西谷
パノラマ画像
これらの二つの「脱魔術化」の図を合成すると、4月28日に説明した、ウェーバーの脱魔術化のシュルフターの説明になっていることが分かる。
黒板で二つの絵を合成:
次と比較する:
Berman の脱魔術化の視点は、ウェーバーの視点と非常に近い。実際、ウェーバーを多く引用している。
ただし、ウェーバーよりは、科学による「人間性の疎外」のファクターに重点が置かれている。
という風に言えるには、ウェーバーの脱魔術化は何だったのかを言わなくてはならない。しかし、すでに注意したように、ウェーバーが何を考え、どう主張したかには十分確定したものがない。そこで、この講義では、一応の標準として、前回紹介した、 Wolfgang Schulchter の著書(短い論文集) Die Entzauberung der Welt, 2009, Mohr Siebeck Tuebingen の巻頭論文(論文集と同名)の脱魔術化の説明により、ウェーバーの脱魔術化を理解することにする。それを大雑把にまとめると、次のようになる。
- 古代ユダヤ教という、最初の一神教が生まれたことにより、脱魔術化の第一歩が始まる。多神教の方が自然。多くの神は、多くの聖霊、魂。
- しかし、ユダヤ教には、魔術的要素がある。脱魔術化は長い歴史により実現された。
- ギリシャ的合理性の哲学とキリスト教の統合、教会による宗教の統合などを経て、決定的に重要だったのは、16-17世紀のプロテスタンティズム。
- ウェーバー社会学の特徴として、このプロテスタントの思想を近代の思考方式の始まりとみなすという点がある。ウェーバーは、プロテスタント。
- 一つのポイントは:教会や秘跡による救いの概念の放棄。たとえば、カルヴァン派の教義にその極端な形がみえる。キリスト教の絶対的神は妖精や日本の神様のように取引をしないということ。賽銭や供物をあげてもだめ。
- そして、脱魔術化されたキリスト教を、さらに自然科学的思考が、つまり、ヨーロッパのもう一つの伝統、ギリシャ的伝統が、さらに脱魔術化し、現代の脱魔術化成立。
バーマンも、ほとんど、これと同じ議論をするが、ただし、6の自然科学の部分に強調点がうつる。そのポイントは、
- デカルトの思考法、ガリレオの思考法により、自然科学が、ヨーロッパの思考法を牛耳るようになる。
- そのポイントは、思考する対象から、身を引くこと。
- つまり、世界への参加を拒否して、世界を見ること。
- これをスコットランドの精神分析家 Laing の概念を使い説明している。
- そして、魔術化されていた時代の意識をParticipating Consciounessと呼ぶ。
- 脱魔術化とは、この participation 参加が失われること。
- 図を書いて説明。
ここで話を大きく変えて、数理論理学者クルト・ゲーデルの話をする。これは林が色々な講義や本などで「数学の近代化論」として説明しているもの。
ウェーバーの「脱魔術化」は、彼の「近代化」の概念の一部分、つまり、「近代化という社会、組織、文化、文明の傾向のひとつの特徴が脱魔術化」である。したがって、ゲーデルの「数学の近代化論」が「数学の脱魔術化論」として読めるても不思議はないのであり、実際に、そう読むことができる。
イギリス、セント・アンドリュース大学の有名な数学史のサイトの記事
論理学、数学基礎論、数理物理学などに仕事があるが、哲学的な講演や文章もかなりの数を残している。
思索のパターンは、少なくとも1950年代以後は非常に哲学的。
ゲーデル全集第3巻 pp.374-387,、未発表エッセイと講義、に The modern development of the foundations of mathematics in the light of philosophyというタイトルの未発表文書がある。
この文書はアメリカ哲学会で予定されていた講演のコンセプトらしいが、確定的なことは分かっていない。タイトルは編集者がつけたと思われる。ゲーデルの死後に発見された 「Vortrag, Konzept (講演、コンセプト)とラベルされた、アメリカ哲学会からの封筒」に入っていたもので、ドイツ語速記の原稿全集では、ドイツ語への翻刻と、それの英訳が、左ページドイツ語、右ページ英語という形式で掲載されている。
そのドイツ語翻刻の先頭はこう始まる: Ich moechte hier versuchen, die Entwicklung der mathematischen Grundlagenforschung seit etwa der Jahrhundertwende in philosophischen Begriffen zu beschreiben und in ein allgemeines Schema von moeglichen philosophischen Weltanschauungen einzuordnen.
林の和訳:私はここで、世紀の変わり目(19世紀から20世紀への変わり目のこと)のころからの数学の基礎付け研究の発展について、それを哲学の概念を用いて記述し、また、それを可能な(複数の)哲学的世界観についての一つの普遍的図式(das Schema, スキーマ, 型、形式、略図)で整理してみたいと思います。
この、可能な(複数の)哲学的世界観についての一つの普遍的図式、ein allgemeines Schema von moeglichen philosophischen Weltanschauungen というのがゲーデルの歴史観。それは概略を説明すると、次のようになる:
この内の左傾化論が、近代化論、脱魔術化の部分。実は、数学だけは右傾化したと言っているので、これは再魔術化論になっているのだが、これは後で説明。
ゲーデルは、数学はアプリオリな学問である故に、本質的に「右的」であると理解していた。これは数学はイデア的なものについての学問であると言ってもよい。
そして、ゲーデルは、真実は右にも左にもなく、中央にあるととも言っている。ゲーデルには、西谷やバーマンに見られるような、脱魔術化=non-participation に対面しての悲壮感のようなものが全く感じられない。
これは自然科学者、特に数学者に良く見られる傾向で、こういう学問に浸りきれる人たちには、脱魔術化を痛痒にも感じないという人が多くみられる。それを西谷は彼のニヒリズム論の中で、これらすべてのニヒリズム論、脱魔術化論の歴史的背景であったフリードリヒ・ニーチェのニヒリズム論の議論を使って、次のように書いている(「ニヒリズム」昭和47年刊、pp.268-270、ただし、漢字、送り仮名などは、現代のものに変更してある):
この科学者、数学者などの「真理へ信仰」を非常に良く描き出すのが、20世紀を代表する哲学者で、ゲーデルが、それに対して不完全性定理を証明した、プリンキピア・マセマティカの論理・数学体系を構築した、哲学者・論理学者バートランド・ラッセルへの次のインタビュー(昨年度、後期の「論理学の歴史」で使ったもの):
www.openculture.com というオープン・カルチャー運動のサイトが公開している、オンタリオのテレビ局が2005年に放映したラッセルについてのドキュメンタリのプレビュー。オンタリオのマクマスター大学のラッセル・アーカイブ所蔵という、もとのインタビュー・フィルムの由来は、まだ良く分からない。(調査中)
“the longing for love, the search for knowledge, and unbearable pity for the suffering of mankind.”
バートランド・ラッセルの三つの情熱:
愛への渇望、知識の探究、そして、人々の悲惨への耐え難い感情(pity)
インタビュワー:
Have you found on the whole in your own life, that the pursuit of either mathematics or philosophy, has given you some sort of substitute for religious emotion?
数学や哲学は、あなたにとって、宗教的感情の代替物ではありませんでしたか?
ラッセル:
Yes...it certainly did...I mean uh..oh well, until I was about...40, I should think. I got a sort of satisfaction that Plato says you can get out of mathematics.
It was an eternal world.
It was a timeless world.
It was a world, where there was a possibility of a certain kind of perfection.
And I certainly got something analogous to religeous satisfaction out of it.
ええ…そうです。実際…ああ。40歳のころまでは… (略)
そして、この絶対的な科学への信仰が失われると、それこと底が抜けたような状態、究極のニヒリズムになる、現代は、そういう極限のニヒリズムの危険性が現実化している時代だ、というのがニーチェの、そして、西谷の論点である。実際、ドイツ語圏の社会は、第一次世界大戦前では、科学万能主義が蔓延したが、第一次世界大戦において、科学者だけでなく、一般民衆が楽観的に信頼していた自然科学技術が、人間に牙を剝くことを認識することとなる。つまり、機関銃、戦車、有刺鉄線、毒ガス、強力な火薬、航空兵器など。そして、さらに第二次世界大戦で、人類は絨毯爆撃、核兵器という究極の牙を経験することになる。それにも関わらず、ゲーデルは無邪気に「現代の科学はテレビジョンと核爆弾を作るに十分」と議論している。この人が、本質的にニーチェの言う「真理の信仰者」だからである。これは彼が数学者・数理論理学者であることを考えれば、それほど奇妙なことではない。現在でも、同じような態度で「幸せに生きている科学者」は多い。生命科学などの研究者が、単純にそういう風に生きていると、社会は怖い結果を被ることになる可能性が高いのだが、STAP細胞のスキャンダルで見えた生命科学の状況からすると、そういう幸せに生きている生命科学者が、林が想像していたより多そうに見える。
ここで、19世紀から第二次世界大戦前のドイツ生命科学における再魔術化に話題を転じる。つまり、Ann Harrington: Reenchanted Science に話題を移す。しかし、その前に一言だけ、西谷の師のひとりだった田辺元について述べておく。
西田幾多郎の後継者(役職上)、敵対者、ある意味ではファシズムの論理ともいえる「種の論理」の提唱者、ハイデガーの日本への最初の紹介者、など。
ファシズムとの関係などもあり、死後忘れられた思想家であった。現在、林などが「発掘作業」をしている。
この人の思想は、ニーチェを継承したハイデガーに強く影響を受けながらも、実は、西谷も指摘したように、本質的には数理から来ている。より正確にいえば、それはマールブルグ・新カント派の思想の発展的継承だった。つまり、ニーチェがいう「真理の信仰者」。それは、この人を象徴する言葉として、その記念碑にも刻まれている、「私の希求するところは真実の外にはない」という言葉に象徴されている。
今回は、これだけ。詳しくは、林の岩波「思想」の論文やそこに引用されている講演記録や論文を参照。いずれも林のブログで読める。