ブラック企業が問題となり、昨年からは厚生労働省、労働局なども調査をするようになった。0 1 2 3
実は、このブラック企業が日本型モデルの負の側面が顕在化したもの。
日本型モデルは、官僚制が切り捨てた感情を、生産のために再導入した。それがブラック企業を生む結果となった。
そして、実は、日本に限らず、現代は、この「生産のための感情」「競争に勝つための感情という燃料」の問題が大きくなっている時代。
これを、社会学の「感情労働」の理論を使い分析する。
アメリカの社会学者ホックシールドによる著書 The managed Heart: Commercialization of Human Feeling (1983)、邦訳「管理される心―感情が商品になるとき」で提唱され広まった概念。
この著書のタイトルに注目
The managed Heart: Commercialization of Human Feeling
Metropolis では、Hands と Head を仲介する希望の存在だった Heart が manage されているという話。
Metrololis の manager = Fredersen だったことに注意。
以下では、このホックシールドの「感情労働」の概念を拡張した意味で使う。少なくとも、現在の日本の一般的用語としては、これから説明する様な意味で使われているケースが殆ど。ホックシールドのオリジナルでの使い方は、林は最近ものでは見たことがないほど。
このオリジナルの定義と今日の日本での使われ方の違いは、Wikipediaの英語版と日本語版を比較すると明らか。
原著、2012版、p.7での定義と林の訳:
原著本文:This labor requires one to induce or suppress feeling in order to sustain the ourward countenance that produces the proper state of mind on others...
原著脚注:I use the term emotional labor to mean the management of feeling to create a publicly observable facial and bodily display; emotional labor is sold for a wage and therefore has exchange value.
本文訳:この労働(感情労働)では、それが他者(顧客など)の然るべき心理状態を生み出すことになる、自分の表情・外見を保つために、感情を誘発したり抑圧したりすることが必要とされる。
脚注訳:私はこの用語(感情労働)を「公的に観察可能な表情や仕草を生み出すための感情のコントロール」のこととして用いる。感情労働は賃金のために売り渡されるものであり、その故に交換価値を持つ。
ホックシールドの著作では、感情ルール(feeling rules)、などによる、感情(feeling)の管理(management)が組織(institutions)により行なわれていることが示された。
ホックシールドの著作ではデルタ航空のキャビン・アテンダントのケースなど、主にサービス業における感情労働が分析された。(デルタ航空の訓練所での感情管理などが分析された。)
他の例としては医者、弁護士など挙げられている。たとえば医者が氷の様に冷たい対応をすると、医療行為自体が優れたものであっても、患者が不安感を抱くことになり医療の結果にも影響すうることがある。そのため、医師は感情面でのケアも考慮して仕事をしなくてはならない。
これらの場合は感情労働者が労働の結果として提供する生産物そのものが感情であるケースが多い。例えば、笑顔、客の難題に対する忍耐、同情、など。
ホックシールドは、感情労働をロシアの演出家コンスタンチン・スタニスラフスキーの演劇理論(Stanislavski's system)の概念を援用して、次の二つに分類した:
マクドナルドで働くには無料の笑顔の surface acting で十分だが、ディズニーランドのキャストは deep acting を求められている。
surface acting は、それほど大きな問題ではない。問題は deep acting。
これは労働者からみれば、自らの人格がシステム(会社、組織)によりコントロールされる、あるいは、自らでコントロールする(これも自発的コントロールと他者からの間接コントロールの二つがある)、ことを意味し、要するに人格が、自己の内部だけでなく、外界の何かにより、あるいは、何かを志向して操作(コントロール)されることを意味し、自発的な感情でない感情、が強いられることとなる。
自らが強いることもあることに注意。「こんなことで負けてはいけないんだ。辛くても頑張ろう!」など。
この講義では、Hochshcildの感情労働の定義のうち、次の三つの部分を削除したもので感情労働を定義する:
また、surface acting は、本当の感情労働から除外する。
その結果、上の三つの削除を行い、脚注訳を先にし、本文訳を続けて書き、さらに deep acting であることを付け加えると、次のような、 この講義での感情労働の定義になる。そして、これは日本語 Wikipedia での説明によく似たものになっている。(少し文章を補ってある。)
ホックシールドの研究は、ブルーカラーの筋肉労働(Heart)、ホワイトカラーの頭脳労働(Brain)、という単純な二分法ですませていた労働概念に、労働とは無縁のものと考えられがちだった感情(Heart)の問題が導入されるべきことを明らかにしたことで、理論的に興味深いものだった。
しかし、この当時、感情労働が、大きな社会問題となっていた形跡は、全くない。この当時(80年代)は、まだまだアメリカの中間層が豊かだった時代で、感情労働者の例としてあげられた、フライト・アテンダント、大学教授、医師、弁護士、などの職に大きな問題があったとは言えない。
この講義でこれを取り上げるのは、、また、今の日本で言及されることが増えているのは、こういう比較的良い社会クラスの人の感情労働ではなく、日本型モデルの成れの果てであるブラック企業などにおける、弱い立場の人たちにおける感情労働が、現実に、この日本で存在するから。
それを分析するには、1980年代のアメリカの感情労働概念では十分ではない。だから、ホックシールドの理論に纏わりついていた労働の種類の特殊性をはぎ取り、また、日本で問題となっている「企業・組織による感情コントロール」を強調した定義にした。
その定義が、Wikipedia 日本版の定義と似通ったものになっていることは、この問題が、社会的に憂慮されていることの一つの証拠だろう。
surface acting は、acting する人(actor, 労働者)の人格の変更を強いることが少ない。しかし、deep acting は情況によっては人格も変えてしまう。
役者の場合は、映画の撮影、演劇の公演は一過的。撮影中に役になりきっていても、撮影が終われば自分に戻れる。
しかし、通常の職業の場合、職業に従事する人生の期間は長い。終身雇用の場合などは、人生のほとんどすべてが特定の職場での労働の期間と、殆ど一致してしまう。これが日本型モデルの「会社と人生の融合」にあたる。そのため、企業により人が変えられてしまう(良い方向に変わる場合もある)。つまり、人が企業・組織により操作される。これは一般に好ましくないと理解されている。
これは Wikipedia 日本語版でも落ちている。すでにブラック企業、日本型モデルの問題点を理解しているはずの、みなさんには、これを落とした理由は明白だろう。日本型モデルで、例えば、自動車生産工場で行われる、労働者の「熱意」「家族の様な一体感」のような、日本的労働の世界で起きる deep acting で生産されるものは、顧客に感情に限られていない。日本で今問題にされている感情労働は、確かに接客業に多いが、それに限られていない。そのために、これを削除する。
これらは、ともに感情のコミニュケーションにおける伝達の仕方についての部分である。しかし、これでは、ホックシールドの理論の後に登場したネット社会での感情労働における感情コミュニケーションが説明できなくなる。
ITの世界、WEBの世界では、主な感情コミュニケーションは文字情報やアバターを通して行われる。
したがって、感情労働は労働者の表情や動作を通して行われるというホックシールドの定義では、WEB上での「感情労働」が存在しないことになる。
しかし、実際には、会社の twitter, facebook, blog における、顧客対応、とくにクレーム、さらに炎上などのように、感情が、the outward countenacne 以外の媒体(メディア)を通して伝達されるケースは数多い。
それどころか、WEB上の匿名の書き込みによる方が、より深く感情が傷つけることが多い。
また、Twitter, Facebook などの SNS での「上司からの意図しないパワハラ」が部下にストレスを与えていることが問題となっている。
ということで、これも、現在では余計な条件になってしまっているので削った。
実は、さらに言えば、感情労働を「給与を対価として交換される価値」として定義してしまうと、たとえば、ボランティア的に行われている活動(社会行動)が考察の対象から抜け落ちてしまう。
しかし、Wikipediaのようなボランティア活動を落とすと、WEBやツイッターなどの現代社会、特にネット社会の重要な要素の大半が視界から消える。
だから、現在のWEB世界を理解しようとすると、「労働」 という用語を使うと、一番大切な状況をとらえられないこととなる。
そこで、ホックシールドが、アメリカでのコマーシャリズム的な感情操作の実態と問題点を探るために考え出した概念である感情労働を、社会学者ウェーバーにならい「社会(的)活動」(Soziale Handlungen)に拡張して考える必要がある。拡張された「感情労働」である、「感情的社会行動」の一応の定義は、
ホックシールドは deep acting による感情労働が人格のコントロールに及ぶことを指摘している。
そのレベルに達し、自らのアイデンティティ、つまり、人格、感情、知能、などの、個人のすべてを、そのものとして(つまり、社会的ロールではなくて)、提供することを求められるような労働や行動。
一時、日本政府が提唱し持て囃された「人間力」(Wikipedia 人間力、行政における動向)は、現代においては人格レベルまでの力が労働生産性を決定することに陽にか陰にか気がついた提案であると思われる。
一見良いように見えるのだが、人格労働で、労働を低く評価されたら、人格を否定されたことになる。
入試で面接による「人格の判定」がペーパー試験より重視されたら?100点だったのに、面接で落とされたら、自分の人格を否定されたと感じる人もいるだろう。
以上の様に、感情労働の定義を何段にも拡張して考えれば、ブラック企業、SNS疲れ 1,2,3などの問題は、すべて、過剰な感情の操作と、「流通」の問題であることは、明らかだろう。
つまり、現代社会は、資本主義システムや、IT(ネット、スマホ)などによる感情資本主義社会「感情を燃料にして働くこと生きることを強いられる社会」となっている。
もちろん、感情を燃やすことは、人間が社会的動物である以上、当然のことだ。しかし、現代は、それがITなどのシステムで、数十年前には想像さえできなかったレベルのスピードと規模で燃やされるようになっている。それに伴って、大きな問題が起きつつあるといえる。
まず、最初にHANDからHEAD,そしてHEARTへという、メトロポリスの時代からの歴史の変遷を見た後、2013年に公開された映画「エリジウム」に、現代と近未来を見る。
その意図の分析: 2020年台の未来都市メトロポリスにおいては、資本(家)はその頭脳 BRAINあるいはHEAD(科学技術のこと)により世界を支配し、労働者は、その手足 HAND となって働く。HEADは物理的にHANDを支配・搾取している。その統治の機構は、メトロポリスの街の構造が象徴するように、頂点のバベルの塔の先端に位置するのオフィスの Fredersen から、Josaphat に率いられる、その直接の部下たち(これもBRAIN)、そして、職長 Grot が率いるハート・マシン(都市の心臓)よりさらに地下深くに住まう労働者 11811 Georgy のように番号で管理される労働者たちにいたるピラミッド型官僚制であり、その厳格さは、緊急事態の連絡不備だけで Josaphat が回顧され自殺を図るほどである。
資本家たちにさえ、やさしい感情を持つ地下の宗教的指導者 Maria は、Frederson の息子で彼女に一目ぼれしてしまった Freder のやさしい気持ちを見抜き、彼に HEAD と HAND を調停する魂 HEART としての役割を託す。科学技術の象徴ともいうべき Rotwang と、彼が生み出した機械人間 Maria のために、メトロポリスは労働者の蜂起で大混乱に陥り労働者の子供たちが死の危機に瀕する。しかし、Maria, Freder, Josapaht の活躍により子供たちは助けられる。蜂起した労働者は、機械人間 Maria の機械としての正体を知り、また、子供たちが自分たちのために死の危機に瀕していることを悟り悲嘆にくれる。
マッド・サイエンティスト Rotwang は Maria を大聖堂の屋根に追い詰めるが、Freder (HEART) が Rotwang (機械、科学技術) に闘いを挑み、Maria は救われ、Rotwang は、その機械人間とともに滅びた。
そして、 Freder, Maria (HEART)により、自分たちの子供が救われたことを知った労働者たちは、ついには HEART である Freder の調停により資本と握手をし、ストーリーはハッピーエンドに終わる。
資本と労働者、頭脳(HEAD)と肉体(HAND)を仲介するものは心(HEART)である。
注1.時代設定は、リリースの1926年の100年後といわれるが、確たる証拠を見つけていないので、2020年代としておく。
ここには、まだ、未来への希望が見える。当時のドイツを支配し、多くの人々が、その恩恵を得ながらも敵意も抱いていた「機械文明」を打ち破ることにより、資本家と労働者の対決という、抜き差しならないように見えた事態を、キリスト教のような伝統的なヨーロッパの価値観が解決するというストリーになっている。
また、Fredersen のオフィスの「ディスプレイ」など情報機器を暗示するものも登場するものの、「ハイテク」の象徴は、すべて機械、つまり、金属などの個体でできた機械であった。
それが約90年後の2013年に作られた映画「エリジウム」では、どうかかわっているか。上の説明赤文字に注意しながら、見てみよう。
その前に、3点:
2154年の地球では、少数の超富裕層が静止軌道上のスペースコロニー、エリジウムに住み、多くの人々は地上で現在のスラムのような場所に住んでいた。地球とエリジウムの治安は、エリジウム自身を作ったカーライルのアームダイン社 Armdyne Corp. のロボットや兵器で保たれていたが、その機械的・形式合理的・官僚的な支配は貧困層には過酷だった。この時代の官僚制はすでに官僚・警官ではなく、機械により行われるようになっていたのである。そして、その兵器やロボットは地上で作られていた。
そのような地上の工場で働いていた一人が、主人公、マック、マックス・ダ・コスタである。彼は元伝説的自動車泥棒だったが、今は工員としてまじめに働いていたが、自分たちを支配する機械官僚システムに敵意をもっており、つい発した皮肉のために、警官に骨折を負わされてしまう。骨折治療のために病院を訪れたマックスは、そこで看護師となった、少年時代のあこがれの美少女フレイと再会する。マックスの夢は、いつの日にかフレイをエリジウムに連れて行くことであり、そう約束していたのである。
マックスが生産するロボットが、21世紀の中ごろには実現されていそうな程度のものである一方で、22世紀の生命科学の進歩は著しく、あらゆる怪我や病気を、簡単なスキャナーのような機械で瞬時に直すことができるほどであった。それは若返りも可能にし、エリジウムの住民の多くの年齢はおそらく100歳を軽く超えているはずだが、一見、50代、60代のように見えた。この時代、たとえば、エリジウム政府とアーマダイン社の間の契約は、100年単位で語られていたのである。
一方、フレイが務める地上の病院の医療のレベルは、21世紀の現代とほぼ変わらず、たとえばシングルマザーのフレイの娘マチルダの白血病をフレイはどうすることもできなかった。21世紀の現在では多くの癌が次々と治る病になっている。しかし、140年後の地球には、現在、先進国とアフリカなどの貧しい地域に存在する以上の医療格差が存在したのである。
そのため、病気や怪我の子供を抱える母たちは、エリジウムに密入国してでも子供たちの病気を治そうとした。その様な動機だけでなく、密入国を企てる人々を少なくなく、それを請け負う密入国業者も存在した。それは、現在のメキシコの貧困層が命がけでアメリカを目指す、まさにその構図そのものである。
その様な密入国業者の一人スパイダーは、3機のシャトルをエリジウムに送り込んだが、彼のいささか甘い予想に反し、エリジウムの防衛長官デラコートは、地上に住むエージェントで荒くれ者のクルーガーに命じて、地上からのミサイルで3機の密航船を撃ち落とさせようとした。2機は到達前に破壊され、最後の一機はエリジウムに到達したものの、一人の少女がその骨折をいやすことに成功したものの、結局全員逮捕あるいは殺害された。
デラコートの過酷な対応はエリジウムの官僚たちにさえ不快に思われた。市民はなおさらである。エリジウムの大統領パテルは、地上のエージェントを使ったことが命令違反であることを批判し、クルーガーを解雇させるとともに、次の命令違反によりデラコートが解任されると告げる。これを機に、デラコートはクーデターを計画する。カーライルを呼んだデラコートはエリジウムの制御プログラムを自分を大統領にする様に書き換え、その新プログラムでシステムをリブートすることを命じた。見返りは契約期間の200年延長である。
カーライルは、地上で、そのプログラムを書きあげ、それを自らの脳の記憶域にアップロードし、安全のため、もしダウンロードされたとき、その記憶を持つ者が死に至る様に暗号をかける。
一方、地上のマックスは、工場で放射線を浴びてしまい、後5日の命と宣告され、症状を和らげる薬を与えられただけで解雇される。マックスは生き延びるため、旧知のスパイダーに自分をエリジウムに送ってくれるように懇願する。マックスが必死であることを知ったスパイダーは、以前から温めていた計画、エリジウムの住人の誰かを誘拐し、その脳の記憶域のすべての情報をダウンロードして、一挙に富を盗み取るという計画を実行に移す。スパイダーは、マックスの脳に記憶装置を埋め込み、また、弱っている彼にパワード・スーツのような人工骨格と筋肉をとりつける。
これによりサイボーグ化したマックスは、おりしもクーデターのためにエリジウムに帰ろうとしていた、恨みあるカーライルを標的として、地上で追跡し、大怪我を負った彼が死亡する直前に、その脳内記憶域の全情報を盗み取る。当然、それにはクーデーター用のプログラムも含まれていた。スパイダーは、そのプログラムを分析し、地球の住民すべてをエリジウムの市民にすることかが可能なプログラムであることに気がつく。
カーライルの記憶がマックスに盗まれたことを知ったデラコートは、クルーガーにクーデーター用プログラムを取り返すことを命じ、クルーガーとマックスの死闘が始まる。
ここから、ハリウッド映画特有の死闘・乱闘になり、偶然が偶然を重ねるややこしい話になり、それは講義のテーマとは関係がないので(ただし、エンターテイメントとしては、一番の見どころですが)、少し飛ばして、結末へ。
結末:死闘の末、クルーガーとその手下に捕まったマックスは、自らの脳を破壊すると脅して、自分をエリジウムに連れて行かせる。実は、その時、クルーガーの船には、やはりクルーガーにとらえられたフレイとマチルダが乗っていた。そして、場面はエリジウムに移る。スパイダーも自らの船で侵入に成功しており、登場人物たちは、皆、エリジウムに終結し、マックス、フレイ、スパイダーたちは合流してクルーガーと対峙し、また、カーライルのプログラムを使い、自分たちの病を治そうとする。ここでさらなるクルーガーとマックスの闘いが続くが、なんとかクルーガーを倒したマックスは、スパイダーとともに中央制御室に侵入し、プログラムをダウンロードして、地球の住民全員を市民して、マックスとマチルダの病を治そうとするが、スパイダーは、それを行うとマックスが命を落とすように防御がかかっていることに気がつく。マックスは、自らの命をあきらめたとことをフレイに電話でつげ、自らの死と引き換えにダウンロードのボタンを押す。エリジウムをリブートされ、マチルダはいやされ、そしてエリジウムの医療システムは、地上の「市民」たちをいやすために、医療船を地球に送る。
以下、上段がメトロポリス、下段がエリジウム
支配層の位置
労働者・貧困層の位置
労働者・貧困層の境遇
富裕層と労働者・貧困層の距離
支配層=資本家(富裕層)と技術者とエージェント
富裕層の豊かな生活を維持するハイテク
反乱で打ち壊されるもの
結末
エリジウムには、次の様な、メトロポリスにはない要素がある。
今年の講義では、この内の、2と1にスポットライトを当てて、これ以後で、今までの話を纏めていく(今年は、3はなし)。
エリジウムの監督ニール・プロムカンプが言う、エリジウムが描く現代とは、どんな時代なのか。
まだ、エリジウムの警官ロボットの様なものは存在しない。
しかし、今はAIブームである。
すぐにそれはやってくるのか?
この講義も、残り後2回だけです。
次回、次々回で、いままでの話を纏めていくことになる。
マリア型アンドロイドは登場したものの、メトロポリスのピラミッドの頂点に位置する頭脳 Fredersen も、その直下の Josaphat たち秘書も人間だった。
労働者が機械より下に置かれていたが、その機械をコントロールしているのは労働者だった。
エリジウムのピラミッドの頂点は、やはり人間だったが、超富裕層。それ以外の人々は、すべて貧民で天文学的距離にある地上(=スラム)にいる。
その貧民層を管理するのはロボット。そして、そのロボットを貧民層が作成し、その中でマックスは死の放射線をあびる。
エリジウム自体が、ITで管理されており、そのプログラムを書き直すというクーデターが計画された。
また、最後のシーンでは、プログラムを書き直して貧民の革命が成就される。
宇宙工学の部分を除くと、生命工学が生むかもしれない生命の格差(若さ・健康の維持には膨大な費用がかかる)と、ITやロボティクスの話が中心になっている。
そして、生命の格差を維持する仕組みは、生命工学でなくて、IT,ロボティクス。
もちろん、このロボティクスにはAIが使われている。
ハッキリ見えてはいないが、良く考えてみると、Josaphat の位置にいるのが、AI(ロボットなど)を含むITであることがわかる。
このメトロポリスからエリジウムへの変化をもとに、次回、次々回で、現在の状況と近未来のことを考えつつ、講義を纏める予定。