2016年前期特殊講義「ITと哲学」資料 2016.05.30
前回の資料より
西谷啓治の回互的連関とネットワークファイルシステムの相即
まず、西田などに比べて知名度が低い西谷という人の説明から入り、次に、西谷の思想、そして、NFSというものとに比較を行う。
西谷啓治という人
京都学派と言うと、西田、田辺、九鬼、和辻などが有名であり、また、後の世代としては、高坂、三木、戸坂などの人が挙げられることが多いが、現在、専門家の間では、特に海外では、西田幾多郎、田辺元に次ぐ、京都学派第3の哲学者という位置づけで重要視されつつある哲学者。
また、ドイツでは、その師の一人であったハイデガーと対比し、現在の状況を考えるには、ハイデガーより重要だというような評価を与える哲学者が見られるようになっている。また、1980年代まで生きたので、情報技術に言及した、おそらくはただ一人の京都学派の哲学者と思われる。
西谷の経歴
- Wikipedia
- 日本哲学専修のWEBページ
- 在りし日の西谷 (動画の下のバーの右の方に出る設定のアイコン(歯車のようなアイコン)をクリックすると英語とドイツ語の字幕がでます。ただし、ドイツ語の方は自動音声認識か何かでやっているようで、最初のアナウンサーの時は良いのですが、日本人二人(辻村公一と西谷)の会話になると、全く出鱈目なドイツ語になっているので、英語の方を見てください。)
- 著作集26巻、著作年譜よりの纏め
- 1900年 石川県宇出津(うしつ)に生まれる: 宇出津 西谷啓治記念館
- 1906年 東京に移住
- 1912年 早稲田中学入学
- 1914年 父死去
- 1918年 第一高等学校入学(独法科)
- 1921年 同校卒業、京都帝国大学文学部哲学科入学
- 1924年 同学卒業、京都高等工芸学校講師(今の工繊大)、シェリングについての論文を執筆。西谷はシェリング「人間的自由の本質」の翻訳でも知られる。(シェリングのある専門家に言わせると、現代のシェリング研究からみると解釈が強すぎるが、その解釈は独創的で重要とのこと。)
- 1935年 京都帝国大学文学部助教授
- 1937年 文部省在外研究員としてドイツ・フライブルグ大学に留学。マルチン・ハイデガーに師事。
- 以後、ハイデガーの影響は非常に強く、彼の哲学、特にニヒリズム論に色濃くみられる。
- たとえば、西谷は、論理について、繰り返し言及したが、これは、ハイデガーの「存在と時間」(1927)や、その前後のハイデガーの論理学講義での、Logik, logos, ratio などの用語法を、論理、論理学、ロゴス、理法、理、などに和訳して、ほぼ忠実に使分けていることからもわかる。
- ちなみに、「存在と時間」の前後のハイデガーの講義の大半は、アリストテレス、ライプニッツなどの論理学の解体がテーマであり、「存在と時間」は、アリストテレス論理学を「解体(Dekonstruktion)」することにより(機械を分解するようにして、それを理解すること)生まれたことが1980年代ころから明になっている。
- そのため、弟子である西谷も論理、論理学について、多く言及することになるのは当然。
- また、晩年に、論理学批判から回互的連関による空の思想が生まれる。
- 1939年 フライブルグより帰国
- ドイツ滞在中はヒトラーのナチス政権の時代。
- 師であるハイデガーは、1933年にナチス党に入党し、フライブルグ大学学長になっている。
- 西谷滞在中は、すでに学長を辞任した後だが、西谷は、このハイデガーに影響を受けたのか、師である田辺元への手紙などを見るとヒトラー政権に強い期待を持っていたことがわかる。また、雑誌などの記事でも、ヒトラーをたたえている。
- 1941年(昭和16年) 世界観と国家観出版。
- 1941年 12月6日 太平洋戦争勃発
- 1942年 このころ(2月ころ?)から海軍への協力が深まる。大島ノート参照。
- 1942年 雑誌「文学界」の特集「近代の超克」に寄稿、および、座談会に参加、主要な役割を果たす。
- これは「近代の超克」という本となり、翌年、出版された。
- 要するには、日本の戦争は、白人による近代という時代を変えるための戦争だ、というような意図を持つ座談会。
- 1943年 教授昇任 宗教学講座。
- 1947年 公職追放で京大から追放される。「近代の超克」や海軍との関係などが理由だろう。
- 1949年 「ニヒリズム」出版
- 1952年 京大復帰
- 1963年 定年退職。京大退職後も大谷大学非常勤講師を長くつとめる。これは京大助教授以前に始まっている。清沢満之、鈴木大拙への尊敬の念から来ているらしく、「僕は大谷大学の方が長いんだ」と言っていたという。
- 1990年 90歳にて、左京区吉田の自宅で死亡。正四位勲二等旭日重光章、叙勲。
この経歴を手がかりに、西谷、そして、京都学派、さらには太平洋戦争前の日本の思想状況を理解し、それにより、西谷の哲学、特に、世界観が、実は、「自分と自分を取り巻く近代社会」との関係性への違和感から来ていることを見ていいく。
それは、明治の開国により、一挙に異質なものを取り入れた日本が、必然的に抱えることとなったもの。
ただし、その様な「西洋 v.s. 東洋」という単純な図式だけで京都学派を理解するのは間違い。(藤田正勝「西田幾多郎の思索世界」第9章参照)
しかし、京都学派の三人の哲学者が「論理・論理学」を巡って思考を続けたことは確か。実は、明治開国以来、日本の哲学者は西洋にない新しい論理の創造を目指していたともいえる。
- 哲学という訳語を定着させた西周は、行門の論理という論理を西洋の観門の論理に対するものとして導入した。これはトップダウンな問題解決法のような手法)。
西田、田辺、特に田辺の論理は、上下を強く意識したものであったが、一時はヒトラーに心酔した西谷の論理観、世界観は、戦後になり、彼の著名なニヒリズム論などを通して、上下を極端に排除する思想になっていく。その結果、フラットな社会のような世界観に近いものとなる。
ここから本日の資料
まず、この変化を見る。
太平洋戦争敗戦前の西谷
戦前の西谷の哲学的業績には、現代でも有名なものは少ない。おそらく、今も言及されることがまれにあるのは、岩波文庫のシェリング著「人間的自由の本質」の翻訳だろう。
これは、シェリング学者から、現代のシェリング研究からは正しいとはいえないが、ユニークで興味深い解釈を含んでいる、というような評価をされることがある。
西谷の戦前・戦中の出版物で有名な(悪名高い?)のは、当時の大東亜戦争への積極的なかかわりに関連したものである。
特に有名なのが、上の年表の1942年の、座談会とその記録として出版された「近代の超克」。
このころ、西谷や、他の京都学派の哲学者の何人かは、大東亜戦争(太平洋戦争)を、白人、ヨーロッパ文明による世界支配を終わらせる歴史的イベントであると理解して、積極的にそれを支援する議論を行った。
その一端を、1941年(昭和16年) 世界観と国家観にみる。(西谷が、戦後、公職追放を受けるのは、これらが理由だろう。)
太平洋戦争敗戦後の西谷
ニヒリズム論
戦後、公職追放中に書いたニヒリズム論が高く評価される。これは英訳されており、他の英訳著作なども通して、西谷の海外での評価は西田のそれをさえ凌ぐと思えるようなものになっている。
そのニヒリズム論は、戦前の西谷に、否定の形で関連し、また、今回、ITと関連づける回互的連関による空の思想の前段階と考えられるので、2014年後期の特殊講義の資料を使って簡単に説明。
資料1
資料2
資料3
林の説明に、洞窟の比喩が引用されていることに注意。
回互的連関:横倒しになったイデアとオブジェクト
上の2014年講義の最後の資料でイデアとオブジェクトの関係が横倒しになっていることに注意。
すでに述べたように、ITの一番ハードウェアに近いレベル、洞窟の比喩でいえば影絵人形の世界では、すべては接っしており、遠近がなくなる傾向にある。
それに対して、一番、ハードから遠い世界、洞窟の比喩で言えば壁に映る影絵の世界では、プラトンやアリストテレスの世界が実現されていたといえる。(正確に言えば影絵人形や焚火をすべてくるんだ世界。)
西谷は、プラトン、アリストテレス的、縦関係の世界を否定し、その関係を横倒しにし、すべてを此岸(しがん)に置く、ある意味で原始仏教に近いような虚空の世界を持ち出し、それでプラトン以来の西欧的形而上学を超えようとする。
そして、それが、ITの通信の世界、メモリやストレージ(HDD)をネット上に持ち出そうという、今のクラウドの世界の先祖にあたるNFSという技術とそっくりになってしまう。