情報学者の人文学研究 その1と2

以下の二つの文章は京大文学研究科への着任時と退職時に同研究科・文学部の同窓会の会誌「以文」から依頼されて書いたエッセイです。ただし、どちらも「以文」に掲載された文章そのものではなくて、「以文」編集部に渡した原稿に手を加えたものです。特に「その2」は今回掲載するに際してかなり手をいれてあります。

「その1」は、何故私が50歳代にもなって「文転」したかの経緯が、「その2」には、どうして京都学派研究に手を出し、幸いにもそれが切っ掛けになって手がかりが全くなかったミッシングリンクが見つかったという経緯を書いています。もとの題名は「情報学者の人文科学研究」でしたが、人文学の研究を本格的にするようになって、「人文科学」という言い方は間違いで「人文学」というべきだと思う様になったのでタイトルを変えました。ただし、「以文」に掲載した「その2」の題名では、「その1」に合わせて「人文科学」を使っています。

情報学者の人文学研究 その1

もう四半世紀前のことで、どうも記憶がはっきりしないのだが、おそらく、博士論文の主要部分にした論文を書き終えたころだろうと思う。数学の院生だった私は、段々と自分の研究に物足りなさを覚えるようになった。

高校生のときにゲーデルの不完全性定理の解説本を手にして以来、数理論理学、数学基礎論にのめり込み、受験勉強もほったらかして、数理論理学の勉強と研究に明け暮れ、そのころには、すでに数編の論文を書いて、駆け出しながら、一人前の数学者になっていた。

しかし、そうなってみると全然面白くない。数学では、私が知りたかったことが全然わからない。まあ、何が知りたかったのか、ようやく分かったのは五十歳に近くなってのことだから、そのころは、なんとなく不満だっただけなのだけれど、とにかく面白くない。

昼食を何にするかは延々と悩む割に、人生を左右するような思い切ったことを、エイヤッとやってしまう性格なので、親の猛反対を押し切って始めた数学研究を、あっさり止めて、以前から好きだった数学史をやることにした。

私の歴史好きは、中学生のころからのことで、兄が使っていた高校生用の世界史の参考書で、「十字軍発生の原因はヨーロッパが香料を求めていたことにある」という説明を読み、偶然的事件の連なりだと思っていた歴史に「理由」があることを知ってショックを受けて以来のことだ。朝食を食べたかどうかまで忘れてしまうこともある私が、今でも、その時の部屋の情景や、参考書の裏表紙中央にあった出版社のマークや、表紙の半透明ビニール・カバーの質感まで鮮明に思い出せるのだから、余程の衝撃だったに違いない。

数学史研究の第一歩としては、当時は伝記もなく、全く手付かずだったオランダの数学者ブラウワーを調べることにした。直観主義的数学と呼ばれるブラウワーの数学の根底には、正法眼蔵の「有時」の世界観や、ベルグソンの世界観にも似た「二・一性」という思想がある。少しは、ものが分かるようになった今からみれば、これは、カント哲学の科学的簡易化に過ぎないとわかる。おそらく、真剣に研究すれば、当時の私にでも、すぐに底がみえたはずだから、やらなくて良かったと思うが、反科学的な傾向を少なからず持っていた私には、通常の数学の観点からは異様な、この思想が輝いてみえたのである。

そこで、学部時代に何度か講義を聞いたことがある数学史の村田全先生に、押しかけ弟子になりたいと手紙を書いた。が、返事がこない。大病で入院されていたのだ。村田先生は、「あの時、僕の弟子にならなくてよかったよ」と仰ってくださるが、先生の入院のことを知らない私はガッカリだった。

そうこうしている内に、当時、はやっていたトポス理論というものに自分の数学研究が応用できることがわかり、それが海外の著名な研究者にも評価され、なんとなく数学に戻ってしまい、その後、そのまま数学で学位をとって、さらには、計算機科学に転向して、二十数年、理工系の学部や研究所ばかりを転々としていた。それが、この4月から京大文学研究科の情報・史料学専修教授という、文系情報学の研究・教育が主ではあるものの、歴史学も仕事の一部であるポジションにつくことになって、自分でも本当に驚いている。

実は学生時代には、歴史研究からすぐに離れたものの、岩波文庫のために、ゲーデルの不完全性定理論文を和訳して解説をつけるという仕事を引きうけたのがきっかけで、7,8年前から、ブラウワーの論敵だったドイツの数学者ヒルベルトの研究を始めていた。

ヒルベルトは、情報社会のアイコン的存在であるフォン・ノイマンの実質的な師であり、悪魔が夜に来てノイマンのために論文を書いているとまで言われた天才ノイマンが、「私は天才ではない。この世で私が知っている天才はヒルベルトだけだ」とまで言った人だ。ヒルベルトがノイマンに与えた影響は極めて大きい。

そのヒルベルトの遺稿を調べるために、私費でゲッチンゲン大学に調査旅行をして、数十万円かけて未発表の遺稿の一部を購入して来て分析するなどということをしていた私は、世紀の変わり目ころには、米国の著名な数学史家にも評価していただけるようになっていたのである。

ところが、この歴史研究のために調査したヒルベルトの十九世紀の数学論文がヒントとなって、論理学と学習理論の新しい関係が見つかり、しかも、それが、全く別個に推し進めていたソフトウェア工学のプロジェクトのブレークスルーともなるという、全く予想外のことが起きてしまったのである。この研究は色々な分野の方々から評価を頂き、海外にも共同研究者ができて、そういうテーマを放っておくわけにもいかず、結局、工学部の教員としては、本来の業務でない歴史研究に割く時間がゼロとなってしまった。情報系の研究はドンドン進んでうれしいものの、一方で歴史がやれないというフラストレーションがたまる一方という状況になっていたのである。

ちょうど、その頃、この情報・史料学のポジションを研究者公募情報ウェブサイトで見つけたのだから、最初に見たときには、本当に目を疑った。情報の専門家であることが主な条件で、しかも、歴史への情報技術の応用にも興味があることが副の条件という、私にピッタリの条件だったのである。キャリアを積んでいる情報をやりつつ、歴史もできる!こういう偶然があるものか、何かに騙されているのではないかと思って、何度も公募条件を読み直し、最後は妻にも確認してもらったほどである。

そのポジションについた現在、ようやく自分が本当にやりたかったことが何であるかが分かり、しかも、自分の最新の研究を講義できて、それを、また、学生の諸君が興味を持って聞き質問もしてくれるという、今まで経験したことがない、夢のような環境のもとで研究・教育を進めている。

この原稿を書いている今も、ヒルベルトの数学思想の源流が、極めて現代的な計算複雑度理論的な問題意識にある、という私の説を補強するエビデンスを、彼の日記の分析を通して割り出す作業を続けており、近い内に、従来知られているものとは、大きく違うヒルベルト像を提供できるだろうと思っている。

また、同時に、社会科学の方法論をソフトウェア工学に応用するという研究も進めている。これは、米英などでは、すでに古くからある研究で、ソフトウェア生産現場でも、すでに導入されている。私の場合は、米国の社会学者リッツアの著書を読んで、ソフトウェア工学と社会学の類似性に気がついたのが研究のきっかけだったが、科学技術政策関係の研究者と議論すると、社会科学的、特に社会学的な問題意識の欠落が日本の産業競争力低下の原因の大きな要因になっているという意見を良く耳にする。科学技術の社会学的な研究への期待は、理系研究者を中心として、日増しに大きくなっている。

それもあって、これを研究しているのだが、私は、これを、単なる社会工学的技術の研究としてではなく、ジョルジュ・フリードマンがテイラリズムに大きな関心を示したような観点からも研究してみたいと思っている。ヒルベルトと同時代のマックス・ウェーバーの合理性理論とヒルベルトの数学論を比較することにより、思想史的な観点から、情報技術の特殊性が見えてくるのではないだろうかと期待しているのである。

これらの研究に共通するのは、ウェーバーが知ろうとしたこと、つまり、近代とは何かという問いである。文学研究科の多くの同僚に比べれば、人文学的な素養に欠ける私がどこまでやれるかは分からない。しかし、自分自身が情報技術者として、自分が見据えたい、近代という装置の歯車の一つであるという点において、私は非常に特殊な存在なのではないかと思う。このことが、私の研究にプラスになるならば、何らかの貢献はできるだろう。しかし、それは、あるいはマイナスなのかもしれない。マイナスだったか、プラスだったか、その結論がでるのは十年、あるいは、二十年先のことだろう。

情報学者の人文学研究 その2

定年退職に際して寄稿を求められた。14年前の着任時にも「情報学者の人文科学研究」という題で「以文」に寄稿した。それには情報学を専門とする私が、50歳代になって京大文学研究科・文学部(以下、京大文)に転職した経緯と、京大文でどの様な研究をしたいかを書いた。 

転職の経緯は簡単で、昼は工学部教授、夜は数学史家という二重生活を送っていた私が、情報・史料学専修教授の公募人事で採用されたのである。ただ、後で、それが京大文始まって以来、初の公募人事だったと教えられた。

実は、14年前の「情報学者の人文科学研究」には書かなかったが、平成の初め頃、北部キャンパス(京大の理学研究科、数理解析研究所などの理系部局が位置するキャンパス)から情報系の教授職のオファーが二度あった。しかし、北部キャンパスには、私が心の底から嫌っていた人物N氏がいたので断った。

実は二つのオファーの一つは、そのN氏本人からだったのである。N氏が言ってきた教授職には誰でもつきたいでしょう、と彼はいうのであるが、もし、その教授職につけば、団塊の世代のN氏が定年退職するまで、私の人生は彼との政治的闘争に明け暮れることになることは明らかだった。職場選びは自分が楽しいかどうかが一番の条件だと、その当時在籍した龍谷大学理工学部で学ぶことができた私にとっては、たとえ世界的に有名な研究所の教授になったとしても、そんなつまらない人生はないと思えたので即座に断った。

で、それからN氏との闘争が始まったのだが、別大学の教員だったので、京大にいる若い人たちほどの被害は受けなかった。その後、もう一回、別部局から有難いオファーをいただいたが、同じ北部キャンパスで、部局間の関係上からもN氏と近すぎるのでその職でも闘争は起きるだろうと思い、話をもってきてくださった方に理由を説明してお断りした。

それ以外にも、東京の有名国立大学や私学など、色々お誘いかあったが、単身赴任は嫌だったのでお断りしていた。皆単身赴任しているじゃないですかと御叱りを受けたこともあったが、私にとってはどんな職よりも自分の生活の方が重要だったのである。

その後に勤務していた神戸大学への京都からの長距離通勤が辛くなったころには、家から近い京大からのオファーを断ったことを後悔したこともあったが、もしこれらのどれかのオファーを受けていれば、こうして学者人生で最も充実し楽しかった14年間を振り返る文章を書いていることはなかったわけである。

もうひとつの抱負の方だが、やりたいことは二つだった。まず、第一に、Max Weberの合理性理論を背景にし、情報学者としての私が突き当たっていた「壁」の正体を理解すること、そして第二に 同じWeberの意味での近代化の視点で、19世紀から20世紀の数学の基礎付けの歴史を理解することだった。そして、この二つを関連付けて理解したかった。

第一の目標の「形式的方法に立ちはだかる壁の理解」は直ぐに出来た。問題は、第二の方だった。私は、Weberの思想と、D.Hilbertという数学者の数学思想とを関連づけたかった。この2歳違いの二人のプロイセン人は、共に当時の著名人なので、互いへの影響の証拠がある可能性が高いと思っていたのだが、全く確認できなかった。そうなると、当時の時代精神が、二人の偉人の思想に反映されたと理解すべきだ。しかし、それを知る手がかりがどこにあるのか見当もつかなかった。

驚くことに、その手がかりは、SMART-GSというソフトウェアの開発を通してもたらされた。私は Hilbert の数学研究ノートの分析を、マイクロフィルムをA3用紙に焼いたもので行っていたが、これが面倒だった。まず、A3の紙の束を持ち歩くことが大変だった。それのために特殊な鞄を買って肩からかけて持ち運んでいたのだが、なんとも面倒だったのである。そこで紙をデジタル画像に置き換え、その翻刻・分析をPC上で可能にし、また、紙の史料では不可能な色々なことをサポートするSMART-GSというアプリを開発した。

このSMART-GSを公開することになり、Hilbertの数学研究ノートの画像と、その翻刻・分析の結果を、このアプリの史料研究への応用のサンプルとして付けて公開しようとしたのだが、この史料を所蔵するドイツの図書館に断られた。それで、「自前の史料」を使ってやるしかないと考え、田辺元史料をサンプルにすることを思い立った。田辺史料ならば、ある意味「本家」なので、京大文以外所蔵の史料でも邪険にはされないだろうと考えたのであるが、実際、その通りだった。

こういう理由で始めた田辺研究だから、SMART-GS用サンプルができたら止める予定だった。ところが初めてみると、田辺研究を通して、当時の新カント派と自然科学・数学などとの関係が見えてきて、それこそが私が知りたいと思っていた「時代精神」への糸口であることが分かったのである。

それは単純に言えば忘れ去られていた新カント派の哲学と自然科学・数学との関係性だったのである。幸運なことに、この頃、米国を中心に新カント派の研究が進み始めていて、次々と書籍や論文として出版されていた。そのため、端緒を掴めば後は、この「ミッシング・リンク」を理解することには、それほどの困難はなかった。これが、もう10年ほど前のことである。今では、日本の科学史や科学哲学でも、新カント派の歴史的重要性が認識されているらしいが、当時はサッパリで、私が新カント派と言うと冷笑にも似た反応が返ってきたものである。

そんな具合で、田辺哲学思想史研究を始めなければ、私が新カント派に出会うことは無かった、あるいは、ずっと遅れた筈である。しかし、田辺元史料をSMART-GSのサンプルデータにしようとした、そういう偶然が幸いして、第二の目標にも、定年退職の年度の前年度である2018年度に到達できたのである。それには、西谷啓治のニヒリズム論が大いに参考になったのだが、私が西谷に興味を持つ様になったのも、田辺元研究を通してであった。

こういう奇跡的な偶然の連鎖のお陰で、私は、第一の目標と第二の目標を、心の底にストンと落ちる様にして連動して理解できたのである。私は14年前、私が情報学者であったことが、私の人文学研究にプラスとなるかマイナスとなるか、それが分かるのは、10年、あるいは、20年後だろう、と書いたのだが、こんなにも偶然的で、その故、奇跡的な出来事の連続により、それはプラスだったと胸を張って言えるのである。