ヒルベルトと20世紀数学
-公理主義とはなんだったか?- 改定版

はじめに

20世紀最後の今年はヒルベルトの「数学の問題」100周年にあたる。それはまた「公理主義」100周年でもある。この機会に20世紀数学の方向を決定づけた といわれるヒルベルトの数学とは何だったのか、「公理主義」とはなんだったのか、それは20世紀数学にとって何をもたらしたかを考えてみたい。

この論文は2000年度日本数学会年会企画特別講演(数学基礎論と歴史分科会)のレジュメを改定したものである。

公理主義, 公理論

本論に入る前に用語の整理をしておく。タイトルで公理主義という言葉を使った。これはほとんどすべての辞書・辞典に掲載されている言葉であり axiomatism という英訳が計算された辞書・辞典も少なくない。岩波数学辞典もその一つである。しかし、林が文献1で指摘したように、「公理主義」は日本においてしか使われない言葉であり、axiomatism も和製英語である。流行の言葉を使えば公理主義のグローバルスタンダードは公理論 axiomatics である。

公理論の原語は Axiomatik であり、Mathematik 数学、 Kritik 評論のように ik は「学」、「論」だが、大正の初めころは、Mystik 神秘説のように「説」 という訳もあった。当時の日本を代表する数理哲学者田邊元は、最初、 Axiomatik を「公理説」と訳したが、大正6年ころから「公理主義」と訳すよ うになる。これが「公理主義」の始まりである。この用語は田邊の執筆で岩波 哲学辞典にも掲載され、主に田邊の著作を契機に広く使われることとなったよ うだ。今では、「公理論」と「公理主義」が二つの別の言葉として辞典に掲載 されている。しかし、海外の辞書には、「公理の学」としての「公理論」しか なく、「公理論を専らとする主義」としての「公理主義」はない。

しかし、公理主義は定着しており、しかもヒルベルトの数学の思想性を強調す るときには便利な言葉である。海外では公理主義を axiomatics という思想的 響きの薄い言葉でよぶか、思想性を込めたいときは axiomatic movement, formalism (形式主義)などという言葉で呼ぶ。公理主義という言葉はこれらに 比べれば使い易い。この精神からすると、本講演の目的はヒルベルトの公理主 義の背後に潜む「純粋思惟 vs 計算」の思想が、如何に彼の公理論に影響した か、そして、そのヒルベルトの公理論はどういう意味で20世紀数学に影響を与 えたかを考えてみることにある。

ただし、この二つを使いわけるのは案外面倒である。公理論登場当初などは、 公理的方法という言葉が、公理主義、公理論どちらの側面が強いか判然としな いような使われ方をしている。そこでこの講演では公理論を主に使うものの、 それが公理主義の意味で使われていることもあることを断っておきたい。

ヒルベルトは20世紀数学者か?

もちろん、ヒルベルトは20世紀の数学者である。ヒルベルトは1862年に生まれ、 1943年に亡くなった。単純に計算すれば19世紀に生きた期間より20世紀に 生きた期間の方が長い。ヒルベルトの名を聞けば「公理論、抽象数学、20世紀 数学の父」と連想する人も多いだろう。

しかし、抽象代数学を20世紀数学の華とするならば、「20世紀公理論的数学」 の創始者というヒルベルトのイメージは半ば虚像である。ヒルベルトは最初の 20世紀数学者でありながら、極めて19世紀的でもあった。ブルバキが強調した ように、ヒルベルトの「公理主義」は、抽象代数学の背景をなす「構造主義的」 とは別ものである。

ヒルベルトの第一原理はブルバキのような構造でなく論理的証明だったのであ る。そしてブルバキが「数学のアーキテクチャ」で強調したように、ブルバキ 公理論つまり「構造主義」は、ヒルベルトの証明中心の公理論から決別するこ とにより生まれたのである。

ヒルベルト的なものと20世紀数学の主流が離れていくのは1920年代以降である。 1900年から1920年ころまでの Mathemtische Annalen の件名索引で、抽象数学 に分類できるものは抽象群の理論程度にすぎない。抽象体を定義した H.Weber の論文もガロア理論に分類されており、Weber 自身がその仕事を副次的便宜的 なもののように語っている。1920年までにはフレッシェ、ハウスドルフ、シュ タイニッツ等の公理論的抽象数学が登場しているが、抽象数学的視点は、まだ 主流とは言えないのである。そして、1917年のヒルベルトの著名な講演「公理 的思惟」 Axiomatisches Denken には抽象構造は全く現れない。この論文に限 らずヒルベルトが議論する公理系は常に具体的理論、たとえば幾何学、算術 (実数算術)、古典力学のような特定の「具体的」な数学的対象の公理化なの である。

1899年の幾何学基礎論、1900年の公理論宣言から最晩年まで、ヒルベルトは良 い公理系の必要条件として無矛盾性だけでなく完全性・範疇性を要請した。範 疇性とは公理を満たす任意の二つのモデルが同型となることであり、群、環、 体、順序構造、位相構造、これらのどの公理も範疇的ではない。広辞苑では抽 象代数学を「公理主義の上にたつ代数学をいう。群・環・体などを公理主義的 に研究する」と説明している。広辞苑は公理主義を構造主義的に把握している のであるが、これは現代の数学者にも共感できる定義だろう。しかし、この定 義に従えばヒルベルトの「公理論的数学」は抽象数学ではない。範疇的な構造 主義的抽象数学は成立しえないからである。

そして、この「公理的思惟」の後、1920年代から引退の1930年までの10年間を、 ヒルベルトは彼の公理論の数学的洗練にささげる。証明論である。しかし、そ れはやがて訪れる20世紀数学の主流、ネーター、ブルバキ的な抽象数学からの 乖離に棹さすものでしかなった。

ヒルベルトの公理論とはなんだったか?

ヒルベルトの著作を通して見ても、我々が現在、公理論、公理主義という言 葉のもとで了解する数学・数理科学のスタイルを見つけることは、実はそれほ ど容易ではない。幾何学基礎論以外には、そういう例を見つけることは難しい。 また、幾何学基礎論の場合も、それに現代的な抽象位相幾何学のような一般的 構造についての議論を期待すると裏切られることになる。

すべてではないものの、ヒルベルトの幾何学研究は、あくまでユークリッド幾 何学などの「特定の幾何学」の論理的構造の解析が中心なのであり、現代的公 理論にみられる「公理を満たす数多くのモデルの全体により、その公理が提示 する構造を把握する」というブルバキ構造主義的観点は見られない。公理とそ のモデルの概念はあるが、それは独立性証明、無矛盾性証明の道具としてのみ 登場する。公理 A から公理 B が独立であることを示すには、A のモデル M で B を満たさないものが一つがあればよい。ヒルベルトはこの議論を多用 する。これは論理的には B のモデルの全体が A のモデルの全体に含まれない ことと同値ではあるが、ヒルベルトには、ブルバキがそれで「構造」を実体化 する「公理 A のモデル全体」という見方が極めて希薄なのである。

しかし、これはヒルベルトに構造に当る概念が無かったことを意味するのでは ない。ヒルベルトは数学の各分野の公理化を、その分野の本質を見極め る作業として捉えている。その作業の中心的位置に据えられたのが公理の独立 性・従属性であった。つまり公理系を幾つかの小公理系グループに分割し、そ のグループ間や特定の命題間の論理的依存関係を分析することにより、その公 理系全体の「構造」を明らかにする。これがヒルベルトの幾何学基礎論におい てみられる姿勢である。たとえば現代からみればいささかマイナーに見えるヒ ルベルトの第3問題「底面と高さの等しい四面体が同じ体積を持つことに連続 性公理が必要であること」にその典型的形がある。これは一種の「構造主義」 なのだが、しかし圏論に代表される具体的構造の有機的集団(圏)が構造の本質 を表現するという、クライン以来の一種の「幾何学的」イメージを持つ構造主 義とは異なり、証明という「代数的操作」により記述された「構造主義」なの である。

現代の我々が「構造」として捉えるものをヒルベルトは「証明・論理」により 捉えようとしたらしい。現代の我々にとって公理とは、集合論や圏論などの言 語による構造を記述する条件であるが、ヒルベルトにとっては公理はより syntactical なものであった。「幾何学基礎論」や「数の概念について」の公 理系はある種の極大構造を定義している。たとえば「数の概念について」の実 数論の公理系が記述しているものは極大アルキメデス順序体である。我々は当 然集合論を前提としてこれを理解する。特に実数の完備性を保証する極大とい う条件は非常に集合論的である。

しかし、奇妙なことに1900年のヒルベルトはこの極大性条件の「有限性」を強 調している。この実数システムについての有限個の公理からの有限ステップの 証明だけを考えることにより、カントールのように任意の基本列を考える必要 がなくなり、無限の世界が排除されクロネッカーの批判から免れるというのが ヒルベルトの主張であった。現代の標準的見解からは、これは間違いである。 しかし、ヒルベルトはそう信じたらしく、それが実数論の無矛盾性証明が極く 簡単にできるという、「数の概念ついて」の誤ったコメントの背景と考えられ る。(このコメントは後のバージョンでは削除されている。)

クロネッカーは彼の代数理論を使うことにより解析学までも代数化・「算術化」 することを企てた。スキーム理論のようなイメージを持っていた可能性もある。 そのようにして実数論を構築しようとすれば、クロネッカーの意図 に反し無限集合が必要となる。クロネッカーはそれを許さないので、逆に無理 数を捨てたのである。

ヒルベルトにとっては無理数の否認など論外であった。しかし、不変式論とい う極めてアルゴリズミックな代数理論において、しかも、それにクロネッカー のモジュール理論を適用することにより、そのキャリアを開始したヒルベルト は同時にクロネッカー的精神を深く理解した人物でもあった。彼の公理論実数 論はクロネッカーと同じ意味で、しかし公理化という別な方法によって有限的 実数論を構築を試みだったのである。

クロネッカーは「対象」を有限に限ったが、ヒルベルトは「無限の対象」の有 限的記述形式としての公理系を考えることにより「超限の有限化」を成し遂げ ようとした。現在の我々は公理論を数学の方法論として認識し、数学基礎論の 意味での数学の基礎付としての役割を期待することは少ないが、ヒルベルトの 公理論には当初から基礎論的色彩が濃かったのである。

ヒルベルト公理論と数学の基礎づけ

ヒルベルト公理論と数学の基礎づけの関係は複雑で深い。ヒルベルトの論理学・ 基礎論研究の源流はクロネッカーにより提起された「無限 vs 有限」の対立問 題である。ヒルベルトはクロネッカーへの、そして後にはクロネッカーの亡霊 としてのブラウワーへの反撃として公理論と証明論を形成する。そして、その 主要テーマは「無矛盾性=存在」、「純粋思惟 vs 計算」であった。

もちろん、すべてがクロネッカーから始まっているかどうかには疑問が残る。 ヒルベルトが最初の公理論による幾何学の発想を持ったのは1891年にウィーナー という数学者の講演を聞いたときだと言われる。その講演の後、ベルリン駅で 同行の友人たちに語ったのが「ビアマグ、机、椅子の幾何学」だ。この逸話に クロネッカーの影はない。

この段階での公理論は非ユークリッド幾何学が大きな発端となった「真理概念 の実体からの乖離」の性格が強いのだろう。たとえば「幾何学基礎論」の first version ともいえる1894年のケーニヒスベルク時代の草稿にはユークリッ ド幾何学の無矛盾性についての議論が見られない。この時点ではまだ数学存在 の問題にまで踏み込んではいないとみる方が妥当だ。

その方法論的公理論がいつ基礎論的公理論となったかという疑問が生じる。特 に「無矛盾性=存在」、「純粋思惟 vs 計算」という視点は何時、そしてどの ようない形成されたのだろうか。

ヒルベルト公理主義の核心をなす「無矛盾性=存在」という思想はカントー ルとの通信の中で生まれた可能性が高い。1897年にヒルベルトはカントールか らの書簡で集合論のパラドックスについて知ることとなり、以後急速に基礎論 的発想が前面に現れて来るのである。このとき、カントールにはパラドックス という意識はなく、肯定的にうけとめ集合論最大の発見とさえ書いている。カ ントールパラドックスにより連続体仮説を証明しようとしたのである。このと きカントールが書いたのが超限的集合と絶対的無限集合の区別だ。これが1899 年カントールからデーデキントへの書簡では矛盾集合と無矛盾集合とよばれる ようになる。アレフの全体は矛盾集合なのである。

ヒルベルトは「数の概念について」と「第2問題」で、無矛盾なシステムは数 学的に存在するというテーゼを提出している。「アレフ全体はその故に存在し ない」と書いてさえいる。ヒルベルトはカントールの「矛盾的・無矛盾的」の 分類を数学における存在一般の問題に適用したのである。哲学的観点からすれ ば公理論の最も重要な側面はこの「存在=無矛盾性」という主張にある。既に 述べたように、この発想がカントールの思想から発したか、あるいは幾何学基 礎論の研究から発したか、これを判定することは難しい。ただし、このような 無矛盾と言う最低の条件さえ整えば数学は何をしてもよいという自由数学、公 理論の発想は、カントール、ヒルベルトにだけ見られるものでなく、たとえば 19世紀前半の非ユークリッド幾何学、イギリス抽象代数学派にもみられるもの であり、19世紀終盤にはかなりの数の数学者が共有していた思想であるようだ。 その意味では起源の同定ということ自体に無理があるかもしれない。

一方のヒルベルト数学における「純粋思惟 vs 計算」の対立図式は青年期の不 変式論研究により意識され、それが生涯の思想を決定づけたと思われる。公理 論の最初の着想を得た1891年当時のヒルベルトの研究の中心がその不変式論だっ た。不変式論は、当時の代数学の花形分野であったが、その不変式論最大の問 題は、「ゴルダンの問題」であった。ヒルベルトは、1888年に、それを transfinite な手法で解決した。これがヒルベルトの実質的な出世作である。

解析学における transfinite な手法は当時も珍しくはない。珍しくないから こそ、それは数学全体の代数・算術化を夢想するクロネッカーの恰好の標的に なった。しかし、ヒルベルトは、そのクロネッカーの理論と transfinite な 議論の融合により有限基底定理を証明し、その応用としてゴルダンの問題を解 いてみせたのである。デーデキントのイデアル論の整数論への応用を除けば、 これが代数学における transfinite な手法の最初の圧倒的な勝利だったといっ てよいだろう。

しかも、センセーショナルな点において、それはイデアル論を遥かにしのいで いたと考えられる。ケーリーは、それを理解するためにアプリオリな困難を覚 え、ヒルベルトの師リンデマンは「気持が悪い」と評し、ゴルダンは「数学で ない。神学だ」とさえいった。当然、数学の有限化を目論んでいたクロネッカー が許容できるものではなかったはずだが、ブルバキの言葉に従えば、クロネッ カーはイデアルを有限生成に限ったが、ヒルベルトは任意のイデアルがその条 件を満たすことを証明したことになる。そして、1892年ころにはヒルベルトは、 そのゴルダンの定理の証明の「有限化」に成功する。

これらのヒルベルトの不変式論論文の中に後の基礎論的・計算論的傾向を連想 させるものはない。しかし、1897年にゲッチンゲンで行った不変式論講義には、 後のブラウワーの議論を連想させる注目すべき一節がある。ヒルベルトは、円 周率の10進展開に10個の引き続くイチ、つまり 1111111111 が現れると仮定し、 数学おける存在証明の3段階を、(i) 純粋存在証明、(ii) 解の存在範囲の評価、 (iii) 実際の計算の3段階にわけ議論し、それを使って彼の理論の意味を説明 している。この議論は後の1920年代のブラウワーによる排中律の「反例」の議 論とほぼ同型であり、また、(ii) を議論する際にはクロネッカーの名前をだ している。

同じ数学における計算のテーマは約20年後「公理的思惟」を始めとする証明論 の文献で繰り返し現れる。「公理的思惟」のヒルベルトは、無矛盾性問題がラッ セルの論理主義により実質的に完成されたと誤解し、彼の来るべき証明論的研 究のテーマを完全性と決定性の問題 (Entscheidbarkeit)等にしぼる。ヒルベ ルトは「決定性の問題がこれらの問題の内、最も良く議論される」とするが、 それは現代的な意味での決定問題とは異なりクロネッカー・ブラウワー流の存 在証明が計算に結び付く数学、つまり現代的にいえば構成的数学であることは 「公理的思惟」のテキストから明かである。

1920年代のヒルベルト計画では、ヒルベルトの「無矛盾性証明」はカントール 的な「自由数学」の合理化として登場するが、それは「無矛盾性=存在」の問 題だけでなく、「純粋思惟 vs 計算」と「無限 vs 有限」の対立の構図の完全 な解消をも目指すものだった。ヒルベルトは、数学における無限は射影幾何学 における無限遠点のような「理想元」であり、その実在を論ぜずとも数学はそ れを駆使してよいことを示そうとしたのである。それはある意味で超越数を記 号的な不定元で置きかえることにより数学から無理数を排除しようとした「ク ロネッカーのもうひとつの夢」の実現を目指すものでもあった。ヒルベルトは クロネッカーが「代数計算」により捉えようとしたものを「論理計算」により 捉えようとしたのだろう。しかし、その夢はゲーデルの定理により消されてし まう。

ヒルベルト公理論は20世紀数学に何をもたらしたか?

公理論には多くの側面がある。厳密性、自由性、抽象性、証明の客観化・代数化・記号化………。これらは互いに複雑に関連・依存しており、いずれが第一原理であるとは、言いがたい。M. Kline (文献2)が指摘しているように、これらのそれぞれはいずれもヒルベルト以前から存在しているが、それらを統一する壮大な形式を始めて与えたのがヒルベルトだった。そして、これらはすべて19世紀における数学の方法論的革命の流れつく先だったのである。

では20世紀数学のおける公理論の最大の功績はなんだったろうか。答はおそら く数学者ごとに違うはずである。数学の思想的側面に重きを置けば、やはり無 矛盾な形式により存在を置き換えるという思想を第一にあげるべきだろう。こ の思想は数学のみならず、現代社会の向く大きな方向と一致している。ヒルベ ルトやブルバキなどの後続の数学者の思想が社会に与えた影響は無視できない。 たとえ、それがヒルベルトの影響でなくとも、その方向をいち早くまとめあげ たという言う意味で、ヒルベルト公理論の存在は大きい。

しかしながら、数学を数学理論の生産活動とみなすならば、公理論の最大の功 績は「知のモジュール化による生産効率の向上」であったろう。それは数学理 論を構造という名のパーツに分解することを可能とし、パーツのみを研究する 抽象数学という分野を可能にしたのである。しかし、それは数学の分業化を加 速し、数学が「実体」を失い勝ちになるという負の側面もはらんでいた。ブル バキは構造概念により、専門化してバラバラになりかけた数学に統一がもたら されることを期待した。しかし、構造概念による統一は、分業・専門化の方法 の標準化であったとも考えられ、それゆえに、さらなる専門化を促した面も否 定できない。

ヒルベルト公理論は「実体とその直観」を奪われた数学が証明により自立でき ることを示すことにより、ブルバキの構造主義という知のモジュール化への道 を開いたと言ってよいだろう。モジュール化・パーツ化は、証明論・論理学的 手法によっても可能であり、ヒルベルト公理論ではその側面が強い。しかし、 ワイルが指摘しているように、証明論的手法よりは「モデル」の手法の方が遥 かに容易なのである。それがブルバキ構造主義がヒルベルト公理論を遥かに凌 駕した理由であろう。(ここでの「モデル」は、論理学でいうモデル論のモデル でなく、ブルバキ的な構造のモデルのことである。)

ヒルベルトの証明論的公理論の背景には、このブルバキ的「構造」に着目しそ こなった限界とともに、「純粋思惟的証明 vs 計算」の対立図式への鋭い視線が隠されている。ブルバキを始めとする20 世紀数学の主流は、この計算の問題を「無視」という方法で解消したといえる。 一方、ヒルベルトにとっては、それは不変式論以来の大テーマであり、「計算」 の問題を無視しさることはなかった。

その意味では現代数学の傍流的扱いを受けることが多い1920年代の証明論研究 こそがヒルベルトの数学を完結させるライフワークであった。そしてヒルベル ト公理論のこの側面こそ、ガウス、フォン・ノイマンをも凌ぐ計算がノートブッ クパソコンで実行される時代に、ヒルベルト公理論を甦らせる可能性を秘めた ものなのである。

あとがき

本公演の論旨は M. Kline (文献2), 森毅 (文献3)に多くを負っており、公理論と抽象数学の関係などは新しいものではない。本稿の特徴をあげればヒルベルトの数学における「計算」の重要性を強調したことである。この視点はさらなる歴史的検証を要するが、ヒルベルトの計算に対する視点が現在想像されるものより遥かに先進的かつ深かったことだけは確かなようだ。しかしながらヒルベルトは計算概念を現在の言葉でいえば absolute だと誤解し、 また、そのクラスを再帰的関数(コンピュータで計算可能な関数)より遥かに 狭く考えていたようである。この誤解がヒルベルト計画の失敗という悲劇を招 いた。しかし、この点を除けば、ヒルベルトの視点は21世紀のコンピュータを 駆使する数学において、むしろ新しい視点を与えると期待することは決して不自然ではない。

現在、北大文学部の中戸川孝治氏と、ヒルベルトにおける計算の思想の研究を進めており、その一環として完全性と決定性に関するヒルベルトの奇妙な主張に解釈を与える作業をおこなっている。それは現代の目で見るから奇妙なだけであり、不変式論などを念頭にその時代の視線で見直せば、実に自然に思えて来るのは不思議なばかりである。このような歴史的視座の再構成が歴史研究にとって重要であることは言うまでもない。しかし、それは歴史研究にとどまらず、現代の計算論や数学がおきざりにしてしまった重要な問題の発見につながるのではないかと期待し、最近、ヒルベルト不変式論の計算機科学的再検討を開始したところである。

本講演でその一端を紹介したこのヒルベルト研究は、広島大学木村俊一氏にヒ ルベルト不変式論の証明論への類似性とその影響の可能性を示唆いただいたこ とがきっかけとなった。ここに深く感謝したい。

  1. 林晋: 公理主義って知ってますか?, 数学セミナー2000年1月号
  2. M. Kline, Mathematical thought from Ancient to Modern Times, Oxford University Press, 1972.
  3. 森毅, 数学の歴史, 講談社学術文庫, 1988.