全学共通科目「科学史」メモ 2016.11.17

前回の講義で、振れたネジとネジ山の話が書いてある本:

質問票への回答のための資料

  1. 平方根の関数のリーマン面が4次元であるには違和感がある。
     回答:このリーマン面が4次元だとは言っていない。このリーマン面は、複素一次元で、普通のセンス、つまり、ユークリッド空間のセンスからすると2次元の面。
       しかし、それは3次元ユークリッド空間に置くことは無理で、4次元ユークリッド空間の中にしかおけない、ということを言った。ちなみに、前回のリーマン面を、
       紙細工で説明するやり方は、工学や物理学を学ぶ人のための数学の教科書で良く使われる説明で、数学者は、全然別の説明の仕方をする。
       その説明の仕方では、平方根の関数のリーマン面とは、このカリフォルニア大学バークレイ校の講義資料のLecture 1の Fig1.2 のように、「二乗の関数のグラフを90度回転させた図形」の
       様に考える。一般には、複素多様体という幾何学的存在を考えねばならないが、この関数の場合には、非常に簡単に書けて、{(z,w)∈C^2|z=w^2}という複素二次元空間の曲面。
       複素二次元空間は、4次元ユークリッド空間と考えられるので、これは4次元空間の中の代数的に定義できる二次元の曲面ということになる。


    斜体の部分は、数学を良く知っている人にしかわかりません。良くわからない場合は、無視して結構です。

前回までの資料から(改良してある:クンマーの理想数のところ)

集合論の歴史1 揺らぐ数学の基礎

現代の数学の基礎は揺るぎないものと信じられている。

現代の数学者たちは、数学の基礎に重きをおかず、「数学基礎論、数理論理学なんて数学じゃない」あるいは、「数学基礎論、数理論理学なん低級数学だ」という態度をとる人が多いことは、すでに説明したが、その一つの理由が、これのことにある。

つまり、ラッセルたち数理論理学者の努力により、数学をするに十分な、揺るぎない基礎が、随分前に出来上がっていて、解析学、代数学、幾何学などの「普通の数学」を行なうには、それで十分であるために、もう研究する必要などないと思われているからといえる。

パリの下水道は、19世紀ころには、ほぼ完成していて、それが「花の都パリ」の衛生の基礎を支えていた。それは世界に誇る設備だったが、現代では、観光ツアーはあるものの、取り立てて語るべきものでもない。

そして、現代のパリの下水道は、19世紀に完成したものが、ほぼ、そのまま使われているといわれる。

これから紹介する、19世紀から20世紀前半にかけて作られた「集合論と論理による数学の基礎」も、このパリの下水道システムと同じようなものともいえる。

それがないと途端にパリの現代的生活は成り立たなくなる。数学でも同じく、「集合論と論理による数学の基礎」がなくなると、とたんに数学は麻痺する。

だから、これをあまりにバカにするのは上品な態度とは言えない。

それはともかく、その「数学を支える近代的下水道システム」としての「集合論と論理による数学の基礎」以前、どれだけ数学の基礎が揺らいでいたかを、2つの例を使って説明する。

その一つは「解析学の基礎」、そして、もうひとつは「リーマン面」の理論。

揺らぐ数学の基礎 解析学の場合

高校で、集合というものを習った人が多いと思う。たとえば、数学Aの集合と論理。これの高度なのが、集合論、論理学、数理論理学。

高校で習うものは、簡単な用語の使い方のレベルで終わっているが、大学以後の数学では、集合は20世紀以後、数学に必須の言語となっている。一方で、この資料で「論理学」と書いている学問、アリストテレス論理学、伝統論学などと呼ばれている学問は、今でも哲学や文系の教養の一部なので数学で使われることはない。また、数理論理学を普通の数学者が使うことは、まずない。

実は、数学者の圧倒的多数は、集合論の初歩は知っているが、数理論理学は知らないのが普通。そればかりか、数理論理学などは数学ではない、または、劣等な数学だ、という意見さえ日本の数学界では少なくない。

この意見は極端すぎると思うが、しかし、そういう意見が出るのには理由がある。それが実は、この講義のポイントと深く関連している。

実は、集合論とは、19世紀の後半位から、数学に必要となった哲学的、論理学的概念を、哲学から切り離して、数学に持ってきたものと考えることができるのである。

最初に集合の話を聞いたときに、それまでの算数や数学と大きく違っていて、驚いた人も多いだろうと思うが、これがその理由。

いってみれば、哲学という王国の領土の一部を本土から切り離して、数学という共和国に併合したようなもの。最近でも、クリミヤ半島のロシア併合で大騒ぎになったように、こういう乱暴なことをすれば、当然、色々な軋轢が生まれる。実は、そういう軋轢を最終的に収束させたのが、不完全性定理なのである。

その話は、段々と説明していくことになるが、まずは、元は哲学であったと言える集合論というものが、数学の中で市民権を持って行った、その歴史的プロセスを説明する。

なぜ、集合論の様なものが、数学で必要となったか、それは、上で見た、ラッセルの The Principles of Mathematics のChapter 1, section 3 の議論を見ると解る。

ここで、ラッセルは、次のように言っている:

The Philosophy of Mathematics has been hitherto as controversial, obscure and unprogressive as the other branches of philosophy. Although it was generally agreed that mathematics is in some sense true, philosophers disputed as to what mathematical propositions really meant: although something was true, no two people were agreed as to what it was that was true, and if something was known no one knew what it was that was known. So long, however, as this was doubtful, it could hardly be said that any certain and exact knowledge was to be obtained in mathematics. We find, accordingly, that idealists have tended more and more to regard all mathematics as dealing with mere appearance, while empiricists have held everything mathematical to be approximation to some exact truth about which they had nothing to tell us. This state of things, it must be confessed, was thoroughly unsatisfactory. Philosophy asks of Mathematics: What does it mean? Mathematics in the past was unable to answer, and Philosophy answered by introducing the totally irrelevant notion of mind. But now Mathematics is able to answer, so far at least as to reduce the whole of its propositions to certain fundamental notions of logic. At this point, the discussion must be resumed by Philosophy. I shall endeavour to indicate what are the fundamental notions involved, to prove at length that no others occur in mathematics, and to point out briefly the philosophical difficulties involved in the analysis of these notions. A complete treatment of these difficulties would involve a treatise on Logic, which will not be found in the following pages.


凡その意味:数学の哲学は、論争の的であり、曖昧で、数学の哲学以外の哲学の分野同様に、進歩が無いものだった。数学は、何らかの意味で真理であるということについては合意されていたと言えるものの、哲学者は数学の命題が一体何を言いしているのかということについて、合意にいたることはなかった。観念論者(idealist)は、数学は単なる形式を扱うものだと言い、経験論者は、数学は、真理への近似だと言う。哲学は数学に、数学は一体何を意味しているのだと問いかけたものの、数学はそれに答えることができなかった。しかし、今や、数学は、こういう哲学の問いかけに、数学の命題を、ある一定の論理学の基本的概念に還元することにより、答えることができるようになったのである。

注. "to prove at length that no others occur in mathematics" という部分は、哲学者のカントが言ったように、数学では分析的な論理だけでなくて、常にアプリオリな直観が必要だという説は、間違いだという意味。no others occur というのが論理しか使わないでできるということを主張している。しかし、実際には、このラッセルの主張は間違いだと後にわかる。また、 "A complete treatment of these difficulties would involve a treatise on Logic, which will not be found in the following pages" というのは、 結局は出版されることがなかった、この本の第二巻で、A complete treatment of these difficultie を扱うという意味。この these difficulties でラッセルが意味していたのが何か、これは良くわからない。

つまり、ラッセルは、哲学者の目で見れば、数学の(哲学的)基礎は揺らいでいるではないかと言っているのである。そして、その基礎は、数学を完全に論理にだけ還元することで解決できて、それはカント哲学の主張が間違えていることの証拠だと、言っている。これは、今の数学が持たれている安定したイメージに程遠いが、実際に、20世紀の初頭までは、数学はこういう状況にあった。そして、その揺らいでいる基礎は、哲学者から見て問題だっただけでなく、数学の健全な発展を阻害する要因にさえなっていた。数学者によって何が正しいのか、標準のようなものができず、それこそ、ある数学の定理が正しい、いや、それは証明が変だ、というような議論が実際に、色々なレベルで行われていたのである。

そういう不安定な状況は、後で説明する様に、19世紀ころには、幾何や代数など数学の色々な分野であったのだが、特に古くから有名で広く知られているのが、解析学の基礎、高校の数学の用語で言えば、微分・積分の基礎だった。

微積分学、解析学では、例えば無限級数というものが考えられて、それが収束する値が議論される。たとえば、「高校数学応援ブログ web 問題集」から

上のリンクで分かるように、これは大学入試(特に理系)で出題されるような問題。高校でやるように、これを直観的にやると、時々良くわからないことが起きる。

たとえば、1-1+1-1+1-1+… という無限級数。上の「高校数学応援ブログ web 問題集」の説明からすると、これは、1, 1-1, 1-1+1,.... という数列の収束で考えれば良いことになるので、1, 0, 1, 0,.... という数列になり、この無限級数は振動していることがわかる。

しかし、昔の人は、1-1+1-1+1-1+… のような無限級数を、1-1+1-1+1のような有限の式の無限版と考えたので、有限の時の式計算と同じことができるはずだと考えた。
そのため、

  1-1+1-1+1-1+…  = (1-1)+(1-1)+(1-1)+… = 0+0+0+… = 0

  1-1+1-1+1-1+…  = 1+(-1+1)+(-1+1)+(-1+1)+… = 1+0+0+0+… = 1

と計算して、0=1 となり不思議だとか、これは無から有を生むものだ、とか考えたりした。

そして、こういうものが、哲学者によって批判されたりしていた。

コーシーの解析学教程

こういう混乱した解析学(微積分学)の状況を最初に改善したのが、 ナポレオン時代直後の1821年, パリの技術者養成校エコール・ポリテクニーク(理工科学校)で書かれた教科書の一つであるコーシーの「解析学教程」だった。

コーシー以前の数学者は、微積分学の創始者の一人、ライプニッツを含めて、dx などと書かれる無限小という、ゼロではないが、無限に小さいという数学的存在を考え、それを使って微分をしていた。そして、dx が無限小だったら、1/dx は、どのような数より大きい無限大だった。これがバークレイ僧正などの哲学者から批判を浴びていた。また、上の0=1のように、どう考えればよいかわからない数学の問題がでてくる原因となっていた。

そこで、コーシーは、無限大、無限小を考えるのを止めて、「高校数学応援ブログ web 問題集」の様に、無限大や無限小は、収束する有限のものの列だと考えた。たとえば、1,1/2, 1/4, 1/8, 1/16, …のように半減していく数列は0に収束する。無限小というのは、こういうものだと考えた。こう考えると、これの収束する極限を dx と書けば、実は、1/dx は、 1, 2, 4, 8, 16,…となるから、それは無限に大きくなる「無限大」だと合理的に説明ができる。

ラッセルは、数学者は、自分たちが議論している「真理」や対象が何なのかを説明できないと書いているが、すくなくとも、無限小、無限大という、神秘的とさえいえるものは、これにより大幅に追放することができた。ラッセルは、同じ数学の命題のもつ意味というものが、観念論者と経験論者では、異なって説明され、ふたり人がいたら、合意することができない、という意味のことを書いているが、解析学の命題を巡って、賛成派、反対派の意見対立が起きるようなことは、このコーシーの解析学教程のお蔭で非常に減った。

しかし、そのコーシーの方法でさえ、答えることができない問題が存在した。たとえば、コーシーの時代には、連続な関数は、この例の場合のx=0の時の様に、例外を除くと、微分可能であると広く信じられていたが、それが正しいかどうか、コーシーの方法で判定することは難しかった。

それを可能にしたのが、次に説明するワイエルシュトラスの方法。

ワイエルシュトラスの方法

ドイツの数学者ワイエルシュトラスは、コーシーが無限小を、ドンドン小さくなる(ゼロに収束する)列、あるいは、変量(変化する量)と考えたのに対し、「ドンドン小さくなる」という性質を、数と論理だけを使って定義した。

それをイプシロン・デルタ論法という。高校数学の美しい物語説明

最初の、

の A がゼロの場合に、f(x) が無限小の代わりになる。

そしての、この式の定義は、



であった。

数と論理だけを使って、と書いたが、この文章の日本語の部分が「論理の部分」、つまり、次の部分


そして、残りが「数の部分」、つまり、次の部分


「論理の部分」は、「任意の(すべての)**に対して」、「ある**が存在して」、「なら(ならば)」の様な、フレーズが使われていて、これはすべて「論理学」で使われる表現になっている。

一方で、「数の部分」は、「正の実数」とか不等式の様に、高校までの数学で勉強した実数の概念や数式。

「論理の部分」、つまり、論理学の部分は、人間が数学だけでなく、日常に推論する時につかうもの。

有名なものとしては、次の三段論法がある:

ソクラテスは人である。
すべての人は死ぬ者である。
よって、
ソクラテスは死ぬ者である。

これは古代ギリシャの哲学者アリストテレスが創始した「伝統論理学」とか「アリストテレス論理学」における、三段論法、シロギズムと呼ばれる、推論の理論の有名な例。

ラッセルは、このシロギズムを、数理論理学というもので数学化したのだが、ワイエルシュトラスは、日常的な推論に頼った。

伝統論理学のシロギズムは、日常的な推論の理論だと考えられていたので、言い換えれば、

ワイエルシュトラスの方法とは、コーシーの解析学教程における「収束」の概念を、数の理論と伝統論理学に帰着させるものと言える。

この方法のお蔭で、ワイエルシュトラスは、コーシーが解決できなかった、連続と微分可能性の問題を解くことができた。

その結果、彼が作った有名な関数が、ワイエルシュトラス関数

コーシーの時代には、連続な関数は、有限個の例外点を除いて、殆どの点で微分可能になると信じられていた。

しかし、ワイエルシュトラス関数は、連続だが、あらゆる点で微分できない関数だった。

こういうものを作り出して、また、それが連続であるとか、どの点でも微分できない、と証明するには、ワイエルシュトラスの方法がないとできなかった。

ワイエルシュトラスの方法において、漸く、解析学、あるいは、微積分学の「揺らぐ基礎」が、確固たる基礎に置き換えられたと言える。

高校で、あまり微積分をやってない人には、難しかっただろうが、要するには、次のことさえ理解できたならば十分:

   微積分の基礎は、最初揺らいでいたが、コーシーとワイエルシュトラスの努力により、数の理論(実数の理論)と論理(人間の常識的推論能力、あるいは、伝統論理学)による、確固たる基礎ができた。

揺らぐ数学の基礎 リーマン面の場合

数学には、複素関数論という分野がある。数学には、ノーベル賞がないが、フィールズ賞という、それに「数学のノーベル賞」がある。

日本人で、フィールズ賞を受賞した人が、いままでに3名いて、その内の二人広中平祐(1970年)、森重文(1990年)は、京大の数学科の出身者。

しかし、最初の日本人フィールズ賞受賞者は、東大出身の小平邦彦(1954年)だった。

この小平の主な研究分野が複素関数論(多変数)。

現在の高校では、数3で複素平面というものをやるが、それを知らないと、この分野を説明するのは不可能。

複素平面を知らない人は、以下の説明の斜体の部分は無視して、画像や動画でみせる平方根のリーマン面と呼ばれる不思議な「幾何学的存在」が、複素関数論という分野で必要になった、しかし、その不思議なリーマン面が何なのか、どの様に「存在する」のかは、それを考え出したリーマン自身も全く説明ができなかった、ということだけ理解しておけばよい。

リーマン面の概念

リーマン面は、ドイツの数学者ベルンハルト・リーマンが、彼の複素関数理論の中で生み出し、後の多様体論という幾何学理論に繋がった19-20世紀数学史上における非常に重要な概念。

それを非常に単純な場合である、平方根の場合に説明する。

2次関数y=x2の逆関数は、x=+√yと、x=-√yの2つがあり、これを y に対して、x が二つ決まる、つまり、+√y と -√y の両方が値となる「2値関数」とみる立場もある。

しかし、リーマンは、この x, y が複素数までに拡張されているときには、y が、2つの複素平面の上を動くと考え、その一枚では+√y を値として、もう一枚では -√yを値とすると考えると、値が一つの普通の関数になり、色々と数学的に都合が良いことを発見した。

ただし、その時、この2つの複素平面を「切り貼り」して、1枚の「面」にする必要があった。

そうやって出来たものが「平方根のリーマン面」である。

微分の概念は、複素関数、つまり、複素数を入力として、複素数を出力とする複素数の関数に拡張できるが、嘘を承知で言えば、その様な「微分可能な複素数の関数」の理論が、複素関数論。

その複素関数論では、平方根とか、あるいは対数とか、ある微分可能な複素数の関数の逆関数で重要なものが沢山ある。

それらの多くは、値が沢山ある多値関数なのだが、それを一値にする手法がリーマン面。

それは、単に「一値にできる」というようなことでなく、そういうリーマン面の幾何学的特性で、実に色々なことが分かる理論であった


ともかく、平方根のリーマン面というのは、次のような「形」をしている「面」:

ポイントは、面が自分自身を横断している点。

正確にいうと、「横断している様に見えるだけで、本当は横断してない」と考える。

実は、このリーマン面は三次元空間の曲面として作図するのは不可能なもので、それを無理矢理描くために、このように面が面を横断してしまう。

その作り方は、次のようにする:

平方根のリーマン面の作り方

簡単に動画を説明すると、2つの円盤を用意し(それが2つの複素平面だと思う)、中心から切り込みを入れる。
そして、その切り込みの(すぐ)上の面を、もう一つの円盤の切り込みの(すぐ)下の面に繋ぐ。
つまり、〇がついた二つの切り口同士を、×がついた二つの切り口同士を繋ぐことを試みる。


動画を再生するにはvideoタグをサポートしたブラウザが必要です. 非対応ブラウザの場合は、ダウンロードしてみてください。

2つの円盤に上の面と下の面があるので、総計4面あるが、ひとつの円盤Aの上の面をもう一つの円盤Bの下の面に繋ぐと、それが邪魔して、最初の円盤Aの下の面を、もう一つの円盤B上の面につなぐことはできない。


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しかし、それを無理矢理できた、と思うために、〇印の二つの切り口を繋いでいるピンクのテープ(PostIt)を半分に切って、それぞれを、X印の切り口に透明テープではりつける。



動画を再生するにはvideoタグをサポートしたブラウザが必要です. 非対応ブラウザの場合は、動画をダウンロードしてみてください。ダウンロード1, ダウンロード2

こうやって作った面のモデルが、先の図、つまり、次のものと同じだとわかるだろうか?動画の最後のあたりの画像と、下の画像を見比べてみてください:

この平方根のリーマン面が、持つ不思議な性質の一つとして「原点」、つまり、円盤の中心のことなのだが、その周りを連続に回って元いた点に戻ろうとすると、普通の平面ならば、360度、つまり、1回転で元に戻るが、このリーマン面では、2回転しないと元に戻らないという性質がある。

こういう性質は、少しなれると図を見て直観的に理解することができるようになる。リーマンという数学者は、こういう仮想的な面を使うと、複雑な計算の末にようやくやわかるような事実が、図形(リーマン面)についての幾何学的直観で理解できることを発見し、また、さらには、この面の幾何学的性質と、この面を定義域にする数学的に性質の良い関数の全体の間に、大変面白い関係があることなどを発見した。


動画を再生するにはvideoタグをサポートしたブラウザが必要です. 非対応ブラウザの場合は、ダウンロードしてみてください。

そして、この発見は、代数幾何学や代数的整数論と呼ばれる分野の20世紀における大発展に繋がることとなった。

揺らぐ数学の基礎 クンマーの理想数の場合

ドイツの数学者エルンスト・クンマーは、フェルマーの定理に関連する整数論の研究研究において、理想数という概念を導入した。

その理論では、ラッセルが、Philosophy asks of Mathematics: What does it mean? Mathematics in the past was unable to answer 哲学は数学に、数学は一体何を意味しているのだと問いかけたものの、数学はそれに答えることができなかった、と書いたような状況、つまり、理想数といかなる存在か、という問題が一切議論されないままで、それにも関わらず、理想数に関する非常に高度の数学的計算や証明が行われた。

これは、クンマーが、「理想数とは如何なる存在か」という問題を解決できなかったというより、意識的に、そういう哲学的問題を避けた可能性が高いらしい。

では、クンマーは、どうやって「どういう存在かわからない存在」について議論したかというと、それは「裸の王様方式」。

まず、このYouTube のアニメを見よう。これの6m56s から見る。

詐欺師や人々の言葉や手つきに注目:縫う、雲の手の上で王に差しだす、*語る*、着る(シーンは無い)、眺める、褒める、見えないけど納得する、裾を持ち上げる、…

*語る*で語られたこと(城の建物をでるまで、価値についての判断は除く):

クンマーの理想数は、まさにこんな感じで導入された(これは悪口ではない!)。

理想数の解説をいくつか:   (イデアルの歴史の説明)

上のの例に基づく歴史的文脈を無視した説明: 
クンマー
というドイツの数学者が、「算術の基本定理」と呼ばれる、素因数分解の一意性の定理を、普通の整数以外の「整数もどき」に拡張しようとした。これができれば、有名なフェルマーの定理が証明できるはずだった。素因数への分解は問題なかったが、それが一通りというのが難しかった。

クンマーが考えた「整数もどき」は、現在代数的整数とよばれているものの一種で、実体は、特殊な性質を持つ複素数(数Ⅱ)

クンマーなどの数学者は、代数的整数の部分集合で、上の解説ので使っているRのように、整数の全体と似た性質をもつものを考えた。

この R のどういう点が、整数(の全体)Zに似ているかというと、四則演算で「閉じている」様子が似ている。

a, b ∈Zならば、つまり、a, b が整数ならば、四則演算の加減乗除の、加減乗、つまり、足し算 a+b、引き算a-b 、掛け算a*b の結果は、やはり、整数。これを、Zは足し算、引き算、掛け算で「閉じている」という。明らかに、このRも、足し算、引き算、掛け算で閉じている。

また、Zは、a=1, b=2 の割り算の結果1/2が整数でないので、割り算については閉じていない。また、Rの場合には、a=1, b=√5iの場合、a/b は、(-1/5)
√5i  となって、-1/5 が整数でない(Zの要素でない)ので、R の要素にならない。つまり、やはり、割り算で閉じていない。

このRの場合、の説明にあるように、6は、次の二つのように素因数分解できる。

2、3、1+√5i, 1-√5i は、全部、Rの「素数」つまり、これは1と-1以外では割り切れない。

ということは、素因数分解が二通りあることになる。

そこでクンマーは、「理想数」という仮想的な数を導入して、これらの4つ数がさらに理想数で割り算できる、さらには、その理想数の範囲の素因数分解はひとつしかないと考えた。

つまり、の説明にある


という状況である。(A,B,C,Dが理想数の素数。)

クンマーは、このA,B,C,Dのようなものが「あったとしたら」、その計算結果がどうなるかというようなことを完全に説明できる理論を作った。

しかし、その肝心のA,B,C,Dの「実体は何か」ということは、決して、説明しなかった。

つまり、クンマーは、ないもの(理想数)を、あたかも存在するかのように語った。

ないものをあるかのように語る!
それはラッセルが批判したことそのもの。
哲学者は納得しない。数学者でも困惑するひとがいる。
リーマン面とよく似た状態だが、リーマン面の方は、まだ、紙のモデルで「実体?」を説明できた。
つまり、幾何学的直観が伴っていて、現実(この3次元空間)を、想像力ですこし「拡張」すれば、イメージできないこともなかった。

こちらは、「蜘蛛の糸の様に軽い」というような性質だけはわかるのだが、「形」、「存在」が、全く確認できない、「見えない服」のようなものだった。
これでは、ラッセルの様な哲学的疑問に答えられない。では、どうする?

これにはデーデキントという数学者とクロネッカーという数学者による、二つの異なる解決法があった。

そのどちらもが、ある意味では、「裸の王様」の「見えない衣装」と同じ考え方に基づいていて、それは現代でいえば、ポケモンGOなどにも使われている、AR 拡張現実という手法に似たものだった。

そこで、まず、拡張現実の話。

仮想現実と拡張現実

仮想現実というものを知っている人も多いと思う。

たとえば、3Dグラスの Oculus。これをかけて、3D画像を見ると、人間はこんなになる

さらにアドバンスドになると、歩行の様子まで仮想で再現する技術さえできている。こんな風とか、こんな風

最初の方の動画は、ジェットコースターなどの現実の存在の画像を再現している。

画像を見ている人は、その場にはいないのだが、3Dで立体的に画像が動くと、つい体が動いてしまう。

つまり、ほぼ完ぺきに、実体が生み出す画像という刺激が、再現されると、我々は、現実には乗っていないのにジェットコースターに乗っているかのように錯覚する。

そして、後の方の、歩行による移動までバーチャルに再現する方は、画像がアニメであったように、実は実体がない。人工的に「現実」が作り出されている。

しかし、その人工の現実の中を「歩く」女性は、本当に歩いているように感じ、また怖がっていた。

こういうのが仮想現実。仮想現実には、実体があり、その画像が記録されたものが再現されているものと、「実体」さえもが人工的に作り出されたもの、この二つがあることに注意。

現実が記録されたもの、と書いたが、もちろん、それは、今、その場で撮影されている画像でも構わない。つまり、リアルタイムで見ている画像でもよい。

たとえば、3Dグラスにより、ドローンに搭乗して、操縦することさえできるようになっている。

あるいは、リアルタイムで撮影されている画像に、作り出された現実が重ね合わされていてもよい。

たとえば、ポケモンGOの画面は、そうなっている。

自分でやったことがない人には分かりにくいかもしれないので、ソニーの拡張現実 SmartAR

つまり、これらは、現実の画像と、人工の画像のハイブリッド。

いってみれば、存在するものと、存在しないもののハイブリッド。

それなのに、我々は、あたかもポケモンがいるかのように行動する。

こういうのを、現実が、仮想の現実(存在しないもの)で拡張されたもの、拡張現実という。

ある意味で、それは「裸の王様」で起きていたことと同じである。

そのことを頭において、「裸の王様」のアニメと、先ほどのホラーゲームの世界に入り込んだ女性の姿を比べてみて欲しい。

また、有名なパフォーマー「カゲム」のこの画像と比べてみて欲しい。

現実と、非現実が、完全にシンクロすると、こういう風に、存在しないものが、存在しているかのようにみえる。

クンマーは、



という「現実」に、理想数という拡張現実をつけ加えたといえる。

しかし、クンマーは、どうやって拡張現実をつくりあげるかは示さなかった。

クンマーが行ったことは、「裸の王様」のように、みんなが「ないものをあるかのように行動したら、あるような気分になるよ」ということまで。

それに対して、デーデキントとクロネッカーが行ったのは、丁度、ポケモンGOやソニーの SmartAR のように「拡張された現実(理想数)が画面に見える」ようにしたこと。

実は、抽象的で難しいことのようにみえるが、デーデキントやクロネッカーがおこなったのは、この「拡張現実」と同じことである。

そして、現在の拡張現実に3Dグラスを使う方法、スマホを使う方法(ポケモンGO),、プロジェクションマッピングを使う方法(カゲム)、のように、色々なやり方があるように、この二人のやり方は、少し違っていた。

デーデキントは、集合という技術を使い、クロネッカーは、代数計算とい技術を使った。

次の、この話をする。まずは、簡単なケースには、非常に簡単な、クロネッカーの方法の方から。

クロネッカーの一般算術と数学の算術化

続く…