Welcome susumuhayashi 

2012年11月7日(水曜日)

K.T.君の research proposal

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時25分46秒 記事編集

科研費やら、京都学派アーカイブ新聞発表の資料やら、複数の書類の締切と、
Googleジャヤパンの清水君たちの訪問など、なぜか、この数日に5、6個の
用事が全部重なってしまい、呆然とする程の多忙。書類は、一つを残し、
先ほど、ようやく全部片付く。残りのひとつは同僚が書いたものに手をいれる
だけだし、大変しっかりした人の文章なので、金曜日までには楽勝で間に合う
だろう。

で、今日の昼間は、書類書きの合間を縫って、来春、ドクター
を受験予定の留学生のK.T.君と、research proposal の検討。

これが滅法面白い!TPS, Steve Kline, T. Winograd, Agile, Lean,
OSF, Giddens (たち)の Japanese model などにマルキスト、社会主義者の
カウンターパートがある。K.T.君は、そちらの系統の教育を受けているので、
すべてそちらから攻めているが、このリストの中で、唯一、Left系の
Winograd さんで接点発見。F.Flores は、F.T.君が注目している
チリ革命の立役者のひとり。しかも、この革命では、サイバネティクス
が重要な役割を果たしているとのこと。となると、当然、リックライダー
人脈につながる!

僕の背景は、どうしても資本側になってしまうが、ネグリと
Grundrisseを読んで以来、気になっていたマルキストのルートが
K.T.君のお陰で勉強できそう。是非、合格して欲しいものだ。
で、まあ、彼の実力からすると、当然合格なのだが、それでも
語学の試験があるので、合格するまでは、一応、フルネームは
避けて、イニシャルで refer。
#まあ、英語のresearch proposal の検討が全部日本語でOK
#の人だから、語学でダメといのも考え難いが、しかし、
#世の中何が起きるかわからないので、一応、慎重に…

で、Giddens やら、それからマルキストルートということで、
渕一博さんのことを話す。おもしろがるので、僕の渕さんについての
論文が掲載された本を貸した。黒川さんはどういうかな。そういえば、
メールにまだ返事していない。すぐに返事します、黒川さん!

思えば、これから調べる予定のSPDルートは社会民主主義、これと、
このルートの市場社会主義は関係あるのだろうか。実に興味深い。

思い出サルベージの発案者溝口くんの学振PDの申請(社会学)が
受理されて、来春から、彼が研究室に合流する。溝口くんと
K.T.君のシナジー効果が期待される。おもしろくなりそう。
卒業生のY.H.君もドクターで帰ってくることを希望しているので、
3名そろうと、相当におもしろそうだ。内、2名は吉田純さんの
紹介。吉田さんには感謝感謝!

と、希望は膨らむが、兎に角、明日は清水君たちグーグル社の
人たちの来訪と、Participationの思想の特殊講義。おっと、
まだ、講義準備ができてない!明日、午前かな?動員と
participationの関係など。

おっ!そうだ。コペンハーゲン交響楽団などの Smart mobs
の画像を見せなくては。おっと。先週、教室のネットが不調だった
のだった。午前中に必ずcheck!!!!

はー、忙しい。コピーロボットが欲しいな…


2012年8月17日(金曜日)

漸く通常モード?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時51分18秒 記事編集

約25日ぶりにSMART-GSのコミット。2回の引っ越しやら病院がよいで時間を取られて思うように進まなかったが、この数日でかなり前進!

原稿と内海日記の件、京都学派アーカブなど予定山積!!!!!

今日考えたこと:人間より遥かに高速の思考しコミュニケイトする生物がいたとする。もし、マイクロ秒が人間の1年に対応するが、
思考レベルは人間と同じとしたら、その生物の社会の思想は人間にはランダムに見えるのではないか?少なくとも人間はコミュニケーション
を観察できないので。

価値と実質の相違も、そういう時間の差異ではないか?

田辺のヒルベルト公理論への歴史主義的評価。歴史主義とは知識社会学的ということ。社会こそが歴史のメディア。

これはライプニッツ新理論の神の必要真理が人間には偶然とうつるというのと同じ思想。

これらの思想は完全に外延的。

これはドゥルーズ・スピノザに自由を見る観点、カオスの観点と同傾向の思想。

それに抗したのが、前期、ハイデガー。(後期は?)


2012年4月24日(火曜日)

Gamification

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時10分18秒 記事編集

今週のアエラにゲーミフィケーションという記事がトップで掲載されているのを発見。

これはディズニー化やトヨタ生産方式、再魔術化と同じトレンド。

ウェーバー「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」を斜にかまえて
読めば、実はこれも同根だとわかる。

ゲーミフィケーション:時代のビジネスは「仕事」をゲームだと思って行なう
 無数の大衆(消費者)が担う。

ウェーバーの「プロ倫」:現在の(二〇世紀初頭の)ビジネス世界、あるいは、
 さらに広い「世界」は「仕事」を信仰における実践と看做す人たちにより
 構築された。これを近代資本主義という。

ゲームと宗教を、共にビジネスの形式から逸脱するものとして理解すれば、
これら二つが似ていることがわかる。

そして「消費者とは進化しようとしない人、変わろうとしない人である」という
僕の定義よれば、「人間の部品化」と、これは連動する。部品が変わろうという
自由意志をもってしまうと、ネジや錠前は使い難い。これらが有用なのは、
いわば人間がJISなどの標準に従って採用され、行動するので、
予測可能性・計算可能性が促進されるからだ。

しかし、いまや、その計算可能、予測可能を超えた何かこそが
ビジネスやアカデミズムで「勝ち抜く」ための条件だという
認識が世界に広がっている。


2012年3月12日(月曜日)

『具体的』=直観的=実質的

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時10分33秒 記事編集

二つ前の田辺の引用での「具体的」の使い方をみると、それが直観的というか、
演繹を経ずに直接にわかるものと読める。

演繹は否定的媒介とはことなる。否定的媒介は、たとえば、失敗により、
ある肯定的事実が「腑に落ちる」こと。これが直観。ブラウワーの
直観ではない。これは実は形式であり演繹。西田の純粋経験などと
同じで、形式が支配する現代へのアンチテーゼであるが、体系性を
得るために、それ自体が形式となっている。うーんと、西田は
体系的でないかも。個人の資質ですね。田辺は過剰に体系的であって、
また、歴史に翻弄されたために(歴史に「否定」(的に媒介)されたということ)、
体系的でなくなって「しまって」いるところがある。
#ハイデガーとかドゥルーズなどは、それを断ち切りたくて、
#ああいう文体になるのかも?しかし、それも結局形式になる。
#形式に抱きついて、しっかり抱え込み、ロデオをするしか、
#形式を超える道はないはず。うん?これギデンズだな。 :-D


2012年2月2日(木曜日)

Structure and agency

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時34分36秒 記事編集

Wikipedia の Structure and Agency
The question over the primacy of either structure or agency in human behavior is a central debate in the social sciences. In this context, agency refers to the capacity of individuals to act independently and to make their own free choices.[1] Structure, in contrast, refers to the recurrent patterned arrangements which influence or limit the choices and opportunities available.[1] The structure versus agency debate may also be understood as an issue of socialisation against autonomy, and can be contrasted with the “nature versus nurture” debate.

もとは、Barker, Chris. 2005. Cultural Studies: Theory and Practice. London: Sage. ISBN 0-7619-4156-8 p448
人文研
書庫2F 洋書人文部
361.5||B/21
2000690885
00069088

ほぼ、Mengeと Wahlfolge の定義と同じ。比較のために良い
定義の候補:
http://www.psiquadrat.de/downloads/heyting1931.pdf

そこから種と個へ。ただし、最も初期の種。
まだ、自己媒介しない段階のもの。
Giddensだとagencyがstructure に reflectする。
ただし、直接。これは田辺が陽に排したアプローチ。
種の論理とGiddens理論の比較。
agency には intensional な実存がない。
というより、sociology は外延的なので、
それを無視する。シェーラーの社会哲学では?


2011年5月29日(日曜日)

Heidegger哲学てそんなに狭いのかーっ?!!

西田田辺記念講演で、種の論理における人間学的要素について論じるために、田辺の人間学の時期(種の論理の直前)におけるハイデガーの「存在と時間」の哲学への言及(ただし、成立前!)を理解するため、いろいろとハイデガーを調べる。
 で、Design や渕さんについて調べていた頃、Winograd さんの本を読んでから、どうももやもやして変だったものが氷解したような気がするのでメモる(あるは、さらに誤解しただけ?これから検証、とりあえず検証のために纏める)。それにより、M.Friedman の構図、分析哲学、大陸哲学、田辺哲学の位置、Winograd さんやドレイファスの哲学、ハイデガーとITのことなど、何か全部がまとまった。
 疑問はいくつかあった:

  1. なぜ「存在と時間」の哲学が現実のITのプラクティスの場で役立つのか(Winograd)
  2. なぜ「存在と時間」のような語り方で存在論が議論できるのか?(できるはずがないと感じていた)
  3. なぜハイデガーが偉大な哲学者として持て囃されたのか

 これは僕がハイデガー哲学がライプニッツとか、カントとか、ヘーゲルとか、そういうものと同列のものだと誤解していたから。この2グループはドレイファスがいう『前者は「哲学者」、そして、ハイデガーやらヴィトゲンシュタインはnon-philosopher』という分類に似ていて、(ドレイファスではむしろ方法論の相違が強調されるが)見ている対象が異なる。実は、ハイデガーなどの「非哲学者」は、パラドキシカルなことに「哲学者」より、「科学的」になってしまっている。つまり、世界を一括して理解したいという本来の西洋哲学に充満していたはずの欲と言うか目的が失われていて、「この分野に限定」という後退がある。これが田辺には我慢がならない。それが、ハイデガー批判であり、西田批判になる(ただし、西田批判の方は少し違って実践の問題が大きいのだろう。逆にハイデガーにはナチスに拘わったという「実践」がある)。
 破壊と構築―ハイデガー哲学の二つの位相,門脇 俊介やら、この阪大の高田さんという人のパンフレット、そして、田辺の日本最初のハイデガー哲学紹介(一つ前の投稿タイムライン参照「…転向」)からすると、ハイデガーは要するに存在論をOeffentlichkeit(公共圏:田辺訳)に限定してしまい、そこだけで存在論をDasein の「直観」のみから構築しなおすという戦略で哲学を進めたということになる。これは田辺の説明の受け売りで、正しいかどうかしらない。しかし、これは「存在と時間」出版の数年前の説明であることに注意!つまり、個人教授の先生だったハイデガーから田辺は、これから書かれる「存在と時間」でとられることになる方法論について「親しく聞いた」わけだ。本を書くときには、最初の意図どおりにはまず書けない。ということは、この田辺の記述は逆にハイデガーに極めて近い哲学者からのハイデガーの研究戦略の「証言」なのである。(で、気になるのが群馬大田辺文庫のハイデガーの講義のノート。もし、あれが個人教授のときのものならば田辺研究ではなくハイデガー研究のための第一級史料となるはず。講義のものでも重要だろう。ちゃんと読んでみなくては!)
 要するに、田辺が後に批判するように、ハイデガーは世界を相手にしていない。ハイデガーの世界は狭い意味の社会学が扱うような、人間の社会、公共圏についてしか語っていない。もしそれこそがそれのみが Dasein に語りえることだというのならば、我々のような理系の人間からしたら「まったくの現実無視!」といいたくなる。それは哲学者が文系の都市住人であり、そこに生きる世界が限定されているからだろう(当然、ここで京都学派左派の問題が生じる。しかし、今、京都学派として知られものには、多かれ少なかれ「文人・墨客」のイメージがつきまとう)。哲学者ならば相手にしているのはみんな人だろう。しかし、工学者や理学者、そして、数学者が相手にしているのは人間ではない。都市以外の住人ならば、たとえば農業のように否応なく自然に対峙する人もそうだろう。僕には、これについては庭仕事くらいの経験しかないので大きいことは言えないが、僕が実際に直接、かつ、長年経験している、ソフトウェアの世界、数学の世界、そして、IT教育の(インフラ整備の)世界では、この世界観は全くなりたたない。
 たとえば、百数十台のワークステーション(平成元年の話)の世話をして、それで学生たちを教えるといときに日常性として起こるハードウェアの障害(Winograd ソフトウェア論では、そういうものは異常事態として説明される)は、同僚やら学生やらとの関係と同じように重要だし、さらには、個人でできる研究に没頭し始めると最も身近なものは人ではなく物(ソフトウェア含む)となる。要するにハイデガー哲学には、ヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては語ってはならない」としたような狭さというか、学問がなりたたないからそこは無視しましょう、という卑怯さのようなものがみえる。田辺にはそこが許せなかったはずだ。たとえば、こういう哲学では1945年8月6日に広島に(偶々)いたということと、その帰結について何らの「納得」もできなくなる。おそらく、そういうものはハイデガーには「語りえぬもの」なのだろう。要するに基礎付け主義というか、厳密主義にすぎないので、裏返しの分析哲学のようなものだろう。ぼくには、田辺の態度の方が共感できる。(態度の問題で哲学のシステムとしてどうかというのはでないことに注意!)
 では、そのように狭いにも拘わらず、なぜ、ハイデガーがもてはやされたか?それはもてはやした人たちが、「同じタイプの公共圏」に住む人たちだったからだろう。そして、そういう問題、田辺の言い方を真似れば、「体系的学問的明証的であることを保ちつつ、Leben について自分という Dasein に直接与えられていると信じることができるものだけを使って哲学したい」ということを可能にし、しかも、それまでの哲学をちゃんと総括できるという、職業的哲学者として実に際立った能力で処理された哲学体系であり、しかも、それに乗れば自分たちも何某かのことができると見えたからだろう。実に近代的であって、分析哲学と対抗する位置に立つに相応しい思考のスタイルであったわけだ。
 ハイデガーの議論のスタイルを使えば、職業としての哲学が継続しえる。しかも、自然科学などという、その時点ではドイツ社会に投げ入れられている Dasein 自身としてはあまり語りたくもないものと決別して哲学という「仕事」を継続しえる(ある伝記によるとハイデガーも最初、数学の方向にいこうとしていたそうだ。本当ならば大変納得)。そうなると「とにかく哲学をやりたい」という人たちには、物凄く魅力的に見えるだろう。プロイセンの科学・工業の時代ころから、哲学は成立しないという強迫観念にドイツの哲学者は長く直面しているのである。そして、哲学者のなかでも、そうでない人たち、特に自然科学とか、ハイデガーが「語りえぬもの」にしてしまったことを語ろうとする人たちは、ほぼ同時期に記号論理学という別のスタイルを得て分析哲学への道を歩み始めていたわけだ。つまり、フリードマンが言う分裂である。
 では、そのような自然科学とかに全く関係のないはずのハイデガー哲学が、どうして、ITの世界で重宝されるのか?これは簡単で、要するにWinogradさんとか、僕とか、Google などのWeb2.0企業とか、そういう人たちが対面しているITの世界というのが、圧倒的にハイデガーが住んでいた哲学の世界に近いから。つまり、そこには津波も原爆も加速器もない。インターネットというやつは、おそろしく安定的で、物理的・自然的干渉から独立だ。だから、ほぼ、物理的・自然的制約を無視できる。もちろん、ケーブルにケッつまずいて電源落ちて何年分かのコードが消えた原稿が消えたということはありえるわけだが、それは僕らの若い頃までの話で、今はOSやマシンが凄くロバストだし、ネットがあれば分散してのストレージというのもありえるし、また、アマゾンで本を注文してもアメリカから1日で洋書が来たり、Math. Ann. の古い巻のページをドイツのサーバで楽々と検索し閲覧できる時代。つまり、工学者や実験系の科学者が日々対面しているような問題からほぼ自由で居られる(ディズニーランド化の技術的原因)。
 Winograd さんはワープロの電子機器としての存在はユーザーにはそれが故障するまで立ちあらわれないというところから、ハイデガー存在的発想のソフトウェア開発での重要性を説明したが、要するに実質的にその「故障」がほぼなくなってきている。つまり、ほぼハイデガー的世界だけで、サイバー世界だけで閉じて生きられるような世界になっている。もちろん、アマゾンの最終部分が(本当の最終は宅急便なのだが)FCであるように、また、 Googleの大きな技術的競争力がデータセンターの運営能力であるように、物理的なものはかならずある(それが田辺では第3次元)。しかし、それがあまりに安価かつ容易に提供されるものだから、それはないに等しいわけだ(しかし、提供側にはその分、凄まじいほどの能力が求められる)。そういう世界でプラクティカルにはほぼ不必要な物理的存在までケアしようとする哲学(形而上学)より、ハイデガー存在論が便利なのは当たり前だ。ソフトウェアはハイデガー的 Dasein とのその公共圏の中だけで構築されるのだし、そうしないと、複雑すぎて、とても構築できない。
 しかし、そうはいっても津波は来る。災害は起きる。事故も起きる。ハイデガー哲学のターミノロジーでは、その「稀」なことにはなんら対処できない。実は社会自体が、こういう世界では自然としてたちあらわれる。ハイデガーにとってのナチスと連合軍、田辺にとっての日本ファシズムと連合軍が、そういう意味での自然となる。そういうものをハイデガーは自分の圏内から実質的に排除しているのではないかと、全然ハイデガーを読んでないのに(^^;)思う。これに反して、Ulrich Beck のリスクの概念などは、ちゃんと危険からリスクに問題の多くの比重が移動したという形で両者について語れる。このことが、現代ではハイデガー的なものは、むしろITの技術の背景として立ち現れ、Dasein のために世界観としては成り立たなくなっている理由の一つだろう。この方向に行くならば北森や晩年の田辺のような方向に行くしかない。
 もうひとつ考えたことを書いておかねば。ハイデガーの立場は、あるいみでヒルベルトの有限の立場とかブラウワーの直観主義の立場と同じ。要するに、どれも基礎付け主義、近代的なのだが、この方向に多くの人が進んでしまう理由、誤解の理由が有限と無限の問題にあるように思う。これは数学の有限・無限ではなく、Dasein としての自分と超越の関係のこと。しかし、長らく集合論のような無限で超越的な対象を考え続けた人にとっては、パイの1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000桁目の数字という有限的存在より、巨大基数の方が余程慣れ親しんだ具体的存在になる。実験物理学にちゃんと通じるような形の物理学、たとえばCERNで実験をするような人などにとっては、我々には意味も理解できないような素粒子(?)の方が具体的であるはずだ。このようにヒルベルト的に考えれば、19世紀終わりから20世紀初頭の数学や哲学の基礎付け主義の誤りがわかる。ゲーデルなどは、それから自由なのだが、それが彼が古臭く見える理由なのだからおもしろい。田辺はもしかしたら超古いので新しいのだろうか?
 この問題は、さらに京都学派左派の三木、戸坂などの「実践」の問題に繋がるが、長くなりすぎたので、ここで打ち切り!
プログラミングとか、講演のレジュメ書きとか、頽落せねば! :-D
#新書原稿も忘れてはいません。>千葉さん


2011年5月8日(日曜日)

身体論・人間学から種の論理へ、そして数学史

種の論理が、その直前への身体論、心身論から生まれたという竹花さんの講演を「善の研究」出版100年記念の会議で聞いたときは、
大変おもしろい指摘で、田辺が、これに関連して後に自分の病気が種の論理の契機なったと書いたことの理解として(これが僕には
何か全然わからなくて、咽喉のかかった小骨状態だった)大変良いと思っていたのだが、どうも、そんな軽いものではない。
7,8日の引用から明らかなように、処女論文からあった志向性が、この段階で、ほぼ明らかになり、まだ、理論(論理)構造を
つかめていないが、その条件は、ほぼ、すべてそろっている。欠けているのは「社会」というタームぐらいだろう。
しかし、すでに「共同体」まではでている。そう考えるとシェーラーの Wissenssoziologie は大きな契機だったのでは?
面白いのは、すでに弁証法が完全に前提となっている点。これはやはりマルクスなのか、それとも純粋哲学的動機のほうが、
大きいか。全集4ではマルクス主義の姿が見えない。マルクス主義・弁証法との対峙と、全集4で示された性の哲学の
理論化=論理化=被媒介化の方向と、田辺が弁証法研究に傾倒したという、この二つのほぼ同時に起きている(前者が
一応は後だが)歴史的プロセスの関係がわからない。これ大きな興味深い問題。

風邪で寝込み中に、竹花さんにもらった論文別刷りを読んで気になり、竹花さんが参照していた全集4の諸論文を調べた。
その結果わかったことをメモッたのが、5月7−8日の投稿。その纏めが上のメモ。

要するにWeylの1921年の危機論文、Ueber die neue Grundlagenkrise der Mathamatik
http://www.scribd.com/doc/49885193/Hermann-Weyl-Ueber-Die-Neue-Grundlagenkrise-Der-Mathematik
がひとつの例である、第一次世界大戦前後のドイツ思想界の激動と変化を田辺の人間学はみごとに反映している。
単にマルクス弁証法への対峙で種の論理の発生を説明するのは間違い。

今まで調べてきた様々な分野の歴史・思想史研究間の関係が、すべて関係。要するに現代の西洋哲学の2分の弊害により
見えなくなっているウィルヘルム2世朝からワーマール共和国にかけての激流のようなドイツ思想史の問題。数学基礎論史は、
そのひとつのエピソードとなる。(ただし、重要なエピソード。)

関連するもの:
1.数学(基礎論)史
1.1.Gray, 林の近代性の視点からの数学史
1.2.
2.思想史。主に科学・数学に関連する思想史
2.1.Michale Friedman, Alfred Nordmann 系統の研究
2.2.これらは、いわゆる科学史や科学哲学どいう「専門分野」とはずれているが、
 Friedman, Nordmann eds. の proceedings(?) に GrayとLuetzenの
 論文があるのが、これに道をつけている。
3. 思想史
3.1.Herbert Schnädelbach, Bambach など。
4.そして日本では京都学派。
4.1.今は田辺のみだが、九鬼、三木、戸坂、高坂など、特に第2,3代世代への関連は?
 時期的に岩波の哲学講座昭和6年が手懸かりとならないか?これらの著者が多く書いている。


2011年4月24日(日曜日)

Omnipresent Web

SMART-GS0.8のコーディングの最も面倒なところが終わり一息と思ったら、
岩波から原稿の状況の問い合わせが来た。(このブログ見てるんですね。
千葉さん。(^^;))

社会学の学会が組織したボランティア運動で宮城県と福島県の県境あたり
に行っているらしい溝口君が水曜のPlato’s Ghostの講読にでてきたので、
みんなで色々と話をきく。Google Earth だか、 Map だか、Street View だか、
どれか忘れたが(アラカンで記憶力減退)、Google の地理画像情報が
随分役に立っているらしい。家が流されて、それを探すとか、被災証明か
なにかのための証明用にとか、必要な Google の画像を印刷して渡すと、
泣いて喜ばれるという。パーソン・ファインダーといい、今回の
大震災は Google がどういう存在なのかを如実に示している。

溝口君に必要な画像が更新されて消えてしまうことはないだろうかと
聞かれて、Googleはミッションで動いているから、
メールで必要性を知らせれば対応してもらえるのでは、とsuggest。
彼は昨夏の村上さん(当時まだGoogleジャパン名誉会長)の集中講義
を聞いていたので、直ぐに納得していた。

村上さん経由のおねがいというのもあるだろうが、Google
は通常の意味の「会社」というよりはイエズス会に近いの
だから(だから日本に上陸すると「弾圧」される)、現場で被災者支援
をしている人が同志として頼むのが一番自然だし、わかってもらえる
だろう。

とはいうものの、木曜日夜にプログラミングの峠を越えてホッとしたので、
さっき自分でも調べ、いろいろとわかったので、溝口君にメールで
知らせる。しかし、今頃は被災地で僕の長ーいメールを読む暇はないかも。

で、一般的にも意味があるとも思うし、水5の講義の内容とも関連するので、
ちょっとそれを採録:
++++++++++++++++++++++++++
林@京大文です。すでにGoogleから返事をもらっているかもしれませんが、
ちょっと調べてみたので連絡しておきます。

溝口さんが言っていたGoogleの古い写真というのが、Google Earth の航空写真
ならば、震災と関係なく Google Earth 6 以後の time slider 機能として古い
写真が表示されるようです。
http://earth.google.com/support/bin/answer.py?hl=ja&answer=148094
http://www.google.co.jp/intl/ja/earth/explore/showcase/historical.html

1946年のサンフランシスコの画像まであるのですから、多分、基本的には永久に
保存されるのでしょう。

しかし、street view の画像については、この機能はないようです。現在は震
災前の「古い」写真を見ることができます。たとえば、
http://maps.google.com/maps?f=q&source=s_q&hl=en&geocode=&q=%E5%8D%97%E7%9B%B8%E9%A6%AC&aq=&sll=39.639538,-98.173828&sspn=53.508562,91.230469&ie=UTF8&hq=&hnear=Minamisoma,+Fukushima+Prefecture,+Japan&ll=38.124588,140.936004&spn=0.003507,0.005568&z=18&layer=c&cbll=38.124588,140.936004&panoid=_q9s9gOFOjxY-rHW6FpYCA&cbp=12,292.83,,0,11.01

こういう画像は非常に貴重なものではないかと思います。ユービキタスという言
葉がありますが、これは神はあらゆる場所に存在するという意味ですが、さらに
オムニプレズントという言葉があり、これは神があらゆる場所とあらゆる時間に
いることをいいます。ストリートビューにもタイムスライダーがつくとオムニプ
レズント・ウェブへ一歩近づくことになりますから、おそらくGoogleはやりたいで
しょうね。

広島では原爆以前の町並みを記憶などに頼って復元するという活動が
あります(わりと最近始まったものです。被爆者は過去は思い出したくないので.
..)。そういうものに使えるようになるわけで、実際、2009年のオーストラリア
の山火事によるMarysvilleの焼失
http://www.smh.com.au/news/national/marysville-almost-destroyed-in-victorian-bushfires/2009/02/08/1234027832317.html
に関連して、こういうものがありました:
http://www.facebook.com/group.php?gid=69249521398

Googleに働きかけて、Street Viewを過去の光景のアーカイブにするというのは
ありえますね。ただ、Grid上でやるという方法もあります。いまでも、腕に自身
がある人ならば、Street View の画像を落としまくる、Street View をクロール
するクローラを、すぐに作れるはずです。

被災した人たちがとりあえず今必要なのは、Google Earth のほうですか、
Street View の方ですか?
++++++++++++++++++++++++

村上さんの話では、Google BooksがGoogleの収支をかなり圧迫し
ているらしく(だから、かわいそうに清水君の給料は低いらしい(^^;)。
まあ、それを知っていて入ったのだからしょうがないよね。
元気でやってますか?(^^))、それからすると、Street View
の古い画像を保持することはどうか?

これは新日鉄ソリューションズの大力さんの
言い方を借りれば「装置産業」なのでGoogle Booksより簡単なはず。
つまり、人件費を比較的喰わない。Google Books は最大の人件費喰い
のはずであり、それに比べれば過去画像など大きな問題ではないはず
(古い画像は解像度が低く容量が小さいし)。

もし、omnipresent web が実現されたら、未来の歴史家は、僕のように
群馬大や京大文学部の田辺文庫の古紙の虫になるのではなくて、
メールやブログの記録、street view, tweets, life log の
記録を探し回るのだろう。それは今僕がやってる作業より、
はるかに膨大な作業であると同時に、まるでタイムマシンに乗って
過去に遡るようなワクワクする体験に違いない。
#うらやましーーー!!!

その探検旅行にSMART-GSの子孫が使われていたらホントうれしい
のだが。(^^)


2011年4月5日(火曜日)

Wissenssoziologie: 新たなリンク

C.R.Bambach: Heidegger, Dilthey and the Crisis of Historicism の H.Weyl, Ueber die neue Grundlagenkrise der Mathematikへの言及の原典は、Paul Forman. このWikipedia のreferenceから、Nico Stehr, Volker Meja 編集の society & knowledge のシリーズへ。vol.3, Contemporary Perspectives in the Sociology of Knowledge へ。そのp.1~:この本はWissenssoziologie についてのものであり、そのルーツは、M. Scheller と Karl Mannheim 特に後者。また、新しいリンク(田邊研究、歴史社会学、数学基礎論史)。

これに関連して、Bettina Heintz の Die Innendwelt der Mathematik. Zur Kultur und Praxis einer beweisenden Diziplin. を手に入れた。著者は、Professorin für Allgemeine Soziologie und Soziologische Theorie an der Universität Bielefeld。ドイツ語の本なので直ぐに詳しくは読めないのだが、拾い読みして見ると、大変、面白そう。数学を大変良く理解した上で書いてある。Allgemeine Soziologieの人らしいし、Vorwort によると、別に数学者であったとかではなく、学際的研究としてやったらしい。約10年前の本。一般社会学の人が、ここまでレベルの高い数学の理解をもつのが驚き。日本では、まず、望めない。この違いの理由はなんなのだろうか…

関連して、Sokal affair について調べ始める。Sokalは、sociology of scienceには、(それが良いものであれば)同情的。


2010年11月1日(月曜日)

Programming, 帝国, Participation

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時36分37秒 記事編集

夏休みからやっていた、SMART-GS の Spreads Selection の機能が漸く完成。神戸大工学部に移ってからは、自分でプログラミングをすることは、emacs-lisp を少し触るとか、そういうこと以外は、ほぼ無くなっていたので、少なくとも16年ぶりの本格プログラミング!しかし、神戸では学生に教えるためにトレンドを常におさえていた。それが自分でも使えるか不安ではあったのだが、杞憂だった。 :-)

自分では手を動かすことなく、学生に指示していた通りに、自分でもできる。学生に教えていたことが間違っていなかったことが確認できた。 :-D

それにつけても、eclipse のような開発環境とCPUなどのプラットフォームの進化は凄まじい。およそ、二十ウン年前、エジンバラの computer science で PX system をコンパイルしたり、その本の TeX source をコンパイルすると、20分ほどかかるので、tea time にしていたのを思い出す。それ以上のことが一瞬ともいえるスピードでできる。そのころに「原理的には、こうできるのだが…」と考えていたことがすべて実現されている。

で、そのころのプログラミングとの最大の違いはなにかというと、僕が、学生たちに「こうしてはいけない!」と言っていたことを自分でやっていること。つまり、「どうしてこう動くのか、説明して」と学生に言うと、「同じ様な例を見たりして、色々やったら動きました。理由はわかりません…」というので、「めっ!」とかやって居たのだが、自分でそれをやっている。

それが可能だし有効なのである。当時は自分の頭脳でプログラミングしていた。そうでないと、実質良いプログラミングはできなかった。ところが、今では「社会インフラ」でプログラミングできる。つまり、デザインパターンや Java 仕様などの共有された知、特にプログラミングスタイルのもとに書かれた、大量のマニュアル、ドキュメント、プログラミング例(これには、意識的に、自分で手を出さす、学生や企業に頼んで書いてもらったプログラムが入る。あるいは、これが一番大きい)を、サーチを使って見つけながら、時にはコピー&ペーストでプログラミングする。そして、大体は理屈がわかってはいるが、完全に解るまでは解析しない。コンパイラや eclipse が詳細を見張ってくれているので、そこまで考えるのは「やりすぎ」なのである。結果として、以前は、「めっ!」と言っていた学生と同じようなやり方でプログラミングをしている。つまり、「原則を大体わかり(といっても、僕は学生よりはずっと良くわかっているが)、詳細はシステムにまかせての試行錯誤」である。

つまり、WEBや Google search という「物理的媒体」に支えられた、デザインパターンやオブジェクト指向の社会(より具体的にはJava のコミュニティ)に「参加」(participate, teilhaben)することによりプログラムしている。SMART-GSは source forgeを使って開発しているから、まさしく reflexive になって「参加」になる。これこそが本当の「バザール」の意味で、構造化されていることはそれを実現するための条件にしか過ぎない。つまり、伽藍とバザールの比喩はおそらく間違っているということ。典型例はガウディの聖堂の「ボランティア」たちか?(ガウディのデザインがないとあれはできないし伽藍だ。)

この2日ほど、ネグリの「帝国」を読んでいるが、その「帝国」と同じ仕組み。今、講義のために、固めている Giddens 的な情報歴史社会学の話とも相即する(「相即」という言葉は田辺研究と「相即」している ;-))。SMART-GSはsource forge で公開されるから、当然のように僕も、この帝国に participate することになる。

この participate の意味を知りたければ、これの講義資料を参照。


2010年10月17日(日曜日)

田辺, Scheler, Teilhabe, participation

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時42分55秒 記事編集

今週の金曜日2の「田辺元を読む」の整理をしていて、今やっている田辺の思想史と、同じ金の4でやっている情報歴史社会学の話の participation の概念が繋がっていることに気が付く。Teilhabe という言葉が田辺の昭和9年の講義メモの最初にある。英語に直訳すれば participation。情報歴史社会学では、知識資本主義の実現としての Google, Web2.0 などにおけるユーザーのシステムへの「自発的積極的埋め込み」を、Web2.0 の O’Reily の participation という言葉と、Giddens の structuration theory の agency (個)と structure (組織)の関係論で説明しようとしていたのだが、田辺の種の論理に構造が似ているのが気になっていたが、まさにそれが種の論理の発想のものとであった可能性が大きいが、この解説によれば、Scheler の意味での Wissen (Herrschaftswissen, Bildungswissen, Heils- order Erloesungswissen)は、何かに Teilhabe する行為である。この内、Bildungswissen と呼ばれる Wissen の Teilhabeformen は、die Partizipation am Granzen der Welt je nach eieinem metaphysischen Entwurf der einzelnen Person; と規定されたと説明されている。これの典型は、Philosophie とされていて、まさにこれが田辺の哲学の意味であり、また、種と個の関係といえる。一方で、
Herrschaftswissen は Welt の greifbaren Aspekten der Welt への unendlichen Prozess des Wissenfortschritts を通しての Partizipation とされる。残り一個のは、宗教あるいは神秘主義であり Partizipation am Weltgrund である。Herrschaftswissen は無限のプロセスで greifbar な真理に近接する、つまり、Natorp 的な極限知としての科学(特に自然科学)。Scheler 哲学を知らなかったので、これの意味がわからなかったが、これで判ってきた。

そうなると、昭和9年の講義メモの Sosein, Dasein の議論も意図は明瞭となる。昭和4年、「明証の所在」における Cogito ergo, sum を用いての Sosein と Dasein の議論には、数学基礎論、特に公理主義への言及が登場する。Cogito = Sosein と、sum = Dasein は外延的には一致しても、内包的には、「真の個」を持ち得ない前者は後者と異なる、とされる。そして、Sosein を公理主義的存在論の存在に結び付けている。これもピッタリ、全体の枠に嵌る。

とにかく、この Teilhabe を「知の総体に参加、あるいは、所属する(集合の要素のように「入る」のでなく、ベッタリと貼り付くという意味での所属)こと」と理解すれば、まさに participation という言葉で、Web などにおける「積極的自発的搾取」を説明しようとしていた、僕の構想にピッタリはまる。ということで、この系統の考え方に teilhabe しよう。 :-)

田辺は、やはり、実にドイツ的。しかし、この方向で考えれば、西田の「行為的直観」なども、同じ傾向のものとして捉えられるのではないか?まあ、西田哲学は全然理解してないので、生兵法はやめとこう。(^^;)


2010年7月9日(金曜日)

ポイカート2:それを生きる、それを知る

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時20分10秒 記事編集

なぜ、ポイカートに共感できたか?

  1. 情報工学者、私大教員、中堅国立大教員として、近代のテーゼが示すものを生きていた。
  2. 『検証論』『ソフトウェア工学』の研究者だったために、「生きる」だけでなく、「それについて考える」ことを余儀なくされていた。
    だから、「近代を生きている」だけでなく、その生きている場所と時間に埋め込まれた形の「近代のテーゼを考える」をやっていた。
  3. さらに、それを大学評価などの大学経営などの埋め込まれたものと比較する機会を偶々得ていた。根は半ばはがされていた。丁度、それと同じ位のタイミングでポイカートや社会学文献を読んでいる。
  4. だから、ポイカートを通して、ウェーバーを知り、それを通してギデンズを知れば….それは容易に脱埋め込みできますよね!

そうだ、そうだ!!

:lol:

フムフム、なかなか複雑なリフレクション・メタ関係だなあ。 :-x

コラ!遊んでないで、講義資料を作れ! :hammer:


ポイカート

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時37分49秒 記事編集

講義準備のために、物凄く久しぶりにポイカート「ウェーバー近代の診断」を読む。今やっていることの、あまりに多くがポイカートの史観と同じであることに驚く。ウェーバーという巨人の実像については、これで学んだのだが(「マクドナルド化…」がきっかけだから10年くらい前か?それぐらい文系オンチだったわけで…思えば遠くへ来たもんだ〜♪(^^;))、最初に読んだときに、すでに「共感」してしまっていたから、「診断のテーマ」はポイカートに学んだわけでないのだが、ポイカートから多く学んでいることは間違いなさそう。訳も良さそうだし、来年、これで特殊講義をするかな(学部演習には、ちょっと難しすぎだろう)。もし、ドイツ語原本でやったら、どれくらい学生がくるかな?著者は現代史家、テーマは社会学者と近代化、教師はもと理系、教科書はドイツ語!… :oops:


2010年6月22日(火曜日)

組合は “participation” を嫌う

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時26分46秒 記事編集

ドラッカー「知の巨人ドラッカー自伝」:p.149, 知識労働者=責任ある労働者. GMについての1940年代の調査から生まれた概念.最初は「責任」後で「知識」に変更.(when?) pp.150-151. しかし,その participation を UAW http://en.wikipedia.org/wiki/United_Auto_Workers は嫌った.UAW会長ルーサー「経営陣が管理し,労働者が働く.労働者に対して管理者としての責任まで負わせるということは,労働者に大きな負担をもたらす」.

日本企業のそれは,おそらく「マイクロ・ファイナンス」と同じく,「マイクロ・マネージメント」だった.だから,労働者は喜んで参加できた.階層構造は明らかで,どんなに現場で工夫をしようとも,それで社長になれるわけではないことが「文化的・社会的に保証」されているので安心できた.

そういうことか????あるいは,敗戦国として,労働者に上昇へのガッツがあったのか?しかし,日本労働者のメンタリティーの中の TQC が社会的階層中の上昇志向と結びついていたとは思えない.

現在は「雇用」の確保のためにさえ, participation を求められる.その participation は,現代日本ではマイクロに限定されているかどうか?人々は,それをどう望むのか?おそらく「正しい京都人」の多くはマクロを望まないのだろうけれど. ;-)


Giddens on Peter Drucker?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時10分16秒 記事編集

「知の巨人ドラッカー自伝」を読む.「日本的経営」などの要素が,すでにスローン,ワトソン,ドラッカーたちによって用意されていたことがわかる.やはり源流は米国.ここで疑問が起きる.Giddens は,なぜ Sociology で日本の経営に言及しながら,その源流としての Drucker たちには言及しないのか?(Soc. 6th ed. には Drucker はない.装丁は by Peter Ducker MISTDだけど. :-D). もちろん,Giddens は Drucker を「知って」いる.Giddens, Introductory Readings, revised edition, http://www.amazon.co.uk/Sociology-Introductory-Readings-Anthony-Giddens/dp/toc/0745624405
には “Beyond the Information Revolution” Peter F. Drucker がある.

もうひとつの疑問は,ドラッカーたちは情報の UNIX ハッカーたちと自分たちの「類似性」に気が付いていたかということ.Winograd さんが Steve Kline を知らなかったことからして,この間に人的つながりが無かった可能性が高い.いままでに判っているのは Nathan Rosenberg が S. Kline と同じ委員会にいたこと.(S. Kline が日本について書いているものがある.それが和訳もされていることも面白いが.)あまりに弱いリンク.無きに等しい?

これは何度も経験した不思議な現象.本質的なアイデアを出す人たちは,案外サークルが狭い.そして,同じような考えが,関係のないいくつものサークルから生まれてくる.田辺だったら「絶対無・絶対媒介がそうさせる」というだろう.要するに「社会・歴史」の圧力・流れが thinkers たちを導いている.その流れの中で我々は動いている.流されているのではない.下流に流されつつ,上流に泳いで見たり,横にずれたり,様々に行動する.だから,歴史としての「時間」は局所的には後ろに流れるようにさえ見えるし,実際,そう流れている.しかし,結局のところ,つまり,大局的には,時間はやはり下流にのみ向けて流れ,我々は水流の上を流されている.しかし,水流は沢山ある.ある水流から別の水流に泳ぎつくことくらいの能力(自由)は我々には備わっている.


2010年6月12日(土曜日)

Giddens Sociology 日本的組織

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時04分13秒 記事編集

Giddens, “Sociology” (4th edition? 以後), Organizations and networks の日本的組織が Weber 的官僚制を変えたという節は,背景により専門的な研究があるのか?あるいは Ritzer 程度か?check 必要."Sociology” は基本的には入門的教科書であることに注意.


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