2014年前期特殊講義「再魔術化」資料 2014.07.07
これからの予定とレポートについて。
レポートはメールで7月31日までに提出。テーマと提出方法の詳細はKULASISに掲示しまてあります。
今日を入れて、後3回。最後の回は、月曜日ではなく17日の木曜日なので注意。
今日と次回でリッツァーとブライマンの「再魔術化」について論じます。
そして、それが済み次第、全体のまとめ、主に、論じて来た再魔術化の比較検討を行い、その意味を再考します。
前回からの続きの資料、ただし、重要な変更あり(下線なしの青字の部分)
G.リッツァーの再魔術化論
Enchanting a Disenchanted World: Continuity and Change in the Cathedrals of Consumption
消費社会の魔術的体系
前回までの話は、第一次、第二次世界大戦の戦間期のドイツにおいて生まれた「近代への抵抗」「前近代への憧憬」としての Umwelt 生物学と、その政治、社会、人生観などへの応用の話と、同時期の数学の基礎における類似した歴史の動きの話だった。
Umwelt 生物学の生みの親は、その実人生が、ワイマール共和国の民主主義、ロシア・ボルシェビキの共産主義、そして、後にはナチズムという、近代化の時代の波に押し流され続けたバルト・ドイツ貴族の末裔ヤーコプ・フォン・ユクスキュルであり、その思想には失われた「美しい過去」への憧憬がいたるところに見ることができた。
また、数学における類似した歴史の語り手であった論理学者クルト・ゲーデルの歴史観にも、遥かに若い世代ではあるが(ユクスキュル1864年生まれ、ゲーデル1906年生まれ)、同じく自らの「母国」が第一次世界大戦の敗戦により失われたドイツ人の過去への憧憬のようなものが見て取れる。
- ゲーデルは、オーストリー・ハンガリー二重帝国の臣民としてモラビアの中心工業都市 Brün で生まれた。しかし、この帝国は第一次世界大戦の敗戦により解体され、 Brün はチェコ共和国の第2の都市 Bruno となる。ゲーデルは、ウィーン大学生となるまでは、このBruno でチェコ共和国民として育ったが、教育はドイツ語で受けている。そして、ウィーン大学に入学後にオーストリア共和国に帰化した。
- ゲーデルは、その世界歴史観論文で、1960年代であるにも関わらず、数学の基礎についての研究の方向性として、フッサールの現象学という哲学の理論に望みを託している。数学が、「ブルバキ構造主義」という数学思想の名のもとに、それとは、全く異なった方向、ウェーバーの意味での「近代化」、つまり脱魔術化の方向に進むことが、専門家だけでなく、たとえば、数学の教師や学生、などにも明瞭に認識されるようになったのが、丁度、このころであった。それを考えれば、ゲーデルが「その想いが過去の方向に向かっている人」であることは明瞭である。
そして、彼らの「再魔術化」は、結局のところ、「脱魔術化以前の視点」からすれば「脱魔術化の徹底」として見えるものであった。おそらく、彼らが、生き返って、この時代をみたら、その様に嘆くだろう。(ちなみに、実際の人生で言えば、ユクスキュルもゲーデルも決して不幸であったとはいえない。むしろ、非常に成功した幸福な人たちであった。ユクスキュル家のその後)
ここからの話は、ある意味で、これと対極の話。それは、現代アメリカを中心とする「消費社会」における再魔術化の話。
ユクスキュルやゲーデルの再魔術化においては、脱魔術化以前の社会が持っていた「宗教性」への憧憬が見て取れる。ユクスキュルが繰り返し、聖なるもの、について語っていることに注意!(人間の Bauplan にだけは、神や聖なるものがある。動物の Bauplan にはない。一人ひとりの Bauplan は、肉体が死ぬと、宇宙の Bauplan に帰っていく、など。)
しかし、解説する社会学者リッツァーの「消費の殿堂における再魔術化」には、宗教的要素は、カーニバルなどのアトラクションの歴史的背景、テーマ・バークにおけるデザインされた魔術で使われるテーマ、というような意味以外に全く存在しない。その考察の対象も、また、リッツァー自身の議論も、近代社会理論(マルクス、ウェーバーなど)とポストモダン社会理論(ボードリヤールなど)を背景とした完全に secular (非宗教的、世俗的)なもの。
ユクスキュルの Umwelt 概念がロボットの制御方式として大学の工学部で教えられているのを見たが、ちょうど、その様なものとして、消費の殿堂、つまり、デバート、モール、ショッピングセンター、チェーン店、テーマ・パークなどで計画的・人工的に生み出される「デザインされた魔術」を、最初から「社会装置」「経済装置」として、脱魔術化された「参加しない社会学者」の視点で分析したものが、リッツァーの本の内容。
リッツァーの社会学における立ち位置は、基本的にあ近代社会学理論の正統的なもの、特にウェーバー社会学系の議論を基本にしている人だが、有名な「マクドナルド化する社会」の後の作品では、ポストモダン現代思想の影響が強くみられるようになった。Enchanting a Disenchanted Worldでも、その方向性は明らかで、近代社会理論(マルクス、ウェーバー、ベンヤミン、キャンベル)を基礎としながらも、ボードリヤールのポストモダン社会理論の概念を多用し、特定の理論に拘らないとはしながら、結論は、(林からみれば)ポストモダン思潮の方向に傾いているように見える。そのため林の講義の内容が示唆する「結論」は、リッツァーの「結論」と、かなり異なったものになっているが、この「矛盾」は、リッツァーを批判したりせず矛盾のままで講義するので、注意して欲しい。(いままで話したことと矛盾するようなことを言っても気にしないで欲しい。意図的、意識的である。ということ。)
ここで講義では、出来るだけリッツアーを批判的に読まないこと、そのままで説明することを心がける、と言った。前回までの講義資料は、そのスタンスで作られていた。しかし、実際、講義を始めると、結構、批判してしまった。特に3章の議論が根拠薄弱であること、おそらく、林がやっている「Giddens の言う意味での組織の Japanese model と、現代の日本で使われている拡張された意味での感情労働を使って現在の産業の状況を理解する」という方法をとれば、この章の結論をかなり正当化できるだろうと言ったのが、それ。その後、ブライマンの資料を作っていて、ブライマンのディズニー化の議論が、これに近いことに気が付いたので、ブライマンの理論についての議論につなげるためにも、方針を変更して批判的にリッツアーを説明する。その批判の部分が以下の「下線なしの青字」の部分。下線があると、リンクなどのマークアップのために青になっている可能性がある。これが何色かは、使っている個別のブラウザーがどう設定されていうかで変わるので注意。
小冊子とはいえ240ページほどあるものなので、残りの回で詳しく説明することはできないが、一種のオムニバスであったハリントンの本の場合と異なり、一部だけを説明するというのではなく、全体を鳥瞰する様にして説明する。そのために、まず、コンテンツを見て、本の構造とリッツァーの議論の構造(どの様な理論を背景に、何を、どういう風に分析・議論するか)を説明する。
- A tour of the new means of consumption
- The revolution in consumption and the larger society
- Social theory and the new means of consumption
- Rationalization, enchantment, and disenchantment
- Reenchantment : creating spectacle through extravaganzas and simulations
- Reenchantment : creating spectacle through implosion, time, and space
- Landscapes of consumption
- Societal implications and the future of the new means of consumption.
より詳しいコンテンツは、Enchanting a Disenchanted World: Continuity and Change in the Cathedrals of Consumptionや消費社会の魔術的体系の Look insideで読める。
各章の大まかな内容と構造
- A tour of the new means of consumption
- 導入。Disneyのテーマパークを例にとり、この本で議論する The new means of consumption、特に消費が行われる場所であり、消費を促進するための装置である Cathedorals of Consumption (消費の殿堂)について、多くの実例を用いて、その何に注目して考察しているのかを説明。
- 特に、議論の手法としては、「消費そのもの」「消費物」に注目するのではなく、 Cathedorals of Consumption のような消費を行うための means (手段、方法)が分析される点に注意。
- The revolution in consumption and the larger society
- 消費という行為は、何も現代にだけ存在するわけではない。この本は、現代の消費が、過去のものと違う、しかも、比較的最近の過去である19世紀から20世紀最初のころまでのものとは違う、という立場をとり、その「新しい消費」を、それを行う「新しい消費の手段」 new means of consumption の分析を通して行う。
- では、なぜ、その様に変わったのか、それを説明しているのが、この章。
- その基本的な論点は、この本の一つの立脚点である近代社会理論、より具体的に言えば、マルクス経済学とウェーバー社会学が分析した時代に比べて、現代は、消費というものが経済・社会に占める位置が飛躍的に増大したということ。
- その理由をリッツァーは、第二次世界大戦後から2007年の世界経済危機までの経済成長(アメリカの本であることに注意)、テクノロジーの進化や消費を行う人たちの変化(若年層という新しい消費者層の登場)による、急激な消費の巨大化にもとめている。
- この巨大化により、資本主義の焦点が、生産から消費に移った。消費を中心に企業を運営しないと資本は生きていけない時代になったとリッツァーは論じている。
- Social theory and the new means of consumption
- 章の最後にポストモダン理論と再魔術化の概念の親和性が最後に論じられるが、
- この章の主な目的は、この本の理論的背景の一つであるマルキシズムの社会理論とウェーバー社会学の観点から、いかにして消費の問題を分析できるかを論じること。ただし、実際の理論的展開は、次の章でなされている。
- マルクス経済学、ウェーバー社会学では、実は消費というものがほとんど無視されており、それが主に論じるのが「生産」である。
- また、ウェーバー社会学では、「消費の殿堂における再魔術化」という、この書籍のテーマに反して、脱魔術化が、その中心概念である。
- それにも関らず、なぜ、そういう理論、あるいは、その理論を継承する近代社会理論で、「消費の殿堂における再魔術化」を論じることができるか、それに理由づけが必要。
- リッツァーの理由づけ
- マルクス経済学では、労働者の搾取 exploiting workers と、その疎外という概念が、労働という場で行われているということが、その中心概念にあった。
- もちろん、exploit するのは、資本。
- これを exploiting を control に変えて、消費者に適用する。消費者には労働者と異なり、大幅な自由があるものの、コマーシャルなどで欲望をコントロールされて「消費物を買わされる」という点は、「搾取されて労働させられる」という労働の空間において行われていたものと同じような構造があり、その部分でマルクス系の議論は消費の分析にも意味を持つというのがリッツァーの論点。
- 特にフランクフルト学派に分類されることもある、マルクス主義思想家に分類されることもあるウォルター・ベンヤミンのパリのパサージュ論におけるPhantasmagoria論を近代社会理論のひとつとして理解し、これを消費の殿堂における再魔術化の魁として理解して、近代社会理論が、この様なテーマの分析に使えることを論じている。(ただし、ベンヤミン本人は、シンパシーはあっても、マルクス主義者ではないと思っていたらしい。裕福なユダヤ系家族の出身)
- 一方で、ウェーバー社会学に関しては、neo-Weberian とされるイギリス・ヨーク大学の社会学者 Colin Campbell の消費社会論を引用し、ウェーバー的社会学の精神で消費や、再魔術化(キャンベルの理論におけるプロテスタントの生活における「良い趣味」にもとずく消費)を論じることができるとした。
- 以上が、この章の大体の内容だが、その議論は説得力に欠ける。
- 特に、ベンヤミンのむしろ文化論であると思われるパリのパサージュ論や、殆ど知られていないCampbellの理論を使い、近代社会理論 modern social theories (具体的には、マルクス、ウェーバー系の理論、たとえば、現代の代表的論者は、ギデンズ、ベック)の消費社会分析への可能性を理由づけようとしているが、むしろ理由づけせずに、そのままリッツアー自身の「社会のマクドナルド化論」などに、消費社会の視点が入っていたことを主張して、次章の議論を直接展開した方が良かったと思われる。
- ベンヤミンなど少しだけ引用して、消費社会の近代的理論の初期の例とするのは良いが、実際に3章で行われているような長い議論は、むしろ、理由づけの「無理」を強調する形になってしまっていて、以後の理論展開に疑問を起こさせることになっている。
- おそらく、この「無理」が最も良く表れているのは、この章のメタな議論を、実際に展開する次章の議論で、たとえば、Campbell の理論、特に good taste によるプロテスタントの「消費の精神」の理論が使われていない点に現れている。むしろ、good taste は、リッツアーの「量の追求=calculability」というマクドナルド化理論以来の、リッツアーの基本テーゼにひとつに矛盾してしまう。
- ただし、これは、なぜ、質から量に変遷したのか、を分析することにより、むしろ、マクドナルド化理論と Campbell の理論を整合的に結びつけることが可能で、そういう議論を通して、近代社会理論による消費社会分析の可能性を示すべきなのだが、そういうことが十分できていない。
- 何か、未消化、不完全、という印象を与える章。逆に言えば、これを、さらに発展させることができる章であり、ある意味でブライマンの理論は、それをやっていると言える。
- Rationalization, enchantment, and disenchantment
- 3章の話の具体的展開。ただし、主にウェーバー社会学の観点から。実は、マルクスの話など、ほとんどなく、論点に基本は、リッツアー自身がウェーバーの合理化論を継承して発展させた社会のマクドナルド化論にある。
- このマクドナルド化論には、「消費者からみた効率性、計算可能性、予測可能性」という視点が入っているので、すでに消費の観点が入っている。この議論は、大変に説得力があるものだったので、広く受け入れられた。3章は4章の議論にオマケ的に組み込みんで、マクドナルド化論を前面に押し出した議論で十分だったと思われるが、おそらく、近代社会論の保守的な論者からの批判か何かのために、3章が入ってしまったものと思われる(ただし、ただの推測。根拠は薄い。)ということで、むしろ、この4章が理解できれいれば、3章はあまり関係ないことになる。
- ここからは、変更でなく、追加なので、青字は使わない。
- まず、(1) 最初に、new means of consumption の合理化・合理性について分析し、次に、(2) 消費の殿堂における脱魔術化が、合理化として理解される。そして、最後に、(3) システムの合理化自体がもつ魔術化的要素が議論される。
- この(1-3)は、実はマクドナルド化理論にすでにすべて存在していたもの。
- ただし、マクドナルド化理論では、ウェーバー社会学の影響が強く、生産の視点に力点があった。しかし、実際には、ビッグマックの例をとり、消費者側から見たら「計算可能性」の議論がなされるなど、すでに消費への視点がマクドナルド化理論には強くあり、さらには、再魔術化的要素の議論も少なくなかった。
- この章は、その「マクドナルド化する社会」および、その後のリッツアー社会学で行われた、近代社会理論の議論を、 視点を生産から、new means of consumption に移す作業になっている。
- そのため、たとえば、(1)の The Rationalization of the new means of consumption (pp.74-89)のセクションのテーマは、Efficiency, Calculability, Predictability, Contorol, Irrationality of rationality など、リッツアーのマクドナルド化する社会の理論の基本テーマ、そのものになっている。
- そこで、講義では、むしろ、このマクドナルド化の話を消費を中心に説明して、この章の(1)、(2)の説明とする。
- しかし、正直に言えば、この部分もリッツアーの議論は、いささか強引に感じられる所が多い。
- そして、(3)については、社会のマクドナルド化理論においては、消費者の「性向」「好み」「欲望」を、近代社会理論の合理化論によって基礎づけていた部分が、「消費をさせるための魔術」としてとして説明しなおされることにより、同じテーマが、「再魔術化」として理解されなおされる。
- たとえば、「マクドナルド化する社会」では、「なぜ、消費者はビッグマックを好むか、Wal-Mart を好むか」
- ちなみに Walmart (Wal-Mart)とは、世界最大のスーパーマーケット・チェーンで、世界最大の企業の一つ(日本語、英語のwikipedia)。
- トヨタと比較すると売上で2倍弱、従業員数は10倍弱。
- また、マーケットも非常に大きい。スーパーセンターと呼ばれるものでは、2万4千平方メートル以上のものがある。日本でもイオンやイズミヤのスーパーセンターなどがあるが、もともとは Walmart が作った概念。
- 低価格、大量販売
- そして、無慈悲ともいえる利益追求の姿勢で知られる。
- マクドナル化社会の理論では、この「量の追求」が、ウェーバー社会学の形式合理性の数量的側面として「計算可能性」 Calculability、ビッグマックの肉(パテ)は、普通のマックの2倍、というような「数値により理解できる価値の追求」として説明された。
- しかし、この本では、この様な量の追求という問題が、数値的合理性の追求ではなく、Wal-mart の会員制スーパーマーケット、 Sam's Club において、商品の膨大さがもたらす消費者の驚きに置きかえられている。
- つまり、マクドナルド化理論においては、消費者の合理性の追求(もっと大きなパテのバーガーを食べたいなど)を生みだすもの、として説明されていたものが、巨大な量がもたらす驚き、のように、j感情にうったえる魔術の源泉、として理解されている。
- この議論も少し説得力に欠けるが、最後にリッツアーは、「ハイテクが生み出す魔術」を、最も典型的な『合理性の魔術』として説明している。これは納得しやすい。
- Reenchantment : creating spectacle through extravaganzas and simulations
- この章では、人工的・計画的・合理的に作りだされたスペクタクルが、消費における魔術化の道具として使われていることが分析される。
- これはハイテクによる魔術化という前章最後の結論と関係しているが、いわゆる工学的な技術だけでなく、たとえば、演劇的なもの、テーマ・バーク的なものによるスペクタクルの創出ということが議論される。
- 演劇的なものとしては、extravaganza という言葉が使われる。要するに、馬鹿騒ぎ、過剰に派手な騒ぎ、のことだと思えば良い。
- そして、これらの extravaganza などによるスペクタクルの創出には、しばしば、シミュレーション、つまり、本物でない人工的につくられた本物のようなもの、が使われるとされる。
- これは、ポストモダン思想家の一人、ジャン・ボードリアールのシミュラークル理論を背景にして、リッツアーは語っている。
- たとえば、テーマ・パークの恐竜、猛獣のロボットが、シミュラークル。
- シミュラークルの特性の一つに「安全性」がある。たとえば、Simulated Communities というセクションでは、ディズニーが企画した住宅地 Coto de Caza に作られた horse trail (馬道)や歩道のない道などが実例として挙げられている。つまり、完全にコントロールされて安全な、(実は本もの危険かもしれない)過去の町の情景。
- また、セクションの一つに Theming (pp.111-112)があるが、これはブライマンとの比較で後で説明。
- Reenchantment : creating spectacle through implosion, time, and space
- この章では、リッツアーがポストモダン理論から借りてきた、もう一つの重要概念 implosion (内破、爆縮)が使われて、過去には分けられていたものの境界・障壁がなくなり、それがたとえば、ショッピングをエンターテイメントにしていることが説明される。みなさんは、あまり見ないだろうが、テレビ・ショッピング番組などがこれにあたる。
- この implosion は、時間的なもの空間的なもの双方が検討されており、現在の多忙になってしまって買い物の時間さえ確保が難しい状況における、カタログショッピング(たとえば、夜中に可能。昔ならば、ショッピングの時間ではなかった。また、家で行われるのだから、これも昔と違う)などが、それの事例としてあげられる。amazon などが、あまり強調されていないのが、ちょっと奇妙に古い…
- Landscapes of consumption
- この章では、スーパーマーケットなどの単独の「消費の殿堂」における再魔術化の検討を、さらに地域ぐるみのスーパーマーケットやラスベガスのカジノ・ホテルが、一定地域に集積されて、地域全体で「消費の風景landscape、あるいは、地平」になっていることが示され、その分析が行われる。この講義とはあまり関係がないので、これだけで後は省略。
- The Cathedorals (and landscapes) of Consumption: continuity and change
- この本は、最初、1999年に出版されたが、2010年の 3rd edition では、2007年の世界経済危機 The Great Recession を得て、最後の章が書きかえられ、経済危機前後での continuity と change が論じられた。
- たとえば、change としては、経済危機を招いたアメリカにおけるバブル(hyperconsumption)に、アメリカが戻ることはもうないだろう」とされた。
- 現在は、2014年で、世界経済危機、この本の出版、現在と並べると、現在との距離との方が政界経済危機との距離より大きい。さらに、執筆時期を考えると、差はさらに開く。
- 実際、2012年度にディズニー社が、過去最高売上げのみならず、過去最高益を得た。リンクの記事から:
- Chairman and Chief Executive Officer Robert Iger called the entertainment giant's fiscal 2012, which ended Sept. 29, "a great year for Disney by every measure — creatively, financially and strategically."
- 資本の拡大を善とする立場からは、かなり「悲観的」で「反省的」な、この章の議論は、すでに過去のものになりつつあり、見るべきものがないようなので説明を省略。
A.ブライマンの再魔術化論「ディズニーゼーション論」
リッツアーの再魔術化論と、それに先行する、やはり、リッツアーによる理論で再魔術化論に6年先行する1993年のマクドナルド化論「マクドナルド化する社会」(1,2)の双方に影響を受けて、イギリス、ロチェスター大学の、組織論、社会学などの教授であるアラン・ブライマンが生み出した概念である「ディズニー化」について検討する。
ブライマンは、これを再魔術化とは呼ばないことに注意。リッツアーの「再魔術化諭」はユクスキュルの「再魔術化諭」と異なり、むしろ、合理化論、「魔術の非魔術化論」であったが、ポストモダニズムへの志向が強かったように、「真の魔術」への一定のシンパシーが見られる。それはユクスキュルに比較すれば、無いに等しいものだが、「合理性の非合理性」を批判する論調は、たとえば、彼が基礎にしたウェーバー社会学の「魔術化されたものへの冷淡さ」は見られない。
これに反して、ブライマンのディズニーゼーション論は、リッツアーの社会学をモデルにしているように見えるものの、その様な「魔術化へのシンパシー」の様なものが全く感じられない。
この傾向は、ブライマンがリッツァーと異なり、ポスダニズム、フランス現代思想への言及を一切せず、その一方で、アメリカの社会学者A.R.ホックシールドの感情労働の理論や、テーマ化、マーチャンダイズ、などのビジネスについての概念が理論の重要要素をとなっているところに見て取れる。
しかし、どちらかというと、リッツアーの再魔術化論より、このビジネス論に近い、ある意味で「あっさり」した「ディズニーゼーション論」の方が、現代の「再魔術化」の実際を、よりよく描き出せているように思われる。これは、林が現代の再魔術化をむしろ「脱魔術化の徹底」、「魔術の非魔術化」として理解しているから、その様な結論となる。
再魔術化という言葉は、バーマンの1981年の著作 The Reenchantment of The World. によると説明して、その著書に従って、脱魔術化の概念と、それ以前の魔術化されている世界の違いを説明したが、バーマン自身の脱魔術化論は、この講義では説明していない。これは、バーマンの再魔術化論に、ポストモダニズムにも共通する60-80年代特有の「甘ったるい希望」があり、30数年後の現代の再魔術化と、あまりに乖離してしまっていて、議論として面白くないと林は感じたから。
バーマンはポストモダニストではないが、サイバネティクス系の文化人類学者でユクスキュルやその精神を受け継いだ息子Thureとともに、Biosemiotics (生命記号論)のパイオニアとされることが多いグレゴリー・ベイトソンのダブルバインド概念を使い、再魔術化の意味を語ろうとする。
しかし、元記号論理学者で、その記号論理学をソフトウェア工学という実学に応用しようとする試みである「形式的技法」(林は、こう訳しています)の研究に参加し、研究書や教科書なども数冊書いたものの、そういう実際の記述の努力を通して記号論理学が現実世界の記述に如何に無力であるかを経験して、それを放棄した経験を持つ林としては、記号論理学におけるラッセルの型理論(高階論理)を使うダブルバインド理論が出てくるところで、すでに「げんなり」。「気持ちはわかるが、それでは非現実的だろう。あまりにナイーブ!」と思ってしまう。それでバーマンの再魔術化論は避けた。
そして、その対極的な立場に立つのが、現在は経営(management)の学部の教授であるブライマンの、 sober な「ディズニーゼーション論」。
これはブライマン自身が語っているように、リッツアー社会学の影響を強く受けている。それは、マクドナルド化に対してディズニー化という言葉を持って来たことから明らか。
そして、ディズニーゼーション論の四つの主要テーゼを検討すれると、これが殆ど、リッツアーの再魔術化論の「作りなおし」と言いたくなるものだとわかる。そのテーマとは
- テーマ化
- ハイブリッド消費
- マーチャンダイジング
- パーフォーマンス労働
以後、ブライマンの理論を特に、リッツアーの消費におけう再魔術化の社会学との対比を意識しつつ説明する。
その説明が次回。そして、最後の回が、今までの全部のまとめ、特に多種類の再魔術化の比較検討、さらには、現実の日本社会における再魔術化の検討です。