数学基礎論論争は、一昔前の古い解説では、論理主義、形式主義、直観主義という三つの学派に分かれて争われたとされることが多かったが、実は、この見方は、あまり適当なものではない。
形式主義と直観主義の間で、最終的には学界政治闘争で決着がつけられる激烈な論争があった一方で、論理主義に分類される人たちと、他の二つの主義に分類される人たちとの間には、論争らしい論争がみられなかったからである。
論理主義は、むしろ、形式主義と呼ばれるもののお膳立てをしたものと考えた方が良い。
実は論理主義とは、すでに説明しているデーデキントやラッセルによる「集合を材料として数学の再構築を目指す方向性」のことなのである。そして、この方向性の可能性は、実質的にはラッセルのパラドックスの発見により潰えたのである。
まず、その論理主義についての説明から始めよう。
デーデキントは、1888年の著書の前書きで、「自然数を還元する先は、もう論理 Logik しかない」という意味のことを書いている。それを、実行したのが1888年のデーデキントの自然数論なのである。
この論理 Logik とは、何であったのだろうか?
この様なデーデキントの「論理学 Logik」の解釈が、20世紀の終わりころに、スペインの歴史家フェレイロス Ferreiros により、この論文Traditional Logic and the Early History of Sets, 1854-1908 やこの著書 Labyrinth of Thought: A History of Set Theory and Its Role in Modern Mathematicsで提案された。
Ferreiros は、これをアリストテレスに発し、1970~80年代に、記号論理学が普及するまで、日本でも大学初年級の教育で教えられていた、伝統的論理学、いわゆるアリストテレス論理学であるとした。
現代の日本の大学で、伝統的論理学を教えている所は非常に少ない。しかし、アメリカなどの大学では、今も伝統的論理学と記号論理学と合わせて教えられているケースが多い。
この伝統的論理学と、その西洋文明における位置づけの理解がないと、なぜ、デーデキントやラッセルが、数学より論理学の方が確実だと思った理由がわからなくなる。
それが分かれば、彼らにとって、伝統的論理学、そして、それを進化させた記号論理学は、日常的に、特に学問の世界において、人間が使っているもので、諸学に先立つ、もっとも基本的な学問であり、最も確実で疑わしい点がないものだった筈なのである。しかも、ラッセル・パラドックスなどが発見されて、論理学の基礎に、数学よりもっと厄介な問題があることが判明するまでは、論理学は、ラッセルの指摘した「数学の基礎が揺らいでいる」という問題を解決するための手段としては、もっとも相応しいものだったはずなのである。
そして、デーデキントだけでなく、1919年ころまでのラッセルも、彼の論理学の基礎には伝統的論理学があり、それを改善したものが、彼の記号論理学だと考えていた証拠が幾つもある。
つまり、デーデキントとラッセルという、現代的に言えば「集合論で数学の基礎づけをした人たち」の二人の代表は、ともに、彼等の集合論を伝統的論理学、アリストテレス論理学の線上にあるものと捉えていた。その故に、それにより数学が基礎づけられれば、それは堅固な基礎だと信じたと思われる。
すくなくとも、ラッセルは自分の論理学を、数学者の集合論と完全には同一視していなかったので、「彼らの集合論」とは、「現代から見れば集合論に見える、彼らの論理学」という意味である。
ラッセルたちが、数学の還元先として考えた論理学は、上の様な、基本的なものだった。
我々日本人には、分かり難いが、それは、英語などを話す人たちにとっては、自然な還元先だったろう。
しかし、この論理学が数学の様に扱われるようになるやいなや、その基礎の危うさが暴露されてしまったのである。
これ以後、もう論理学に単純に信頼を置くことはできなくなった。
そして、ラッセルは、矛盾の生じない、しかし、数学の再構築が可能な論理学の新体系の構築をめざし、Principia Mathematica という体系を生み出す。
しかし、Principia Mathematica の体系では、PoM ではできた、unit-class の全体を集めて、数1として定義する、というようなことはできなかった。このため Principia Mathematica では、デーデキントが哲学のような「考え得るもののすべて」というもので、その存在を証明した無限集合の存在を公理として天下り的に前提せざるを得なくなった。
数学を純粋論理に還元するはずだった「論理主義」のプロジェクトは、実質失敗に終わることとなった。Principia Mathematica は論理学と言いながら、その実は「変装した集合論」だったのである。つまり、数学が、その数学の新興分野である集合論に還元できただけだった。
しかも、その還元先の集合論は、カントル、ラッセルなどのパラドックスが次々と発見され様に、その基礎は、集合論の誕生以前から存在する幾何学、代数学、算術、解析学などの基礎より、むしろ、揺らいでいるとも言えるものだった。
つまり、数学の揺らぐ基礎を、純粋論理学に還元しようというデーデキント、ラッセルの論理主義は失敗に終わったのである。
ラッセルは「型」の概念を導入して「文法的」にパラドックスを避けたが、パラドックスを避けるもう一つの方法として「集合のサイズを抑制する」という方法がある。
つまり、集合すべての集合とか、要素が一つだけの集合のすべての集合、のような巨大な集合をさけるという方法である。
ラッセル・パラドックスのもととなったカントル・パラドックスが、「最大の大きさを持つはずの集合」のパラドックスであったことを考えれば、非常に大きな集合を避ければ、ラッセル・パラドックスのようなものは避けることができそうである。
この方向性を追求したのが、ラッセル・パラドックスを、ラッセル以前に発見していた数学者エルンスト・ツェルメロである。
ラッセルのパラドックスを生んだ {x | x∈x でない}のような巨大な集合の存在を認めないかわりに、実際の数学で使われる集合を割り出して、それらは存在することにする、つまり、それらの存在を公理とする、というのがツェルメロの戦略だった。
これは、極めて実用主義的、機能主義的アプローチであり、別の言い方をすれば、ご都合主義的でもある。
つまり、ツェルメロの公理が何故本質的なのか、という説明は、「現在までの数学で、それが必要だ」という意外には説明がなかなかつかないのである。
つまりは、絶対的な根拠のようなもの、この命題が公理として正しい、という風に言える根拠が、「必要だ、便利だ」という条件以外には、見つけにくいということである。
実際、後にツェルメロが1908年に出版した最初の公理系(公理の集まり)だけでは、カントルの集合論が充分展開できないことがアドルフ・フレンケルなどの指摘で、ようやく1920年代になってわかり、新しい公理が追加されるということがあった。
現在では、この二人 Zermelo, Fraenkel の名前の頭文字をとり、ZF 集合論、さらに、これにツェルメロが考えた、選択公理というものを追加した、ZFC集合論というものが、数学の標準的基礎として使われている。
ZFC集合論のような、使える公理を明確に規定して、それのみを使って理論を展開する集合論を公理的集合論という。
つまり、現在の数学の基礎は、公理的集合論が担っているのである。
1908年のツェルメロの集合論、1910-13年のPrincipia Mathematica、1920年代の ZFC集合論により、経験的に、ラッセルがいう様な意味での「揺らぐ数学の基礎」の揺れを止めることができるようになった。
特に、その成立以後、ZFC集合論、あるいは、Fを除いたツェルメロの集合論+選択公理、普通はそう書かないが、言ってみればZC集合論とでもいうものは、急速に数学の基礎の標準となった。
しかし、すくなくともゲーデルの不完全性定理が発見されるまで、あるいは、第二次世界大戦前位までは、公理的集合論が数学の基礎であることにに飽き足らない数学者たちがいた。
その時代を代表する数学者、あるいは、そうなる筈だったのに不運にも若くして命を落とした数学者たちの間に、「数学の基礎は、Principia Mathematica や、ZFCの様な公理的集合論だとすることで、現実的には困らないので、そうしておく」という状況に飽き足らない人たちがいたのである。
その様な人たちの代表としては、フランスのアンリ・ポアンカレ、オランダのL.E.J.ブラウワー、ドイツのヘルマン・ワイルをあげることができる。特に、後の方の二人、ブラウワーとワイルは、その代表格中の代表格である。
これらの人たちは、直観主義者と呼ばれる。
直観主義と呼ばれる人たちが求めていたものは、伝統的論理学に代りえる様な、本質的な基礎、だったといえる。
Principia Mathematica や公理的集合論は、上に説明したように、その成立の歴史から見て、どの様に見ても実用主義的であり、それを真理の根本とする根拠に欠けていた。
ブラウワーとワイルは、この状況に我慢がならなかったと思われる。彼らは、ラッセルやツェルメロなどが、「経験的に勝手に作ってしまった Principia Mathematica やZFC」が、数学の基礎であることに我慢がならなかったのである。
彼等にとって、数学の基礎は、何かもっと本質的なものでなくてはならなかった。
そこでブラウワーが、数学の基礎として採用したものが、「我々の意識とともに常にある内的時間直観」であった。
これがブラウワーの(数学的)直観主義の本質である。そして、これは時間直観が、我々が最も直接的に感じることができるものであることから、「最も基礎的なもの」として、本質的なもの、根拠あるもの、として考えられたのである。
しかし、このブラウワーの数学には大きな欠点があった。哲学的な本質性が、公理的集合論などに比べて強い一方で、実際の数学の実行が困難になるのである。
実際に、排中律が使えない世界で実行する故に、成り立たなくなる数学の定理が数多くあった。つまり、ブラウワーの直観主義数学は、ラッセルがいう「それは何か、どんな意味において、それは正しいのかという哲学者の問」に対しては答えることができるようになった反面、実際の数学のかなりの部分が、実行できなかったり、実行が難しくなったりしたのである。
この様な状況の中、基礎の問題を一挙に解決する方法が、当時、数学の世界に君臨していたと言ってもよい、大数学者ダービット・ヒルベルトにより提唱された。それが、証明論、超数学(メタ数学)などの名前でも呼ばれる、形式主義という数学思想である。
このヒルベルトの形式主義は、先に説明したクロネッカーの一般算術による数学の基礎における多変数多項式の代数の体系を、ラッセルの The Principles of Mathematics や、Principia Mathematica で使われた記号論理学の体系に置き換えたものと見なせる。
ヒルベルト形式主義を、いままで講義で話して来た知識を元に、一番シンプルな形で説明するとすれば、それは、
クロネッカーの一般算術における、多項式の代数を、記号論理学に置き換えたもの
と説明できる。
従来、クロネッカーとヒルベルトの数学思想は、鋭く対立するものと見なされてきたので、これは通常の説明とは大きく異なるものだが、最近では、色々な人が同じような主張を始めている見方である。
実際、まだ無名だったころのヒルベルトが残したクロネッカー訪問記には、一般算術で、√5を説明する方法が記録されており、当時、まだ、一般には出版されていなかった、クロネッカー流の数学の基礎づけが、ヒルベルトに強い印象を与えたことを推測させる。
クロネッカーの一般算術による基礎づけの場合に使える数式は、代数式だけだった。
ヒルベルトは、これをラッセルなどが発明した論理式にまで拡張した。
クロネッカーの「推論」は、中学でも習う数式の変形だった。たとえば、以前やったものを再現すると、N[u1]/(mod u1+1) での、-1*-1=1
の推論は、
(u1+1)*(u1+1)=u1*u1+2u1+1
(u1+1)*(u1+1)=0*(u1+1)=0
u1*u1+2u1+1=0
2u1+1=u1+(u1+1)=u1+0=u1より
0=u1*u1+2u1+1=u1*u1+u1
0=u1*u1+u1
両辺に1を足して
1=1+0=u1*u1+u1+1=u1*u1+0=u1*u1
であった。
しかし、数学の証明というのは、こういう式変形によるものだけではない。
数学においても、論理学の場合の様に、文章が使われる。それが論理の部分である。
たとえば、以前やったイプシロン・デルタ論法による、
の定義は、
であり、これの次の部分
が論理の部分であり、残りが「数の部分」、
だと説明した。
数の部分は、基本的には数式だが、論理の部分は、文章であり式では書かれていない。
その部分は、先に説明した伝統論理学、つまり、有名な三段論法
ソクラテスは人である。
人は皆死ぬものなり。
よって、
ソクラテスは死ぬものなり。
の様な推論を行う世界であり、数式はでてこない。しかし、ラッセルたちの記号論理学では、この様な文章や推論も数式のような論理式というものを使ってあらわすことができたのである。
たとえば、「人は皆死ぬものなり」は,記号論理学では、例えば、
∀x.(Hum(x) →Mor(x))
と書ける。ただし,Mor は,Mo に対応する述語記号というもので、Mor(x) は x is mortal を表す。
また、
○→×
は、〇ならばX、という文章を表している。
詳しいことは省くが、述語論理では、三段論法のように、前提から結論を導く方法を、論理記号についての形式的・機械的な「推論の法則」で説明できるようになっている。たとえば、「ソクラテスは人である」 の表現 Hum(so) と、「すべての人間は死ぬ」の表現 ∀x.(Hum(x) → Mor(x)) から、「ソクラテスは死ぬ」の表現 Mor(so) を導くには、次のようにする。
クロネッカーの一般算術の数式計算とは、随分雰囲気が違うものの、どちらも機械的な規則で、なんらの直観も挟まずに、その「計算」の正しさを規則に従って確認することができるのである。
クロネッカーの一般算術では、たとえば、√5を導入したN[u1]/(mod u1+1) という算術の体系では、u1 が現れない式は、普通のNの式、つまり、自然数と自然数の等式の場合、N[u1]/(mod u1+1) と、Nでは、同じものしか成り立たないということを確認することができた。
つまり、N[u1]/(mod u1+1) で、a=b が成り立てば、それはNですでに成り立っているのである。これは、N[u1]/(mod u1+1) で、Nでは成り立たない1=0のような式が成り立つことはないということを意味していた。
この事実を、N[u1]/(mod u1+1) は、Nの保存的拡大であるといい、数学的には
N[u1]/(mod u1+1) において、数式 a=b がなりたち、a, b に u1 が入っていなければ、a=b はすでに、Nで成り立っている
と定式化する。
もう少しわかりやすくいえば、拡張現実の世界に、現実を拡張する現実にはない存在として導入した u1 は、古い世界の構造を変えない、ということである。
一方で、N[u1](u1*u1-2u1+1=0,u1=0) では、u1*u1-2u1+1=0 から u1=1が導かれるために、1=0 になり、古い世界の構造、つまり、Nの構造を u1 の導入が変えてしまう。
この様な古い世界との整合性が保たれた拡張現実の世界は、古いものだけに限れば、拡張する前の世界と何ら変わりがないということである。
ある拡張現実が、保存的拡大になっているのならば、古い世界の秩序が拡張現実 u1 により乱されることはないのだから、u1 は「便宜的な道具」として自由に使うことができることがわかる。
ヒルベルトとその協力者たちは、ツェルメロの集合論の自然言語の部分を、記号論理学で置き換え、たとえば、ZF集合論を、上に説明した論理式の機械的な推論の規則で記述できることを示した。
その様にすると、ZF集合論についても、先ほどのN[u1]/(mod u1+1) の場合のように、「保存拡大」というもの考えることができた。Principia Mathematicaについても同様である。
すでに説明したように、これらの体系では、最初から自然数にあたるものの存在を前提する必要があった。そのために、これらの体系の記号論理学を使って、Nの数式、つまり、自然数と、+、×と括弧だけ使って書いた数式を書くことができたのである。
その一つを a=b としよう。実例としは、1+1=2などである。
そして、そういう a=b が、Principia Mathematica や、ZF集合論で証明できたとき、もし、もともとの自然数の体系Nで成り立つならば、クラスや集合は、Nという現実の世界を乱すことがなく、道具として使って問題がない仮想現実の世界であると考えることができる。
Principia Mathematica や ZF 集合論では、ラッセルのパラドックスなどの集合論のバラドックスを再現することができないということは、1920年代ころには、すでに経験的に解っていた。
だから、多くの数学者は、それで十分満足していた。
しかしながら、ブラウワーやワイルのような、哲学的問題をも重視する人たちは、それだけでは飽き足らず、内的時間直観など論理学に代る何らかの保証を求めたのである。
ところが、それは、結果として、先に説明したように、数学の実行を困難にしたばかりか、既存の数学理論のかなりの部分を放棄することを迫るものだった。
内的時間直観というものは、我々人間という有限的存在の「所有物」であるために、本質的に有限的性格を帯びており、そのためにカントルやデーデキントの集合論が扱うことが多かった無限集合を十分に扱うことができなかったのである。
しかし、ヒルベルトという人は、そういうデーデキントやカントルの方法が、クロネッカーが研究したような、伝統的な数学の枠組みの中でも、非常に重要な役割を果たすことを最初に実証した人のひとりだった。
ヒルベルトは「不変式論」という分野の「ゴルダンの問題」という未解決問題を、ほとんどはクロネッカーの理論を使いながら、「有限基底定理」というものの証明にだけ、有限と無限のギリギリの世界の証明を使い解決することにより、大数学者としての第一歩を踏み出した人だったのである。
ヒルベルトは、その後、デーデキントのイデアル論を使い、クロネッカーや、クンマーの代数的整数論の理論を徹底的に書き直し、現代的な代数的整数論の発展の基礎を作った。
つまり、ヒルベルトは、集合論のような「仮想現実」を駆使して、数学を行うことにより、19世紀終わりから20世紀初め、凡そ第二次世界大戦の勃発前までの時代を代表する世界的な数学者となったのである。
そのためヒルベルトには、集合論は非常に重要なものだった。
そのため、ヒルベルトはPrincipia Mathematica や、ZF集合論は、すくなくとも数学の道具として使って問題ないことを示そうとしたのである。
ヒルベルトの研究計画はヒルベルト計画と呼ばれ、その目的は多岐にわたったが、その中の最も重要な二つは、
を示すことであった。
このヒルベルト計画は、1910-20年代に生まれたものだが、その思想の源流は、実はラッセルやツェルメロのパラドックスの発見より遥かに古く1880年代にまで遡る。
その頃、後の大数学者ヒルベルトは、未だに無名の青年数学者であったが、秘かに大きな夢を抱いていた。
それはライプニッツやカントのような哲学者たちが残した哲学上の問題を数学的に解くことであった。
遥か後、世界的大数学者として認められる様になった頃の1905年に行った数学の基礎についての講義の記録では、ヒルベルトは、自身の数学の基礎についての研究の最初の動機は、「数学の正しい事実のすべてを、有限的証明で示せるか」という「古い問題」を解決することだったと語っている(Logische Prinzipen des mathematische Denkens, 1905, ゲッチンゲン大学数学研究所蔵.、pp.248-249):
この問題が, この分野におけるすべての私の研究の本来の出発点だった. そして, この問題の最も一般的ケースへの解答, つまり数学にはイグノラミブスがないことの証明が究極の目的として残されている.
これは、現在、記号論理学の初歩コースで教えられる、命題論理の完全性というものに対応したものを示した際に書かれたノートで、ヒルベルトは命題論理という記号論理学の一番初歩的なケースでは、すべての正しい命題(文、論理式)が、有限のステップで証明できることを示したのであるが、その上で、この結果を数学の総ての正しい命題に拡張するのが、自分の数学基礎論研究の出発点だったと言ったのである。この問題は、凡そ、ヒルベルト計画の完全性問題に対応しており、それと1880年代の彼の日記の二つの記述により、ヒルベルトの数学の基礎への興味が、実は、彼が、まだほぼ無名だったころの、哲学の問題を数学で解くという願望から来ていることがことが分かるのである。
その日記の記述というのは、彼が残した三冊の日記の内の最初のもので、恐らくは1880年代に、彼がゴルダン問題を解こうとしていたころに書かれた記述である。
注:日記と呼ばれてはいるが、実は日付が書かれていない、アイデア帳のようなものである。そのため「数学ノート」と呼ばれることもある。
その一つは、次の様なものである:
すべての数学の問題は, 次の問題に還元できる:0 と1 からのみなる途切れることのない列
(α) 0 0 1 1 0 0 : : :
が与えられたとき, それとは異なる別の同じような列
(β) 1 0 0 1 1 1 : : :
を(計算操作により: [一部不明], 因数分解等, サイコロを振るのはなし[nicht wurfeln])構成することができる規則が与えられているとする. ある列(β ) の中に0 が出てくるか, あるいは全ての列(β) が1 のみでできているかのどちらであるか, それを有限回の操作により判定する.
私は次のように信じる:このような決定は有限回の操作(計算操作) により可能である. つまり, このような決定が有限個の操作(計算操作) ではできないというような命題は存在しない. つまり, すべての数学の問題は可解[lösbar] である. 人間が(物質に関わらない純粋思惟により[durch reine Denken ohne Matherie])到達可能な理性[Verstande] も同様に解決できる. 問題は一つだけある. (例えば, 円積問題, π = 3:14 が10 個の続く7 を持つか, など. ) この可能性の仮定から我々は出発する.
すべての数学の問題は特殊な形の命題に還元することができて、その形の命題は、かならず有限回の操作だけで真偽が決まるというのである。
つまり、このノートは、すべての数学の問題を、人間は解くことができるという主張なのである。
ただし、これだけでは、そういう有限的万能操作を人間が発見して、さらには、その操作で、そういう形の命題の真偽が決定できることを人間が証明できるか否かについては、これのノートは明瞭には語っていない。
しかし、これより前に書かれた別のノートには、「「物質科学にお いては, その科学の根拠を知ることができないが, 数学ではそ れを知ることができる. カントはそれを最初に主張したが証明 (beweis) はしなかった」という意味のノートがあり、ヒルベルトがカントは証明できなかったが、自分は証明したいと考えていたことを示唆する。
このヒルベルト計画を巡って、直観主義者とヒルベルトの陣営の間で、最期は学界権力闘争に発展するような激しいやり取りが行なわれた。
それに火をつけたのは、歴史上初めて、リーマン面に十分納得の行く説明を与えた数学者ヘルマン・ワイルである。
ワイルは、集合論を使う位相幾何学という新興数学分野の結果などを駆使して、リーマン面を集合を使って厳密に記述してみせたのである。
しかし、ワイルは、その研究成果を発表した「リーマン面の概念」(Die Idee der Riemannschen Flache、1913)という小冊子の前書きに、新約聖書のフレーズを引用しつつ、集合を使うリーマン面の基礎づけが数学の立場からは決して本質をついたものではない、この仕事が高く評価されることはないだろう、ということを縷々語ったのだった。
ドイツ・ゲッチンゲン大学で、ヒルベルトの高弟としての地位を保ち、ラッセルのパラドックスなどを身近に知り、また、一方でハイデガー哲学などにも精通していた、この数学者には、実用的には十分でも、哲学的には中途半端な Principia Mathematica や、ZF集合論による基礎づけは我慢ならなかったようである。
彼は、この10年ほど後、第一次世界大戦の敗戦によるドイツの混乱期に、その社会状況にうなされたかのような数学基礎論についての檄文「数学の新危機」を公刊した。
それには、「数学者たちは、公理的集合論などにより集合論のパラドックス、つまりは数学の危機は、過ぎ去ったかのように言っているが、実は、危機は何ら解決されいないのである。それを解決に導くのはブラウワーの直観主義である」という意味の内容が、情熱的な言葉で綴られていた。
後にワイル自身が、これをドイツの敗戦という社会状況において、未だに青年の熱気を残していた自分の情熱のほとばしりだった、と反省的に回顧したように、この数学論文は、檄文というにふさわしいものだった。
驚くべきは、誰もが認める世界的大数学者、おそらくは、世界第一の数学者であったヒルベルトが、このワイルの檄文に感情的に反応したことだった。
カントル・デーデキント、そして、彼らの集合論を高く評価していた彼は、自分の高弟であったワイルが、この様な論文を書いたことに衝撃を受け、ブラウワー・ワイルを標的としたワイルの檄文以上に刺激的な「数学の新基礎」という檄文を公表したのである。
これにより、ヒルベルトとその弟子たち(その一人が、ジョン・フォン・ノイマンだった)と、ブラウワー・ワイル陣営の間で、数学史上稀に見るような激烈なバトルが開始される。
そして、様々な経緯を経て、1928年ころ、ブラウワーは、ヒルベルトの政治的動きにより、実質的に数学の世界から追い出される。これには、ブラウワーの反ゲルマン的な政治思想と、コスモポリタン的なヒルベルトの政治的傾向との衝突の意味もあったようである。
いずれせよ、1931年ころ、ブラウワーは実質的に数学の世界を去り、直観主義的な数学の基礎づけは、その後継者によって担われ、ヒルベルトの形式主義・ヒルベルト計画の勝利は明らかであるかのように見えた。
その様な状況の中で、1930年の秋に突然現れたのが、ウィーン大学の学生、クルト・ゲーデルによる不完全性定理という数理論理学の定理だった。
ゲーデルは、ある意味ではヒルベルトとブラウワーに中間的位置にいたともいえるが、いずれにせよ、ヒルベルト計画のある部分を自ら実行しようとして、逆にその不可性を証明してしまった。
ゲーデルは、ヒルベルトとその弟子たちが作った、記号論理学を使うZF集合論などは、それが無矛盾である限り、決して完全とならないことをしめした。
これを第一不完全性定理という。
これだけでもヒルベルトのオリジナルの目的には大打撃である。
しかし、ヒルベルトは、完全性についての彼の信念を、比較的隠すように語ったので、これはヒルベルト計画に対しては、公には大きな打撃ではなかった。
問題は、無矛盾性問題の方であった。これは当時、ヒルベルト計画の中心的目的だと信じられていた。
すくなくとも、それはヒルベルト計画の最低到達地点、これができないならば、計画があまり意味がないものとなる、そういうものだったのである。
しかし、ゲーデルは、第一不完全性定理の帰結として、第二不完全性定理と呼ばれるものを導いたのである。
この第二不完全性定理は、もし、誰かが、ヒルベルト計画の「無矛盾性問題」を解決しようとすると、その人は、本質的に、無矛盾性証明を行う対象理論で使われる証明手段より、信頼性の劣る証明手段を使うしかないということ意味していた。
しかし、これでは本末転倒なのである。第二不完全性定理が示していたことは、ヒルベルト計画の無矛盾性証明を行うには、無矛盾だと証明される Principia Mathematica やZF集合論における証明方法以上に危険な方法を使うしかない、ということを意味していたからである。
つまり、ある知識の体系が矛盾しないこと示すには、それより危険な方法を使うしかない、ということであり、これでは、信頼性が全く還元されていないのである。
これでは困るので、ヒルベルト計画では、無矛盾性証明は、直観主義者も認めるような「有限の立場」という非常に限られた証明法だけを使い、集合論を使わないことになっていた。
ところが、第二不完全性定理は、それが無理だということを示していたのである。
不完全性定理の意味ついては、様々な意見がある。
バブル経済が盛んなころの日本では、ニューアカ、ポストモダンなどと呼ばれる思潮が盛んで、不完全性定理は、人類の知の限界を示すものだということが盛んに喧伝された。
その結果、知的好奇心に旺盛な有名な小説家であった大岡昇平が、不完全性定理の勉強をしたと書いて世間を驚かせたりした。
しかし、一方で、記号論理学・数学基礎論の専門家たちは、不完全性定理は、記号論理学の重要ではあるが、一定理に過ぎない、決して、「人類の知の限界を示す定理」ではない、という立場をとるものが多かった。
実は、林も、数年前までは、そういう立場にたっていた。
しかし、19-20世紀ドイツ思想史の研究などを続ける内、ヒルベルトが若い数学者であったころにはまだ残っていた、数学や自然科学と、哲学の濃密な関係を、現代の様に疎遠な関係にしてしまったものこそが、不完全性定理なのではないかという考えを抱くようになった。
現代では、想像し難いことだが、デーデキントの集合論やラッセルの数理論理学が、哲学の一部だった(アリストテレスの哲学の一部)、伝統的論理学に基づいていたように、19世紀には、未だ、数学と哲学が未分化であった。
この状況はヒルベルトが日記に記したこといからもわかる。
ヒルベルトは、定年で引退する際の有名な講演で、おそらくブラウワーなどを意識しと思われる「数学者の皮を被った哲学者」という言葉を使って、哲学的議論をする数学者を批判している。
そのことから、ヒルベルトは哲学を見下していた、嫌っていた、と考えられているが、これは、彼の若き日の日記の内容と矛盾するかのように見える。
しかし、ブラウワーが哲学的思索から初めて、論理学に代る新たな数学の基礎を考え出したのは、確かに哲学が数学に影響を与えることだが、ヒルベルト計画のように、「無矛盾性証明には集合論を使わない」という点を除けば、ヒルベルト計画は、完全に数学の形をとっていた。
また、「無矛盾性証明には集合論を使わない」という点も、これが哲学的配慮であることを忘れれば、実際に行われることは完全に数学の範囲の議論で行うことになっていた。
つまり、ヒルベルト計画の目的は、哲学的問題を解決することだったのだが、その手法は完全に数学の範囲にあると見なせたのである。
ヒルベルト計画とは、数学により哲学的問題を解く計画だったのである。
つまり、それは「数学による哲学への越境」だったのであり、ヒルベルトが「哲学が数学に越境する」ことを嫌ったことと何ら矛盾しないのである。
デーデキントやラッセルが、現代から見れば集合論であるものを、伝統的論理学、つまり、哲学の一部と見なしたことは、すでに説明した。
このことを考慮すれば、Principia Mathematica や、ZF集合論は、哲学の一部を切り取って数学にしたものともみなすことができるのである。
そして、それの無矛盾性や完全性が数学的手法で示されれば、数学は哲学を一切必要としなくなる。
ヒルベルト計画が成功すれば、哲学的問題は重要としたまま、哲学からの干渉を一切排除して、数学は哲学から完全に独立できる筈だったのである。
しかし、その計画は実行できないことを不完全性定理は示してしまった。
数学者たちは、これを受けて、再び哲学的議論を行なったのだろうか?
実際に起きたことは反対だった。
ワイルの関心ような哲学的関心が、不完全性定理以後、急速に薄れたのである。
これ以後、ゲーデルのようなもともとから哲学的な人を除き、歴史に名の遺すような偉大な数学者が、数学の基礎付いて発言する機会が激減したのである。
数学者たちは、ヒルベルトの失敗を教訓として、また、経験的には無矛盾で、自分たちの目的のためいは十分完全な、ZF集合論を数学の基礎とすることにしたのである。
そして、無矛盾性は信じること、あるいは、気にしないことにし、第一不完全性の方も、実際の数学の問題に影響を与えない限り気にしないことにしたのである。
その後、数理論理学者により、実際の数学研究に影響を与えるような命題で、ZF集合論では肯定も否定もできないような命題の探索が行われたが、選出公理というもの以外には、あまり重要なものは見つかっていない。また、選出公理は、圧倒的多数が使用を支持しているので、これも大きな問題にはならなかった。
その結果、数学者たちは、それまでの哲学的議論を止めてしまったのである。
つまり、不完全性定理の歴史的意義を問われれば、古代ギリシャのプラトン以来、2千数百年に渡って緊密な関係を持っていた数学と哲学の関係を、現在の様に疎遠なものにした最終的契機こそが、不完全性定理であったという結論に達したのである。
もともとは、この事実を、ワイルの著作、若くして亡くなったフランスの数学者、ジャック・エルブランの書簡などをエビデンス(証拠)として示すのが、この講義の大きな目的であったが、クンマーの理想数のあたりに時間をかけすぎたために、それを示す時間がなくなってしまった。
この話は、現在、執筆中の本(岩波新書)に期待して頂くことにして、不完全ながら、これで講義を終わる。