今回の資料は、前回の資料に補足を加えたものです。
前回の資料が長大で、後半は、まだ、使われていません。
その部分に補足を加えたものが、今回の資料です。
実はアリストテレス論理学にはあり,記号論理学では消えたものがある.それが形而上学.そして,その部分はITが必要としているものだった.
なぜ,このように失われたのか,失われても記号論理学はアリストテレス論理学を「駆逐」できたのか?
この疑問への解答を,最初に見たラッセルのインタビューを元に考える.
ラッセル:
Yes...it certainly did...I mean uh..oh well, until I was about...40, I should think. I got a sort of satisfaction that Plato says you can get out of mathematics.
It was an eternal world.
It was a timeless world.
It was a world, where there was a possibility of a certain kind of perfection.
And I certainly got something analogous to religeous satisfaction out of it.
ええ…そうです。実際…ああ。40歳のころまでは… (略)
19世紀には,数多くの「新しい数」や「新しい空間」が発明されるなど,数式の学問だった数学に様々な新概念が導入された.これらの技術革新とともに,実数や無限小などの,近世以来使われ続けていた数学の概念の基礎を,よりクリアにする必要性が生まれた.たとえば,実数,特に無理数とは何なのか,そもそもそれは存在するのか,そういうことについて議論が行われた.ラッセルがしようとしたことは,この数学という学問の基礎付けを once and for all で解決してしまうことだった.
ラッセルは,一度,それを成し遂げたと信じ,宗教的とさえ言ってよい陶酔に浸ったが,数年後,それは彼自身が発見したラッセル・パラドックスにより、一挙に悪夢に暗転する.そして,長い苦闘が始まり,その努力は,彼の代表作,Principia Mathematica 3巻に結実する.その第3巻が出版されたのが,彼が40歳の時だった.そしてのインタビューでの彼の答えからすれば,その後,彼は,それに宗教的意味を与えなくなる.そして,その後に残されたものが,現代の記号論理学であった.
ラッセルに,プラトン的な perfection をもたらす筈だったものは,プラトンが重視した数学だったことに注意して欲しい.数学は目的を持たず,時間もなく,美しく凍りついている.(「数学は目的をもたいない」ということの意味は,それ自身が目的であるということ.)
しかし,アリストテレス論理学のもともとのモデルは動物学のような生物学だった.それは,動いていて,蠢き,生まれ,成長し,やがて滅びるものの世界だった.
プラトンのイデア論に,その源を持つものの,アリストテレスは,プラトンの哲学に移り行く現実世界の現実性の風を入れたと言える.
しかし,アリストテレスは,それを形而上学,つまり,哲学原理として語った.それが,アリストテレスの四原因説と呼ばれるもの.
これはアリストテレスの研究者として有名な中畑先生の話によると,本来はアリストテレスの論理学と呼ばれるものの一部ではなく,別の学問だった.
しかし,中世を経て近世にいたり,論理学が整備されていくと,この形而上学が論理学の中に取り込まれるようになった.
たとえば,アリストテレス論理学の最も標準的な教科書とされる『ポール・ロワイヤル論理学』(Logique de Port-Royal)には,論理学の存在論的・形而上学的側面のついての章(第3部,第18章)が設けられていた.
以下,この章を手がかりに,伝統論理学と記号論理学の比較と,現代のITにおける伝統論理学的側面について説明していく.
まずは,この教科書の説明から.
伝統的論理学には,ラッセルの包括の公理のような「何が存在するのか」を示す様な議論は、あまりない。
しかし,存在するものは、どの様に存在するのか,つまり,存在の構造と様態,のようなものが四原因説で詳しく語られている.
これが伝統的論理学の存在論とか形而上学にあたるもの.
では,記号論理学には,四原因説にあたるものはあるのだろうか?
記号論理学では,伝統的論理学のような「存在」「もの」の構造・様態についての明示的な記述がない.
ラッセルの論理学などにおける、{x| P}のような集合の存在を示す公理は、存在について語るが、それはイデアの世界の話で、この現実の世界の話ではない。
この現実世界について、ラッセルや数理論理学者たちは語らない。
むしろ,そういうものがないということが,記号論理学の存在論・形而上学の部分といえる.
以下,これを分析していく.
何故,ラッセルは,そういうものに宗教的なものを感じたのか?たとえば,東洋的・日本的な宗教では,完全ではなくて,生生流転が強調される.つまり,世界は時と共にうつろい,永遠のものは一つもない.質問票にあった,中国哲学の講義での「物体は大海の中の氷の様な物」というたとえは,このような世界観を表している.これは,物体,固体でさえ,境界 terminus がボンヤリとしてる世界観.
だから,宗教的恍惚といっても,文化により随分と異なる.ラッセルは,西洋的世界観に従って,数学や論理を考えていたといえる.
キリスト教神学では,動力因を元に神の性質を議論しているが,それを考慮すると,ラッセルが数学に宗教的なものを求めたことの理由が「論理的に」わかる.
まず,キリスト教神学では,神は完全だ,という前提がある.
だから,神は perfect (完全) なはずだから,eternal (永遠)で timeless(時間に関係ない) でなくてはならない.
進歩するのは不完全な証拠.よって神は進歩しない.
実は,このキリスト教神学の考え方は,アリストテレスの神学から来ている.
ブリタニカのこの記事 http://global.britannica.com/EBchecked/topic/34560/Aristotle/254718/The-unmoved-mover で分かるように,アリストテレスは,この様な存在論で,たとえば,天体の運行を説明しようとした.そして,それは中世キリスト教の宇宙論に継承された.
「私がなぜキリスト教徒ではないか」という著書も書いたラッセルは,キリスト教やアリストテレス神学を信じてはいなかったが,天空という,時間的で動きのある世界(星は運行する.月は満ち欠けする.時間・暦は,もとは天体の運行で定義された.)ではなく,timeless で動きのない数学の世界に,perfection (完成・完全), eternity (永遠)を見出したている.その意味では,彼はキリスト教の世界観をそのまま受け入れているともいえる.
ということは,数学ではなく,生生流転する,この現実世界の記述には数理論理学は不向きということはないか?
もちろん,unmoved mover である神の力があれば,timeless の世界の記述力で,世界を記述できるだろう.
しかし,我々は神ではないので,それは出来ないと思った方がよいのではないか.
ラッセルが,それで数学の世界を記述しようとした記号論理学の言語は,動きがあり,生成流転する,この世界を記述するには不向きではないのか?
この疑問を鍵にして,論理学とIT,特に論理学とソフトウェアの関係を考えてみる.それには,二つの側面があり,一つは「記号論理学とソフトウェア」もうひとつは「アリストテレス論理学とソフトウェア」.主に後者を考えるが,最初に,ちょっと失敗した前者の話.
ラッセルとホワイトヘッドの Principia Mathematica や,それと類似の公理的集合論というものは,数学を記述する言語として大成功を収めた.
つまり,数学のほとんどすべてを,非常に少数の概念と,原理に還元することが可能となった.(ただし,その概念や原理の「正しさ」は証明できず,信じるしかなかったのではあるが.)
その結果,ソフトウェア作成の世界でも,同じことができるのではないかという期待が生まれた.
つまり,ソフトウェアが作られる目的(目的因)を記号論理学で記述し,実際に作られるソフトが,その目的を満たすかどうかを,論理学で検証(証明あるいは否定)しようという構想が生まれた.
このアプローチは,ソフトウェア生産の工学であるソフトウェア工学では,形式的技法(formal methods)と呼ばれ,一世を風靡したが,現在は,「実現不可能」というのがコンセンサス.
林も,この方法の研究者だった.このアプローチの限界を身をもって体験した,つまり,失敗したことが,この講義や,前期の講義の内容を考えるようなった契機だった.興味がある人は,こちらの原稿下書き「あるソフトウェア工学者の失敗」を参照.(林は,現実世界の存在なので,変化・進歩する!(^_^))
私たちが日常的に使う,WEBのサービス,例えば,アマゾンや楽天の様なシステムを開発するには,記号論理学的なアプローチである「形式的技法」と呼ばれる手法では,全く駄目で,通常は,semi-formal 半形式的(半分形式論理学的)と呼ばれる,UML (Unified Modeling Language) と言う言語を使って記述することが多くなっている.
実は,このUMLの採用している「オブジェクト指向」という世界観(ソフトの世界ではアーキテクチャという)が,アリストテレス論理学の四原因説に,ほぼ,びったりと当て嵌まる.
UMLの話をする前に,動きのない世界の言語で,どうやって動きを記述しているかを説明.
これはアニメーションをイメージすればよい.
http://en.wikipedia.org/wiki/Animation
動きのない赤い丸の6つの絵を続けて見ると,人間にはボールがはねているようにみえる.
この6つの絵のようなもの(ソフトの飛び飛びの時間でのスナップショット)を記述する.
社会学者アンソニー・ギデンズの社会学の基礎にある memory trace も,同じ考え方を採用している.この場合には,structure と呼ばれる,社会組織の記述が,memory traces で記述されるとする.その理論 structuration theory の解説
ギデンズ社会学も,その伝統の流れに沿うものと考えられる,マックス・ウェーバー社会学の組織論「官僚的システム」でも,システム(官僚制)の形式面が強調される.
つまり,これらの社会学理論では,個と組織の関係が,外面的な条件だけで記述される.
形式的技法を使うようなソフトウェア工学も,最初は,この外延的アプローチが強かった.
最初,それはソフトが扱うデータを中心にして記述された.つまり,ソフトというシステムが,ある瞬間に記憶しているデータの時間的変化ばかりに注目する方法で記述されていた.
記号論理学の基本は,論理の記号,∑,Π,∧,などを除くと,述語 R(x,y) であった.
これは x と y という「存在」の関係を記述するだけで,x や y の「中身」には言及していない.
つまり,x や y が外延的にのみ把握されている.
こういう外延的な記述方法は数学や物理学の世界,そして機械の世界でも大成功を収めたわけだが,ソフトの世界では,これがうまくいかなかった.
それで,段々と新しい要素が付け加えられるようになり,やがてUMLのようなものが作られるようになっていったのだが,そのUMLというものが,出来上がってみると,アリストテレス論理学の形而上学・存在論に,そっくりなものになっていた.
それには,ちゃんと理由がある.
ポール・ロワイヤル論理学としての伝統論理学は,そのなかに形而上学(世界の有り様,あるいは,その前提を考える学)を,特に存在論(形而上学の一部であり,特に世界の中にある存在の有り様についての学)を含んでいた.
実は,コンピュータのソフトウェアは四原因のすべてを持っている:.
現代のソフトウェア作りにおける,「情報システムの形而上学」,つまり,情報システムとは,どんなものか,情報システムの有り様,その前提は,およそアリストテレス哲学・論理学の影響を受けて,それをはるか後にまとめた the 伝統論理学,とでもいうべき,ポール・ロイヤル論理学の形而上学部分,つまり,世界の有り様と,ほぼ同じであるということ.
その理由は,ソフトウェアが,世界をネットやコンピュータの世界の中に再現するものだから.
ネットやコンピュータの世界をサイバー空間,サイバー世界というが,つまり,ソフトウェアは,サイバー世界内存在.
さらに言えば,それは,新しい世界をサイバー世界に創造することもできる.
つまり,世界の在り様と同じようなものを作るのだから,しかも,神や数学のような timeless な世界ではなくて, 動きのあるものを作るのだから,それは当然,形而上学・存在論のようなものを必要とする.
以上の説明は,抽象的なので,現代の形而上学・存在論である,UMLのような世界と伝統論理学が,どの様に似ているかを,例をとって説明.
UMLの世界観の根底は,オブジェクト指向という世界観.これはUMLだけでなく,たとえば,Java のようなプログラミング言語でも採用されているもの.
UMLは規模が大きすぎて,また,複雑かつ抽象的過ぎるので,現代のプログラミング言語の代表とも言える Java を使って,それが,その存在論レベルで,伝統論理学の,存在論,特に,類,種,個の思想と極めて似ていることを示す.
以上の話は,林だけが言っているのではなく,実は,ソフトウェア関係者の間では,かなり有名な話.
この解説にもプラトンがでているように,本当は,アリストテレス論理学+プラトンのイデア論のようなものが使われている.
クラスはちゃんとした存在(ソフトウェアのパーツ)だが,それから,オブジェクトをいくらでも作り出せるようになっている.つまり,イデアから対象が作り出されている感じ.
アリストテレス論理学では,個は先に合って,それが terminus で記述され,その外延としてのクラス(類)が決まるので,これは逆の方向であり,そこはプラトン的になっている.
これはサイバー空間では,人間が神のごとき創造者の役割を演じているということ.
そう考えると,ソフトを使って作られるコンピュータ・ゲーム(video game)の世界観に,神話めいたものが多いのも納得できる.
この様に実はITと伝統的論理学は結びつきが濃い.この他にも,やはり伝統的論理学の存在論の分析から,みずからの哲学を建設していった実存哲学者マルティン・ハイデガーの「存在と時間」の哲学を,ソフトウェアや人工知能の作成に応用するという有名な本がある.
どうして,縁もゆかりもなさそうな,ITの世界と,伝統論理学の世界が,結び付いたのだろうか?
おそらくは,http://en.wikipedia.org/wiki/Animation の6つの静止画をいくらみていても,飛び跳ねているように見えないのに,それを素早く続けて見せられると,私たちには「動くように見える」という事実がその理由.
この「動いている」という感覚を使って,私たちは世界の内にあるもの(他人,社会,ネット,スマホ,…)に対している.
その感覚,直観を排除して,世界を理解しよう,記述しようというのは,おそらく有限の存在である人間にはできないのだろう.
つまり,有限で制限された能力の故に,我々は世界を「生き生き」と認識できているという面があるのではないか?
そういう我々が世界を認識するには,神の世界の記号論理学的世界観ではなくて,伝統的論理学の作用因や目的因のような「人間的」部分が必要なのだろう.
どうして,縁もゆかりもなさそうな,ITの世界と,伝統論理学の世界が,結び付いたのだろうか?への上の答をもう少し掘り下げる.
それが,この講義の最後の部分,京都学派の哲学,ハイデガーの哲学,と論理の関係に結びつく.
上に書いたように,PCの画面上で色々なものが動いていると我々が感じているということは,ラッセルが言う様な意味での永遠で,時間を超越している,無限的なものの対極としての,人間の有限性の故であろう.
ITの世界では,何段ものソフトウェアやハードウェアの層が,ピラミッドの様に積み重なっていて(注1),一番下のハードウェアとしてのPCのメモリ上の,0と1のパターンの書き変わりが,たとえば,今,みなさんが見ているような「講義資料のテキスト」として見える様に作られている.
その様な膨大な技術の塊のお陰で、我々はスマホやタブレットやPCを日々使えているのだが、それを使うときには、そういう技術を構成する要素は重要ではない。
我々にとって重要なのは、スマホの画面が綺麗か、音が良いか、ブラウズしやすいか、SNSならば他のユーザとの交流・通信がしやすいか、などということのみ。
スマホを作るひと、特に、そのマシン部分を設計して作り上げる技術者からみればスマホは電子機器なのだが、ユーザが本当に欲しているのは、
それが提供するサービスであり、また、そのサービスが入ってる「箱」の「もの」としての魅力、たとえば、デザインの美しさや重量、質感など。
こういう面に注目しないと、ユーザが欲しいと思うスマホは作れない。そのことを iPhone の生みの親、スティーブ・ジョブズが語ったビデオがある。
これの3分目くらいからの所、「日本の偉大なコンシューマー・エレクトロニクスの会社」という意味のことを言っているが、これはソニーのこと。
このジョブが言ったことの意味をディスプレイを例にして、説明してみよう。
みなさんが,今,見ているプロジェクターで投影されたスクリーンの場合は,光学の問題も関連してきて説明が複雑になるので,
みなさんが,この講義の資料を,復習をするために,PCのディスプレイや,タブレットの画面でみていると仮定して,話を進める.
そういうものを見ているとき,みなさんは,それを「月5の講義の,講義資料のテキスト」として読んでいる.
しかし,物理学者や,液晶ディスプレイを作っている人たちからみたら,それは実は,膨大な数の三原色の点の集まりであって,「テキスト」,つまり,文書ではない.
ルーペで,そういう画面を拡大してみると,こんな風に見えるのは知っていると思う.こういうディスプレイを作る,技術者にとって,ディスプレイ上に見えるものは,こういう小さい色の断片(画素)の集まり.
しかし,みなさんは,そう認識せず,丁度,今,見ているような文書,さらに,読んでいれば「文章」として認識する.
先ほどのアニメでいえば,2秒間に一度形が変わる赤い楕円ような染みの連続を見ているのが技術者の認識方法,それを,赤い玉が跳ねている,と認識しているのが,みなさんの認識方法,ということになる.
一件,前者の方が,「科学的」であって,優れている,高度である,様に見えるのだが,しかし,後者のように認識しない限り,同のように画素が多くて,色も綺麗なディスプレーでも,全く意味を持たない,ことは明らか.
つまり,みなさんの様に,「画面上で文章を読む」あるいは「画面上で赤い玉が跳ねるアニメを見る」というのが,ディスプレイの目的なのであって,これを基本して考えないで製品が作られると,優れた製品は出来ない.
昔,ナナオという名前だったEIZOというディスプレイメーカーが石川県にある.
この会社のディスプレイは,10数年位前までは,発色がよいので世界的に有名で,価格も他社にくらべて随分高かった(1台10数万円もした.安いもの3倍以上!).
普通に考えれば,それは液晶が優れているとか,電子回路が素晴らしいとか,そう思うところなのだが,実は,これは蓄積したチューニング技術のたまものだった.
実は,有名だったころ.ハードウェアは他社から買ってきていた.そして,それを,近隣の農家などの主婦などを雇い,その人たちの目に頼って,世界が絶賛した美しい発色を実現していた.
もちろん,そのためには,上の記事にあるようなソフトを開発したり,チューニングをする人が使うチューニング用のハードウェアなども作っていたはずだが,
しかし,ディスプレイは人がみるものなので,それがディスプレイの目的因なので,その競争力の源泉は,どの様にチューンすれば,人は美しく感じる化を知っていることであるはず.
「それは三色の画素の膨大な数の集まりに過ぎない」という、全く物理学的・物質的に正しい主張をしてみても、
それが、もし、現実のナナオと違い、「ディスプレイは三色の画素の膨大な数の集まりに過ぎない。電子部品である。だから、工場近辺の農家の主婦の色彩感覚の能力など関係ない。一つ一つの画素の発色の改善に注力しよう」という判断に結びついていたら、ナナオの名声はなかったはず。
実際のナナオは、「ナナオの競争力の源泉は、その同じハードウェアを如何に他社より優れた色合いにチューンするかにある。電子部品は他のメーカのものでよい。チューンできる人材の確保と、そのノウハウこそがナナオの競争力の源泉である」と判断したから成功した。
そう考えれば,人間がつかうものとしてのIT機器,さらには,ソフトウェアの,競争力の源泉は,自然科学的なもの,電子工学的なもの,ではないことが分かるはず.
つまり,優れたチューニングに求められるのは,どうすれば,それぞれの画素が良く光るかという,科学・工学的な知識ではなくて,それが「絵や文字」としてユーザー,つまり,人間,の目で見られたときに,どの様に美しく,また,読みやすく見えるか,という知識.
特に,画面に動きがある,たとえば,この講義資料をスクロールしたときの動きが,如何に自然であるか.つまり,紙の一部を枠を通してみるように,あるいは巻物(scroll,スクロール)を巻き上げるときに,ユーザが期待するであろう動きにできるかは,ディスプレイやPCに
とっては大事なことになる.
たとえば,文字を読むということだけでいえば,画面が,「カチカチ」とスクロールしても構わないはず.つまり,3ミリ単位でカタカタと下に動いても構わないだろう.
しかし,そういう動きを見ていると人間は違和感を覚えたり,場合によっては,乗り物酔いのような状態になることがある.
Rift というバーチャル・リアリティ用のゴーグルに一般向けの廉価なものが売り出されることになって(延期の記事)評判になっている。
それについての、少し古いビデオに、こんなものがある。
ユーザの体の動きを、外側から見ていると、滑稽でしかない。
しかし、ユーザは、このRIFTの世界に入っていて、そのために、別に実際には外力がかかってないにも関わらず、体が動いてしまう。
この
という、二つの視点の違いがポイント。
物理学とか、数学、特にラッセルやパースの論理学の視点は、この内の2の視点。
一方で、こういうゴーグルを欲しいと思って買う人の視点は、1の視点。我々は、それを YouTube の動画でも直接に体験できていないことに注意。
RIFTを経験したいと思えば、それを実際に装着して自分で体験するしかない。
そして、これはすごいと思う人は買うことになる。
では、売れるようなものを作る技術者は、どちらの視線を持つべきか。
もし、技術者が、2の視点だけで、「変な格好…」など思いながら、RIFTを作っていたら、熟れるものは絶対にできないだろう。
技術者が、自身RIFTを経験しながら、それの設計や改造をしていくことによってのみ、
コンシューマも、「これが欲しい!」と思うものができるはず。
つまり、ユーザ中心の世界観で世界を見ないと、ITでの競争力を失う。そういう時代が来ている。
上で見た、ジョブズのビデオは、それを言っている。
19世紀まで,あるいは,20世紀の最初のころまで,特に第一次世界大戦まで,つまり,100年前までは,世界を物理学的に,さらに言えば,ニュートン力学的に理解するという世界観が欧州を中心として根強かった.
これはディスプレイを,画素の集まりとして見るような世界観.それは,黒い縁の terminus で区切られた,画素という無数の個の集まりの世界だった.
そして,興味深いことに,丁度,その頃,生まれた数理論理学は,それがニュートン力学の記述に用いられる数学とモデルにしていた様に,それはむしろ19世紀的世界観に近いものだった.
この19世紀的視点は、所謂、合理的、唯物論的、実証主義的と言われるもので、その視点は、先ほどRIFTの説明で使った二つの視点の1にあたる。
それは宇宙に、座標を設定して、自分自身さえ、その座標から見下ろすかのような視点、自分を自分自身の横から、あるいは、後ろの上空から眺めるような視点。
これを、ゲームのスーパーマリオ64で譬えるとこうなる:プレイしている自分を横から見る、視点移動してプレイしている自分を後ろから、あるいは上空からみる。
一方で、RIFTと使うとき、我々が日常的にスマホ、タブレット、PCなどのITを使う時の視点は、この動画のような「一人称のマリオの視点」。
19世紀には、ジュゲムの視点こそが科学的だった。自分自身さえ、その視点から見ていた。
しかし、20世紀に入り、その視点が崩れはじめ、崩壊して,現代の世界観がある.
そして,ITの,特に,ソフトウェア技術者がもつ世界観は,19世紀的なものとは,かなり違うもので,むしろ,古代ギリシャの世界観や,あるいは,東洋的な世界観,さらにいえば,19世紀的世界観に反発した人が作った,別の世界観,たとえば,京都学派の世界観や,ハイデガーの「世界観」に近いものになっている.
次に,この話.
上に述べた「有限で制限された能力の故に,我々は世界を「生き生き」と認識できているという面があるのではないか」というように、自分が制限されている、有限である、という、「普通」に考えれば短所と思われることを逆手にとって、むしろ、長所にしてしまうことを、哲学の世界で、やった人がいる。
それが、有名な哲学者カント。
カントは、スコットランドの哲学者ヒュームが、英国流の経験論の立場から、形而上学のような「世界を記述する理論」が、容易に間違ってしまいえることを、様々な議論で示した。
例えば,日本人は,ナマズが地震を引き起こすと考えたが,これは地震の前に,ナマズが騒ぐ現象が観測されていたから.ところが,これは実は逆で,ナマズが地震の際に起きる現象を敏感に察知できるかららしい.つまり,「因果関係が逆」だったわけだ.
ヒュームは,同様なことが,自然科学,哲学などで生じ得ることを指摘した.つまり,現象A起きるときに必ず現象Bが起きるということから,AをBの原因とは必ずしも言えない.これは当たり前のことなのだが,この様なシンプルな議論を突き詰めていくと,自然科学だろうが,哲学だろうが,すべての体系的な知識の根底が簡単に揺らいでしまう.これをヒュームの懐疑論という.
そして,この懐疑論の問題は現代でも解決されているとは言えない.ただし,それは知の体系を,「掌の上に置くように」理解しようとするから.科学なんかプラクティカルに役立ちさえすればいいんだ,道具のようなものなんだ,という立場にたてば,こういう「基礎」の問題は,「気にしない」という方法で「解決」(本当は「解消」)できる.
このヒュームの懐疑論に対して,哲学の可能性を再生させようとして考えられたものが,カントの哲学,特に,彼自身が「コペルニクス的転回」と呼んだ考え方.
ヒュームの懐疑論は,「世界にルールがあっても,有限個の事象しか観測できない我々は,それを完全に知ることができず,簡単に誤解をしてしまう可能性があり,真実の世界のルールを有限な我々は知ることができない(出来るという保証はない)」ということ.
カントも,これに賛同した.ただ,ヒュームの懐疑論では,我々の外側に,世界のルールが想定され,それを,世界とは別の我々が知る,という図式になっていることを利用し,これを次の様に読み替えることにより,哲学,特に認識論の可能性があることを示した.
以前,ソクラテスの terminus を,次の様に図示したが,
形而上学は,赤い線の外の世界を知ろうとするが,カントの認識論は,それを赤い線の内側を知るものに変える.
つまり,形而上学は,外が主で内が従,カント認識論は,内が主で外は実質無視.
ただし,ポイントは,そのように狭い学問でもよいのだと,と居直る点.
どうして,居直るかというと,「どうせ,人間は有限なので,赤い線の外の真実の外界を直接知っているわけではなくて,人間が持つ知覚・思考の能力に従って,それらの外のものを赤い線,いわば,人間と世界のインターフェースを通して知っているに過ぎない.だから,視覚などの人間の「インターフェース」の働きを知ることは,結局のところ「人間にとっての世界を知る」ことと「真の世界を知ること」は,有限である我々人間にとっては,同じことである.
ネガティブに言えば,どうせ,「真の世界を知ること」は無理で,我々人間には,「人間にとっての世界を知る」ことしかできない,ということ.
しかし,我々は人間なのだから,そこから出発するのならば,「真の世界」というものが考えられないのならば,それは無いのと同じから,実際に可能な「人間にとっての世界を知る」で十分だし,これしか出来ないのならば,「世界を知る」ということは,可能である「人間にとっての世界を知る」と考えれば良いではないか,という考え方.
このカントの思考法が,林のアニメの説明に似ていることに注意.実際,あのアニメの話は,「カントのコペルニクス転回」の様な,卓袱台返し的居直りが,カントに限らず,思想や文化,ときには戦争にいたる政治等,人間の歴史の中で普遍的にみられる現象であると,林が考えていて,それを元にして歴史や世界を見ているために考え付いたこと.
実は,この「卓袱台返し的思考」で,哲学を進めたのが西田幾多郎や田辺元などの京都学派.西田と並ぶ哲学者であった高橋里美などは西田たちが,カントの場合のような,窮余の一策としてではなく,常に「卓袱台返し的思考」を使って哲学を進めることを批判しているほど.
確かに,この批判は当たっているのだが,実は,西田は何もカントの卓袱台返しをまねたわけではなく,むしろ,terminus の内側を出発点とし外側へ広げて哲学するという立場をとっていたから,そうなった可能性も高い.
このことを頭に置いておいて,西田の哲学とアリストテレス論理学の関係をみる.
以下の画像は,西田幾多郎全集(旧版)第14巻昭和51年刊行,信濃哲学会のための講演から
カントとの類似性に注意.ただし,西田は外に向けて思考することに限界を置いていない.
また,この図自体が,アリストテレス論理学の図になっている,つまり,三段論法の説明の時に使った図と実質同じであることに注意.
しかし,西田は,アリストテレス論理学の通常的解釈による世界観に異を唱える.
ここで言っていることは,ある類を含む大きな類,一番小さな類としての個を含む類は,単に含んでいるだけでなく,包んでいて,それが包んでいるもの前部の通信の媒体,つまり,スマホならば,個々のスマホをつなぐ基地局のような役目をすると言っている.
実は,これは中世までのキリスト教神学に似た考え方.キリスト者は,それぞれが最高の存在である神と直接繋がっている.アリストテレス論理学,記号論理学でも,基本的には同じ.
ただし,西田は,そう考えない.彼は,大きな類は,単に場,場所であり,その場において,個と個が対等に対峙・通信するという風に考える.
西田は,個物の「主語となって述語とならないもの」という定義をアリストテレスに帰し(事実は違う),それを天才的と呼び,しかし,それでは個と個が分離してしまう,現実的でないと説く.
西田は,バラバラな個ではなく,バラバラでありながらも,繋がっている個というものを考え,それを「非連続の連続」と呼んだ.
この非連続の連続という考え方は,様々に使われるが,たとえば,自分の人格というものを,これで説明すると次のようになる.
今の自分と,10年前の自分では,自分だと言っても随分違う.肉体的にも精神的にもたとえば成長している.
「今」は,無数にあり,それらが集まって自分である.
その,それぞれの今を西田は上の図のように,e1, e2,... と書く.ここで e と書いているのは意味があって,
ドイツ語の個 Einzelne の頭文字.先にも見た,個と一般の図,の e.
だから,二つ上の図では,e1, e2,.... が○になっているが,これが一つ一つの時間における自分だと思えばよい.
そういう非連続なバラバラな自分が集まって,一つの連続した人格となる.それが自分というもの,自分の人格だというのが,西田の考え方.
これを時間だけでなく,空間にも広げて,述語となって主語とならないものとして,絶対無という究極の包み込み場を考える.
以上のように考えれば,西田の哲学は,西洋的哲学の基礎といえるアリストテレス論理学の用語や基礎概念を使い,しかし,それを様々に読み替えることによって,東洋的な「気が集まって個物,たとえば自分の肉体ができている」「個物は,水に浮かぶ氷のようなもの」という風な形而上学や,常に,外部との関係・対立(対峙)を考慮にいれ,terminus の中に一人たたずむソクラテスのような「西洋的な個」を克服しようとしていることがわかる.
実際,西田の哲学の根底に西洋と東洋の思考形態の違いというものがあったことは,同じ講演の次の発言で明瞭にわかる.