モジュール化と科学

岩波書店雑誌「科学」2001年6月号,
特集2あなたが考える科学とは第2回、pp.800-801

私は数学と情報科学の両方を専門とするが、この5, 6年は、19世紀後半から20世紀初頭の「数学基礎論の時代」の歴史研究に重点を置いている。私はプロの歴史家ではなくて、ゲーデルの不完全性定理論文を翻訳・解説して岩波文庫でださないかというお誘いが切っ掛けになった素人仕事だ。しかし、調べれば調べるほど「通俗史観」に納得がいかなくなり、とうとう本棚は歴史資料で一杯になり、果てはゲッチンゲンに調査旅行することになった。

その仕事を通して、今更に感じるのは、ヒルベルト、ゲーデル、チューリング、ノイマンにシンボライズされる、この数学基礎論の時代に現代の情報産業、知識産業の芽が生まれ、現代が、その時代の遠いうねりの影響下にあるということだ。

数学基礎論は、19世紀半ばから1930代まで、空間的にはプラハ、ウィーン、ブダペストからベルリンにいたる中部ヨーロッパ平原を中心として誕生した。ちらりと見た本によると、ゲーデルの2年後に同じハプスブルグ帝国の臣民として生まれたピーター・ドラッカーは、1960年代に、20世紀後半からの産業を支える科学技術のひとつは数理論理学だと書いたそうだ。それは現代のWEBの基幹を支えているのと同じ、情報・知識を物質化し加工・配達する技術のことを言っていたのだろう。

それを生んだのが「数学基礎論の時代」だった。数学基礎論は、数学の哲学的問題を数学的に解決するために生まれたが、「基礎付け」という当初の目的は、「数学の哲学的問題を数学的に解決する」という文章のもつ自己参照性が原因で頓挫する。その後に残ったのは、ヒルベルトに発する「知も物でありえる」、「知もオートマタでありえる」という事実だった。

このときヒルベルトが作った「知の物質化の上部構造」が公理的方法と呼ばれるものである。それは数学的原理と概念をパソコンのボードのようにとっかえひっかえして、新しい数学を作り出し、数学の原理間の構造をたちまち明らかにできる方法だった。公理的方法は、端的に言えば、「知のモジュール化・パーツ化」だったのである。

今、子供たちの間で、ベイブレードというハイテク・ベーゴマが流行っている。ベーゴマもベイブレードもチューニングと操作技術を競う遊びだが、チューニングの仕方が違う。鋳鉄のベーゴマは個体差が大きく、鑢で削ってアナログ的にチューニングする。一方、ベイプレードは規格化された工業製品なので個体差は少ないが、5層に分かれたパーツ(モジュール)からなり、それをさまざまに交換してカスタマイズし、パーツの特性を利用してチューンする。これは規格品のパーツの組み合わせで、世界で一つのパソコンが生まれる自作パソコンの世界と同じなのである。

モジュール化の方法は、現代のコンピュータ・ソフトウェアの基本思想にもなっており、これがなければ今のような複雑なアプリケーションや OS は作れなかった。フォードに代表される20世紀の大量生産・大量消費の文化を支えた技術もこれだった。そして、20世紀数学の爆発的進歩と多様化も、このパーツ化が大きな役割を果たしていた。20世紀はモジュール化・パーツ化の時代だったのである。

このパーツ化の方法の威力は、指数関数の急増化性によって支えられている。ベイブレードの5層の、それぞれに10種類パーツがあれば、パーツの総数は50に過ぎないが、その組み合わせは10万通りになる。(10種類というのは例え話で、本当にそれだけあるのかどうか知らない。ただ、ビットチップというパーツは数十種類あるそうだ。)この指数関数的な組み合わせ論的爆発こそ、工業規格品によるモジュールの組み合わせを恐ろしく豊潤にするものなのだ。そして、それを逆に使えば、現実の複雑性をモジュール化によって、対数関数的に単純化することができる。

公理的方法というと、厳密化、抽象化という面が強調されるが、こう考えると、この方法のもうひとつの意味が浮き上がってくる。情報圧縮だ。公理化というのは、10万種類のベイブレードを、わずか50個のパーツに還元したり、掛け算を足し算に還元してしまう対数の魔法と同じだ。それは大量の情報を少数の情報に圧縮する技術なのである。

計算機科学者ホーアは、定理を忘れても、少数の公理から自分で導き出すことができるから数学が好きだ、と書いた。ブール代数のブールは貧乏だったので、なかなか本を買えず、「長持ちする」数学の本を読んだので数学者になった。数学知というものは、見かけ上の量に比べてギッチリと圧縮されており、推論という解凍技術によりコンパクトに圧縮された理論から、無限ともいうべき情報が引出されうるのである。

パーツ化が膨大な可能性を少数のパーツに圧縮する秘密は「組み合わせ論的爆発」で、これは本来厄介なものでもある。その組み合わせ論的爆発を手なずけて、組み合わせ論的圧縮にするためには、一つ一つの部品は個体差がなく画一的な方がよい。ベーゴマのような微妙なアナログ的差異を競うのでなく、ベイブレードのように組み合わせで勝つ方に主眼があるのならば、部品は画一的な方がよい。良い組み合わせを見つけたとき、どのパーツが効いているのか、パーツにばらつきがあったのでは、見極めが難しくなる。

ゆるい意味の公理系である科学理論も同じことだろう。概念や定義は、なるべく曖昧性の低い安定なものでなくてはならない。そのためには、全く独立したチームによる再現実験が可能なものでなくてはならない。それが可能な「公理的方法」としての科学の利点は、凡庸な科学者でもある程度の役割を果たせる点である。人口が多いだけで科学が発展するのだ。コンピュータ・シミュレーションを連想すればよい。安定した概念のものとで、多くのチームが実験や理論の展開を行えば、それは学界全体で、遺伝的アルゴリズムによる実験を行っているようなものだ。

経験が無くても、良い勘を持つものには、より容易に科学者としての道が開かれる。これが学問のアカウンタビリティであり、公開性であり、グローバライゼーションというものだろう。それが絶対的に良いかどうかは置いても、これに成功すると、ネットワーク上の人海戦術による超効率的で高い信頼性のある技術開発が可能となることだけは確かである。今流行りの無償OS Linux がそれだ。

インターネットがさらに発達し、物流や交通のネットがさらに発達し、そして、科学がよりデジタル化、モジュール化していくと、ソフトウェア科学の世界だけに限らず、科学・工学のあちこちで、Linux と同じ現象がおきるだろう。そのとき科学などの知は、真にパブリックなものになり、従来の意味の「専門家」というギルド集団の独占物ではなくなる。インテリジェンス(諜報)には、007のようなスパイは必須でなく、冷戦中でさえソ連が公開した情報だけで十分な諜報活動が可能だったという。情報は十分ある。知恵があればよい。

そういう公開された知を原動力とする科学は、おそらく今までの科学とは、いささか違うものになるのだろう。Linux は、完全に公開され、多くの目にされされることにより、むしろ従来型の開発手法によるソフトウェア製品より安定かつ堅牢だ。科学の世界でも同じことが起こる可能性が高いのではないだろうか。