私は如何にして歴史家になったか 2007/4/12版

更新情報
2023.10.22:誤字、脱字、誤綴などを訂正。
2022.09.05:HTML化
2011.10.20:文章を少し修正。公開から4年たって京都学派研究を通して、新カント派など19世紀ドイツ思想史を理解しはじめた現在では、数理思想史について書いた考えは色々と変わってきています。しかし、内容は直さず、文章のみ調整しました。
2007.09.04:プレインテキスト版公開開始。

文学部に就職した情報学者

長年、理工学関係の学部や研究所で情報系の仕事をしていた私が京都大学の文学研究科に転職したことは、私の周囲を少なからず驚かせたらしい。本人も驚いたのだから、当然ともいえる。しかし、私が文系の職場に転職したことは、自然なことともいえた。私はそのころすでに半ば、あるいはそれ以上、数学史家と化していたからである。

私に、この転職の幸運を呼び込んだ最大の要因は、常識に流れ中途半端になりがちな私の尻を叩いて私の歴史研究を前進させてくれた、パートナーの八杉の存在だったことは間違いないが、その遠因は、ある本の執筆を引き受けたことにある。この文章を書いている最大の理由は、私を歴史家にした、K.ゲーデル著、林晋・八杉満利子訳と解説、岩波文庫「ゲーデル 不完全性定理」という本について書いておきたかったからである。

ある長距離通勤者の二重生活

私が長年勤めた神戸大工学部を辞めようと思った理由はいろいろあるが、最大の理由は、京都-神戸間の長距離通勤に疲れ果てたからだった。若いころは長距離の列車通勤もなかなかよかったのだが、50才近くなったころから、電車を降りても体に振動のような痺れを感じるようになり限界だなと思った。転職のきっかけは、神戸大の雰囲気に違和感をもったこともあるが、通勤の問題に比べればそれは小さな理由だった。だから、通勤距離さえ近ければ贅沢を言う気はなかった。それが家から近いだけでなく、歴史を正式の仕事の一部としてできる職場がみつかったのだから、本人も驚くはずである。

私は、数理論理学で学位を得て以来、主に工学系の職場を転々としていたが、正直に言うと、40代半ばくらいからは、研究時間の大半は数学史に費やすようになっていたのである。そのころの私は応用数学と情報学の教師であり研究者だったから、これは職場ではあまり大きな声でいうべきことではなかった。

本業の情報の研究でも、それまでと比較して見劣りがするような仕事はしていなかったつもりだし、教育も人一倍やったので、この「二重生活」はかなりシンドかった。漫画パーマンに出てくるコピーロボットが数台あったらなあ、と子供みたいなことをいつも考えていたことを思い出す。

もちろん、数学史を仕事にしてしまえれば問題はないのであるが、理工系畑ばかりを歩んできた自分のような研究者が、歴史を研究したり教えたりすることができるポジションがあるとは思えなかった。歴史で給料をもらえるのは、せいぜい非常勤講師くらい(これはたまにやっていた)、情報学でキャリアを維持し、歴史はいくら時間と労力を傾けようとも、表向きは趣味ということにして、まあ、せいぜいが数学・情報教育のための糧だということにしてやっていくしかないだろうと覚悟を決めていた。

そういう頃、毎日のようにチェックしていた研究者公募サイトで目にしたのが、現在の職の公募情報だった。その内容は「情報と社会の関連を考えることができる、情報の専門家で、歴史学への情報技術の応用にも興味を持てば尚良い」というものだった。

偶然にも、そのころ私は専門分野の情報でも、理系オンリーの研究から、社会学系の研究にシフトし始めていた。長年、研究を続けていた形式的技法において「仕様のバグ」という問題に突き当たり、自分の過去のアプローチを否定する論文を書いたものの、では、どうすればよいのかというとわからない。小さい洒落たアイデアは考え付くのだが、それが抜本的解決策になるとはとても思えない。

社会学アプローチ

そういう具合で難渋していたのだが、米国の社会学者リッツァーのベストセラーを、たまたま神戸大の生協で立ち読みしたのがきっかけで、この問題が社会学の合理性理論と関連があることに気づいたのである。それは数理論理学をやっていたころからの最大の積み残しの問題で、恩師前原昭二先生との因縁もある、「形式化の問題」と本質的に同じ問題であった。

私は、科学者としては保守的な意見の持ち主であったので、理工学系を突き破って文系的解決法を求めるという「非常識」など思いもつかなかった。後になって気がついてみると、私が現在使っている理論とは異なる理論を使ったものながら、同じような社会学的アプローチは、世界中で読まれている Ian Sommerville 教授のソフトウェア工学の教科書の最新版で取り上げられていた。Sommerville 自身がコンサルタントとして情報システム開発の現場でそういうアプローチを試みていたのである。また、古い知人の J. Gougen さんも情報学の社会学的アプローチを開拓していることがわかった。

後に、Gougenさんと話してみてわかったのだが、私が、この問題に気がついた頃には、こういうアプローチは、相当古くから存在するものの、まだ極く一部のサークルでしか論じられていなかったらしい。その状況が大きく変わったのは、おそらく、Agile 法や要求工学が脚光を浴びるようになったからだろう。

社会学的アプローチへの私の転換が遅れたことへの言い訳は兎も角、この公募を見つけたころ、歴史研究のおかげで、文系と理系の間の垣根が意味のないものであることを理解できるようになっていた私は、現実的な工学的問題解決のためには、「文系」の理論や手法、特にウェーバー社会学の合理性理論のようなものを使うしかないと「決断」していたのである。そして、この新しい問題意識をもって、新しい方向に歩み始めてもいた。この問題意識は、まさに公募の第一条件に合致していた。というより、おそらく私が目指していた(いる)方向は、公募の意図より、さらに深い文系と理系の融合を必要とするものなのである。文系・理系などと言っていたら、現在の「情報化社会」における超高速でグローバル化した競争を勝ち抜けない。そういう時点にまで、我々の社会は到達してしまっているのである。さらに、そのころ、たまたま神戸大の日米外交史の研究者のお手伝いをして、日米暗号戦のことを調べており、その関係で補足的な第2条件さえもクリアしていた。

そして、結果として、私は京大文学部創設以来初めての公募だったという、この職を得ることができた。それは職場が家に近いばかりでなく、歴史を仕事と言っても何にもはばかることがなく、情報学も正式の仕事として維持できて、しかも、人文系の学部としては世界でもトップクラスという場所だった。採用の通知を受けたときは「夢のような話で信じられない」という気持ちは現実にあるのだなと思ったものである。

幸運をもたらしたもの

この幸運の直接の原因は、私が半ば歴史家と化し、そのために本業の情報学でも文系シフトを起こしていたからであるが、その遠因は、最初にも書いたある本、2006年の9月に上梓した、K.ゲーデル著、林晋・八杉満利子訳と解説、岩波文庫「ゲーデル 不完全性定理」を執筆したことであったのは間違いない。これは50ページ弱の訳文に、10ページほどの訳注と、230ページほどの解説がついているという、岩波文庫としては「異形」の本である。しかも、その解説の大半を占めているのは、ゲーデルの論文の説明やゲーデル自身の逸話ではなく、ゲーデルがその可能性を否定したヒルベルト・プログラムの生みの親、D.ヒルベルトを中心にしたゲーデル前の数学基礎論史なのである。

こういう形の本を岩波文庫の一冊として出版したことについて、今までに多くの反応を頂いた。この文章を書くことにしたのは、岩波書店からの、この本の執筆依頼、特に宮崎さんからの依頼が、私を私本来の方向に導いてくれたということを書いておきたかったことと、この本への多くの方の様々な反応が、現在の日本の出版界・読書界が抱えている問題を考える上で、大変面白いので、それを自分だけが知っているのは勿体無いと思ったからである。ということで、これ以下に、どうして、この「異形」の本ができたのか、また、それに読者の人たちは、どのような反応したかということなど書きたいと思う。

執筆の発端 -目を覚ました歴史の虫-

二つ前の職場だった龍谷大学理工学部にいた時だから、もう10数年前のことになる。岩波文庫編集部の宮内久男さんの勧めで書いた「ゲーデルの謎を解く」という、私としては最初の一般向けの本が出版されて暫くたったころだった。

宮内さんと電話で話していて「ゲーデルの不完全性定理の論文を岩波文庫のために翻訳しませんか?20世紀が終わるまでに科学史に残る代表的科学論文を岩波文庫に入れたいのです」というお話があったのだと記憶している。これが20世紀の代表的科学論文を全部という話だったのか、もっと遡って19世紀以前の論文もという話だったのか、記憶が手繰れない。残念ながら宮内さんは亡くなってしまったので、確認することもできない。

ただ、アインシュタインの特殊相対性理論の論文の訳と解説が岩波文庫の一冊になっており、これが大変評判がよい。同じように書いてもらえないだろうか、というような話だった。そのころの私は、まだまだキャリヤ構築に汲々としていたので、そんな暇はない、第一、高校までの物理の知識を使える特殊相対性理論と、一般の読者にそういう教育の背景が殆ど期待できない不完全性定理では、本質的に異なる。あんな難しいものを岩波文庫のために解説するのは無理です、と言って一度はお断りした。

ところが暫くして段々我慢ができなくなったのである。心の底がムズムズする感じと言えばよいだろうか。「ゲーデルの謎を解く」では歴史の話はほとんど書かなかった。自分の歴史の知識は未熟だ、それを元に書くと危険だと思ったので、詳しい史料が残っている事件を、少々デフォルメしてイントロに使った以外は意識的に歴史を排除して書いたのである。それが却って「歴史の虫」の欲求不満を引き起こしてしまったらしい。

実は私は昔「歴史大好き少年」だったのである。好みに原因を求めても仕方がないかもしれないが、私自身は、そのきっかけは、中学生のころ、兄が持っていた高校生用の参考書に、「十字軍発生の真因は、ヨーロッパ人が香料を求めたことにある」という記述を見たことあると思っている。この時の「歴史が論理で動いている。説明できる」という事を知ったショックの記憶は、中学の最初の数学の授業で「対頂角の角度は等しい」という幾何学の定理の証明を聞いた時のことと並び、私の記憶の中では特別明瞭に残っている。

漸く色々なことがわかるようになった今から思えば、若いころに数理論理学を志したのも、実はこういう嗜好から発していて、それは数学的な興味というよりは、「哲学的」とよぶべきものだったのだとわかる。しかし、そういうことは、鈍い私には容易に分からなかった。分かってきたのは、50歳に近くなってのことなのだから、随分鈍い人間なのだと自分で思う。

しかし、本能とでもいうべきか、頭の天辺や表面では分からなくても、深層心理というか、嗜好は正直らしい。数理論理学で学位は取ったが、修士論文を書いた後に数理論理学が嫌になったのである。数理論理学を志したのは、高校生の時に、たまたま手にしたゲーデルの不完全性定理の小冊子がきっかけだったと記憶している。

小学生のころロケット技術者になりたかった私は、そのためには、物理が必要だと知って、物理の一般向け本を読み始め、物理を勉強し始めたら、今度は数学だ、数学を始めたら、今度はその基礎だ、という風に、基礎へ基礎へと進んでいった。

もともと子供や少年では能力があるのかどうかを判断するのが困難な工学は別として、物理も、数学も、要するに才能がなかったのである。才能がないので理解ができない。しかし、それを認めるのが嫌なために、その基礎に「逃避」していたのだろう。幸い、その最後の「数学の基礎」については、ある程度の才能があったらしく、一流には程遠いものの大学院生のころには平均的研究者のレベルよりは少し上といえる位のレベルに達した。

いまから思えば、ロケット工学から数学の基礎まで、それは私にとっては、ソフトウェア工学でいう「シルバーブリット」のようなものであり、すべての「切り札」であった。それは世界でもっとも重要なものであり、それさえできれば、ほかの事はどうでもよい。まあ、そういうものだと信じていたのだと思う。今から思えば実に幼稚な考えだが、若いということは、そういう未熟で歪なものなのだと思う。

数学者とはいえない人

そういう私にとっては、「数学の基礎」は特別な学問に思えた。物理や工学は多くの偉大な事業を達成している。そして、数学はそれを支えている。しかし、その数学の「基」(もとい)が数学基礎論なのである。自然数を集合を使って定義できると知ったときには、大変興奮した。しかも、それがほとんど知られていないところがよかったのだと思う。実に馬鹿なことだが、自分の周囲は無知ながら、自分だけが世界の「根幹」の秘密を知っているかのような気持ちになっていたのである。まるで、自分の掌の上に世界を載せたような気分になっていたのだと思う。

こういう欲望を持つ人間と、「数学の基礎」の親和性は特に高い。私と同じような道をたどった人は他にも少なからずいる。有名な所では、バートランド・ラッセルがそうだ。彼の伝記を読むと、私と同じような心の動きが見て取れる。ただし、ラッセルの場合は、数の定義を始め、数学の基礎を自分で作り出していったのだから、その興奮は、ラッセルが作り出したものを単に勉強しただけの私のものとは比較にならない位大きかったはずだ。

しかし、数学基礎論の専門家と言えるようになってみると、何か勝手がちがうのである。ちっとも「世界の秘密」とか「人生の秘密」を追求しているという感じがしない。困難な問題を解決するのは、確かに面白いが、パズルを解くのと何が違うのか全然わからない。

まあ、色々と理由をつけてみるのだが、自分で考えたことなのに余所余所しい。正直な自分の気持ちは、それが解けたからといって、だからお前にとって何なんだ、本当に、それを面白いと思っているのか、そうじゃないだろう?数学者ぶっているだけではないのか、とささやくのである。

そういうような次第で、数理論理学は止めにして、一度は数学史に転向を企てた。しかし、これは実現せず、色々なことがあって、結局、計算機科学者(情報科学の特にソフトウェア関係の研究者のこと)になった。それなりの国際的評価に半ば満足し、また半ば不満をもちつつ、計算機科学者としてのさらなるキャリア構築を目指して日々の仕事の忙しさに追われる。宮内さんに岩波文庫の仕事を持ちかけられたのは、そういう頃だった。もちろん、歴史のことはすっかり忘れ去っていた。

ある編集者の慧眼

ところが、本当の気持ちを根絶やしにすることは難しいらしい。宮内さんからの誘いに、死に絶えていた筈の歴史の虫が生き返ってしまったらしいのである。情報科学者としての、私からすると、そんなことは重要な仕事ではない、キャリア構築にはむしろ邪魔になるかもしれないとも思った。しかし、結局、どうしても我慢できず、宮内さんに「気が変わりました。やらせてください」と電話をしたのである。その時の宮内さんの楽しそうな笑い声が今も印象強く耳に残っている。

実は宮内さんと直接にあったのは、たった一度だけで、それもちょっと挨拶を交わしただけだった。だから、申し訳ないことに、お顔を全く思い出せない。グレーのスーツを着ておられたように思う。それだけがイメージに残っているが、実は色は唯の思い込みかもしれない。後はすべて電話でのお付き合いだった。

そんな風な「軽い」付き合いだから、「ゲーデルの謎を解く」の執筆の依頼を、電話で受けたときも、「えっ。何で僕なの」という気がしたものだ。多くの編集者の方と付き合うようになった今となって分かるのだが、私の論文、著作、講演などを通して、どうも本人さえ分かっていないというか、本人が無意識に隠そうとさえしていた本当の興味を、宮内さんはシッカリ見透かしていたとしか思えない。優秀な編集者には、そういう能力があるのだと思う。宮内さんの慧眼が、私が私本来の世界に戻るきっかけを作ってくれたのである。

岩波文庫「不完全性定理」の仕事に際しての、宮内さんのリクエストは二つで、「数学基礎論論争が面白い。あれを読みたい」、そして「読者は翻訳の部分は読めず、解説を読むのだと思って書いて欲しい」だったと思う。

後の方のリクエストは、もしかしたら、現在も岩波文庫の編集長の塩尻さんのものだったかもしれない。当時、塩尻さんは文庫のセクションに移動したばかりだったが、執筆の相談のために、わざわざ私の勤務地である滋賀県瀬田の龍谷大学理工学部までたずねてきてくださって、色々と詳細をつめた。

アインシュタイン・内山本

書き方としては、内山龍雄訳・解説で1988年に出版された「アインシュタイン相対性理論」をモデルにする。執筆期間としては、3年が目処、それ以上かかるようだと結局は出ないということだろう。と、いうようなことを話しあった。

この岩波文庫「相対性理論」は訳文が47ページしかないが、訳者内山氏の補注と解説が2倍以上の130ページ近くもあるという、私が知る岩波文庫とは全く異なる異例の構成であった。アインシュタインの著作というより、まるで訳者の本ではないかと思ったが、内山さんという方は、日本の相対論研究者としては代表的な有名な方だということだった。まだまだ、若手といえた、私が、そういう内山さんと同じ条件で仕事をさせてもらえるということは、実に光栄なことだった。

私の目処では、その仕事に、3年は必要なく、1,2年で十分であった。実際、訳は、さっさっとできた。しかし、問題は解説だった。まず、問題は最初の予想の通りで、相対論に必要な数学の知識を前提してよい内山さんの場合と違い、私の場合は、記号論理学を読者が知っていると前提するには無理があった。相対論に必要な数学は高校の数学延長であり、ほぼ理系の大学初年級の数学の範囲に収まるものであったが、ゲーデルの不完全性定理を理解するのに必要な数理論理学を教えているところは、大学でもそう多くはない。つまり、内山さんの解説と同じ位のページ数を使い、同じ位の深さで、同じ位多数の読者に、ゲーデルの定理の数学的仕組みを理解してもらうということは、もともと無謀なのである。実際、少し書いてみると、すぐに膨大なページ数になってしまう。

宮内さんのリクエストは「読者は解説を読むのだと思ってほしい」「数学基礎論論争について読みたい」であった。数学的にわかるように書いてほしいというリクエストではなかったのである。そこで、思い切って歴史的経緯の解説を中心とすることにした。長くとも訳文の3倍程度の解説、その内容は、歴史を主にして、形式系の解説も少しつける。これが当初の計画となった。 数学基礎論の歴史は良く知られている。解説書も沢山ある。それを幾つか読めば、数学基礎論史の内容に関しては完璧で、あとは、それを、どう料理するかで楽しめる。まあ、そういう風に「安易」に思っていた。だから、1,2年で十分なはずだったのである。

外れた目算

しかし、始めてみると目算が完全に外れた。数学基礎論の歴史が良く知られているなどというのは、私の幻想だったのである。解説を書くために文章化していくと、本を読んだり、先輩研究者たちから聞いて知っていた「歴史」と現実の歴史資料がどんどん矛盾し始めた。時間的順序が合わない。原典に当たってみると信じていることと全く違うことが書いてある…。

そこまでしなくても、海外の解説書などを少し丁寧に読んでみるだけで、日本で広まっていた「数学基礎論史観」と同じことなど、どこにも書いてないことがわかる。日本国内の一般向けの数学基礎論史の著者や、私もその一人であった数理論理学の研究者たちの間に定着していた「数学基礎論史観」は、どうやら日本の数理論理学の先輩研究者たちが「発明」したものらしいのである。

伝統とか歴史というものは、「現代の都合」により創造される。つまり現代の有様を歴史によって正当化し、自らを伝統の継承者として「正統化」するための手段として使われる。そのために歴史や伝統というものは、後で「創造」されることが多いのである。悪く言えば、それは捏造であるが、意識的に捏造されるというようなことは通常はあまりない。多くの場合はwishful thinking 希望的観測とか願望的思考というやつである。つまり、無意識に自分に都合のよい風に考えてしまうのである。

日本の歴史上、最大の論理学者である竹内外史先生や、そのお弟子さんたちにより固く信じられ、また、私もいわば竹内先生の孫弟子として信じていた通俗的数学基礎論史は、第2次世界大戦後に竹内・前原など、多くの才能の活躍により隆盛を極めた日本の証明論の仕事を「正統化」するのに都合よくできていた。しかし、少し調べてみるだけで、それは冷静な歴史学の視線には耐え得ないものだということがわかったのである。

日本の「標準的歴史観」が実にいい加減であり、多くの「入門書」の記載が垂れ流される世間話程度の正確さしかないことには、何十年も何も疑うことなく信じていただけに大変吃驚した。これは他の人にも伝えなくてはと考え、数理論理学者の人たちの「数学基礎論史観」はどんなものかアンケートをとって調査した結果を「数学セミナー」に書いたり、日本数学会で発表したりしたものである。アンケートをやってみると、平均より私の理解の方がはるかに「毒されて」いることがわかり閉口した。こういうことをきっかけに、私は歴史研究の面白さに目覚め、段々と本格的な歴史研究に手を染めるようになっていったのである。

ゲーデルの歴史観

そのころすでにゲーデルの全集の刊行が進んでいたが、私が歴史研究を本格化するころには、その全集編纂の実質的中心だった Dawson による "Logical Dilemmas" という伝記が出版された(1997年)。この本は、殆どの主張に、歴史資料による根拠がついているという恐るべき本で、ゲーデルについての歴史研究は、独文英文対訳の全集と、この本で、殆ど終わってしまったという感があった。実際には、ゲーデルの数学思想がどんなものであったかを、そこから読み解くという作業が残っていたし、今もまだ残っているのだが、とにかく印刷物だけで研究が進むようになっていたし、ゲーデルに関する多くのことが、Dawson の本を読むだけでわかるようになっていたのである。

これは駆け出しの歴史家としての私にとっては大変ありがたいことだった。「戦後日本版数学基礎論史観」とでも呼ぶべき、通俗史観を捨てた私は、新しい「史観」作り上げる必要があったが、この本来ならば大変な仕事が、少なくとも、数学基礎論史の全体を数学史・思想史の中でどういう位置に置くかという、一番の基本の問題に限っては、ゲーデルの全集を読むことだけで、殆どできあがってしまったからである。

ゲーデルの哲学的論文にゲーデルの歴史観が埋め込まれていたのである。そして、その歴史観は、実にシンプルで、まあ哲学の専門家が見たら「幼稚」というかもしれないが、しかし、大変に自然で力強いものだったのである。私は、それを掘り起こすことにより、比較的容易に「新しい」(本当は「戦後日本版数学基礎論史観」より古い)歴史観を作り上げることができた。要するに、私はゲーデルのように(と私が思うように!)考えるようになったのである。

私は、私の歴史観は、後で述べる、計算と論理の問題を除けば、ほぼゲーデルの歴史観の受け売りだと思っている。(岩波文庫の解説でも、ほんの少し書いておいたが、ゲーデルの歴史観は、驚くほどウェーバーの「近代化史観」に似通っていた。ただし、ゲーデルは「近代化」でなく、「右から左への傾向の変化」として、それを説明していたが。)

ヒルベルトへの関心

しかし、私の歴史研究が本格化するに従い、その研究の中心は、ゲーデルからヒルベルトに移っていった。私は歴史研究を始めるまでヒルベルトが嫌いだった。私のヒーローはアンチ主流派、アンチ現代数学の直観主義者ブラウワーだったのである。若いころ数学史家になろうとしたときも、その研究対象はブラウワーにすることに決めていた。しかし、調べていくとヒルベルトの重要さがドンドン見えてくる。そして、翻訳した論文の著者であるゲーデルより、ヒルベルトの方が遥かに巨大な人物に見えてきたのである。

もちろん、ヒルベルトの数学思想の「基本原理」とでもいうべき「無矛盾性証明」と「算術公理系の完全性」は、ゲーデルにより否定された。そのゲーデル後の現代の我々からみれば、ヒルベルトの思想に比べてゲーデルの思想の方が遥かに自然かつ偉大に見える。しかしながら、これはゲーデルがヒルベルトより数学思想家として、より巨大な存在であるいうことを意味しないのである。それはゲーデルがヒルベルトより、「遥かに」後の世代の数学者であるからだ。

これはおそらくゲーデルが誰よりも熟知していたのではないかと私は推測している。ゲーデルの思想のお膳立ては、すべてヒルベルトによってなされたといってよい。これはゲーデルの数学的業績については、よく言われることで、竹内外史先生が強調されていたこともある。たとえば連続体仮説・選択公理の無矛盾性証明は、ヒルベルトの「無限について」の連続体仮説の「証明」を合理化したものである。私の印象では、ゲーデルはヒルベルトの肩の上に足をかけて一飛びするようにして研究を行った人にみえる。そして、数学思想についても同じようなことがいえるのである。

ゲーデルは、ヒルベルトやその先駆者たちが整備した現代数学と現代論理学の思想空間の中で数理論理学者として生まれた人である。つまり、それ以前のしがらみを忘れ、それをあたり前のものとして眺めることができる位置にいた。ゲーデルは、外から、あるいは後ろに回りこむようにして、見つめるという「傍観者の視線」を持ちえた世代に属している。

これと違って、19世紀数学方法論革命の最終走者としてのヒルベルトには、それは自身の実存にかかわる問題でさえあったと思われる。ゲーデルやベルナイス、ノイマン、ハイティングたちの世代と、ラッセル、ヒルベルト、ブラウワー、ワイルまでの世代では、数学思想へのかかわり方が大きく違う。前者は後者の闘争の炎が収まった灰燼の中から現代的数学基礎論を作り上げた世代であり、属する時代が全く違うのである。ゲーデルの数理哲学の素晴らしい素直さ自然さ合理性は、ヒルベルトのように感情的にならないで済んだ「クール」な世代だからこそ可能だったのではないかという気がする。

Laugwitz

このような次第で、私はどんどん、ヒルベルトの研究に没頭していくようになった。しかし、これにも3つの偶然的きっかけがあったように思う。一つはドイツの数学者で数学史家のD. Laugwitz が著したリーマンの伝記を見つけたことである。これは八杉と一緒にスタンフォード大学の本屋で本を眺めているときに、たまたま、見つけたものである。面白い本ないね、ということで、本棚の前を立ち去ろうかとしたとき、本棚の下の方に、なんだか気になる本があったのである。そこで、しゃがみ込んで棚から引き出して読んでみると何だかわからないのに電流が走った。

早速、買ってきて詳しく読んでみると、カントールの歴史的位置を意識的に軽く扱うなど、個性的な著書であったが、この著作には、一つ極めて重要な科学社会学的視点が盛られてあった。カントール集合論を軽く扱うことは、数学の算術化や数学基礎論を数学の現代化・標準化として捉える私の歴史観からすると、科学社会学的に大きな間違いなので、Laugwitz という人が科学社会学的視点の持ち主なのかには疑問が残るのだが、現実問題として、彼の「計算数学vs 概念数学」という問題提起は、科学社会学的に見て実に重要なものだったのである。

私は、それを、ヴィエタ、デカルトの記号代数学に始まり、ライプニッツ、ニュートン、テイラー、オイラーの系譜上にある無限代数学としての微積分学計算(calculus) としての、紙と手と頭脳による数式計算にもとづく数学が、その大成功ゆえに、その方法論的限界、つまり飽和状態に達した現象と理解した。そうすると Laugwitz の著作では、これもカントール同様に副次的な扱いであったヒルベルトの存在が、Laugwtiz が考えた以上に重要になるのである。詳しいことは、ここでは書けないが、私流に改変した、この Laugwitz の視点は、ゲーデル史観の俯瞰図に見事に適合したのである。

不変式論

しかし、この「適合」を理解するには、もう一つの偶然により、Laugwitz が何故か無視してしまったヒルベルトの不変式論の歴史的重要性に気づく必要があった。それが Laugwitz を読む前だったか後だったか、おそらくは前だったと思うのだが、Laugwitz をいつ読んだのかが思い出せないために、正確にはわからないのだが、記録の日付を色々比べてみると、いずれも、1999から2000年のことで、殆ど同時に起きたようだ。

それは生まれて初めて歴史で給料をもらったときのことであった。山口昌哉先生を通して面識のあった広島大学(当時は東大と兼任)の三村さんに、広大の数学科で数学史の集中講義をしてもらいたいという依頼を受けた。数学史をやっていることは、私の職場の神戸大工学部では知られていなかったが、数学者の間ではかなり知られるようになっていたのである。

私は喜び勇んで新広島の広島大学に出かけた。この時の講義は、学生さんたちの意欲がすばらしく、大変楽しいものだった。その時、階段教室の一番後ろの右手の方に遠慮勝ちに座っていたのが、代数幾何学が専門の広大数学科講師(当時)の木村俊一さんだった。熱心に私の歴史の講義を聴いてくれて木村さんは、ゲーデルもでてくる入門書を書いていて驚かされたが、大変話が合い、講義の合間に木村さんの研究室で色々な楽しい話をした。その時に、木村さんが「変な」ことを言い出したのである。

ヒルベルトの不変式論、特に有限基底定理の話がヒルベルト計画とそっくりではないかというのである。非計算的な手法による有限基底定理の話は、C. Reid さんのヒルベルトの伝記では有名な部分だから、当然知っていたし、若いころに直観主義数学の証明論などやっていた私には気になる部分ではあったのだが、それがどんなものかは不勉強なことに全く知らなかった。最初に聞いたときは、正直の所、「もしかして、木村さんて、変な人なのかな」と少し及び腰になったような記憶もあるが、木村さんの基礎論理解は、しっかりしたものだったし、それに前から気になっていたことだったので、家に帰ってからちょっと調べてみることにした。

幸い1993年に、ヒルベルトが1897年に行った不変式論講義の英訳が出版されているのが見つかり、早速これを読んでみて…、息を呑んだ!信じられないものを見たのである。それは、直観主義数学の研究者には、「ブラウワーの議論」として知られていた、円周率の小数点展開の中に123456789という数字列が現れるかというのと、本質的に同じ問題、10個の引き続く1が現れるか、という問題をヒルベルトが議論していたのである。そして、それは木村さんの指摘の有限基底定理の数学的意義を説明するために使われていたのである。このときブラウワーは、まだ16歳である。そして、そこに展開されていたLaugwitz 的な「数学方法論としての計算と思考の問題」への視点はブラウワーのそれより遥かに自然なものだったのである。これでヒルベルトが非常に重要なファクターとなって、ゲーデルと Laugwitz の史観を結びつけることになった。

ヒルベルト不変式論と数学基礎論史が結びつくことは、それまで真面目な歴史学の立場から発言をした人は一人もいなかった。後になって、そういうことを知り合いの米国人論理学者が指摘していることを知ったが、それは入門的論文の前書きに書かれているもので想像の域を超える議論ではなかった。つまり、私は始めて真に意味のある数学史の新知見を得たのである。このことに自信を得て、また、この新知見の根拠を確かなものにするために、私と八杉は、ヒルベルトの遺稿集を調査するために、ゲッチンゲン大学図書館を訪れることにした。そして、そこでヒルベルトが計算の問題に深くかかわっていたというLaugwitz 的テーゼが、彼の不変式論の時代をルーツにしているという証拠を幾つか見つけることになったのである。研究のために、遺稿集のコピーを大量に買い付け、その額は数十万円にもなった。もちろん「趣味の研究」なので、二人分の旅費も資料費もすべて自腹だったが、日本に送る資料のコピーを八杉と一緒にゲッチンゲン駅前の郵便局に運んだときの楽しさは格別であった。一番楽しい研究というのは、自分の知的好奇心を満たすために自腹を切って自分のものとしてやる研究なのだと思う。このようにして、私は、さらに歴史家らしくなっていったのである。

学習理論!

そして、この後、私はもう一つの驚くべき偶然を経験することになる。それはこれも山口人脈で知っていた北大の西浦さんに呼ばれて、北大で歴史の話をすることなったときのことだった。そして、これが後に今も続けているヒルベルト数学ノートの研究に結びつくのだが、それは、一度は、皮肉にも私を歴史研究から遠ざけることとなった。

1990年代の終わりころ、本業では「証明アニメーション」というものを提案して、それを何とか実用化する方法はないかと、既知の理論を色々と適用してみていたが、理屈上はうまくいくはずが、実際にやってみると結果は思わしくないということが続いていた。そして、最後の切り札として残っていたのが、イタリアの論理学者 S. Berardi 氏の理論だった。Berardi 氏の論文は面白いアイデアに富んでいるのだが、書き方が乱雑で読めたものではなかった。その困難な解析を実際にやってくれていたのは、院生の中田君であるが、彼が説明してくれた Berardi 理論における議論が、なんと1897年のヒルベルトの基底定理の証明の説明の仕方とそっくりだったのである。

これには非常に面食らった。それまでは全く関係のない研究だったのである。片方は、数学史の話であり、もう一方は情報科学・工学の話なのである。実はこのときも、ただの他人の空似だろうと高をくくっていたようなところがあった。しかし、サービス精神旺盛な(?)私は、こんな変な附合がありますと、北大の講演の際に、それを話したのである。

その講演は10数年ぶりかに合った山本章博さんが聞きにきてくれていたのだが、講演の後、驚いたことに、彼は、それがどちらも計算論的学習理論でいうinductive inference であると指摘してくれたのである。私は学習理論というのは、山本さんの先生だった九大の有川先生やら山本さんがやっているAIの一分野という位の知識しかなく、inductive inference が何かということも全然知らなかった。しかし、山本さんに言わせると、私の講演を聞いて、てっきり私がその概念を知っていて話したのだと思ったそうだ。

この指摘がきっかけで、私は LCM と名づけた新しい数理論理学の理論を、共同研究者たちと建設することになった。そしてお先真っ暗だった証明アニメーションにも目処がついたのである。この理論は、山本さんのお陰もあって、学習理論の人などからも興味を持っていただき、計算論的学習理論の国際会議の老舗の一つである ALT で招待講演をさせていただいたりした。しかし、こういうものが見つかり、興味をもってくれる共同研究者が何人もできると、こちらが本業であるだけに、こちらを中心にせざるを得ない。これ以外にUMLの開発ツールという、「こてこて」のソフトウェア工学のプロジェクトもやっていたので、ますます時間が足りない。しかも、このころ神戸大の中の色々な仕事が振ってきて、睡眠時間3時間などといのはざらという状態に陥ってしまった。しかし、プロジェクトだけは、どんどん進み、すばらしい結果が得られていたのである。だが歴史ができない…。残念なことに歴史研究は数年、ほぼ開店休業状態に追い込まれた。

再び歴史へ

と、こういう状況のときに見つけたのが、京大文学研究科の公募だったのである。京大文学研究科・文学部における最初の特殊講義は、もちろん、このヒルベルト研究を紹介するものとなった。聴講者には哲学・科学哲学・科学史などの院生が多く、私は久しぶりに編集を始めた岩波文庫の原稿を資料として講義を行った。原稿は色々と調べたために膨大なものになっており、しかも自分自身では、とてもまとめ切れなくなっていた。そこで実質的な共同研究者であった八杉に共著者になってもらい、肝心な部分のみを残してバッサリきってもらうことにした。この結果、原稿はかなりコンパクトになり、解説は何とか訳文の3-4倍程度で済みそうであった。高校までで、すでに必要なバックグラウンドの半分位は学習していると思われる特殊相対論の場合が、2.5倍程度だから、そういうものが殆ど期待でき無い不完全性定理の場合が3-4倍なら塩尻さんも何とか許容してくれるのではないかと思っていた。

しかし、その予定は、またもや覆ってしまった。確かもう蒸し暑くなった6月くらいだったと思う。講義準備のために調べたヒルベルトの資料の中から、トンでもないものを見つけてしまったのである。木村さんに指摘されたヒルベルトの不変式論の証明論への影響は、私の研究の成果からすると、ほぼ間違いなさそうであった。詳細にヒルベルトの書いたものを検討すると、彼自身がそれをほのめかした場所が1917年以後の後期形式主義の時代に幾つか見つかるのである。それからするとヒルベルト計画全体が数学の無矛盾性を保障するという現在信じられているような単純な目的のためにあるとは思えなかった。それは1897年の講義で論じられたような計算と証明の問題にかかわるものだとしか見えなかった。しかし、それには直接的な証拠はなかったし、ヒルベルトが数学基礎論的なことを不変式論の時代に考えていたという形跡は何も無かった。この時代の思考は、あくまで通常数学の方法論の問題であろう、そして、その記憶に1897年のカントール・パラドックスが作用して、彼の数学基礎論が生まれたに違いないというのが、私の予想だった。つまり、カントール・パラドックス出現までは、ヒルベルトは数学の方法論に深くかかわる数学を行っていたが、あくまでそれは個々の数学を行うときの「心得」のようなものだったろうと思っていたのである。

今、考えると、これは又もや私の常識的保守癖に毒された当たり障りの無い意見であったと思う。しかし、その「常識」を軽々と吹き飛ばすものを見つけてしまったのである。この経緯は、2007年5月号の数学セミナーに少し書いたし、実は、この文章は、その「付録」のような位置づけで書いている。だから、またもや、出版社に気を使うという常識癖を発揮して(^^;)、ここでは、そのことは省略する。(実は、同じことを書くのが面倒だという理由もかなり大きい。何ヶ月かたったら、数学セミナーの記事を、この web page に掲載させてもらう予定である。2022.09.05追記:こちらがそのpdfファイル)

可解性原理

その時見つけたもの。それはヒルベルトが不変式論の時代にすでに「数学に不可知論はない」という、後のパリ講演で宣言することになる「数学の可解性原理」を、彼の数学者としてのキャリヤの最初から信じており、しかも、それをカント哲学と関連づけながらも、数学的問題としても定式化していたという事実であった。この発見した資料は、岩波文庫の解説や、数学セミナーの記事にも掲載したが、より詳しいものが、https://shayashiyasugi.com/wwwshayashijp/HistoryOfFOM/HilbertNotebookProjectHomepage/index.htmlにある。

さらに驚いたことに、ヒルベルトの最初の「可解性原理」は、私が彼の有限基底定理の証明を見て定式化していた学習理論的な排中律をそっくりなものだったのである。実際、少し後には、私の LCM 理論の意味で、これが彼の有限基底定理と「同値」であることが判明した。

私の常識的仮説はぶっ飛んでしまったのである。その後の研究は疾風怒涛のように進んだ。仮説はぶっ飛んだが、真実がわかってみるとそれまで不思議だった色々なことが、ジクソーパズルのピースを嵌めていくように、ドンドン明快になっていった。これは私にとって、本当にすばらしい経験だったといえる。

そんなものでしょう

しかしである。この新しい発見を解説で書き始めると当然のことながら、今までの常識的知識を使えないために、解説が膨れ上がってしまうのである。それは岩波文庫の解説の第4章に対応し、結局、これが翻訳と同じ位の長さになってしまったのである。もちろん専門的研究結果を全部盛り込んだわけではない。通常は専門書や論文が書かれ、それを簡約化した解説が書かれる。この場合は、その専門書や論文を書くステップを実行しないままに簡約化した解説を先に書くことになってしまったのである。

結局、解説は訳文の5倍になってしまった。つまり、最後の段階で見つけた可解性についての分だけしっかり増えてしまったのである。試しに印刷した原稿の解説と訳文の大きさを比較しつつ、これはいくらなんでも塩尻さんもOKを出してくれないのではないかと考えた。選択肢は二つ、何とか削るか、岩波文庫としての出版をあきらめるかであった。前者はまず無理だと思われた。言いたいことは、まだまだ山のようにある。その中から厳選して、これだけは、というものだけを残していた。これ以上削っていくと、私のメッセージが読者に届かない。

私は最悪の場合は、後者を選ぶことにした。岩波文庫に自分の訳と解説が収録されることは嬉しいことだが、しかし、真実がわかったことを書かないまま本を出すことはできない。塩尻さんに削って欲しいといわれたら、岩波文庫は、あきらめて、解説を何倍かに増やすかして、どこかの出版社にお願いしてみよう。そう思って、恐る恐る塩尻さんに原稿を送った。

しかしである。私の常識癖は、今回も吹き飛んでしまったのである。塩尻さんはページ数のことを何にも言わない。もしかして、ページ数を数え間違えているのではと思い。解説が5倍もあるんですけど、あれでいいんでしょうか、と私の方から聞いてみた。塩尻さんは「内容が内容ですから、あんなものでしょう」と事も無げに答えたのである。

それまでに直接編集の方とお話をした経験などで、岩波書店の編集者が、平均的大学教師より学問的見識がありそうだとは思っていたが、まさかここまでとは、私の方がよっぽど研究というものへの誇りと自信が足りないのではないかと反省してしまった。それまで教育中心の大学にいる期間が長かったために、つい研究では贅沢を言ってはいけない、自分の我を通してはいけないという習性が身についてしまっていたのである。

読者の反応

という次第で、この解説が訳文の5倍もある「モンスター」は無事、2007年の9月に岩波文庫の一冊として出版された。塩尻さんや私の予想を覆し、この本は、その内容を考えると予想外に売れた。9月に発売されたのに、その年の岩波文庫の売り上げトップ10にギリギリで入ったのである。しかも、その年の新刊岩波文庫では唯一であった。

それだけ売れるということは、きっと色々な文句がくるだろう、特にヒルベルトのことが中心になっていること、解説が恐ろしく長いこと、この二つが内容のわからない読者から WEB上で批判されるに違いない。ゲーデルと数学基礎論史についてのBBSを主催していて、BBS荒らしを経験したことがあった私は、北海道の歯医者さんや、東京の個人タクシーの運転者さんなどの、すばらしい読者もいるものの、理解力が高い読者は WEB 上では声が小さく、良貨は悪貨に駆逐されるという法則どおり、自分が無知であることさえ理解できない読者たちに駆逐されてしまうという経験をしたことがあったので、今回も警戒をしていた。

ただし、今回は岩波文庫である。文字も小さく、翻訳も学問的厳密性を重んじる難解なもので、また、解説も少しついているだけの、原典だから、専門書よりも難しい位だ、というのが、私が学生のころの「常識」、すくなくとも、私の岩波文庫感だった。岩波文庫のカントや道元に挑戦して何度跳ね返されたことか。私の書棚にある岩波文庫「純粋理性批判」は、多分、3,4代目だと思う。買っては読めず。捨ててしまい。また、買うのだが、また読めない。まあ、そういうレベルの高いシリーズなのだから、そういうような批判は、今回は、超然と受け流して無視しようと思っていた。

実際、この本を書くときにイメージしていたのは、岩波文庫を最も読みこなせるはずの読者層、私が常日頃教えている京大の学生、特に院生、あるいは、それ以上の能力のある読者が、専門以外の読み物として読む。それが、私が執筆に際して常にイメージしていた読者像だったのである。そして、私の経験からすると、そういう読者は、ほんの一握りのはずで、後は格好だけつけて、実は無知な読者、しかも、本当に力を持っている読者に、それを敏感に察知してジェラシーを燃やすような読者のはずだった。実際、私は以前、自分のホームページで、そういう読者たちと闘った経験があったのである。

うれしい誤算

ところが、今回も予想がはずれた。よほど先を見る目が無いのだとおもう(^^;)。Amazon.co.jp など、Web 上の書評を読むと、私が心配したような反応は殆どなかったのである。そして、嬉しいことに、想定していたような読者たちが、すばらしい反応を示してくれたのである。そして、どうも読めていないな、と思えるような読者からの反応もすばらしいものだった。全力を尽くして書いたものは、すくなくともその努力だけは理解してもらえる。そしてそれに反応するだけの読者は、この国には、私が思っていたより遥かに多いらしい。これが私の現在の感想である。

最後に

読者たちの反応のなかには、今の出版界・読書界の状況を考えると、考え込まずにはいられないようなものも、幾つかあった。私の予想より、すばらしい読者は多かった。しかし、私たち著者や、出版業界が、「売れる」ということを目指しすぎて、読者を幻惑している面はないだろうか。また、読者も、努力せず、面白く読めるものが良い本だ、どんな知識でも、面白く簡単にわかるように書くべきだ、という間違えた前提で本や学問というものを考えていないだろうか。

それについて、色々と書くつもりだったのだが、どうもいつもの癖で長々と書きすぎてしまったので、今回は、一つだけ書くことにして、他は、別の機会に書くことにする。 それはある掲示板での書き込みだった。その掲示板は、かなり名前の売れたサイエンスライターの方を俎上に載せるのが目的だと私は理解した。そこに、凡そ、このような書き込みがあったのである。「この本(私と八杉の本)は、10年以上もかけている。いったい、どれだけの時間と労力が費やされたのだろう。頭が下がる。サイエンスライターの××の本との、この違いはいったい何なのだ?」

たしかに、そのサイエンスライターの人はいい加減なところがある。しかし、私はそのサイエンスライターの方を擁護したいのである。私の本に、どれくらいの膨大な労力と時間が費やされたかは、この文章で書いたことで理解していただけることと思う。今回の本は、私の今までの学者人生で、最も精力をつぎ込んだ作品である。ただし、これはまだ序の口である。これから学術的見地から見ても十分な証拠をビッシリと貼り付けた、学術文献を同じテーマで書かなくてはならない。それは当然、海外に発信して世界の研究者たちの批判を仰ぎ、それに生き残れるものでなくてはならない。その労力は、いままでのものと同等ではすまないだろう。

だから、これ位の労力で驚いてはいけないのである。これがたまたま最初に文庫で出版されたから、驚くことになったのだろうが、専門書をみて欲しい。ろくに印税も入らない専門書に専門家たちが投入する労力に比べれば、私の本などたいしたことはないのである。もちろん、サイエンスライターが書くものと比較などして欲しくない。いや、比較してはいけないのである。我々と、サイエンスライターの方たちを同じ「著者」として比較してはいけないのである。

Webの書き込みにあった「その違い」の答えは簡単なのである。私は大学の教員であり、専門家、つまり学者である。そのことにより定収がある。私は教育や研究に対して定収を得ることができるのである。そうだから、安心して研究ができる。今回の文庫は、私と八杉の本としては、異例なほどに印税の入る仕事であったが、少なくとも現在までにもらっている印税と、それまでにかけた必要経費を考えれば圧倒的な赤字である。海外旅費、資料費、そしてなにより何百冊という書籍。もし、私の時給まで考えれば、とんでもない赤字だろう。

それと同じことを、筆一本で生計を立てているサイエンスライターたちに要求したらどうなるだろうか?きっと、そういう風にして研究をしたいと思っているライターの人もかなり多いとは思う。しかし、それは経済的に無理なのだ。私は気の毒で、そういう人たちに私と同じことをしろとはいえない。その人たちの本を、たとえば、今回の私の本と比較しようとは思わない。(ただし、私の他の本には比較しても良い本が何冊かある。)そんなことをしていたら、サイエンスライターの人は、現代のような出版事情の中では生きて行けないのであるから。

読者の方にわかって欲しいのは、本には幾つも種類があるということである。著者にも、そして大学教授のような学者と呼ばれる人たちにも幾つもの種類があるということである。 中沢新一さんが文学賞もとったある本で、「珍しくこの本には2年もかかっていしまった」と書いているのを見て驚いたことがある。そのテーマは、私もこれから研究しようとしている京都学派に関するものであって、簡単なテーマではない。それが2年で終わるわけはないのである。案の上、着眼点は良いものの、中身は少し調べ始めた私にでもわかるような間違いに満ちていた。それは確かに文学賞に値するもので、学術書とはいえないものだった。

また、ある売れっ子の大学教授の方が、私は絶対、原稿の締切は守る、それが学者の基本だと書かれていたことがある。これは私には論外に思える。私が3年という約束(ただし口約束で契約ではない。私の経験では海外でも原稿が完成するまでは、学術書の契約を行うことはないようだ)を守っていたら、つまらない解説しか書けなかったはずである。私は学者ならば、出版日が決まっている雑誌の原稿は別として、原稿の締切を内容より優先すべきでないと思う。それでは、わざわざ印税や原稿料をもらわないでも生きていけるだけの、学者としての給料をもらっている我々の存在意義がなくなる。

私はマスコミで活躍する学者を否定する気は全くない。そういう人たちがいないと学問が社会に認知されない。だから、「マスコミ学者」は学界でも差別されるべきではなく、重要な存在として珍重されなくてはいけない。しかし、読者には、それがライターとしての「マスコミ学者」が書いたものか、我々のように、学問的内容をすべてに優先させようとする「退屈な専門家」の手になるものかを峻別できる力をつけて欲しい。そして、この二つを混同したり、同じものと考えたり、比較したりしないで欲しいのである。沢山売れる本が学問的にもすばらしい。テレビや新聞にでてくる学者の方が偉い、という風潮が、現代の日本には見られるが、これは全くの間違いなのだから。