ゲーデル・数学基礎論:世界を丸ごと理解できるだろうか

AERA Mook「数学がわかる。」朝日新聞社刊 pp.30-33

出会い

あなたはどうして,このムックを読んでみるつもりになったのだろう。暇つぶしで,パラパラやっているだけの人もいるだろうが嫌われることの多い数学をわざわざ読んでいるからには少しは数学に興味があるに違いない。では,あなたは数学の何にひかれるのだろうか。

私の場合は厳密性だった。悩める高校生だった私にとって論理的な証明で結論を導く数学は絶対的真理であり、集合の言葉で全ての対象を記述する数学はありとあらゆるものを記述できる万能言語に見えた。私という存在は揺らいでいるかもしれないが、ここに絶対的真理がある。数学は何よりも輝いて見えた。

そんなころにゲーデル(1906〜78)の不完全性定理に出会ったのである。万能言語であるはずの数学に限界がある,しかも,その限界の存在が数学自身で証明される,というのがゲーデルの不完全性定理である。わけがわからなかったが,何だか世界の秘密が隠されているようにさえ思えた。

以来30年余り,ずっとゲーデル的問題につき合うことになってしまった。途中で数学から計算機科学に移り,数学的証明を使ってバグ(ソフトウェアのプログラム上の誤り)なしのプログラミングをするPXというシステムを作ったりしたが、そういう世界でも,やはりゲーデル的なものが顔を出す。むしろ数学よりゲーデル的だったりする。

有名な不完全性定理が答えようとしたゲーデル的間題とは,この世界を自分の掌中にある人工言語で完全に記述できるか,そして,それによって世界を自分の掌中に収めて丸ごと理解することができるかということであった。

計算機科学は,この実世界のありとあらゆるものをコンピューターという箱の中に再現しようとする。一方,19世紀末から20世紀初頭の数学は集合・論理を使ってすべてを再現しようとした。集合・論理かコンピューターかという違いはあるが同じなのである。実際,理屈上は不完全性定理が対象にする形式的体系とコンピューターの数学的モデルのチューリングマシン(計算可能性の定義に使われる思考機械)は同一のものだ。私のPXのようなシステムでは,不完全性定理ではなく,もっと現実的な限界が問題となるが,どちらも,人工物が,どれだけ現実に迫れるか,その代わりになるかという間題であることには変わりない。そういう意味では,私は同じ問題にずっとかかわってきたとも言える。

こういう本業とは別に副業で不完全性定理の解説書を書いたのが縁で、7, 8年前からはゲーデルや歴史について書いたり調べたりすることも多くなった。もともと一度は数学史に転向しようとした歴史好きなのと、今の職場に移って歴史や論理の講義を文系向けにする機会ができ、本業の一部にもなったので、どんどん深みにはまり今では半ば数学史家のようになっている。

1999年ごろからは「ゲーデルと数学基礎論の歴史」というホームページも始めたし,ありがたいことに歴史の講演や集中講義を依頼されるようにもなった。実は今では,計算機科学の仕事より,そちらでお声がかかるほうが多い。しかも,最近,その歴史研究とPXを結ぶ不思議な糸を見つけてしまった。私は,30年かかってぐるりと1周し出発点のゲーデルに戻ってしまったらしいのである。

面白さ

30年たって,もとに戻っても不完全性定理と数学基礎論の面白さは全然変わらない。数学以外の知識がふえたり,数学史の対象として突き放してみることができるようになったのとで,むしろ,数学を超えた面白さや重要性が見えるようにさえなった。

私のような歴史・思想好みの目で見ると数学基礎論という学問は,数学の基礎への哲学的問いかけを行った1930年代ごろまでが一番面白い。華は1931年のゲーデルの不完全性定理のころまでなのである。今も数学基礎論と呼ばれる学問はあるが,その実態は数学基礎論の技術的部分である数理論理学と呼ばれる地味で着実な数学なのである。

これに比べれば19世紀から,20世紀最初の30年間くらいの数学基礎論の華々しさは,現代の複雑系,脳研究,ゲノム研究に匹敵する。それはバブル的でさえあった。これは基礎論にかかわった数学者の名前を少し並べてみただけでわかる。デーデキント,クロネッカー,ペアノ,カントール,ヒルべルト,ポアンカレ,ワイル,ブラウワー,コルモゴロフ,フォン・ノイマン,チューリング等々。ルべ一グやボレルあたりも少しかんでいる。さらにこれに,哲学からラッセル,ヴィトゲンシュタインなどが深く絡む。何という豪華メンバーであろうか。

この時代の数学基礎論や集合論は,時に新聞紙上をもにぎわすホットでトレンディーな学問だった。だから,初期の国際数学者会議の全体講演にしばしば登場し,また,フォン・ノイマンやウィーナ一という20世紀を代表する早熟の天才が数学基礎論で学位論文を書いたのである。ウィーナーは,ラッセルに無視されたせいもあって早々に基礎論をやめてしまったが,フォン・ノイマンはヒルべルト計画という数学基礎論中の数学基礎論に深くかかわった。フォン・ノイマンは,現代のコンピューターのアーキテクチャ一(システムの設計思想)を決定づけ,量子力学の最初の数学的理論を打ち立て,米国の核開発に絡み,また,ICBM(大陸間弾道ミサイル)計画をも軌道にのせ,そしてゲームの理論で抑止力という概念を数学的に基礎づけた人である。つまり,冷戦構造を決定した男と呼んでもよい。(だから,いわゆる進歩的勢力から目の敵にされることが多い。しかし,それこそ彼の影響力の大きさの何よりの証拠だろう)

不完全性定理によりヒルべルト計画が崩壊して以後「基礎論バブル」の反動として基礎論から哲学臭が抜けていく。そのときフォン・ノイマンはだれよりも早く基礎論から離れ,ゲームの理論,コンピューター,数値計算,自己増殖オートマトン(自動装置)などに取り組み,そして冷戦構造を決定していく。しかし,これらの現実との格闘の中で,フォン・ノイマン自身は,その基礎論の情熱の余韻を明らかに引きずっている。それは一見基礎論と関係のない彼の著書『ゲームの理論と経済行動』にさえ見いだすことができるのである。

これらの研究をみればフォン・ノイマンが、抽象形式の中に,この現実がどれだけ包括できるかという基礎論的間題意識を常にもちつづけたことがわかる。しかし,その問題意識は,師ヒルべルトと同じく,たんに数学の論理的で厳密な基礎づけという枠を超え,数学と自然と論理の真の関係を理解することに向けられていたとしか思えない。

だからこそ,フォン・ノイマンはゲーデルの第一不完全性定理を見るやいなや,数学基礎論の時代が終わったことを悟ったのだろう。フォン・ノイマンは第一不完全性定理を理解したゲーデル以外の最初の人であり,また,ゲーデルとは独立に第二不完全性定理を発見した人でもある。ゲーデルが不完全性定理を発見した1930年当時,数学基礎論を真に理解していた人はゲーデルとフォン・ノイマンの2人だけだった。

だからこそ,不完全性定理後ゲーデルが集合論・哲学の方向にその舵を切る中,ノイマンは,いち早く基礎論を捨て,より生の現実の方向に足を踏み出していったのである。

ゲーデルによって数学の基礎論時代は終わった。数学における真の基礎論の重要性と面白さは,1930年代末にはほぼ失われてしまう。そして,それを決定的にしたのが1940年代のブルバキの構造主義数学だった。ブルバキの出現により,数学は基礎の問題を無視するに十分な哲学的根拠を得る。そしてそのためのからくりは,ツェルメロ,フレンケル,そしてフォン・ノイマンが用意した集合論の形式的体系だったのである。

しかし,基礎論的問題は,むしろ20世紀が終わろうとしている今こそ,コンピューター科学や複雑系などの前衛的諸科学の中で意味をもちはじめているかのようである。1930年代までの数学基礎論がもっていた面白さと重要性が、長い伏流の期間を終え,今,数学以外の各所でとうとうと噴出しはじめている。そして,今それが起きつつある最大の原因は,フォン・ノイマンが仕掛けだともいえるコンピューター社会の到来なのである。

この基礎論とコンピューター社会の大からくりを最初に見破った人は,おそらく『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の著者ホッフスタッターであろう。チューリング以来基礎論とコンピューターの関係は自明なのであるが、それが形式だけでなく,深層でもつながっていることを示してみせたのはホッフスタッターだったのである。

ゲーデルの定理と基礎論の本当の面白さを求めるならば,歴史に燦然と輝く1930年ごろまでの数学基礎論か,ホッフスタッター以後の,数学の領域を超えはじめた「数学基礎論外基礎論」の中に求めるしかない。

素晴らしさ

だから,1930年代的な面白さを求めて現代の数学基礎論の専門家になると,若いころの私のように幻滅を味わうことになる。今や,それは数理論理学という名の高度に発達した純粋数学だからである。

しかし,基礎論的な問題の重要性は一向に衰えていないどころか,今こそ,それは重要になってきている。数理論理学の専門家が、ゲーデルの話が始まると何をいまさらと顔をしかめたりするこの現代、ゲーデルや基礎論について注目する人がむしろ数学以外の研究者の中にふえているのは偶然でもアナクロニズムでもなく,歴史の必然でさえある。

数学以外からのゲーデル的現象への発言としては,日本では評論家の柄谷行人氏の1980年代からの著作が面白い。専門家であるはずの私も,こんなとこにも,あんなとこにも柄谷氏がいうケーデル的現象,つまり基礎論的構造があると,その著作にずいぶん教えてもらった。

ゲーデルによってシンポライズされる基礎論の素晴らしさは,こういう数学を超えた世界への広がりである。大げさと言われるかもしれないが,基礎論的構造を理解することは文明の行き先にもかかわるに違いない。

ゲーデルが1960年代に人知れず書いたように,文明はルネサンス以来ヒルべルト公理論の方向に突き進んできた。そして,ゲーデルがそう書いてから40年近くたった今でも,その傾向は変わってはいない。むしろ情報とグローバリゼーションの時代に突入し,最後の拍車がかかっているかの感さえある。数学における,その傾向の限界を示したゲーデルの定理が数学を超えてそれに何がしかの影響を与えないということは不自然でさえある。ゲーデルの名は,数学を超えて,ますます重要度を増していくに違いない。

 

コラム:小中学生にどう教えますか?

赤ん坊を喜ばせようとして手品をしてみせたことがあるが、赤ん坊はキョトンとしていた。 何が普通で何が奇妙かまだ知らないから不思議だと思わない。同じ理由で小学生に数学基礎論や不完全性定理を説明するのは、余程、ませてない限り無理だ。こういうものは言葉で全てを説明しようという欲望がないところでは赤ん坊に手品なのである。

だから反抗期やら青春の不安などというものを通り過ぎた悩める中学生ならピーンとくるかもしれない。そういう中学生には、こう言えばよい。もし全能の絶対的存在になれたら、 自分を全能でなくすことはできるだろうか。全能であるということは何でもできるのだから、自分を全能でなくすこともできる。でも、そうなるとその能力は失われる可能性があるので絶対的存在ではない。しかし、全能の能力を失う能力がないならば、それは全能とは言えない。数学は一度絶対的全能になろうとした。それをこれと同じ理屈で崩したのが 不完全性定理。そういうことを考えるのが数学基礎論という学問なのである。