前回は、風邪で咽喉をやられ声がでなかったために休講でした。今日も完全には治っていなくて、大きな声をだせませんし、咽喉を保護するために(咽喉が乾かないようにするために)マスクを着用します。このため声が聞こえにくかもしれません。すみません。
本日は講義の本格的な導入。つまり、具体的な項目別の内容の話に入る。前回の説明では、それはおおよそ次のことを講義することなっていた。
1.アリストテレス論理学:伝統論理学
2.明治日本の論理学:経国の道具としての伝統論理学
3.記号論理学の誕生:伝統論理学との違いを中心に
4.「新カント派の論理学:現代論理学へのミッシングリンク」という項目は、おそらく時間がなくて、独立した項目として扱うのは無理でしょう。
5.伝統論理学と情報技術・人工知能:おそらく人工知能の話を扱う時間はありません。
6.京都学派の論理:西田幾多郎・田辺元の論理(学)
7.日本人と論理(学):明治、昭和、平成の「論理ブーム」
今回の話は、この中から、1と5、「論理学とは何か」と「ITと論理学」の話
Wikipedia の説明論理学とLogic、特に後者のTypes(論理学のタイプ)からわかるように、論理学と呼ばれるものには、多くの種類がある。これを手短にまとめると次の様になる:
記号論理学、数理論理学をITやAIに応用しようという formal methods という大きな流れがあった。そして、林も、その研究者だった。
AIの場合に、これを特に強調したのが、Artificial Intelligence という言葉を作った、John McCarthy。物理学の場合の数学に当たるものが、AIやITでは logic だと主張していた。
若いころは、林もそれを信じていた。この意見は、現代では、ほぼ否定されており、林も20年位前に意見を変えた。
現実のITで、もっともひろく使われている「論理学的なもの」は、記号論理学や、その世界観ではなくて、実は、記号論理学により時代遅れになったとされるアリストテレス論理学の世界観。
その理由を先取りして言うと、数理論理学、記号論理学は、数学を記述するために作られた。しかし、現実の世界は数学の世界と大きく異なっていて、動物学が手本になったともいわれる、アリストレスの論理学が発展したものであるアリストテレス論理学の世界観の方が、現実世界の記述には向いていた。
モデリングという言葉がでているが、これは、IT分野の専門用語で、その内容は、上に書いた「現実世界の記述」だと思えばよい。
そういうモデリングを行うとき、特に、私たちが日常的に使う,WEBのサービス,例えば,アマゾンや楽天の様なシステムをモデリングするには,記号論理学的なアプローチである「形式的技法」と呼ばれる手法では,全く駄目で,通常は,semi-formal 半形式的(半分形式論理学的)と呼ばれる,UML (Unified Modeling Language) と言う言語を使って記述するか、そういうものも使わず、直接、JavaやJavaScript, Ruby などという言語でプログラミングする。現場では、クラス図などの、UMLの使い易い部分だけ使い、後は直ぐにプログラミングしてしまうことが多い。
実は,このUML, Java, JavaScript, Ruby の採用している「オブジェクト指向」という世界観(ソフトの世界ではアーキテクチャという)が,アリストテレス論理学の形而上学部分に,ほぼ,びったりと当て嵌まる.
UMLやJavaなどの世界観の根底は,オブジェクト指向という世界観.
そして、このオブジェクト指向というのが、アリストテレス、さらにはプラトンの哲学とそっくり!
これは,林だけが言っているのではなく,実は,ソフトウェア関係者の間では,かなり有名な話.
まず、それを、日本のIT会社の社長さんが書いた文章で見てみよう:
後で、段々と説明していくので、今日は、詳しいことはわからなくてよい。ITの実務をやる人が、アリストテレス論理学やプラトンのイデア論について、まじめに語っていることだけ分かればよい。
得てして、こういう社長さんは、勝手な「人生訓」のような話をするものなので、これも、その様なものかと思うとそうではない。
実は、オブジェクト指向技術の世界最高峰と言われている国際会議でも、アリストテレス論理学とオブジェクト指向が、極めて似ているということを指摘した論文が採択されている。つまり、学術的にも認められているということ。
また、これは技術史的にも、その関連が、史料を使って証明できる。
つまり、哲学者や記号論理学をやっている人たちが、「古臭い」「廃れた」と言っているアリストテレス論理学が、論理学と呼ばれてはいないものの、現代のITの中心に位置しているという厳然たる事実があるということ。
これは、どういうことだろうか?
その理由を、上では、
数理論理学、記号論理学は、数学を記述するために作られた。しかし、現実の世界は数学の世界と大きく異なっていて、動物学が手本になったともいわれる、アリストレスの論理学が発展したものであるアリストテレス論理学の世界観の方が、現実世界の記述には向いていた
と説明した。この文章の意味を詳しく説明していくのが、この講義の最初の目的となる。
21世紀の現在の日本では、また、アメリカなどでも、この三つは、多くの場合次のように理解されている:
注1:特に日本で強い味方。アメリカでは、後で見るように、これがまだ結構教えられている。
ITは合理的なものだろうから、上の赤字で書いた林の主張と、上に青字で書いた常識は、少なくとも3において矛盾している。この講義の目的のひとつは、この常識の誤りを指摘し訂正すること。
また、記号論理学は、フレーゲ、ペアノ、ラッセルなどが、あたかも何もない真空から取り出したように説明され、それまでの論理学との関係性の説明がなおざりになる傾向がある。
確かに、本質的に数学者であったフレーゲの場合は、独自性が強く、ある意味でマッサラな所から始めるので、そう言いたくなるところがある。
しかし、少なくとも記号論理学の普及の最も功績があり、その論理学が、現代の論理学に一番近い、ラッセルの場合は、これは間違いで、「アリストテレス論理学」が強く意識されている。ラッセルは、数学者というより哲学者であった。
そして、独自性が高い、フレーゲの場合でも、外延などのアリストテレス論理学を意識した用語が使われている。
つまり、すべてのルーツは、「アリストテレス論理学」と言える。
そこで、まず、このアリストテレス論理学を学ぶ。そのために、その背景となったプラトンのイデア論の解説から始める。
上のIT会社の社長さんのオブジェクト指向の話の最初はプラトンのイデア論だった。
実際、オブジェクト指向は、アリストテレス的であると同時にプラトン的。
実は、ルーツとしてのアリストテレス論理学であるが、このアリストテレス論理学にもルーツがあった。
それがプラトンのイデア論。
プラトンはイデアの世界は、絶対で不変であると考えた。不変なのだから時間はない。
プラトンは、「本質」のようなものが、我々の生々流転する世界の背景にあり、それがイデアの世界だと考えた。
アメリカの哲学者 T.Z.Lavine の一般向け哲学入門書 From Socrates to Sartre の pp.70-71から。
Plato's theory of forms claims to explain the nature of things but in fact the abstract forms are only useless copies of actual things, and fail to provide any explanation of the existence and changes of concrete things; Plato's theory of forms sets up an unbridgeable gap, a dualism between the world of intelligible ideas and the world of sensible things; the theory makes it impossible to explain how sensible things and intelligible forms are related at all.
要旨:プラトンの様に形式(イデア)中心だと、現実と理論が乖離してしまい、形式(イデア)の理論で現実が説明できる根拠がなくなるではないか?
Does Aristotle then reject forms as mere illusions? Not at all. Aristotle appears to have been a committed follower of Plato's theory of forms during his twenty years at the Academy, and the Platonic influence remains strong. Aristotle's attack is not on the significance of eternal forms for knowledge, but upon the separation of the form or essence of a thing in another realm from the actual existent thing. Any thing, any individual particular substance, a frog or dog or man, is a unity, says Aristotle; it is not something that exists apart from its own essence. A thing, says Aristotle, is a unity of form and matter. The form of a thing is immanent in it, it is the universal and eternal form or essence which the thing shares with all other things of the same type or species, e.g., with all other frogs or dogs or men. Matter is the physical stuff of the particular substance, which is given shape by the substance's form. Matter and form are the inseparable aspects of every individual substance.
With his introduction of the inseparable principles of matter and form, Aristotle is able to overcome Plato's dualism of the intelligible and sensible worlds. For Aristotle, intelligible form and sensible matter–the universal and the particular–are united in individual things. Every individual thing consists of formed matter. The form is the purpose or end which the matter serves: the oak tree is the purpose or end which the matter of the acorn serves.
実は、アリストテレスの論理学(あるいは形而上学)は生物学がモデルと言われている。
つまり、それは生きていて、動いたり成長し、また、死滅もする。
そして、生物は、こんな風に部類される。実は、この「分類」がアリストテレス論理学の基本となる。
疑問:なんでそんな古い本?
尾崎の演繹推理学第三章のタイトルが名辞概論.
この名辞という概念が、もっとも重要なポイント。
名辞は英語では term。だから、これが重要となる論理なので、アリストテレス論理学のことを Term logic ともいう。
記号論理学も、西田の論理(哲学)も、名辞から述語に重点を移動させた。
つまり、これらの論理が乗り越えようとしたのは、この名辞という概念なのである。
そして、それは、この動画で言われている東洋人と西洋人のものの見方の違で、西洋的とされている「物」「対象物」のことだと思えば良い。(哲学的に言うと、ちょっと違っていて、実は名辞が何かには、哲学者により歴史上様々な異なる意見が出されている。しかし、ここでは、そういう難しいことは考えない!):
尾崎の教科書の10-11頁に次のような名辞の例が書かれている:
尾崎は,1のような名辞を「唯一個の人あるいは一個の事物を指言する者」と説明し,2のような名辞を「諸種の馬,諸国の王,諸方の府県会を指言する者」と説明し,それぞれ,
と名づけている.
たとえば、孟子は特称名辞。また、人、中国人、学者は通称名辞。
命題というのは意味を持つ文章のことだと思っておけばよい。
アリストテレス論理学では、命題の基本単位は、
A be B
という形であると考える。ここで、A と B は名辞。
たとえば、次のものはみなそういう形をしている。
孟子 is 人
孟子 is 中国人
孟子 is 学者
中国人 are 人
学者 are 人
以上は皆正しいもの。
しかし、
中国人 are 孟子
人 are 学者
は間違い。
以下、続く。