1回目と2回目に、それぞれ、約100年前と現代のSF映画を見る。
1回目に見るのは1927年のフリッツ・ラング監督の「メトロポリス」、設定は、2026年。製作が行われた場所はワイマール共和国時代のドイツ。
2回目に見るのは2013年のニール・ブロムカンプ監督の「エリジウム」、設定は、2154年。製作が行われた場所はアメリカ。ただし、メキシコ(など?)でロケ。
どちらも、1世紀、1.5世紀後という時代設定だが、実は、その時代を未来に反映させていると言われる。
それにより、ワイマール共和国時代の社会と、現代の社会とを比較することができる。
注目点は、それぞれの時代時代の資本主義のイメージの違い。
そして、その差が、主にAIなどのITと、生命科学によりもたらされていること。
これにより、現代の行く末を考える。
シラバスには、林の担当部分は歴史社会学的だと書いてある。
歴史社会学とは何なのか、Wikipedia の記事を見てみる。
この記事には、社会学者マックス・ウェーバーが引用されているが、この人の代表作の一つ「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が歴史社会学の嚆矢であり、また、代表とされている。
簡単に言えば、歴史社会学とは、現代社会を作ってきた過去の歴史を通して、現代の社会を考えるということ。
つまり、現在の社会は、こうなっている、その原因はなんなのだろう、という風に考える。
それにより、過去を現代に引き当てて考えると、近未来位を予できることがある。
ITにより大きく変わった社会が、さらにどの方向に進むのか。それを、最後の2回の講義(通常の講義の4回分)で考える。
今回は、まず映画メトロポリスを見る。
第一次世界対戦後のワイマール共和国の時代のドイツで作られた、最初期のSF映画の傑作といわれる映画「メトロポリス」を見る。
無声映画でもあり、ストーリーが良く分からないと思うので、林が説明しつつみる。講義では、時間の関係で、全体を見ることはできず、ポイントだけを見る。特にポイントは、リストにしてあるので、これを参考に、できれば自分で全部見ておくと良い。無理ならばポイントだけでも見ておくこと。
鑑賞の際に、参考となるサイト:1 2 3 特に登場人物の地位と、力関係、どこにいるか、特にその場所の高度に注意(場所が地位のメタファーになっている。機械の方が労働者より上…)。
Metropolis Rescore はオーストラリアの作曲家Benjamin Speed が The New Pollutants というグループ名で、Metoropolis にサウンドトラックを付けたもの。
2時間27分12秒という長さからして、ブエノスアイレス版と思われる。
YouTube にあるので無料で見ることができる。画質もよい。
これを見る。
これの他に、カラー化されたMetroplisもある。しかし、カラー化でかえって見にくいところもあり、また、ドイツ語版なので、以下では、英語版のモノクロ映像を使う。
2020年台の未来都市メトロポリスは、資本(家)はその頭脳 BRAINあるいはHEAD(科学技術のこと)により世界を支配し、労働者は、その手足 HAND となって働く社会だった。
HEADは物理的にHANDを支配・搾取している。その統治の機構は、メトロポリスの街の構造が象徴するように、
頂点のバベルの塔の先端に位置するのオフィスの Fredersen から、
Fredersen 直属の部下 Josaphat に率いられる秘書たち(これもBRAIN)、
そして、職工長 Grot が率いる労働者たちが運用するハート・マシン(都市の心臓)、
そして、ハート・マシンより、さらに地下深くに住まうる労働者たち、
というピラミッド型であった。
この様なシステムを、マックス・ウェーバー社会学では官僚制という。官僚制の条件の一つは、命令系統などが階層的で、上の階層が、直下の階層をコントロールすることである。
メトロポリスにおいて、この条件は絶対的であり、緊急事態の連絡不備だけで Josaphat が回顧され自殺を図ったのは、これが原因。
命令が上の階層から直下の階層に伝わる様に、報告は、その逆のプロセスをとらねばならなかったのだが、これが二度も破られたため、
Fredersen は、メトロポリスの大原則が崩されたと感じ怒ったのである。Josaphat君、君はクビだ 26m43s>
資本家たちにさえ、やさしい感情を持つ地下の宗教的指導者 Maria は、Frederson の息子で彼女に一目ぼれしてしまった Freder のやさしい気持ちを見抜き、
彼に HEAD と HAND を調停する魂 HEART としての役割を託す。
科学技術の象徴ともいうべき Rotwang と、彼が生み出した機械人間 Maria のために、
メトロポリスは労働者の蜂起で大混乱に陥り労働者の子供たちが死の危機に瀕する。
しかし、Maria, Freder, Josapaht の活躍により子供たちは助けられる。
蜂起した労働者は、機械人間 Maria の機械としての正体を知り、
また、子供たちが自分たちのために死の危機に瀕していることを悟り悲嘆にくれる。
マッド・サイエンティスト Rotwang は Maria を大聖堂の屋根に追い詰めるが、
Freder (HEART) が Rotwang (機械、科学技術) に闘いを挑み、Maria は救われ、Rotwang は、その機械人間とともに滅びた。
そして、Freder, Maria (HEART)により、自分たちの子供が救われたことを知った労働者たちは、
ついには HEART である Freder の調停により資本と握手をし、ストーリーはハッピーエンドに終わる。
資本と労働者、頭脳(HEAD)と肉体(HAND)を仲介するものは心(HEART)である。
注1.時代設定は、リリースの1926年の100年後といわれるが、確たる証拠を見つけていないので、2020年代としておく。
ここには、まだ、未来への希望が見える。
当時のドイツを支配し、多くの人々が、その恩恵を得ながらも敵意も抱いていた「機械文明」を打ち破ることにより、
資本家と労働者の対決という、抜き差しならないように見えた事態を、
キリスト教のような伝統的なヨーロッパの価値観が解決するというストリーになっている。
また、Fredersen のオフィスの「ディスプレイ」など情報機器を暗示するものも登場するものの、
「ハイテク」の象徴は、すべて機械、つまり、金属などでできた機械であった。
つまり、機械が近代性の象徴であった時代。そして、現代は、それを脱して、情報、ITが時代の象徴である。
また、この映画では、筋肉労働者を HAND(手)、Fredersen の様な知を使い社会を動かす人を HEAD(頭脳)、そして、Freder 君のような他人の気持ちを思いやることができる感情豊かな人を HEART と呼んだ。そして、HANDとHEADの対立をHEARTが調停するのだというのが、この映画のテーマだったのである。
この100年前のイメージからすれば、現在恐れられているように、機械とAIが HAND と HEAD を置き換えても、まだ、人間には感情 HEART というものが、残されている、つまり、人間には感情労働が残されている様に思える。
しかし、本当にそうだろうか?
最近、聞くようになった感情労働という言葉がある。これはもともとは社会学の概念、この感情労働をキーにして考えると、実は、その感情こそが、現代の社会で、最も搾取されているものではないのかとも思える。これを最終回に考える。
メトロポリスが作られたのは、ワイマール共和国時代のドイツ。
この時代に大きな力を持っていたのはマルキシズム。
メトロポリスは、そのマルキシズムの世界観が色濃くみえる映画である。
しかし、共産主義諸国が北朝鮮などを例外として、資本主義化してしまった現代、
この世界観はもう通用しない。
また、テクノロジーが映画の大きなテーマのひとつであることは明らかだが、
そのテクノロジーは、所謂、第1次産業革命のそれと大きくは違わないものばかりだった。
ロボットは出て来るものの、暴動の扇動という、実際のロボットの役割とは、大きく違うものに使われている。
よく見ると、ビデオ電話のようなものも出てくるのだが、この時代、まだ、TVも発明されておらず、
情報処理は、人間が担う設定になっている。
つまり、現実の歴史は、メトロポリスが予言したものとは、大きく異なった方向に進んだのである。
予言と書いたが、実は、メトロポリスは、資本対労働者がテーマになっているように、
マルキシズムが力をもっていたワイマール共和国時代を未来に投影した映画ともいえる。
労働のシフトを告げる時計が10時間計になっていたように、この映画でのシフトは10時間だった。
実は、労働時間が10時間というのは、ワイマール共和国以前のドイツの労働時間で、ワイマール共和国時代は、すでに8時間になっていた。
つまり、10時間計をみただけで、聴衆は、メトロポリスの世界、未来の世界は、資本に人間(労働者)が搾取される時代だとイメージできたはずである。
しかし、それでも最後はハッピーエンドだった。