尾崎咢堂の論理学の教科書はコピーライドが消失しており、WEBで公開されていますが、これからコピーライトがあるもの、どうだか良くわからないものを幾つか使います。
PDFで配布しますが、コピーライトがあるので、パスワードによるアクセス制限をかけます。
今回の授業の最初に、そのパスワードとIDを見せますので、書き留めてください。(前回見せる予定で実際には見せなかった。)
疑問:なんでそんな古い本?
尾崎の演繹推理学第三章のタイトルが名辞概論.
この名辞という概念が、もっとも重要なポイント。
名辞は英語では term。だから、これが重要となる論理なので、アリストテレス論理学のことを Term logic ともいう。
記号論理学も、西田の論理(哲学)も、名辞から述語に重点を移動させた。
つまり、これらの論理が乗り越えようとしたのは、この名辞という概念なのである。
そして、その名辞とは、この動画で言われている東洋人と西洋人のものの見方の違で、西洋的とされている境界がハッキリとしている「物」「対象物」のことだと思えば良い。
尾崎の教科書の10-11頁に次のような名辞の例が書かれている:
尾崎は,1のような名辞を「唯一個の人あるいは一個の事物を指言する者」と説明し,2のような名辞を「諸種の馬,諸国の王,諸方の府県会を指言する者」と説明し,それぞれ,
と名づけている.
たとえば、孟子は特称名辞。また、人、中国人、学者は通称名辞。
命題というのは意味を持つ文章のことだと思っておけばよい。
アリストテレス論理学では、命題の基本単位は、二つの名辞から作られる
A be B
という形であると考える。ここで、A と B が名辞。
たとえば、次のものはみなそういう形をしている。
孟子 is 人
孟子 is 中国人
孟子 is 学者
中国人 are 人
学者 are 人
以上は皆正しいもの。
しかし、
中国人 are 孟子
人 are 学者
は間違い。
尾崎は A be B のような形の基本形の命題を合式命題と呼んでいるが、これは普通の用語では、categorical proposition と呼ばれている。(日本語訳がわからない。ない?)
その定義は、尾崎の説明の通りで、二つの名辞を コピュラ、copula、 繋辞(けいじ)、連辞(れんじ)で結んだもの。
A be B のAを主語、Bを賓語(ひんご、今の普通の日本語でいえば目的語)という。
何か変。賓語は漢文(中国語)の文法用語ではないのか…???
実は、アリストテレス論理学は、英語やドイツ語、ラテン語などの言語の構造に根ざしている所があり、例えば、英語を使うと説明しやすいが、日本語に例えて説明すると不自然になる!
そこで、日本語の対応する用語を使う尾崎の解説を使うのは、ここまでにして、
以下では、経済学者 John Maynard Keynes の父である John Neville Keynes の論理学の教科書を使って、これを日本語に引き当てず、英語に引き当てて、説明していく。
これが Keynes の教科書、Studies and Exercises in Formal Logic の第2版の、該当部分。Internet Archive 版
基本的には、二つの名辞の関係性には、名辞を集合だと思うと、対称的なものを同一視すると、次の4パターンしかないことがわかる。
他にもありそうな気が…
しかし、良く考えてみると、二つの名辞の関係は、本質的にはこの4パターンに還元できることがわかる。
たとえば、
さらに…
もうひとつ…
Keynes の教科書を参照すること
ここから三段論法の話。ここでアリストテレス論理学の名辞論に潜む不思議な話が明らかになる。そして、それは前回のテレビ番組の西洋的世界観と奇妙に一致する。
その話をする準備として、まずは、ビデオにも出てきたが、虎の絵から…
英語で「三匹の虎」は
同じく、2匹。
そして、一匹の虎。
three tigers, two tiger, a tiger は、いずれも term. 前二者は複数形、最後のだけ単数形であることに注意。
日本語には、こういう区別がないが…
Butte college iLogic の2.1.1 Sets では、恐竜 dinaosors という名辞が記述(denotes)するものは恐竜の集合と説明されていた。
これに従って、上の三つのケースを考えると、
ということになる。
つまり、a tiger も集合!
上の図で、the tiger が、他の二匹の虎 と分離されていることに注意。
ビデオで見た、外界、環境、周囲から、個物を分離して考えるという思考法に一致している。
実際、term の語源は、柵、境界などを意味するラテン語の terminus から来ていて、プラトン、アリストテレスの時代には、言語がギリシャ語で境界、極限を意味する horos という単語で呼ばれていた。
論理と言えば、有名な三段論法
がある。人間、死ぬもの、はどちらも名辞であり、2の「人間は死ぬものである」は、典型的なA型の命題、つまり、全称肯定命題。
では、1の「ソクラテスは人間である」と「ソクラテスは死ぬものである」は?
文章の形から、あきらかに、A be B の、A という主語の名辞は、「ソクラテス」!
実は、この様な、場合も名辞「ソクラテス」を集合と考える。
つまり、
西洋の論理学者たちが、どうして、この様に考えるようになったのかは、その数千年の歴史を仔細に調べるしかなく、おそらくは解明されていないし、解明は難しいと思われる。
しかし、この様に考えると、すくなくとも英語などの言語が使われるヨーロッパ言語圏では次の様な便利なことがある。
この様に考えると、英語の
の様な文章と
が同じ種類の文章、あるいは、命題として考えることができる。
たとえば、
この様に考えると、有名な三段論法の基本形
の三つの文章がすべて概念的に同じ構造、つまり、二つの term を連辞で繋いだ
の形、しかも、すべてがA型の全称肯定命題であることがわかる。
つまり、
の本当の意味は、
ということになる!
不自然なようにも感じるが、
という命題も、恐竜が絶滅寸前で、恐竜が最後の一ぴきしかいない状況では、「ソクラテスは人間である」と同じ様な状況であることに注意。
そして、これは、単に、三段論法の三つの命題が同じ形になるだけでなく、さまざまな形の三段論法の正しさの分析を統一的見地から行うことができる様になる。
実際、西洋の論理学者は、それを研究した。それが、伝統的論理学の「推論の理論」であるシロギズム Syllogism。
次に、これを説明。
先ほどの三段論法の前提、つまり、1-3の内の、1と2
の状況を、今までのようなベン図で重ねて図示してみると
となる。あきらかに、
が分かる。つまり、有名な「ソクラテスは死ぬ」という三段論法は、数学でいう
つまり、
のことである。
これは
がどちらも全称肯定命題として理解されたとき、 A be B B be C の、中間の B をとって作った A be C という全称肯命題は、二つの前提が正しいときには正しいことを意味している。
西洋の論理学者は、同様のことを、1,2 と A be C のそれぞれを、全称肯定、全称否定、特称肯定、特称否定のすべてのパターンで考えて、その推論が正しいかどうかを、ひとつひとつ検討した。
それがシロギズムの理論(英語Wikipedia)(三段論法の理論(日本語Wikipedia))。
検討する枠組みは、統一がとれているのだが、そのひとつひとつを検討し、それが正しいか正しくないかを統一的に議論できる方法はなかった。
つまり、ひとつひとつの個別の直観的な検討をするしかなく、また、その結果も、図を見ただけでわかると思うが、兎に角、ややこしく、その全体を記憶したりするために、BARBARAなどの符丁のような名前が作られた。
これは伝統論理学の大きな欠点であった。
また、Keynes の教科書にもあるように、実は、「ソクラテスは人である」という命題は、「ソクラテスという人がいる」という特称肯定命題と考えることもできるので、これを何に分類するか論理学者の間で議論があったらしい。
この様に、名辞を集合と見る立場は、例えば、データベースでの検索などを考えると、割と自然なのだが、理論的、数学的に、話を整理しようとすると混乱が生じることが経験的に分かっている。
こういう場合、前者を、我々は「本のリスト」あるいは「本の集合」と捉える。
後者の場合は、「ある本」と捉え、これを「長さ1の本のリスト」「要素が一つの本の集合」と捉えることは少ない。
しかし、上の二つの例をよく見ると、「複数見つかった時」に表示されているのは、項目が0001から0006までの六つある表であり、「ひとつだけ見つかった時」に表示されているのは、項目が0001の一つのみの表である。
つまり、これは、6行の表と1行の表である。データベースの中では、実は、前者は、6個の本のデータのリスト、後者は、1個の本のデータのリスト、として扱われている。つまり、後者は、1個の本の集合のように扱われている。(コンピュータの世界では、集合は要素に重複がなく順番が無視されたリストとして扱われる。例えば Java の場合。)つまり、ソクラテスという名辞を、ソクラテスその人の集合と説明した、上記の説明と同じ考え方。
数学で、a1, a2, a3,...,an のような有限長の数列を考え、それの総和
を考えたりするが、n が1のときは、実は和ではなくて、a1 そのものなのだが、これを数学では「和」という。日常的な感覚からすると気持ちが悪い。しかし、数学とは、そういうものである。
これらが示しているように、伝統論理学は、ヨーロッパ語圏の人々の言語感覚や、「n が1のときの総和は、a1そのもの」と捉える、我々人間一般の日常的なものの捉え方に沿っているといえる。
しかし、以上の議論でわかると思うが、そういう「日常的感覚で自然なもの」は、「ないこと」を「ゼロ個ある」というような数学的感覚に比べて、統一性・一様性に欠けるともいえる。
そして、ヨーロッパ人たちの日常感覚に合っていた伝統論理学は、数学的厳密さ、三段論法の正しさの理論(シロギズム)における統一性のなさ、などの欠点を持つものでもあった。
そして、これらの欠点を、「述語」の概念を取り入れることにより、解決したのが、次に説明する、数理論理学、記号論理学の体系である述語論理学である。
しかし、それは数学の言葉遣いが、時として、我々に違和感をもたらす様な、側面も持っていた。しかし、我々の日本語は、単数形 A is B, 複数形 A are B の様な言語要素を持たないので、実は、ヨーロッパ言語圏の人たちに比べて、数理論理学への違和感は、むしろ少ない、というより、伝統論理学の categorical proposion の考え方より、数理論理学の述語の考え方の方が自然にみえたりする(少なくとも、林には、より自然に見える)。
BARBARA はシンプルでも、それ以外のシロギズム(三段論法)の全体を考えると、その理論が、複雑・錯綜の極みだったように、シロギズムの理論は、少なくとも数学の観点からはシンプルなものとは言えなかった。
この問題を解決したのが、現在の記号論理学の祖である、ド・モルガン、ブール、パーズ、フレーゲ、ペアノなどの数理論理学、記号論理学。
そのポイントは、論理学を数学の代数の様なものと見なすことだった。
そして、現在の日本の大学では、記号論理学が「論理学」の大半を占めている。そのため伝統論理学の日本語で書かれた教科書を見つけるのが困難になっている。あるには、あるが、あまり良いものがない…
しかし、アメリカの大学では、事情が違う。伝統論理学と記号論理学が共に教えられている場合が相当数ある。
日本のように、「伝統論理学は古いからもう知らなくてよい」というような考え方が、単純な「文明開化」的な思考法であることを知るために、記号論理学に話を移す前に、まず、アメリカの大学での logic の教育についてみておく。
日本の大学ではアリストテレス論理学の教育をやっている所は殆どないらしい。
ところが、アメリカでは、さきほど既にみた Butte college の iLogic のページが示す様に、大学教育の現場で、アリストテレス論理学が生きている。
日本では、アリストテレス論理学の教科書で最近書かれたもの、また、現代でも良く読まれているものは皆無と言ってよい。
ところが、アメリカでは、そういう教科書のベストセラーがある。他にもあるようだが、林が見つけたものとしては、
ミシガン大学の先生である I.M.Copi たちが書いている、この本 Introduction to Logic, は、”at hundreds of universities in the United States and around the world“ で教科書として使われている。
この本は、アリストテレス論理学が半分で、残りが記号論理学と帰納的推論の話。
三つの話題、アリストテレス論理学、帰納的推論、記号論理学のうちで、記号論理学のページ数が一番少ない。
全体が600ページ位で、記号論理学は、150ページくらい。
帰納的推論は、事例から一般法則を帰納する推論をいうが、19世紀に John Stuart Mill が、彼の著書、A System of Logic, Ratiocinative and Inductive、1843 で、理論的体系を作った。ミルの本は、伝統的論理学の枠組みで書かれている。
Copi たちの教科書でも、帰納的推論の部分は、どちらかというと伝統論理学より。
このペストセラーでは、アリストテレス論理学、伝統論理学が、「正しく文章を理解する、正しく推論をする」という、「良く生きていくための論理」の重要な道具として扱われている。
おびただしい数の大学などの教育機関で、この本が使われていることがわかる。
さらに、Foreword のエピグラフに注意(PDFの4ページ目)。Thomas Jefferson の言葉。
これは、共和制においては、論理(reason)こそが社会を動かすものでなければならないと言っている。
これがアメリカの論理学の教科書のエピグラフとして使われている意味は自明だろう。
つまり、論理学は、ただの学問でなくて、現実社会(アメリカという共和制国家)において、それを運営するために正しく推論し議論するための力・道具として論理学が教えられている。先に簡単に説明して、後で、日本における論理学の受容史のところで、さらに詳しく説明する予定の尾崎行雄の論理学の教科書の前書と同じ趣旨であることがわかる。
実際、アリストテレス論理学の教育では、単に categorical proposition の構造の概念や、シロギズム(三段論法)が「学問」として教えられるだけでなくて、それを使って自然言語、つまり、英文をどう論理的に読むかの訓練が行われる。
これは、この教科書だけでなくて、多くのアリストテレス論理学の教科書に共通してみられる傾向。
殆ど、英語の読み方の演習、と言えるものであることがわかる。
また、アメリカの哲学者の Sommers は、記号論理学全盛であることに反発し、アリストテレス論理学の再興を目指したことで知られるが、
彼は、ある本の前書きで、アリストテレス論理学の categorical proposition の考え方の方が、文法としては、記号論理学の文法 (Fregean syntax)より far more natural だと書いている。他にもこういう風に書いているひとがいる。
すでに説明したように、ヨーロッパ言語を使う人たちには、これから紹介する「数学の数式をモデルにして作られた記号論理学の文法」より、自然言語を元につくられたと思われるアリストテレス論理学の文法の方が自然に感じられるのだろう。
では、以下に、その数式や数学をモデルにして作られた記号論理学の説明をする。
まずは、なぜ記号論理学は必要だったかという話から。
アリストテレス論理学は、実に長い間、西洋では思考の基本様態、あるいは、それに近いものとして考えられていた。しかし、それを、本当の推論に適用しようとすると、実は、シロギズムの説明でみたように、実にややこしい。
実は、それだけでなくて、普通の日常生活で使う文章を、たとえ、S be P を基本とする英語の場合でも、アリストテレス論理学の形式で表現しようとすると、色々と困難にぶつかる。特に、それは、人と人との関係性、ものとものとの関係性などの「関係」を表現しようとすると、大変に不自然な表現になることがわかる。
たとえば、下のジャズ Everybody loves my baby. の歌詞の赤字の部分を、S be P で記述してみよう。
歌詞:http://www.youtube.com/watch?v=V42uJKhoe2I
I'm as happy as a King,
Feelin' good n' everything
I'm just like a bird in Spring,
Got to let it out.
It's my sweetie, can't you guess?
Wild about her, I'll confess!
Does she love me?
Oh my, yes!
That's just why I shout:
Everybody loves my baby,
But my baby don't love nobody but me.
Nobody but me.
Everybody wants my baby,
But my baby don't want nobody but me
That's plain to see.
以下略
つまり、次の二つの文章を S be P にする。
(but が消えて、カンマがピリオドになっているが、こういうものは論理的内容には影響を与えないと考える。)
1.Everybody loves my baby,
2.But my baby don't love nobody but me.
の1は、尾崎の「花なきものなり」を、"non-flower plants"としたテクニックを使って、
all persons are "my baby"-lovers.
と書ける。
2は、内容的には、次の二つの文章と同じ。
2.1. my baby don't love anybody who is not me.
2.2. my baby loves me
2.2 は、1と同じテクニックを使って、
my baby is a me-lover.
2.1 は全称否定にすればよさそうなので、
my baby is non-P
だろうと推測できる。元の英文と比べて考えると
my baby is non-((anyone who is not me)-lover).
となる。ちょっと言い方を変えて
my baby is non-((non-me)-lover).
この様に、A loves B などのような、二者、あるいは、それ以上の者の関係をアリストテレス論理学で表そうとすると非常に不自然なことになることが多い。
その直観的理由としては、アリストテレス論理学が、個を出発点として、その terminus による分類で世界を記述しようとするからである。
このことを、たとえば、ドイツの哲学者、エルンスト・カッシーラーは、その著書「実体概念と関数概念」で、もともとが動物学のような分類科学をモデルにしてアリストテレス論理学が作られているからだと書いた。
これに対して、全く違う観点、動物学のような分類学ではなくて、数学をモデルにして論理学を再構成した人たちがいた。それがラッセルたち初期の記号論理学者。
ここでは、ラッセルをさらに遡り、その源流の一つとなった、アメリカの哲学者パースの論理学と、さらに、その元になった、イギリスの論理学者ブールの論理学を見ていく。