独自開発のアセンブラと同じ、 しかも、それがバッファをあたかも Turing マシンのセルのよう利用して計算 を行うという、実に奇抜で面白いものでした。つまり、mule, emacs の lisp の 部分をアセンブラに変えたものです。
そのエディタを見て、私が、「emacs に似てますね」、というと、「それ何?」 という答えでした。コンセプトから、全部、独自開発だったのです。 ただ、このころ、私が導入間もない、東大計算センターの UNIX/VAX780 を使っ て PX というシステムを開発していて、島内先生のシステムやアプリケーショ ンとの類似性や違いについて話すと興味を示され、少しは、使っておいでだっ たようです。でも、その結論は、いつでも、あんな、メモリを消費して、遅いもの は駄目、自分が書いたものの方が良い、アセンブラを使わないのが悪いのよ、 というものでした。
これは、そのころは、まだ、技術、工学を重視した現実的立場のようにみえま したが、今のように何もかもが大規模かつ組織化されるようになっては、趣味や哲学でしかなく、言わば、アセンブラだけを一元論として、すべてをそこに 「直接還元」しようとする、いわばアセンブラ直観主義のようなものだといわ れても仕方がなくなってしまいました。時代の流れというのは、急速でかつ、 恐ろしいものです。 でも、プログラミングを生産と考えず、趣味と考えると、OSからアプリケーションまで、すべてを自分一人でくみ上げることができた、あのころの方が面白かったんだろうな、という気はします。もちろん、島内先生だからできたのですが、今なら,例え島内先生でもできなかったでしょう。もし、今、御存命ならば、Linux の community で鳴らしていて入りしたかも……。でも、そういえば、島内先生は、UNIX は、嫌いでしたね。最初に私に薦められてつかったのが、自宅のテレタイプを使ってで、そうすると、テレタイプには、大文字小文字の区別がなく、全部大文字なので、確か、UNIX は、大文字を、\A のように印字し、小文字 a は、A と印字したので、とても現実的に使えるものではなく、それで嫌になってしまったようです。
おどろおどろしい表現ですが、私は料理をするので、魚をさばくいて内蔵を掃除するときのイメージです。料理って奇麗事ではないのです。魚をさばけば、「人間をさばいたらおっかないだろうな」、万願寺唐辛子や茄子をこげるまで焼いて、「これって野菜の焼死体だな…」、という感じです。まあ、慣れていますので、たいていは平気です。それでも。古川町で買ってきた生きている法螺貝3匹と格闘したときは、さすがに嫌な気分でした。そんな変なもの買わねばよいのですが、珍しいものを見るとすぐ食べてみたくなるもので… (^^;)
それに現実感を失わないようにするためにも、買い物とか、料理とか、庭仕事とかは、大変楽しい作業です。