質問票への回答のための資料
伝統的論理学では,ラッセルの包括の公理のような「何が存在するのか」が議論されることはまずない.
しかし,どの様に存在するのか,つまり,存在の構造と様態,のようなものが四原因説で語られている.
これが伝統的論理学の存在論とか形而上学にあたるもの.
では,記号論理学には,四原因説にあたるものはあるのだろうか?
記号論理学では,伝統的論理学のような「存在」「もの」の構造・様態についての明示的な記述がない.
むしろ,そういうものがないということが,記号論理学の存在論・形而上学の部分といえる.
現代の記号論理学には,内面,変化,動きの概念がない:
完全なる神は動かない unmoved mover
何故,ラッセルは,そういうものに宗教的なものを感じたのか?たとえば,東洋的・日本的な宗教では,完全ではなくて,生生流転が強調される.つまり,世界は時と共にうつろい,永遠のものは一つもない.質問票にあった,中国哲学の講義での「物体は大海の中の氷の様な物」というたとえは,このような世界観を表している.これは,物体,固体でさえ,境界 terminus がボンヤリとしてる世界観.
だから,宗教的恍惚といっても,文化により随分と異なる.ラッセルは,西洋的世界観に従って,数学や論理を考えていたといえる.
キリスト教神学では,動力因を元に神の性質を議論しているが,それを考慮すると,ラッセルが数学に宗教的なものを求めたことの理由が「論理的に」わかる.
まず,キリスト教神学では,神は完全だ,という前提がある.
だから,神は perfect (完全) なはずだから,eternal (永遠)で timeless(時間に関係ない) でなくてはならない.
進歩するのは不完全な証拠.よって神は進歩しない.
実は,このキリスト教神学の考え方は,アリストテレスの神学から来ている.
「私がなぜキリスト教徒ではないか」という著書も書いたラッセルは,キリスト教やアリストテレス神学を信じてはいなかったが,天空という,時間的で動きのある世界(星は運行する.月は満ち欠けする.時間・暦は,もとは天体の運行で定義された.)ではなく,timeless で動きのない数学の世界に,perfection (完成・完全), eternity (永遠)を見出したている.その意味では,彼はキリスト教の世界観をそのまま受け入れているともいえる.
ということは,数学ではなく,生生流転する,この現実世界の記述には数理論理学は不向きということはないか?
ラッセルとホワイトヘッドの Principia Mathematica や,それと類似の公理的集合論というものは,数学を記述する言語として大成功を収めた.
その結果,ソフトウェア作成の世界でも,同じことができるのではないかという期待が生まれた.
林も,この方法の研究者だった.このアプローチの限界を身をもって体験した,つまり,失敗したことが,この講義や,前期の講義の内容を考えるようなった契機だった.興味がある人は,こちらの原稿下書き「あるソフトウェア工学者の失敗」を参照.
私たちが日常的に使う,WEBのサービス,例えば,アマゾンや楽天の様なシステムを開発するには,記号論理学的なアプローチである「形式的技法」と呼ばれる手法では,全く駄目で,通常は,semi-formal 半形式的(半分形式論理学的)と呼ばれる,UML (Unified Modeling Language) と言う言語を使って記述することが多くなっている.
実は,このUMLの採用している「オブジェクト指向」という世界観(ソフトの世界ではアーキテクチャという)が,アリストテレス論理学の四原因説に,ほぼ,びったりと当て嵌まる.
外延的な記述方法は数学や物理学の世界,そして機械の世界でも大成功を収めたわけだが,ソフトの世界では,これがうまくいかなかった.
それで,段々と新しい要素が付け加えられるようになり,やがてUMLのようなものが作られるようになっていったのだが,そのUMLというものが,出来上がってみると,アリストテレス論理学の形而上学・存在論に,そっくりなものになっていた.
それには,ちゃんと理由がある.
実は,コンピュータのソフトウェアは四原因のすべてを持っている:.
現代のソフトウェア作りにおける,「情報システムの形而上学」,つまり,情報システムとは,どんなものか,情報システムの有り様,その前提は,およそアリストテレス哲学・論理学の影響を受けて,それをはるか後にまとめた the 伝統論理学,とでもいうべき,ポール・ロイヤル論理学の形而上学部分,つまり,世界の有り様と,ほぼ同じであるということ.
おそらくは,http://en.wikipedia.org/wiki/Animation の6つの静止画をいくらみていても,飛び跳ねているように見えないのに,それを素早く続けて見せられると,私たちには「動くように見える」という事実がその理由.
この「動いている」という感覚を使って,私たちは世界の内にあるもの(他人,社会,ネット,スマホ,…)に対している.
その感覚,直観を排除して,世界を理解しよう,記述しようというのは,おそらく有限の存在である人間にはできないのだろう.
つまり,有限で制限された能力の故に,我々は世界を「生き生き」と認識できているという面があるのではないか?
そういう我々が世界を認識するには,神の世界の記号論理学的世界観ではなくて,伝統的論理学の作用因や目的因のような「人間的」部分が必要なのだろう.
現代のソフトウェアは、人間が常時使うものであるから、それは人間に寄り添うものでないといけない。そうでないソフトウェアはユーザを獲得できない。(昔のソフトは数の計算などが出来ればよく、ユーザがソフトに寄り添うようにして使った。だから、形式的技法の幻想のようなものが生まれたと言える。)
そして、アリストテレス論理学の世界観は、記号論理学の数学的な世界観より、我々の「人間的世界観」により近いために、記号論理学よりソフトウェアに適合するのだろう。
どうして,縁もゆかりもなさそうな,ITの世界と,伝統論理学の世界が,結び付いたかの、上の答をもう少し掘り下げる.
要するに,ITは人間が使うものである以上,大切なことは,人間,つまり,ユーザの立場から,それがどういう風に見えるかが,一番大事だということ.
そして,ITの中に人間が見る世界は,我々が目の前にみる物理的現実世界であり,あるいは,ゲームの様なファンタジーの世界.
それが現実でも,ファンタジーでも,兎に角,それは世界なので,ITのハードやソフトがユーザが買ってくれるようなもの,つまり,人間がそれを欲しいと思うようなものにするには,人間にとって自然が,より自然にみえるように記述する,ということが一番大切なこととなる.
数理論理学は,それがニュートン力学の記述に用いられる数学とモデルにしていた様に,それはむしろ19世紀的世界観に近いもので、人間と疎遠な世界の記述には向いていた。しかし、現代のITは、人間(ユーザー)に即することが求められている。
そして,ITの,特に,ソフトウェア技術者がもつ世界観は,19世紀的なものとは,かなり違うもので,むしろ,古代ギリシャの世界観や,あるいは,東洋的な世界観,さらにいえば,19世紀的世界観に反発した人が作った,別の世界観,たとえば,京都学派の世界観や,ハイデガーの「世界観」に近いものになっている.
次に,この話.
上に述べた「有限で制限された能力の故に,我々は世界を「生き生き」と認識できているという面があるのではないか」というように、自分が制限されている、有限である、という、「普通」に考えれば短所と思われることを逆手にとって、むしろ、長所にしてしまうことを、哲学の世界で、やった人がいる。
それが、有名な哲学者カント。
カントは、スコットランドの哲学者ヒュームが、英国流の経験論の立場から、形而上学のような「世界を記述する理論」が、容易に間違ってしまいえることを、様々な議論で示した。
例えば,日本人は,ナマズが地震を引き起こすと考えたが,これは地震の前に,ナマズが騒ぐ現象が観測されていたから.ところが,これは実は逆で,ナマズが地震の際に起きる現象を敏感に察知できるかららしい.つまり,「因果関係が逆」だったわけだ.
ヒュームは,同様なことが,自然科学,哲学などで生じ得ることを指摘した.つまり,現象A起きるときに必ず現象Bが起きるということから,AをBの原因とは必ずしも言えない.これは当たり前のことなのだが,この様なシンプルな議論を突き詰めていくと,自然科学だろうが,哲学だろうが,すべての体系的な知識の根底が簡単に揺らいでしまう.これをヒュームの懐疑論という.
そして,この懐疑論の問題は現代でも解決されているとは言えない.ただし,それは知の体系を,「掌の上に置くように」理解しようとするから.科学なんかプラクティカルに役立ちさえすればいいんだ,道具のようなものなんだ,という立場にたてば,こういう「基礎」の問題は,「気にしない」という方法で「解決」(本当は「解消」)できる.
このヒュームの懐疑論に対して,哲学の可能性を再生させようとして考えられたものが,カントの哲学,特に,彼自身が「コペルニクス的転回」と呼んだ考え方.
ヒュームの懐疑論は,「世界にルールがあっても,有限個の事象しか観測できない我々は,それを完全に知ることができず,簡単に誤解をしてしまう可能性があり,真実の世界のルールを有限な我々は知ることができない(出来るという保証はない)」ということ.
カントも,これに賛同した.ただ,ヒュームの懐疑論では,我々の外側に,世界のルールが想定され,それを,世界とは別の我々が知る,という図式になっていることを利用し,これを次の様に読み替えることにより,哲学,特に認識論の可能性があることを示した.
以前,ソクラテスの terminus を,次の様に図示したが,
形而上学は,赤い線の外の世界を知ろうとするが,カントの認識論は,それを赤い線の内側を知るものに変える.
つまり,形而上学は,外が主で内が従,カント認識論は,内が主で外は実質無視.
ただし,ポイントは,そのように狭い学問でもよいのだと,と居直る点.
どうして,居直るかというと,「どうせ,人間は有限なので,赤い線の外の真実の外界を直接知っているわけではなくて,人間が持つ知覚・思考の能力に従って,それらの外のものを赤い線,いわば,人間と世界のインターフェースを通して知っているに過ぎない.だから,視覚などの人間の「インターフェース」の働きを知ることは,結局のところ「人間にとっての世界を知る」ことと「真の世界を知ること」は,有限である我々人間にとっては,同じことである.
ネガティブに言えば,どうせ,「真の世界を知ること」は無理で,我々人間には,「人間にとっての世界を知る」ことしかできない,ということ.
しかし,我々は人間なのだから,そこから出発するのならば,「真の世界」というものが考えられないのならば,それは無いのと同じから,実際に可能な「人間にとっての世界を知る」で十分だし,これしか出来ないのならば,「世界を知る」ということは,可能である「人間にとっての世界を知る」と考えれば良いではないか,という考え方.
このカントの思考法が,林のアニメの説明に似ていることに注意.実際,あのアニメの話は,「カントのコペルニクス転回」の様な,卓袱台返し的居直りが,カントに限らず,思想や文化,ときには戦争にいたる政治等,人間の歴史の中で普遍的にみられる現象であると,林が考えていて,それを元にして歴史や世界を見ているために考え付いたこと.
実は,この「卓袱台返し的思考」で,哲学を進めたのが西田幾多郎や田辺元などの京都学派.西田と並ぶ哲学者であった高橋里美などは西田たちが,カントの場合のような,窮余の一策としてではなく,常に「卓袱台返し的思考」を使って哲学を進めることを批判しているほど.
確かに,この批判は当たっているのだが,実は,西田は何もカントの卓袱台返しをまねたわけではなく,むしろ,terminus の内側を出発点とし外側へ広げて哲学するという立場をとっていたから,そうなった可能性も高い.
このことを頭に置いておいて,西田の哲学とアリストテレス論理学の関係をみる.
以下の画像は,西田幾多郎全集(旧版)第14巻昭和51年刊行,信濃哲学会のための講演から
カントとの類似性に注意.ただし,西田は外に向けて思考することに限界を置いていない.
また,この図自体が,アリストテレス論理学の図になっている,つまり,三段論法の説明の時に使った図と実質同じであることに注意.
しかし,西田は,アリストテレス論理学の通常的解釈による世界観に異を唱える.
ここで言っていることは,ある類を含む大きな類,一番小さな類としての個を含む類は,単に含んでいるだけでなく,包んでいて,それが包んでいるもの前部の通信の媒体,つまり,スマホならば,個々のスマホをつなぐ基地局のような役目をすると言っている.
実は,これは中世までのキリスト教神学に似た考え方.キリスト者は,それぞれが最高の存在である神と直接繋がっている.アリストテレス論理学,記号論理学でも,基本的には同じ.
ただし,西田は,そう考えない.彼は,大きな類は,単に場,場所であり,その場において,個と個が対等に対峙・通信するという風に考える.
西田は,個物の「主語となって述語とならないもの」という定義をアリストテレスに帰し(事実は違う),それを天才的と呼び,しかし,それでは個と個が分離してしまう,現実的でないと説く.
西田は,バラバラな個ではなく,バラバラでありながらも,繋がっている個というものを考え,それを「非連続の連続」と呼んだ.
この非連続の連続という考え方は,様々に使われるが,たとえば,自分の人格というものを,これで説明すると次のようになる.
今の自分と,10年前の自分では,自分だと言っても随分違う.肉体的にも精神的にもたとえば成長している.
「今」は,無数にあり,それらが集まって自分である.
その,それぞれの今を西田は上の図のように,e1, e2,... と書く.ここで e と書いているのは意味があって,
ドイツ語の個 Einzelne の頭文字.先にも見た,個と一般の図,の e.
だから,二つ上の図では,e1, e2,.... が○になっているが,これが一つ一つの時間における自分だと思えばよい.
そういう非連続なバラバラな自分が集まって,一つの連続した人格となる.それが自分というもの,自分の人格だというのが,西田の考え方.
これを時間だけでなく,空間にも広げて,述語となって主語とならないものとして,絶対無という究極の包み込み場を考える.
以上のように考えれば,西田の哲学は,西洋的哲学の基礎といえるアリストテレス論理学の用語や基礎概念を使い,しかし,それを様々に読み替えることによって,東洋的な「気が集まって個物,たとえば自分の肉体ができている」「個物は,水に浮かぶ氷のようなもの」という風な形而上学や,常に,外部との関係・対立(対峙)を考慮にいれ,terminus の中に一人たたずむソクラテスのような「西洋的な個」を克服しようとしていることがわかる.
実際,西田の哲学の根底に西洋と東洋の思考形態の違いというものがあったことは,同じ講演の次の発言で明瞭にわかる.