論理学の歴史資料 2015.11.30  

前回までの纏め

一匹のトラ、A Tiger, The Tiger も集合

固有名辞としての the tiger

この考え方の利点として、三段論法の理論におけるAAの前提からAを推論する一番標準的な推論パターン(BARBARA)などが簡単に理解できることがある。

例えば、

  1. ソクラテスは人間である。
  2. 人間は死ぬものである。

の状況を、ベン図で重ねて図示してみると

 

BARBARA

となり、あきらかに、

が分かる。つまり、有名な「ソクラテスは死ぬ」という三段論法は、数学でいう

つまり、

のことであることがわかる。

つまり、ソクラテスのような一つのものしか表さない「名詞」も、人や死ぬものの様な多くのものを表す名詞も、どちらも名詞として同じようなものだと思うのならば、この考え方は自然なものと言える。

しかし、我々日本人には不自然に思えるし、また、Keynes の教科書にもあるように、実は、「ソクラテスは人である」という命題は、「ソクラテスという人がいる」という特称肯定命題と考えることもできるし、一人しかいないことが明らかなのに「すべてのソクラテスは」という風に考えることになるので、西洋の論理学者の間でも、完全に自然とは思われていなかった考え方。

また、質問票にもあったように、不死の人はいない、を意味する英語として、No man is immortal. Nobody is immortal. つまり、「いない人が不死だ」、「ゼロ個の人が不死だ」という表現があるように、数学のゼロのようなものを使う言語においては、これは、同じような考え方、つまり、「なるべく数の内の区別はしない。ゼロ個だろうが、複数個だろうが、一個だろうが、兎に角、個数として同じだ」と思うような思考法からしたら、これは「自然」なこと。

今回の講義資料ここから

しかし、BARBARA はシンプルでも、それ以外のシロギズム(三段論法)の全体を考えると、その理論が、複雑・錯綜の極みだったように、シロギズムの理論は、少なくとも数学の観点からはシンプルなものとは言えなかった。

この問題を解決したのが、現在の記号論理学の祖である、ド・モルガン、ブール、パーズ、フレーゲ、ペアノなどの数理論理学、記号論理学。

そのポイントは、論理学を数学の代数の様なものと見なすことだった。

そして、現在では、それが、例えば日本の大学では、「論理学」の大半を占めている。

という話を始める前に、アメリカの大学での logic の教育についてみておく。

日本の大学ではアリストテレス論理学の教育をやっている所は殆どないらしい。

所が、アメリカでは、既にみた Butte college の iLogic のページが示す様に、大学教育の現場で、アリストテレス論理学が生きている。

日本では、アリストテレス論理学の教科書で最近書かれたもの、また、現代でも良く読まれているものは皆無と言ってよい。

ところが、アメリカでは、そういう教科書のベストセラーがある。他にもあるようだが、林が見つけたものとしては、

ミシガン大学の先生たちが書いている、この本は、”at hundreds of universities in the United States and around the world “ で教科書として使われている。

この本は、アリストテレス論理学が半分で、残りが記号論理学と帰納推論の話。記号論理学のページ数が一番少ない。

全体が600ページ位で、記号論理学は、150ページくらい。

帰納推論の部分は、どちらかというと伝統論理学より。

これから見るように、このペストセラーでは、アリストテレス論理学、伝統論理学が、「正しく文章を理解する、正しく推論をする」という、「良く生きていくための論理」の重要な道具として扱われている。

まず、その本の目次と、どれくらい読まれているかを示す資料。

おびただしい数の大学などの教育機関で、この本が使われていることがわかる。

さらに、Foreword のエピグラフに注意(PDFの4ページ目)。Thomas Jefferson の言葉。

これは、共和制においては、論理(reason)こそが社会を動かすものでなければならないと言っている。

これがアメリカの論理学の教科書のエピグラフとして使われている意味は自明だろう。

つまり、論理学は、ただの学問でなくて、現実社会(アメリカという共和制国家)において、それを運営するために正しく推論し議論するための力・道具として論理学が教えられている。

実際、アリストテレス論理学の教育では、単に categorical proposition の構造の概念や、シロギズム(三段論法)が「学問」として教えられるだけでなくて、それを使って自然言語、つまり、英文をどう論理的に読むかの訓練が行われる。

これは、この教科書だけでなくて、多くのアリストテレス論理学の教科書に共通してみられる傾向。

そこを見てみる。

殆ど、英語の読み方の演習、と言えるものであることがわかる。

また、アメリカの哲学者の Sommers は、記号論理学全盛であることに反発し、アリストテレス論理学の再興を目指したことで知られるが、

彼は、ある本の前書きで、アリストテレス論理学の categorical proposition の考え方の方が、文法としては、記号論理学の文法 (Fregean syntax)より far more natural だと書いている。

これは日本人には、なかなか分かりにくい感覚だが、他にもこういう風に書いているひとがいる。

おそらくヨーロッパ言語を使う人たちには、これから紹介する「数学の数式をモデルにして作られた記号論理学の文法」より、おそらく自然言語を元につくられたと思われるアリストテレス論理学の文法の方が自然に感じられるのだろう。

では、以下に、その数式や数学をモデルにして作られた記号論理学の説明をする。

まずは、なぜ記号論理学は必要だったかという話から。

アリストテレス論理学の困難性

アリストテレス論理学は、実に長い間、西洋では思考の基本様態、あるいは、それに近いものとして考えられていた。しかし、それを、本当の推論に適用しようとすると、実は、シロギズムの説明でみたように、実にややこしい。

実は、それだけでなくて、普通の日常生活で使う文章を、たとえ、S be P を基本とする英語の場合でも、アリストテレス論理学の形式で表現しようとすると、色々と困難にぶつかる。特に、それは、人と人との関係性、ものとものとの関係性などの「関係」を表現しようとすると、大変に不自然な表現になることがわかる。

たとえば、下のジャズ Everybody loves my baby. の歌詞の赤字の部分を、S be P で記述してみよう。

歌詞:http://www.youtube.com/watch?v=V42uJKhoe2I

I'm as happy as a King,
Feelin' good n' everything
I'm just like a bird in Spring,
Got to let it out.
It's my sweetie, can't you guess?
Wild about her, I'll confess!
Does she love me?
Oh my, yes!

That's just why I shout:

Everybody loves my baby,
But my baby don't love nobody but me.
Nobody but me.
Everybody wants my baby,
But my baby don't want nobody but me
That's plain to see.

以下略

つまり、次の二つの文章を S be P にする。

  1. Everybody loves my baby.
  2. My baby don't love nobody but me.

(but が消えて、カンマがピリオドになっているが、こういうものは論理的内容には影響を与えないと考える。)

1.Everybody loves my baby,
2.But my baby don't love nobody but me.

の1は、尾崎の「花なきものなり」を、"non-flower plants"としたテクニックを使って、

all persons are "my baby"-lovers.

と書ける。

2は、内容的には、次の二つの文章と同じ。

2.1. my baby don't love anybody who is not me.

2.2. my baby loves me

2.2 は、1と同じテクニックを使って、

my baby is a me-lover.

2.1 は全称否定にすればよさそうなので、

my baby is non-P

だろうと推測できる。元の英文と比べて考えると

my baby is non-((anyone who is not me)-lover).

となる。ちょっと言い方を変えて

my baby is non-((non-me)-lover).

この様に、A loves B などのような、二者の関係をアリストテレス論理学で表そうとすると非常に不自然なことになることが多い。

その直観的理由としては、アリストテレス論理学が、個を出発点として、その terminus による分類で世界を記述しようとするからである。

このことを、たとえば、20世紀初頭に、哲学が記号論理学ベースの英米系哲学と、ハイデガーなどの実存主義を中心とする大陸哲学に分かれていく、その二つの枝のルーツともいえる新カント派の哲学者、エルンスト・カッシーラーは、その著書「実体概念と関数概念」で、もともとが動物学のような分類科学をモデルにしてアリストテレス論理学が作られているからだと書いた。

これに対して、全く違う観点、動物学のような分類学ではなくて、数学をモデルにして論理学を再構成した人たちがいた。それがラッセルたち初期の記号論理学者。

ここでは、ラッセルをさらに遡り、その源流の一つとなった、アメリカの哲学者パースの論理学と、さらに、その元になった、イギリスの論理学者ブールの論理学を見ていく。

Charles Sanders Peirce の論理学

パースの論理学には、三つのポイントがあった。それは

  1. 述語の導入。
  2. quantifier の導入(限定子)
  3. 論理の代数化(ブールの継承)

まず、この第1のものから見よう。

述語の導入

A loves B

のような二つのもの関係を記述するとき、

A is a lover of B

でなくて、

A loves B

と書ければ随分楽。

他の例

A benefits B

A is a benefactor of B

パースは、このような二つのもの関係を記述するとき、

i loves j

i benefits j

を、数学の記号を使って、それぞれ

 bij

と書いた。

今ならば 

L(i,j)

B(i,j)

と書く。

パースの原文を見てみる。

ここで少し脱線(しかし、学問の仕方の例としては重要な脱線)。

この例の lover, benefactor は何から来ている?

benefactor : 日本語では

どうもしっくりこない。で、こういうときは、Google Books で検索する。

特に、こういう例は、キリスト教から来ていることが多いので、古い文献を見た方がよいが、Google Books はそれに最適。

現在では、通常の図書館では持てないような19世紀のドイツ文献などが平気でサーチされてしまう。
#ただし、京大文学研究科図書館クラスになると、Google Books にない図書を沢山所有しています。
#京大は世界の主要大学のなかでは新参者。京大よりずっと古いヨーロッパなどの大学図書館や、その他の図書館・史料館には何があるやら…

lover benefactor

で書籍をサーチすると、ビンゴ!!

トマス・アクィナス「神学大全」 Summa Theologica より (vol.3,part2.sec.2)

Twelfth Ariticle の内容は

Whether a Man Ought to Love More His Benefactor Than One He Has Benefited?

「人は施したるものより、施しを受けしものを、より愛すべきや?」

http://books.google.co.jp/books?id=A7Cf9Bt1DWsC&pg=PA1297&dq=benefactor+lover&hl=en&sa=X&ei=22eVUvDaLcb5kAXe54DIBg&ved=0CEQQ6AEwBA#v=onepage&q&f=false

つまり、この辺りの、パースの例は、男女関係ではなく、トマス・アクィナスの論理的問答集「神学大全」における「施し」「恩」についての論理的・哲学的・神学的議論を意識していた可能性が高い。

(脱線終わり)

この様な述語の記号(述語記号)を導入すると、たとえば、

「全ての者は、誰かを愛しており、また、その者に施しをなす」

あるいは

「全ての者は、誰かを愛しており、また、その者に恩をなす」

が、

3

と書ける。

では、このΠとか∑は何か?

これが quanifier 量化子と呼ばれるもので、これがパースの、もう一つの大発明。

量化子(quantifier)の導入

 (フレーゲと)パースが行った述語の導入は、数学の関数 

  f(i,j)

や数列

  aij

のような記法にならったもの。

  パースは、さらに数学の記法を論理学に応用した。

3

3

の部分は、  lij  と  bij  の掛け算を意味している。

これは、1を真、0を偽と考えて、

1×1=1

1×0=0

0×1=0

0×0=0

となるが、これは

真かつ真 は 真

真かつ偽 は 偽

偽かつ真 は 偽

偽かつ偽 は 偽

という「かつ」の真偽の規則と一致する。

+の方は

1+1=2

1+0=1

0+1=1

0+0=0

となるが、2は1以上なので、1とみなすと、

1+1=1

1+0=1

0+1=1

0+0=0

となり、これは

真または真 は 真

真または偽 は 真

偽または真 は 真

偽または偽 は 偽

という、数学でつかわれる「または」と一致する。

さらに、マイナスを否定とみなして、

-0=1

-1=0

と定義すると、ドモルガンの法則などが成り立つ。

-(A + B) =(-A)×(-B)

-(A×B) =(-A)+(-B)

このように演算を定義した0と1の代数はブール代数と呼ばれるものの一つの例で、イギリスの数学者ジョージ・ブールが発明した。

 パースは、このブールの考えをさらに発展させて量化子を論理学に導入した。

たとえば、前に考えた例

  Everybody loves my baby.

を考えてみよう。これは、

  All persons love my baby.

のことである。そこで、数学の変数(あるいは添え字) i  が人間、つまり、persons を表すとする。すると、この文章は、

  All i  love my baby.

になる。さらにパースの述語記号を使い、my baby を j  と書くと、これは、

  All i lij

と書ける。

ところが、もし、人(persons)にすべて通し番号がついているとすると、 i や  j  は、0, 1, 2, 3…という数字だと思ってもよい。

もし、my baby の番号が5番だとすると、これは、

  All i li5

と書ける。

ところが、これは

  l05 かつ l15 かつ l25 かつ l35 かつ l45 かつ l55 かつ l65 …

つまり、ブール代数の記法では、

  l05 × l15 × l25 × l35 × l45 × l55 × l65 …

つまり、

  l05 l15 l25 l35 l45 l55 l65 …

のことである。

  数学では、こういう数列の積を

  Πi li5  

と書く。これがパースのΠの意味であり、それは、「すべての i に対して、li5 である」を意味している。  

 同じように、以上の説明の「かつ」、つまり、ブール代数の掛け算を、ブール代数の足し算、つまり、「または」に置き換えると、

 l05 または l15 または l25 または l35 または l45 または l55 または l65 …

つまり、ブール代数の記法では、

  l05 + l15 + l25 + l35 + l45 + l55 + l65 …

となるが、これは数学の記号を使うと、

  ∑i li5  

になる。これがパースの∑の意味で、それは、「ある i に対して、li5 である」を意味している。 つまり、「誰かが my baby を愛している」「ある人が存在して、その人は my baby を愛している」となる。

 以上の説明から、

3

を直接的に日本語に訳してみると、

 すべての人 i に対して、ある人 j が存在して、i は j を愛していて、かつ、i は j に施しをする

と読める。つまり、

   全ての者は、誰かを愛しており、また、その者に恩をなす

と読める。

  そこで、これを使って、「my baby が愛しているのは私だけ」を表現してみよう。

まず、7 が私の番号だとする、そうすると、この文章は、

 全ての者(person) i  は、my baby がその者 i  を愛しているならば、実は、 i  は私だ!

となる。

 i はXXだ

は、等号を使うと、

 i =XX

と書けるし、これは数学風だから、OKとして、

  全ての者(person) i  は、my baby がその者 i  を愛しているならば、実は、 i  は私だ!

は、

  全ての者(person) i  は、my baby がその者 i  を愛しているならば、i  = 7

となる。(7が「私」の番号!)

 「ならば」は、まだブール代数の値で定義していないが、これは伝統的に、

 A ならば B = -A または B

と定義することになっている。

 そうすると

真ならば真 は 真

真ならば偽 は 偽

偽ならば真 は 真

偽ならば偽 は 真

となる。

 この内、3番目以外は納得できるだろうが、3番目を納得するのは難しい。

これを認めると、間違った前提から、どんな命題(主張)でも結論してよいことになる。

これは論理学が常識と大きく隔たる処で、古来、その意味が繰り返し議論されているが、

今でも解決できていない問題である。

 以上の「規約」のもとで、but my baby loves only me 7、つまり、

  全ての者(person) i  は、my baby がその者 i  を愛しているならば、実は、 i  は私だ!

は、  

  Πi (-l5i+ (i = 7))  

となる。

したがって、先にみた、everybody loves my baby の歌詞の赤で示した部分 を記号論理学でかけば、

 

  Πi li5   Πi (-l5i+ (i = 7))  

となる。これを英語風にかけば、

 (For any person i. i loves my baby ) and

 (For any person i. "my baby loves i" implies "i is me")

となる。

 また、any person でなくて、anything にしたければ、次のようにする:

 (For anything i." i is a person" implies "i loves my baby") and

 (For anything i. "i is a person and my baby loves i " implies "i is me")