まず、西田などに比べて知名度が低い西谷という人の説明から入り、次に、西谷の思想、そして、NFSというものとに比較を行う。
京都学派と言うと、西田、田辺、九鬼、和辻などが有名であり、また、後の世代としては、高坂、三木、戸坂などの人が挙げられることが多いが、現在、専門家の間では、特に海外では、西田幾多郎、田辺元に次ぐ、京都学派第3の哲学者という位置づけで重要視されつつある哲学者。
また、ドイツでは、その師の一人であったハイデガーと対比し、現在の状況を考えるには、ハイデガーより重要だというような評価を与える哲学者が見られるようになっている。また、1980年代まで生きたので、情報技術に言及した、おそらくはただ一人の京都学派の哲学者と思われる。
この経歴を手がかりに、西谷、そして、京都学派、さらには太平洋戦争前の日本の思想状況を理解し、それにより、西谷の哲学、特に、世界観が、実は、「自分と自分を取り巻く近代社会」との関係性への違和感から来ていることを見ていいく。
それは、明治の開国により、一挙に異質なものを取り入れた日本が、必然的に抱えることとなったもの。
ただし、その様な「西洋 v.s. 東洋」という単純な図式だけで京都学派を理解するのは間違い。(藤田正勝「西田幾多郎の思索世界」第9章参照)
しかし、京都学派の三人の哲学者が「論理・論理学」を巡って思考を続けたことは確か。実は、明治開国以来、日本の哲学者は西洋にない新しい論理の創造を目指していたともいえる。
西田、田辺、特に田辺の論理は、上下を強く意識したものであったが、一時はヒトラーに心酔した西谷の論理観、世界観は、戦後になり、彼の著名なニヒリズム論などを通して、上下を極端に排除する思想になっていく。その結果、フラットな社会のような世界観に近いものとなる。
まず、この変化を見る。
戦前の西谷の哲学的業績には、現代でも有名なものは少ない。おそらく、今も言及されることがまれにあるのは、岩波文庫のシェリング著「人間的自由の本質」の翻訳だろう。
これは、シェリング学者から、現代のシェリング研究からは正しいとはいえないが、ユニークで興味深い解釈を含んでいる、というような評価をされることがある。
西谷の戦前・戦中の出版物で有名な(悪名高い?)のは、当時の大東亜戦争への積極的なかかわりに関連したものである。
特に有名なのが、上の年表の1942年の、座談会とその記録として出版された「近代の超克」。
このころ、西谷や、他の京都学派の哲学者の何人かは、大東亜戦争(太平洋戦争)を、白人、ヨーロッパ文明による世界支配を終わらせる歴史的イベントであると理解して、積極的にそれを支援する議論を行った。
その一端を、1941年(昭和16年) 世界観と国家観にみる。(西谷が、戦後、公職追放を受けるのは、これらが理由だろう。)
戦後、公職追放中に書いたニヒリズム論が高く評価される。これは英訳されており、他の英訳著作なども通して、西谷の海外での評価は西田のそれをさえ凌ぐと思えるようなものになっている。
そのニヒリズム論は、戦前の西谷に、否定の形で関連し、また、今回、ITと関連づける回互的連関による空の思想の前段階と考えられるので、2014年後期の特殊講義の資料を使って簡単に説明。
林の説明に、洞窟の比喩が引用されていることに注意。
上の2014年講義の最後の資料でイデアとオブジェクトの関係が横倒しになっていることに注意。
すでに述べたように、ITの一番ハードウェアに近いレベル、洞窟の比喩でいえば影絵人形の世界では、すべては接っしており、遠近がなくなる傾向にある。
それに対して、一番、ハードから遠い世界、洞窟の比喩で言えば壁に映る影絵の世界では、プラトンやアリストテレスの世界が実現されていたといえる。(正確に言えば影絵人形や焚火をすべてくるんだ世界。)
西谷は、プラトン、アリストテレス的、縦関係の世界を否定し、その関係を横倒しにし、すべてを此岸(しがん)に置く、ある意味で原始仏教に近いような虚空の世界を持ち出し、それでプラトン以来の西欧的形而上学を超えようとする。
そして、それが、ITの通信の世界、メモリやストレージ(HDD)をネット上に持ち出そうという、今のクラウドの世界の先祖にあたるNFSという技術とそっくりになってしまう。