Hilbert 不変式論史 -1890年までの- : イントロ

ver.2025.01.19

このWEBテキストについて

2024年12月16日から20日の5日間、東京大学の数理科学研究科数理科学専攻と理学部数学科で、数学史のオンライン集中講義を行った。テーマは Hilbert 不変式論史で、「最初の現代代数学」という評価[1]もある1890年の論文[Hilbert1890] "Ueber die Theorie der algebraischen Formen" を中心に、Hilbert が不変式論研究から去る1893年までの主だった論文の解説と、それに関する歴史上のエピソードなどの紹介という、普通の数学史の講義にする予定だった。ちなみに、[Hilbert1890]などは、こちらの文献表を参照するための文献番号である。

ただし、Colin McLarty というアメリカの哲学者が[McLarty2012]で、有限基底理定理発見譚の従来の理解(以後「従来の理解」を「定説」と呼ぶ)に異論を立てているが、[McLarty2012]には歴史学者から見て多くの問題点があったので、それを指摘して、歴史学における正しい研究方法を示すことにしていた。

ところが、[McLarty2012]の問題点を指摘するための証拠集めを行っていたところ、ある点においては、McLarty の方が、結果としては正しくなっていることが分かった。これはおそらく誤りの誤りで正しくなっているのだろうと思う。しかし、いずれにせよ定説にテクニカルな間違いがあることが判明したので、定説の方を史料に対比して再検討したところ、もう一つテクニカルな間違いが見つかり、この二つのテクニカルな誤りが組み合わさって、有限基底定理の発見過程についての定説の大きな誤解が長年隠されてしまっていたらしいことが分かった。

この二つのテクニカルな間違いの一つは[Frei1985]における Hilbert が1888年に書いた書簡中のドイツ語の複数形の「証明」 Beweise を、何故か私以前のすべての著者が単数と理解しており、全員が a proof と英訳していたということである。そして、もう一つは、1890年に Paul Gordan が書いた Klein への書簡中の、Hilbert を意味する ihm (彼)が、[Frei1985]では、Klein を意味する Ihnen (あなた)と翻刻されてしまっていた、ということである。

この二つのテクニカルな間違いは、最初、小さな事に見えたし、また、双方ともに、これらが Hilbert や Gordan による書き間違いなどではないことを証明する史料もあったので簡単に修正することが出来た。ところが、その修正により、有限基底定理の発見過程における[Hilbert1890]の二つの定理 Theorem I と Theorem II の発見順序が逆転した。

その結果、Noether環上の有限基底定理の 証明にあたる Theorem II の証明を先に得ていながら、わざわざ、それより狭い体上の有限基底理の証明を新たに考え、また、後により一般的な証明の方を、一般的と認識しながらも、殆ど「捨てる」様な態度を Hilbert が取っているという、実に奇妙な状況が生じていることが判明した。

そのため、この謎を解明する作業を行った所、結果として、Theorem I の証明には、Theorem II の証明にはない著しい特徴があり、それは代数ではなく、数学基礎論に関係するものであることが判明した。そして、それにより、私が20年ほど前に行っていた Hilbert の初期の数学基礎論的思索の研究で、大きな謎となっていた solvability note というメモや、Gordan に関する奇妙なメモなどの意味に解釈を与えることが可能となった。

私は、そのころから、Hilbert program は、彼の不変式論をモデルにしているらしいと考えていたが、そいう解釈をサポートする強い史料的証拠は持っていなかった。そのため、それはあまりに speculative な解釈に見えたので、それを強く主張をすることは避けていた。しかし、今回の研究で、「Hilbert program の完全性証明計画は、彼の若き日の Gordan による彼の証明方法への批判に最終的反論を与えるためだった」という、以前の解釈よりさらに強い解釈をサポートする史料が十分揃ったのである。そのため、この解釈を公に主張することとした。

そして、この様な作業を通して分かった決定的なことは、良く語られるにも関わらず、Hilbert 不変式論のアカデミックな歴史研究は、まだ一度もなされたことがなかったということである[2]。これらは、Jeremy Gray や David Rowe の様な著名な歴史家により、[Gray2000][Rowe2005][Rowe2018]などで多く語られてはいるが、いずれも数学史の専門的論文であったわけではない。

このため、有限基底理定理発見譚だけでなく、1890年までの Hibert の不変式論研究の歴史を、アカデミックな歴史学の視点から再検討するという作業を行った。そして、 その一環として行ったのが、ポピュラー数学史で特に語られることが多い、有限基底定理の非構成的証明に対して数学者 Paul Gordan が、「数学ではない、神学だ」と批判し、Mathematische Annalen への[Hilbert1890]の掲載を止めるように Klein に勧めたという騒動(以後「神学騒動」と呼ぶ。東大講義では「神学事件」と呼んだ)の実相を、Hilbert, Klein, Gordan, Hurwitz の間の書簡の分析により明らかにするという研究である。

結論としては、この騒動については、従来の定説でほぼ間違いないが、[Rowe2005][Rowe2018]などの詳細な記述には、上に書いた[Frei1985]の誤翻刻などの影響で、幾つか間違いがあることが判明した。たとえば、Klein の Gordan への[Hilbert1890]のレビューの依頼は、現代の査読の様なものを依頼したわけではなく、Hilbert の仕事への賞賛の言葉を期待してのいわば書評依頼の様なものだったということが判った。

また、従来知られていなかった、Gordan の1890年4月の Klein 訪問の理由や、Hurwitz の騒動への深い関与などの幾つかの新事実も明らかになった。しかし、それらは然程大きな誤解や新事実ではない。この神学騒動に関して言えば、今回の研究により、定説は細かい間違いはあるものの概ね正しかったと証明されたということができるだろう。

これらは、いまだ、研究の途上にあるが、このサイトで公表の努力を続けている私の数学の近代化研究のピースの一つとなりそうなので公開することにした。そうすることには、20年ほど数学から離れていたため、講義準備のための数学の再勉強のため、このサイトの構築が1年以上中止になったこともある。1年間以上サボっていたわけではない。実は私の研究分野中では最も苦手な数学を、何とか理解しようと懸命に勤めていたのである。そして、その間の成果が、このテキスト群であるわけだ。また、これらの研究は、十分研究が進んだと思われる段階で英文論文にする予定でいる。

このWEBテキストには、Göttinger Digitalisierungszentrum (GDZ) 作成の原史料画像や、林によるその翻刻が含まれているが、前者の公開の許可は史料所有者である Niedersächsische Staats- und Universitätbibliotek Göttingen から頂いている。また、これらの画像は、近い将来すべて Public Domain Mark 1(PDM) のライセンスで、GDZ のサイトで公開される予定である。また、林の翻刻も Public Domain Mark 1(PDM) での公開である。利用する際には、どちらも出所を正確に記載していただきたい。林の翻刻の方は、こちらのサイト shayashiyasugi.com から得たことを明記していただくだけで良い。

脚注

[1] [Dieudonné&Carrell1970], p.2:

It is well known that the existence of such systems was proved by Hilbert in 1890, in a brilliant paper which made him famous overnight and which may be considered as the first paper in "modern algebra," by its conceptual approach and methods.
この "a brilliant paper" というのが [Hilbert1890] のことで、"such systems" というのが不変式の有限基底のことである。

[2] 20年ほど前に、林は Hilbert の不変式論研究の時代の不変式論講義のための講義ノートの分析などの研究をしていたが、それは、その当時の Hilbert の数学基礎論的思索を知るためで、彼の不変式論そのものを対象にしたものではなかった。ただ、それが今回の研究で大きく役だった。

イントロの終