ゲーデル紀行 ウィーン、ブルノ

1998年の夏に、ゲーデルの生地、チェコのブルノで、CSL/MFCSという私の本業の理論的計算機科学の国際会議が開催されました。ちょうど、パートナーで共同執筆者の八杉が、この集会のサテライトワークショップに論文を投稿していたので、この機会に、ゲーデルのゆかりの地を尋ねてきました。

ウィーンでは、ウィーン工科大学にクルトゲーデル協会をたずね、オーストリア国営放送が作成したゲーデルのテレビ番組の共同制作者の一人、ウィーン大学のシマノビッチさんにお会いして、いろいろとお話を伺い、また、ゲーデルゆかりの地を案内していただけました。

このページでは、そのときにとってきた写真と調査してきた話を整理しながら少しずつ紹介していきます。


ウィーンでは、シマノビッチさんに大変お世話になりました。シマノビッチさんのお陰で,Dawson の Logical Dilemma にもでてくる、Cafe Reichstrat の跡をみることができ(LD,68ページ)、また、ゲーデルが渡米前の時代を過ごした郊外の高級アパートもみることができ、番組のビデオとそれを元にした本まで手にいれることができました。この本は、オーストリア放送のドキュメンタリーが元になっていることもあり、やさしく書かれており、また、さすがに地元の方の手になるだけに、1920年代のウィーンの雰囲気がでていて、大変おもしろそうなので、日本語に翻訳する計画でいます。

ウィーン

カフェ・ライヒスラート(跡)

今はもうそんなことはないようですが、ひところ喫茶店というものが、生活の中の重要な一部分であったときがありました。ウィーンでは、これが、昔からそうで、今でもそうです。カフェ・コンデトライ(ウィーンでは喫茶店をこう呼びます)は完全に生活の一部のようです。

ゲーデル研究の第一人者、J. ドーソン教授のゲーデルの伝記 Logicall Dilemma によると(68ページ)、ゲーデルが不完全性定理を他人に教えたのは、1930年8月26日、ウィーンの国会議事堂近くのカフェ Reichsrat (ライヒスラート、国会)でのことだったそうです。この日、ゲーデルはカルナップに、彼の発見を伝えたのです。このライヒスラート内部の写真を是非とも撮りたいと思っていたのですが、まだ、存在しているかどうかもわかりませんでした。ウィーンについて、ホテルの電話番号帖をみても、そんな名前はありません。翌日、シマノビッチさんにそのことを言うと、やはり無くなってしまったとのことです。ただし、80年代までは存在したとのことで、無くなる直前にシマノビッチさんたちのドキュメンタリーで記録することができたそうです。今は Reichsrat の跡は、ガレージになっています。そして、その横に別なモダンなカフェコンデトライが開店しています。

写真は、Reichsrat の遺跡?の前に立つ八杉と林です。二人が邪魔ですね?そうなんですが、シマノビッチさんが、どうしても一緒にとると言うものですから。でも、その跡自分で別に撮っておけばよかったのですよね。(^^;) [写真をクリックすると大きな写真を見られます。)]

ちなみに、ウィーンのカフェでは、紅茶はグラスに入って、かつ、水の入ったグラスと一緒にきます。ヴィトゲンシュタインが常連だったというカフェ Br\"aunerhof (\" は Umlaut, ブロイナーホーフ)で、撮ったウィーンの紅茶の写真です。ゲーデルとは何の関係もありませんが。

ちなみにブロイナーホーフは、昭和30年代の日本の食堂か喫茶店のようでした。もうちょっと古いのかな?京都には古い喫茶店がいくつかありますが、京大ちかくの駸々堂に雰囲気が似ています。給仕のおじさん(おじいさん)が雰囲気があって実にいいですね。第3の男の世界です。

ウィーン大学

フルトヴェングラーの教室

ウィーン大学では、ゲーデルがフルトベングラーに講義を聞いた(であろう)教室を見せてもらいました。 内装はモダンになっています。八杉の後ろの御影石のプラークにフルトベングラーの名前が見えます。フルトベングラーは名講義で知られた人で、ゲーデルはその影響で数学を専攻したと言われています。もっとも私は証拠を知りませんが…。

しかし、おそらく若きゲーデルが、この教室に座っていたであろうと思うと、なかなかの感慨でした。この教室はぎっしり詰めれば200名位は入るようですが、日本の階段教室にくらべればこじんまりした感じがします。


ウィーン大学のギャラリー

ウィーン大学は著名な学者を輩出したところです。そのギャラリーには著名人の胸像が沢山ならんでいます。しかし、実は半分くらいの人は聞いたこともないような人で、シマノビッチさんの話では、お金を沢山積んだ教授の胸像が一番立派なのだとか。そのせいかジグムンド・フロイドとシュレジンガーの胸像は地味でした。

フロイドはウィーンではあまり受け入れられず、アメリカの影響を受けて、ウィーンも渋々フロイドを認めるようになって胸像が置かれたそうです。ゲーデルの胸像も、ヴィトゲンシュタインの胸像もありません。二人とも正式の教官として在籍したことがないのも、その一つの理由でしょうが、それだけではなさそうですね(フロイドは講師だったようです。シュレジンガーは research post には付いたことがあるようですが、名誉教授になっています)。

このギャラリーの胸像の聞いたこともないような人のひとりに Capsi という医学者がいます。スタンフォード大学のフェファーマン教授ご夫妻がウィーンを訪れたとき、シマノビッチさんが同じようにギャラリーの胸像を説明したそうです。「例えば、この Capsi などという人は聞いたこともないですが・・・・」。そのとき、アニータ・フェファマーン女史が、こう叫んだそうです。「アメリカでは Capsi は、凄く有名よ!」。エイズの結果起こる症状の一つとしてしられるカポジ肉腫のカポジだったのです。(^^)

シュリック暗殺の階段

1920年代のウィーンは、M. シュリック(Schlick, Moritz)と H. ハーン(Hahn, Hans)率いる ウィーン学派(Der Wiener Kreis, The Vienna Circle)の活躍の舞台でした。ゲーデル自身は、ウィーン学派の考え方に賛同しておらず、その一員とみられることを好まなかったようですが、ゲーデルの指導教官はハーンであり、影響を受けなかったと言えば嘘になるでしょう。たとえ、その影響が反面教師的であれ、ウィーン学派が存在したから、ゲーデルも論理学に興味を持ち、また、数学基礎論についての情報を得ることができたのは間違いありません。

ウィーン学派の集会はカフェで行われたようで、不完全性定理をゲーデルがウィーン学派の仲間に最初に伝えたのもカフェ、ライヒスラートだったのです。こういう不完全性定理発見前後のゲーデルとウィーン学派の交遊はカルナップの日記に記録されているようです。

公には1929年にその姿を現したウィーン学派ですが、1936年にはほぼ崩壊してしまいます。その原因はハーンの癌による突然の死、ナチスの台頭による右傾化のプレッシャによるユダヤ系メンバーの出国(ちなみに、ゲーデルがユダヤ人だというのは間違いです)などがあるようですが、最後のとどめが、1936年6月22日におきた、中心人物の一人シュリックの暗殺です。これはナチスの政治的プロパガンダに使われたようですが、実際は学生の精神異常によるものだそうです。

そのシュリックが暗殺された階段には、今ではシュリックを記念する金文字がはめ込まれています。ウィーン学派の崩壊により、1937年ころにはウィーンでゲーデルと論理学や基礎論について議論できる人はいなくなってしまいます(Dawson, Logical Dilemmas p.124)。そして、数年後、ゲーデルはアメリカに移住し、二度とウィーンにもどることは無かったのです。このウィーン学派のバイブルが、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考であったことは良く知られています。また、1928年にウィーン大学で行われたブラウワーの直観主義についての講演こそ、ヴィトゲンシュタインが哲学にもどる契機であったといわれていますが、これはゲーデルが不完全性定理を着想する元にもなったとも言われています(Dawson, Logical Dilemmas, p.52)。ウィーンはゲーデルがその青春時代を過ごした都であるとともにヴィトゲンシュタインの都でもあります。そのヴィトゲンシュタインが姉のために設計したことで有名なヴィトゲンシュタインにも連れていっていただきました。

ヴィトゲンシュタイン・ハウス

ヴィトゲンシュタインは、なかなか多才な人で、確認はしておりませんがヘリコプターのローターの両端にロケットエンジンをつけて、その力でローターをまわすという方式は、彼の発明だと読んだことがあります。

建築設計もできたようで、姉のためにコンクリートの機能一点張りの建物を設計しています。それが写真のヴィトゲンシュタイン・ハウスで、今もウィーンに残っています。現在はブルガリア大使館となっているそうです(scarletrose さん、確認ありがとうございます)。

この機能一点張りというところがヴィトゲンシュタインの思想性で、また、この時代の時代精神というものでしょう。私は、ヒルベルトの公理論を思い起こします。それは「意味の喪失」ということですが、肯定的にいうとカントールの「数学の自由性」になります。自由性と意味の喪失が裏腹の関係にあることは、その後の人類の歴史が十分に証明していますね。ゲーデルは、未発表の論文の中で、ヒルベルトは、その時代精神に妥協して、懐疑論者でも意味を見つけざるを得ない有限の立場を使い、形式としての意味を全数学に与えようとして失敗したのだというようなことを書いています(Collected Works III, 1961/?)。意味は妥協でなく信じることによってのみ獲得できるということでしょう。

もし、厳密性、絶対性のために意味を捨て去ることを続けながら、しかも、何らかの意味を作ろうとすると、批判活動にしか活路(意味?)を見出せなくなるでしょう。つまり、論敵の矛盾をつくだけの活動になってしまいます。私は、現代哲学というのは、そういうことばかりしているのではないかという気がするのですが気のせいでしょうか。もし、哲学関係の方がご覧でしたら、御意見をいただけませんか?

現在の私は、ノイマンがとった、「なんだ数学も物理と同じジャン」というようなサバサバした態度の方が好きです。ゲーデルの態度も、ノイマンに近いような気がします。ノイマンとゲーデルは、生涯、良い関係にあったようですし、考えが似ていてもおかしくありません。

ゲーデルのプラーク

ウィーンの郊外、日本人観光客にも有名なベートーベンシュトラーセの近くに、ゲーデルがアメリカに移住する直前に住んでいた高級アパートがあります。ここからゲーデルは電車でウィーン大学に通っていたのです。かなりの長距離通勤ですが、郊外で木々に囲まれた大変きれいなところです。無給の私講師だったのに、こういうところに住むとは、ゲーデル家は、やはりお金持ちだったようです。シマノビッチさんの話では、モラビアで2番目のキャデラックを買ったのが、ゲーデルのお父さんだったそうです。

再び、それはさておき、この写真は、そのアパートの壁にか掲げられているゲーデルのプラーク(plaque)です。ドイツ語がわかる人は、このプラークの文章をよーくみてください(写真をクリックすると大きな写真がみられます)。ゲーデルの名前の下に功績が並んでいます。

例えば、すぐ下は、1930 VOLLSTANDICHKEIT DES LOGIKKALKULS 、完全性定理です。そして、その次が1938 RELATIVE WIDERSPRUCHSFREIHEIT DES AUSWARLAXIOMS UND DER KONTINUUMSHYPOTHESE ZUR MENGENTHEORIE 集合論の選出公理と連続体仮説の相対的無矛盾性です。その次はアインシュタイン賞とハーバード大学の名誉学位が紹介されています。しかし、何度見ても、不完全性定理がないのです。

きっと、完全性定理1930の後に、不完全性定理1931とあったので、石屋さんが、何かの間違いだと思って、気をきかせてしまったのでしょう。(^^)

写真はアパートの建物です。この建物には、いろいろ有名人がすんでいたようで、観光地化しているようでした。といっても、私にはあまり馴染みのない名前ばかりです。ゲーデルのほかに、私が知っている名前としてはウィーンフィルの指揮者だったカール・ベームがありました。ベームを記念するプラークの写真はこちらです。

 

 

 

 

 

ブルノ, チェコ   Brno, Cech

ブルノはチェコ共和国モラビア地方の中心都市で、ゲーデルが生まれた20世紀初頭には、まだハプスブルグ家の支配下にあり、Brunn(ブルン)というドイツ名で呼ばれていました。ゲーデル家は、そのドイツ系オーストリア国家の植民地におけるドイツ系家族だったのです。ゲーデルはオーストリア人として生まれ、ハプスブルグ帝国の崩壊により短期間チェコ人となり、新生オーストリアに帰化し、そして最後にアメリカ人になったということになります。ブルノはプラハにつぐチェコ第2の都市ですが、市街地はそれほど大きくはありません。(市街図

シュピルベルクの夕暮れ

ホームページの最初を飾っているこの写真は、このときにブルノのホテルの窓から撮ったものです。ホテルについて地図を確認すると、目の前のシュピルベルクの丘の麓、ホテルから歩いて5分もしないところにゲーデルの生家のアパートと、少年時代を過ごした家があったので、大感激でした。

ブルノは、工業都市で川が汚れているらしく、川から引いている水はまずく、皮膚が弱い私は水にかぶれて体中が痒くなってしまいました。それでも、八杉も私もブルノが大好きになってしまいました。ブルノにいると、なんだか、昔住んだことがあるような気持ちになってしまうのです。

何故だろうと思って考えてみたのですが、経済的に遅れていると言えばそれまでですが、日本の大都市、いや、日本中のほとんどの場所で聞こえてくる、あのうなりのような街の音がしないのです。そういう静けさは、スコットランドにいるときにも経験しましたが、ちょっと質が違うのです。スコットランドの静けさは、日本の静けさではないのです。

ところが、ブルノの空気と音は紛れもなく、高度経済成長前の日本の地方都市に似ていました。東京で育った八杉にも懐かしかったようですから、東京にも似ていたのでしょうか。何故でしょう。そこまではわかりません。しかし、食べ物といい、人の雰囲気といい、今までたずねたどこの土地より、私の生まれ育った時代の日本を思い出させてくれる街でした。

八杉はケーキが脂っこくなくておいしいと喜んでいました。確かに子供のころに食べたクリスマスケーキのような味です。小学生の低学年のころに食べていた、正月までおいて、ぱさぱさになってしまったクリスマスケーキに質感が似ているのです。古くなったクリスマスケーキは、おいしいとは思いませんでしたが、ブルノのケーキは、それと同種のようなのですが、小麦粉に力があるらしくおいしいのです。これはクリームを食べるケーキではなく、粉を食べるケーキのようです。私には脂っこすぎる今の日本のケーキと違って、ホッとするようなおいしさでした。

でも、チェコは、第2次世界大戦前には、優秀な工業国だった土地柄です、きっと、急速に変わっていくことでしょう………

さて、感傷的な話しは、おいて、ゲーデルに話しをもどしましょう。

ゲーデルの生家

ゲーデルの生家は、右の写真で屋上に塔がついているアパートです。塔はどうやら給水塔のようですが、ただし、これは、私の推測にすぎません。

御覧のように坂の途中です。この坂を降りていくと、国際見本市などが開催されるコンベンションセンター地域があります。この写真の左手も。さらに急な坂になっており、それが表紙の写真のシュピルベルクです。その頂上には表紙の写真のように砦があります。右手は下り坂で、鉄道の駅の方面に行く道になります。

御覧のようにアパートの前を路面電車が通っています。ブルノは町中に路面電車とトロリーバスが走っています。昔の京都の市電にくらべると、車が少ないせいかかなりのスピードをだしますが、それでもやっぱり、市街電車はのんびりしていていいですね。また、運賃も安く、移動には大変便利です。

ゲーデルの頃も、この電車はあったはずです。今は、このアパートは少し寂れた感じがします。それは、左下のアップの写真を御覧いただければ分かると思います。右下に、撮影の日付がありますが、その上の模様にみえるものは、落書きなのです。

緑十字が見えるように、今は一階が薬局となっているようです。その緑十字の上の窓から人が顔を出しているのが分かるでしょうか?中学生位の少女たちが二人、窓から外を覗いていたのですが、東洋人が自分たちのアパートの写真をパチパチ撮っているものですから、喜んで手を振ってくれました。私も道の向かうから「オーイ」、とは言いませんでしたが、手を振っておきました。国際親善です。(^^)

この場所の番地は、 5 Pekarska, Brno, Cech Republic です。

この写真ではちょっと分かり難いですが、少女たちが顔を出している窓から二つ目の窓の下、緑十字と同じ位の高さの位置に、ゲーデルが、ここで生まれたことを示すプラークがあります。それが次の写真です。 ウィーンのプラークもあっさりしておりましたが、これも随分あっさりとしたものです。まあ、旧支配者であったドイツ系のゲーデルを記念するわけですから、それほど気持ちは、入らないかもしれませんね。それにゲーデルより有名な人が、この街には何人かいたのです。

ゲーデル以外のブルノの有名人といいますと、作曲家のヤナーチェク、遺伝学のメンデル、物理学者のマッハなどの名前を上げることができます。しかし、ヤナーエェク以外はドイツ系です。ブルノには、ヤナーチェク音楽院やオペラもあり、先日も、大津にブルノのオペラが公演に来ていました。

ブルノは日本のスタンダードから言えば、小さな地方都市ですが、その文化の深さにはとてつもないものがあります。ブルノ行きの主目的は、マサリク大学での理論計算機科学の集会だったのですが、その集会のコンサートのすばらしかったこと。いままで、ヨーロッパで沢山の集会にでて、教会でのコンサートや、夜の美術館を借りきってのレセプションなど、いろいろ面白い経験をさせてもらいましたが、ブルノでのMFCS/CSLのコンサートほどすばらしいものは経験したことがありません。

それはグレゴリオ聖歌のコンサートだったのです。正直のところ、また、素人の時々間違うコンサートだろうと思って、それほど期待はしなかったのですが、会場の教会がちょうどホテルの横でしたし、グレゴリオ聖歌は好きなので、でかけることにしました。

聴衆が着席して、教会の祭壇の横からでてきたのは、10名にも満たない若者と、指導者とおぼしき中年男性一人でした。その内の、特に若い青年が進み出て、解説を始めました。まず、チェコ語らしい説明。次にドイツ語、英語、そして、フランス語。二十歳くらいのほっそりした聡明そうな青年でしたが、立ち居振る舞いも、4ヶ国語のスピーチ(解説)も実に堂々として落ち着いたものです。私には英語しか分かりませんでしたが、綺麗な英語でした。これだけでも、私が日頃教えている学生と比較して(ゴメン!)、感心してしまいましたが、始まったグレゴリオ聖歌の厳粛な響きの美しいこと!それまで、CDやLPで聞いていたのは、いったい何だったのかと思うくらいでした。

これはユーラシア大陸の反対側の島国から来た人間の感慨のためだったわけではなかったようで、聖歌が始まる前まで、ペチャクチャやかましかった、隣の東欧系らしい熊のような中年男性も、お祈りのような姿勢になって、聞き入っていました。まあ、私が真宗のお経を聞くと、自然に居住まいを正してしまうようなものでしょうね。最初の説明で、終わっても拍手はしないでくださいということでしたので、コンサート(こういうのはコンサートと言ってはいけないのでしょうね。なんというのでしょう)終了後も聴衆は無言で、感動が長続きして、それはすばらしいものでした。こういう聖歌隊をもっているということ(ヤナーチェクはブルノの聖歌隊員だったそうです)、こういう文化を持っていること、やはり、ヨーロッパの文化には、底知れないものがあります。日本でこういうものが十分に残っているのは、残念ながら、もう京都位しかなくなってしまいましたね。不況などより、実はこちらの方が、国力の衰退という意味では、よほど重大だと思うのですが・・・・

さて、ゲーデルと関係ない話しが続きました。しかし、実は、ゲーデルのような人は、こういうヨーロッパの文化の上澄みとして出てきたのだと、私は思うのです。ゲーデルはかなり、スピリチャルな人だったと思うのですが、こういう文化の中にいれば、自然にそうなるでしょう。まんざら関係ないことはないのです。とはいえ、とにかく、話しを元にもどしまして、写真は、シュピルベルクの丘の中腹から、見た、同じゲーデルの生家のアパートです。

 

 

ゲーデル家のビラ

上の写真を撮った位置から、それほど遠くないところに、ゲーデルが7歳のときに、一家が移り住んだ家があります。それが下の写真の赤みがかった壁の家です。この家の裏手は丘の傾斜地を利用した庭になっており、なかなかすばらしいところです。Dawson の Logical Dilemma の8ページに、同じ建物の1993年の写真がありますが、それを見るとみすぼらしく見えるのですが、その後、改修をしたらしく、今は大変綺麗な家になっています。このあたりは、丘の上の高級住宅地という感じで、温室のような部屋を備えた家もありました。1993年に Dawson 氏が写真を撮ったころからすると、自由化のお陰でしょう、チェコは昔日の繁栄を少しは取り戻したようです。

少年ゲーデルの生活圏

ゲーデルの生まれたアパートとゲーデル家のビラは、歩いて5分ほどのところにあります。ゲーデル少年が通った学校も、それほど遠くではありません。これらは皆、ブルノ市の中心街の西に位置するシュピルベルクの丘の周りに位置しています。特にゲーデル家のビラはシュピルベルクの南スロープの麓にあり、ビラの裏手のスロープはゲーデル家の庭としてゲーデルの子供達の遊び場になっていたようです。ゲーデル少年の生活圏はシュピルベルクの丘の周りだったのです。