2015年前期特殊講義「ITと哲学の相即」資料 2015.04.27
先週は林が咽喉を痛めて休講だったため、今回、回答する質問票は4月13日のものです。
その内、以下に詳しく回答をした二つは、両方とも、この講義の目的を明瞭化し、また理解しやすくするために、非常に都合が良いものだったので、詳しく回答をしています。
どちらも回答は、「あなたの質問、あるいは、コメントは根本的な誤解に基づいています」というものですが、それをしつこいほど詳しく書いているのは、質問者への攻撃が目的ではないので注意してください。これらの回答が長く詳しいのは、これら二つが、どの様に誤解であるかを説明することが、まさに、この講義の意味の説明になっているからです。特に最初の質問は、これのお蔭で、講義の進むべき方向を、より明瞭に認識できたので、こういう質問(コメント?)をしてくれたことに、大変、感謝しています。
このお二人も、他の人も、回答では質問者は匿名になりますし、間違えているかもしれない、そうだったら恥だというようなことは考えず、ドンドン、疑問に思ったことを質問してください。本当は、匿名でなくても、間違えている気にせずに、そういう質問をすべきです。ただ、十分に考えず、思いつきで質問の雨を降らせるのはしないでください。質問をすること良いのだと言うと、質問をすること自体を目的として質問をする人が出ることがあります。こういうのは最悪の質問ですので、やめましょう。いずれにせよ、そういう質問は無視します。
質問票への回答のための資料
- モノとモノとの遠隔作用ときくと、真先に浮かぶのは Newton の万有引力で、アインシュタインもこれは違和感なく受け入れていたと思います。…
- Newton 物理学が遠隔作用である万有引力を基礎にしていたのは、その通りです。
- しかし、同じこのWikipedia の解説にあるように、アインシュタインの一般相対性理論は、この「引力の遠隔作用」を空間の歪みに置き換えることにより、重力理論から遠隔作用を追い出してしまった理論なのです。
- こちらの東大物理学の上田先生の講義ノートにも同様の説明があります。特に3ページの「3.1.遠隔作用と近接作用」を参照。上田先生によると遠隔作用である万有引力は「オカルト的」とさえ考えられたとあります。
- 19世紀を代表する物理学理論であるファラデー・マックスウェルの電磁気学は、ニュートン力学と対極にある近接作用の理論でした。
- 上田先生が書かれているように、アインシュタイン以前では、ニュートン力学という
- アインシュタインが物理学者マックス・ボルンにあてて書いた手紙の次の一節は、科学史の教科書にものるほど有名で、特に赤字で示した Spooky actions at a distance というフレーズは、新聞とかWEBの記事に載るほど良く知られています:
- physics should represent a reality in time and space, free from spooky actions at a distance. free from は、ohne の英訳で、直訳すれば、without。
- ドイツ語の原文: die Physik eine Wirklichkeit in Zeit und Raum
darstellen soll, ohne spukhafte Fernwirkungen.
- 物理学は不気味な遠隔作用なしで時空の現実を反映すべきである。
- つまり、アインシュタインは遠隔作用を「不気味な遠隔作用」と呼んで忌避しているのです。
- 実は、この「不気味な遠隔作用」は、具体的なイメージがあり、アインシュタインが、それにより量子力学が間違っていることを証明しようとして考えだしたEPRパラドックスというものです。
- アインシュタインは、「神がサイコロを振る」様な現象の存在を主張する量子力学を納得できず、それを理論的に否定しようとして、量子力学の理論から、一見、相対論で禁じられている光より速い情報伝達ができるように見える現象の存在が理論的に導きました。それが、EPRパラドックスです。
- 実際には、この現象は相対論に反していないことが、今は理解されていますし、実験でも観測されているそうです。
- 近接作用と場の概念に基づくファラデー・マックスウェルの電磁気学は19世紀物理学を代表する理論の一つですが、それは近接作用の物理学です。
- 相対性理論、特に一般相対性理論は、この19世紀の時代精神ともいうべき近接作用の物理学と、ニュートンの遠隔操作に基づく力学の並立という、物理学の「解消すべき矛盾」を解消したものと、物理学者に理解されていることが、上に引用したWikipedia の遠隔作用の項や東大物理学の上田先生の講義ノートから推測できます。
- 実は、物理学史では、19世紀終わりころからマッハやヘルツなどの著名な物理学者たちにより、実証主義の立場から、ニュートン的物理学に潜む「オカルト的」あるいは「現実的センスデータや実験データ、日常的論理的・科学的常識に反するもの」を排除しようとする試みが成され、それが当時の物理学・哲学などでは非常に重要な意味を持つと理解されていたことが知られているのです。
- これは、今日の講義で指摘するように、「ニュートン力学のような比較的単純で数学的な言語と理論により、世界のすべてが合理的に説明できる」 という、古き良き19世紀的な自然科学的・数物的(数学・物理学的)世界観が無意識に仮定している形而上学的前提から生まれた運動といえます。
- これらの運動は自然科学、さらにはラッセルやウィーン学団の場合は、哲学からも、「無意味な形而上学を追放する」ことを目指したのですが、実は、それ自体に、今日ではもう保持できない「形而上学的前提」(その一つは、形而上学的なものは、科学にあってはならないという前提)が潜んでいたわけです。
- これが、林が「19世紀的」と呼んでいるもので、「19世紀に主流を占めた唯物主義的実証主義的である傾向」と言えば良いでしょう。
- ちなみに、本講義の立場は、IT、特にネットやウェブが日常の隅々までは支配しつつある、現在の社会に適合した世界観を生み出そうとすれば、あるいは、そういうものの問題点を理解・分析しようとするならば、19世紀的世界観で社会・世界を理解する野では足りない。19世紀的な数物的世界観を捨てて、遠隔作用の様な通信を日常のものとする世界観を、我々の社会は今生み出しつつあり、それを出発点(ただし、常に批判の対象でもある出発点)として思考せねばならない、というものです。今日の講義で、前回の講義で「メッセージ」と呼んだものを、再定義しますが、これがそれで、この主張をみなさんに納得してもらうために、ITと哲学、特に非分析哲学系の哲学理論の相即を実際に示し、その原因を分析するのが、この講義といえます。
- 通信を遠隔作用、19世紀的世界観に入らないものとして議論していますが、正確に言いますと、実際の通信は、光通信でも、有線あるいはワイヤレスの電波でも、すべて(光を含めて電磁波の)近接作用を利用して実現されています。しかし、それを「遠隔作用」と林が呼んでいるのは、非常に速い近接作用による通信は、Dasein (現存在)としてのユーザーにとっては、遠隔作用に見える。そして、その「見え方」から出発しないと、使いやすいITにならない、また、システム開発ができない、という意味からです。
- つまり、あくまでニュートン的・アインシュタイン的に、自分を自分自身の横から、あるいは、後ろの上空から眺めるような「(古い意味での)客観主義」立場からみれば(それを、ゲームのスーパーマリオ64で譬えるとこうなる:プレイしている自分を横から見る、視点移動してプレイしている自分を後ろから、あるいは上空からみる。ただし、プレイヤーがマリオに自己投影している前提している)、そう見えるだけで、我々が日常的にスマホ、タブレット、PCなどのITを使う時の視点は、この動画のような「一人称視点」であるし、IT機器やツール(ソフト)を作る人は、この視点で考えないと良いモノ(売れる物)が作れないというIT業界の現実があるのです。(おまけに、もう一つ、一人称視点のマリオ。)
- 昨年度後期の、学部講義「論理学の歴史」の資料参照。
- ただし、19世紀的視点が、ITによりすべて一人称視点に置き換わると言っているのではないことに注意。
- 実際、ITの発展により、例えば、後ろ上空からの視点を実際に買える時代が到来している。
- スーパーマリオ64での上空からの視点は、マリオの適役のジュゲムという亀のキャラクターが上空の雲の上からカメラで撮影しているという設定だった。これと同じことをする drone が発売されようとしている。
- よく(記号)論理学を分かっているとプログラミングの理解に役に立つとか論理学を研究していた人がプログラマーとして採用されたいった話を耳にします。どうも今日の話と合わないと感じるのですが、どう説明されるのでしょうか?
- そういう話は、1980年代中頃までは、「よく」語られていましたが、その後、すっかり時代がかわり、大体、インターネットの登場のころから、記号論理学がITにおいて重要だというような話は、ほとんど語られなくなりました。
- ただし、ITの教育では、記号論理学の初歩位はやっておけ、ということで教えるのが標準でしょう。ただ、現在では、むしろAIの基礎としての意味の方が大きい様に思います。
- もし、あなたが、そういうことを最近聞いたのでしたら、大変興味があるので、凡そ何歳位で、どういう職業で、どういうコンテキストで言っていたのか、差支えなければ、質問票に書いて教えてください。
- 実は、僕自身も1990年代の中頃までは、論理学や形式言語をITに応用する形式的技法と呼ばれる分野の研究者でした。
- 林が書いた記号論理学や形式的技法関係の専門書や教科書や訳書:
- PX: A Computational Logic, S. Hayashi and H. Nakano,1988, The MIT Press, free PDF volume
- 数理論理学, 平成元年12月, コロナ社
- 続・新しいプログラミング・パラダイム, 平成2年11月, 共立出版, 分担執筆
- 構成的プログラミングの基礎 , 平成3年4月, 遊星社, 林
- ところで、僕が形式的技法の教育・研究をしていたころも、記
- 晋・小林聡
- 情報系の数学入門 , 平成5年9月, オーム社, 林晋・八杉満利子
- コンピュータ基礎理論ハンドブック, 8章「プログラミング言語における型理論」担当, 平成6年, 丸善出版, 分担訳
- プログラム検証論 , 平成7年9月, 共立出版
- しかし、1990年代の最初に自分の誤りに気が付き、形式的技法の、ある意味での対極にあるアジャイル法の日本における推進者に転向しました。このことは、前回の資料でも引用した、講演や文章1,2,3
に書いてあります。そして、このことが、実は、かなり、この特殊講義の背景(意図)として重要なのです。号論理学を勉強していたからプログラマに採用されたというようなことは、まず、ありませんでした。しかし、さらに古く、1950年代から70年代には、そういう時代もあったようです。
- 僕が工学部時代に大学院でやっていたソフトウェア開発法の演習には、記号論理学を専攻する院生や、数学科の院生なども来ていましたが、僕が彼らから感じたのは、数学や記号論理学のセンスが、むしろ、ITの理解を妨げているということでした。
- ソフトウェアというものは動かない、変化しないと無意味なものなので、ソフトウェアを開発する人は、イベントとそれによりアクティベイトされるアクション、トランザクションと呼ばれる「モノとモノとの交渉」、そして「モノの発生、変化、消滅」などの概念に注目してシステムを作るのですが、数学や記号論理学は凍りついた不変の世界なので、そういうものがないため、ITシステムで一番重要な、こういうことをイメージするのが苦手のようでした。実は、この事も、この特殊講義のメッセージと関連しています。むしろ、こういうことは、哲学の形而上学などの世界に豊富にあるのです。ですから、1980年代ころまでの、数学、数理論理学とITの関係を強調する考え方より、むしろ、分析哲学の対極になる、大陸哲学のITとの関係を強調するべきだ、というのが、この特殊講義の重要な結論のひとつとなりますが、話は単純ではないので、段々と説明していきます。
- 昨年度後期の、学部講義「論理学の歴史」の資料参照。
- それからプログラマという名称は、IT業界における職業名としては「低級なIT技術者」というニュアンスを持ちますので、プログラマではなく、普通、システムエンジニア、SE(エスイー)といいます(実は和製英語らしいのですが)。Wikipedia のプログラマの記事参照。また、一般の方はプログラマー、コンピューターと書く人が多いのですが、業界ではプログラマ、コンピュータと書きます。
本日の資料
前回の、この講義の「メッセージ」の説明を、洗練し再定義する。上の質問票への回答の、最初の方を見て19世紀からアインシュタインまでの20世紀物理学の基礎づけの歴史を見直すことにより考え付いたもの。
本講義の目的(の再定義)
一般相対性理論、量子力学の登場により、古き良き19世紀的世界観は崩壊した。特に量子力学の登場は、因果性のような、論理学レベルの「直観的真理」にさえ疑問を投げかけるものであった。
この世界観の転換についていくことができなかった偉大な科学者の一人にアインシュタインがいる。彼は神がサイコロを振るかのような量子力学の確率論的事象観を形而上学レベルで受け入れることができず、そのためにEPRパラドックスというものを考えだし、この世界観が「不気味な遠隔作用」を導くことを、完全に科学的・数学的手法で導き、そして、「いわゆる科学的立場合理的立場からみたときの遠隔作用の不気味さ」という、これも「形而上学的な直観」に帰着させて「サイコロを振る神」を排除しようとした。
しかし、EPFパラドックスが、EPR効果として現実のものとして理解されている現在では、彼の意図とは逆に、アインシュタインの形而上学的前提が間違えていたということが実証されていると言える。
古来、遠隔作用は非合理や神秘性の象徴であった。
- たとえば、西谷の回互連関の所で、補足的に扱う予定の田辺元の種の論理のルーツである、レヴィ・ブリュール、シェーラーの分有・融即 particiaption, Teilhabe の概念。
- レヴィ・ブリュールで言えば、トーテミズムを信じるような「未開」部族では、たとえば熊のトーテムを持つ部族は、個々の人格と熊が明瞭に分離されておらず、その故に、個々の人格も連続的繋がっていると理解される。
- これをブリュールは、哲学者であるのに、文化人類学の説として提唱して、後に文化人類学としては、実証的に否定されているという。
- しかし、ここでは、そういう文化人類学云々ではなくて、日本でも我々にもある、同じような心性について議論している。
- その「同じような心性」とは、質問・解答サイトのOKWaveに投稿された、このやり取り。このやりとりの中のハンカチの様なものを神道では型代祓い(かたしろはらい)というらしい。参照1、2、3.
- この神道の、自分の代理をする紙(人形ひとがた)は、まさに遠隔作用の典型。
所謂、「現実的、合理的、科学的な立場」に立つ人は、「直接の関係がないと私たちが見なす二つのモノが、私たちの知らぬところで interact する」という現象を忌避してきた。
- 親が、自分には秘密で自分のハンカチとか衣服を神社で祈祷してもらっていて、後で、「それがあったから京大に通ったんだよ」などと言われたら、貴方はどう反応しますか?
この様な遠隔作用の典型的な例にテレパシーがある。たとえば、戦場に息子を送り出した母親や肉親が、ある日、何の脈絡もなく、突然、息子の死を直観する、後に、その時刻に確かに息子は戦死したことが確認される、というのは、洋の東西を問わず良く聞く話。 むしろ、国民国家の間の戦争が繰り返された20世紀にこそ、都市伝説のように、広く語られた話。たとえば、
- フロイトの報告例
- その例について論じた平田知久さん(京大文JSPS研究員)の論文の該当部分。
- 戦場で亡くなった弟(おそらく第一次世界大戦)が、その時に「お母さん、お母さん」と呼びかけるのを姉が聞いた。
- また、後に、母も、それを聞いたことが分かった、という話。
この講義に出ている殆どの人は、これを非合理として認めないだろう。
- ちなみに、フロイトは、これを夢と結び付け、深層心理で人が記憶を改変してしまうことにより合理的に説明しようとしている。瀕死の急患が、手術中に幽体離脱して、自分を手術してくれている医師の顔を見て、目が覚めたときに、それが主治医の顔と一致する、という話は繰り返し語られている。WEBページの閲覧などで重い画像は、そこに画像がある、という情報だけを先に送り、後で画像を送ることがある。画像が送られた後には、画像はあたかも最初からあったように見える。自分の記憶を辿ってみると、そこにあるものがある、という事だけ認識されていて、実体は後で補完してしまっていることが、結構多くあることがわかる。「そう言われれば、そうだったかもしれない」などと言って、実は知らないことを知っていたかのように誤解してしまう事は良くある。これと同じで、音だけでも自分が手術されていることがわかり、そこには執刀医の存在が知識としてあり、ただし、その顔の形の記憶は単なる place holder、つまり、後で情報が補完される場所としてだけあれば、執刀医の顔を見た途端に、その場所に、その顔のイメージが入り、ひき剥がすことができなくなる、ということは可能な心理プロセスである。おそらく、実験心理学で実証できるはず。(同様な認識のプロセスは、すでに実験心理学で実証されている。例えば、ある音の連続、文章として理解してしまうと、それ以後、そうとしか聞こえなくなる現象など。)
しかし、21世紀の現在、これと見かけ上は、同じ現象が、実際に起きている:
- 2011年2月22日に、南半球、ニュージーランド、クライスト・チャーチで地震が発生し、当時、同市の外国語学校に短期留学していた日本人学生が言語学校が入っていた建物の崩壊で多く犠牲になった。
- この時、富山外国語専門学校生の奥田健人さん(当時19歳)は、同じ専門学校の人たちとともに、崩壊した建物に閉じ込められて身動きとれなくなっていた。
- 奥田さんは、遥か遠く、北半球の日本にいる兄に、自分や仲間たちが生きたまま倒壊した建物に閉じ込められていることを告げ、現地の日本大使館に、このことを知らせてくれるように頼んだ。
- 奥田さんたちは23日、現地の救助隊に救出された。
フロイトの例では、姉が遠く離れた戦場の弟の死の声を聞いた。こちらの例では、さらに遠く離れた弟の生存の声を兄が聞いた。もし、これが昭和の終わりころの話ならば、この奥田さんの事例は、フロイトが書いたのと同じ事例として扱われたろう。
しかし、現在の我々は、すぐに奥田さんはケータイ(2011年なので多分スマホではない)で、日本の兄に国際電話をかけたに違いないと考え、何の不自然さも感じない。
我々を取り巻く世界(社会)は、ITの出現により、これほどまでに変わっている。
ごく最近の過去までは、「魔術」と思われていた様なものが、多くの人のポケットに入っている時代が来ている。
アップルウオッチは脈拍、血圧などを計測する機能を持ち、それを他の人と共有できる。
突然訪れた息子の死を、母親や姉が瞬時に知るのは不自然ではない。
9.11の際にビルの中から乗っ取られた飛行機の中から、愛する人にお別れのメッセージや電話をした人がいたという話があるが、どれだけの話が本当かは別として、それは不気味 spooky では全くない。
この様なシーンは、我々にとっては、すでに日常となっている。
第一の目的
この様な状況では、アインシュタインが約80年前に犯した誤りを我々も犯しているかもしれない、我々は形而上学レベルから様々な「常識」を再考すべきである、ということを、多くの例に触れることで、納得してもらうこと。これが第一の目的。
第二の目的
第一の目的で主張していることの帰結ではあるが、哲学系の人に対しては、次の様なメッセージを伝えることが第二の目的。
- 英米哲学の代名詞にもなっているラッセル、カルナップの流れを汲む「分析哲学」と、ハイデガーなどの流れを汲む「大陸哲学」の分断は、哲学の世界では有名。
- たとえば、
分析哲学の人たちは、自分たちが記号論理学(数理論理学)などの方法に依拠する、あるいは近い故に、他の哲学より科学的で合理的だと信じている。
しかし、この信念が、IT時代には、すでに無効であることを示す思想史的証拠が多くあることを示すのが第二の目的。
哲学をあまり知らない人たちのために分析哲学 vs. 大陸哲学の構図の解説
現在の欧米の哲学は、大雑把に言って二つの陣営に分断されている。そして、日本も「日本哲学」というものがあるので、構図が複雑になるが、日本哲学を大陸哲学の一種だと思えば、同じような分断がある。
分析哲学
- 代表的な人物:フレーゲ、ラッセル、カルナップ、クリプケなど。前期のヴィトゲンシュタインは、これに分類される、というより、彼の前期哲学が分析哲学誕生に利用されたといえる。
- そのヴィトゲンシュタインが書いた有名な言葉、Wovon man nicht sprechen kann, darüber man muss schweigen. 語りえぬものについて語ってはならない、という言葉を利用して、古来哲学で語られてきた、もっとも難しい問題、真理、存在、美、愛、正義、人生の目的、人類の目的、のような問題を棚上げにしてしまう傾向がある。
- この様なものを、不合理的なもの、科学的でないものとし、「合理的議論」を行うことに集中する。その結果、林が見ると単なる論文書きゲーム、論争勝ち抜きゲームに堕している様に見える。
- 本来、科学であることにそぐわない哲学が、科学的な枠を持ちえた理由に、分析哲学の祖(正確には先祖)であるラッセルたちが創始した記号論理学を基礎にしているということがある。
- しかし、クリプケ、Prawitz, Hintikka などの例外はあるものの、分析哲学者の論理学理解はレベルが低く、林は、これらを「二流の論理学」と呼んで嫌われている。
- ちなみに、質問票への回答のための資料の2で示したように、林は、もともとは記号論理学の研究者だった。
- その目からみると、特に日本の分析哲学の記号論理学理解のレベルは驚くほど低いと見える。数学科、情報系学科の学部学生以下の大学の先生がかなりいる。
大陸哲学
- 代表的な人物:ハイデガー、サルトル、メルロポンティ、フランス現代思想の思想家たち。京都学派等の日本哲学も、この系統に分類してまず大丈夫。
- 伝統的な意味での哲学、つまり、プラトン、アリストテレス、スピノザ、デカルト、ライプニッツ、カント、ヘーゲル…などの伝統を受け継いでいる哲学。
- ただし、分析哲学が、独立してしまったので、今日の大陸哲学系の哲学者は、分析哲学が得意とする数学や自然科学への言及を、意識的に避ける傾向がある。
- 一部には、これを積極的に行う人たちもいて、たとえばフランス現代思想、ポスト・モダンと呼ばれた思潮に属する哲学者たち、 ドゥルーズ, ガタリなどがそれ。
- しかし、 ドゥルーズなどは、かなり理解度が高いものの、多くの傍流の思想家は、「トンデモ数学」の様なものを発明して議論してしまうために、ソーカル事件のようなことが起きて、数学、自然科学をキーにした分断が、さらに進んでしまった。
- 特に、日本のポストモダンであったニューアカは、数学などの理解度が酷かった。分析哲学の方も低いのだから、日本では押し並べて数学への理解が低いといえる。
- しかし、実は、戦前の京都学派の思想家たちは、数学の理解度が非常に高かったことが、最近の林などの研究で分かっている。
分析哲学は大陸哲学をobscurantism蒙昧主義と非難し、大陸哲学は分析哲学をsuperficiality浅薄と非難する。(http://opinionator.blogs.nytimes.com/2012/02/19/bridging-the-analytic-continental-divide/参照)
そういう無意味で非生産的な分断が続いている。これの分断を何とか埋めようとして、両者のルーツにある新カント派に注目するなどの新しい動きが出てはいるものの、ギャップは殆ど埋まっていない。特に日本においては、酷いと思われる。
林は論理学者出身ながら、大陸哲学に強いシンパシーを感じている。林はヴィトゲンシュタインの行ったことをもじった次の言葉がモットーなので:
- Wovon man nicht sprechen kann, darüber man muss sprechen. 人は、語りえぬことについてこそ、語らねばならない。
そういう立場の林が示したいことは、分析哲学から出て分析哲学を捨て、この講義と非常に近い論調で、IT時代の哲学について語っているイタリアの哲学者フロリディの存在が象徴するように、ITの時代には、分析哲学の根本的立場に、アインシュタインの遠隔作用忌避のような、形而上学的な先入観が存在しているこということ。
分析哲学の祖の一人といえるラッセルが、彼の過剰な実証主義的哲学を、当時としては斬新だった記号論理学や集合論を元に建設したのが、情報時代の少し前であったことは、分析哲学にとっては歴史的不運であった。
この事実を思想史的(歴史学的)方法で示すのが第二の目的を示すための手段となる。
また、このことにより、第一の目的で示すITと相即する哲学の理論の大半が、大陸哲学に分類されるものであることが、単なる偶然でないこともわかる。
そして、これらの殆どすべての理論的基礎となるのが、アリストテレスが「神秘的で不気味な遠隔作用」とみなして、彼の論理学を建設することにより排除したプラトンのイデア論における分有 (Teilhabe, participation)の概念。
実は、ITの世界では「分有」は日常茶飯事に起きる現象で、特にプログラミングをするときには欠かせないテクニックとなる。
まずは、このことを説明するために、プラトンのイデア論、アリストテレス論理学、そして、Java 言語等の基礎であるオブジェクト指向について説明する。
その内容は次回、今週の金曜日に!